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吉林省吉林市 ~ 人口 445万人、 一人当たり GDP 62,000 元


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  吉林城(永吉州・吉林庁・吉林直隷庁・吉林府)



【 吉林市の歴史 】

吉林市内では、2万年前の旧石器時代後期の古代人遺跡である寿山仙人洞が発掘されており、中国東北部でも比較的早い時期からの人類の生息が確認されているという。
中原が殷周時代、当地では女系氏族社会が成立し、満州民族の祖先にあたる魯慎人らが跋扈する地域となっていた。

前漢朝の時代、夫余国の王都が今の長春市寛城区小城子村一帯に開設されており、 当時の東北部の最大規模の都市を形成していたとされる(後漢末期には、扶余王城には合計3万戸、総人口約20万人が記録されている)。 この王都に近かった現在の吉林市エリアでも、多くの集落が存在していたと推察される。当初、独立勢力であった夫余国も、紀元前108年の前漢第七代皇帝の武帝の時代、 前漢朝に朝貢するようになり、一時、前漢朝下の玄菟郡の管轄下に帰属された(後に遼東郡へ移籍)。

吉林市

当時、夫余国の巨大集落の一つに穢城という場所にあり、これが現在の吉林市東団山の山麓にある 南城子を指すと考えられている。現在の吉林市一帯での最初の文明集落跡に指定されている。

しかし、中原で三国時代が終焉し、西晋朝が建国された直後の285年、 西部に勢力を張った鮮卑族の侵攻を受け、扶余国の国王は自害に追い込まれ、扶余国は滅亡する(第一次滅亡)。

翌年、西晋の司馬炎が扶余国再興のための援軍を差し向け、扶余国を再建させる。王城はそのまま以前の場所(喜都城、別称:合龍城・合隆城)に 再開されるも、346年に再び、鮮卑族の慕容皝の侵攻を受け、王都が現在の長春市農安県へ遷都されることとなる。

吉林市

416年、高句麗王国の第十九代国王となった広開土王である談徳が王座に即位すると、 その勢力は急拡大し、470年には扶余国領を蹂躙し壊滅的なダメージを与えるに至る(54城郭と1400の村落が破壊・占領されてしまう)。 このとき、扶余国王は一時的に和睦を結んで延命を図るも、493年には北部の勿吉族らの侵入を受け、国王が高句麗へ亡命することで、最終的な滅亡となった(第二次滅亡)。 以後の200年間、吉林市一帯も高句麗領に組み込まれることとなる。
一方、高句麗は勿吉王国の南下を阻止すべく、現在の吉林市内にある龍潭山と東団山、三道嶺子に大小さまざまな軍事要塞を構築している。

その高句麗も、隋朝や唐朝の討伐軍を幾度も受け、668年、ついに滅亡に至る。 その直前、高句麗が遼河の南の営口から、北は扶余国の王都があった現在の長春市農安県まで続く長大な防塁を建設している。 これが世に言う「千里の長城」である。
しばらくは、唐朝の治世で東北部に平静が取り戻されるも、698年、勿吉王国の七部の一つである粟末靺鞨部の首領である大祚栄が、 渤海国(最初は震国と名乗った)を建国する。しかし、基本的には唐朝に朝貢関係を結んで帰順することとなった。
今の吉林市は渤海国の三つある中央直轄の独立州(独奏州)の一つである涑州が管轄した地域であり、その州役所はかつての扶余国王城跡が使用されていた。

吉林市

916年、耶律阿保机が契丹国を建国し、926年には渤海国を滅ぼして、東北地方全域を統一する。 947年には国号を遼と定める。今の吉林市一帯は遼朝下の東丹国東京道の管轄下に帰属された。

1115年には、靺鞨族の末裔にあたる女真人が金を建国する。 1125年、北宋と手を組んだ金国は遼を滅ぼし、東北地方一帯は完全に勢力下に置く。このとき、吉林市域は最初、金朝下の咸平路に、後には上京路会寧府に帰属された。今日においても、吉林市内には遼朝に築造され、金朝下でも継続利用された軍事要塞跡が30箇所あまり残されているという。吉林市中心部にある江北土城子や江南官地などの古城跡がこれにあたる。

元朝時代、今の吉林市域は遼陽行省開元路海西遼東道の管轄下に置かれた。
明朝の時代、この地には海西女真の四部族の一つである鳥拉部族らが強勢を誇った地域であり、後に鳥拉国を建国するに至る。
1409年、明朝は現在の吉林市街地に造船基地を設置し、また遼東都司と奴爾干都司との連携を強化させる。この造船基地の設置は、税や軍事物資、兵士などの運搬、および備蓄倉庫なども併設され、水運交通の一大拠点となっていく。 しかし、東北部における明朝の治世も長くは続かず、モンゴル族の残党勢力、女真族らが割拠する戦乱地帯へ変遷していくこととなる。

吉林市

満州地方を平定し、中原をも統一した清朝(女真族)は、 自身の出身地である東北地方に軍府制を敷き、満州民族のための土地として、東北部への漢民族文化の流入を禁止し、 また満州地方の特産品の保護政策を実施する。
1700年前後には、2重の柳条辺壁(壕)という長城壁が修築されるほどであった。吉林市域(吉林将軍の管轄下に帰属)は老辺外・新辺内(旧長城の外、新長城の内側)にあり、 当時は辺外に分類される地域に位置した。上の地図は1820年の清朝地図。

東方への勢力拡大を図るロシア帝国が満州地方を圧迫するようになると、1658年、清朝廷は寧古塔将軍の沙爾虎達に命じ、今の吉林市松花江の河畔部から温徳河口一帯に存在した造船基地を増設させ、 八旗水軍の軍事拠点を司ることとされる。 1661年、正式に水師営(水軍基地)が完成し、2000人近い兵士が駐屯することとなる。
また1671年、寧古塔副都統の安珠瑚により、満州駐在の八旗軍3000人が動員され、1673年までの2年間をかけて吉林木城(後に土壁から煉瓦積みの城壁へ改修される)の築城が進められた。
1676年、寧古塔将軍(後に吉林将軍へ改称される)の巴海も、この吉林城へ入り、守備を司った。この巴海であるが、 後に水軍を引いて、黒竜江での河川戦でロシアの侵略軍を敗走させる功績を挙げ、後に黒竜江将軍、調蒙古鑲藍旗都統、議政大臣へと昇任されることになる(1696年死去)。

第四位皇帝の康熙帝は1682年と1698年の2回、東方巡視の際に吉林城へ立ち寄っており、第六位皇帝の乾隆帝もまた1754年の東方巡視の際、当地に足を運んでいる。

1727年、永吉州(1747年、吉林庁へ改名)が設置され、州役所は吉林城内に開設される。 1881年、吉林庁が吉林直隷庁へ昇格され、さらに翌年には吉林府へと再昇格されるに至る。
中華民国となった翌年の1913年、吉林府は吉林県(1929年には永吉県へ改名)へ降格される。満州事変の後の1931年9月21日、日本軍が吉林城を占領する。戦後の1948年、吉林市が成立し、今日に至る。
吉林市

なお、この吉林古城であるが、今日では完全に城壁も撤去されており、かつての面影もわずかな路地名に残されているのみである。順城街、西大街、北大街、炭市胡同、橋頭胡同、大東門広場など。
また上の地図からは、現在の北大街と河南街との交差点に、吉林将軍役所が開設されていたことが分かる。

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