BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~


吉林省 四平市 梨樹県~ 県内人口 55万人、 一人当たり GDP 26,000 元(四平市 全体)


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  梨樹鎮城
  葉赫那拉古城
  偏臉城跡
  二龍湖古城(春秋戦国時代の 燕国の最前線基地跡)



早朝 7:00、 7:30、長春鉄道駅(南口)駅前の黄河路沿いにある、長春客運中心バスターミナル から、梨樹バスターミナル行に乗車する(30元、2時間半)。次の便は 8:30発、9:10発、、、、と、一日 9便が運行されている。

あまりに早朝出発、かつ乗車時間が長いので、パソコンを持参する。
中国での旅路は、早寝早起が最も効率的。朝 7:00台にホテルを出発し、18:00台には戻って、早々と就寝、というスタイル。

車内でウトウトしながら、9:30ごろ、梨樹バスターミナルに到着する。そのまま北へ 500 mの地点にある、梨樹県博物館を訪問する。下地図。

梨樹県

清代中期の 1820年代、田舎集落であった 奉化屯(梨樹鎮)の集落地に行政庁が設置され、最終的に全長 9,000 mにも及ぶ土塁城壁が築造されていたが、現在、その遺構は全く残されていない。

現在の路地名に、かつて記憶が刻み込まれているのみである。すなわち、西樹臉街、西売買大街、売買大街、東売買大街、奉化西大街、学府路、奉化大街、奉化東大街、礼文胡同、梨樹南橋(かつての南門跡)、樹文東街、北門路、市場東胡同、順心西街(東街)など。上地図。


1821年、昌図庁の出先機関として、梨樹古城(偏臉城)に梨樹城分防照磨が新設されるも、間もなく南側の奉化屯へ移転されることとなる。
周囲に小さな沼地が密集する平野部に、清代の 嘉慶年間(1796~1820年)ごろ、奉化屯の集落地が形成され出したと考えられており、まだまだ新興地域であった。梨樹城分防照磨の 衙署(役所)が奉化屯へ転入された当初、もちろん城壁は建造されておらず、四方は開けた平地で、何の防御的な地の利もなかったという。

その後、盗賊団や無法集団の襲来に対処すべく、集落の四方に水堀をめぐらせ、土塁を築造し、城塞集落を整備していくこととなる。この外堀上には橋が架けられて出入り口とされ、それに通じる東門、西門、南門、北門の 4城門脇には、通行人を管理する駐在所が設けられていたという。また、それぞれの城門脇には炮台も併設されていた。
この時に整備された土塁城壁の高さは 4.5 mもあり、さらに城壁上には高さ 1 mもの凹凸壁が設けられていた。また、城壁上の馬道により、一周ぐるりと巡れる構造であった。

1865年11月4日、馬国良(「馬傻子」と称した)の農民反乱軍が、この 梨樹城(奉化屯城)を攻撃してくると、土壁は破壊され、四城門も倒壊させられるなど、大きなダメージを受ける。その後、城内へなだれ込んだ反乱軍により官吏らは殺害され、監獄の囚人らは解放され、また食糧庫からは食料が強奪されて、市民へ分与されたのだった。
結局、この農民反乱は翌 1866年5月、首領の馬傻子が捕縛され処刑されることで、終息する。

1877年、この 梨樹城(奉化屯城)に奉化県役所が開設されると、引き続き、昌図府に帰属した。もともと開設されていた梨樹分防照磨の役所は、八面城(今の 遼寧省鉄嶺市 昌図県八面城鎮)へ転出されることとなる。
なお、奉化県城となったものの、肝心の城塞集落は先の戦役での爪痕が深く残ったままで、土塁の多くは倒壊し、ほとんど平地化されている状態だったという。それでも何とか県城として利用されていたが、ついに 1900年、度重なる盗賊らの襲撃に対抗すべく、県長官の王順存が地元有力者らから寄付を募り、城壁の大規模改修工事に着手する。続いて鮮俊英が県長官職を継承した後も、土塁城壁の整備工事が続行され、ついに完成に至らしめるのだった。
この時に完成した城壁の全長は 9,000 mにもなり、さらに城外には幅 5 m、深さ 5 m、底辺の幅 3 mの外堀が掘削されていた。しかし、これらの城塞設備は、1949年の共産党中国建国前には、ほとんどが倒壊し、撤去されてしまっていたという。
中華民国時代の 1914年に梨樹県へ改称されると、今日まで継承されるわけである。

梨樹県

上写真は、梨樹県城の 南大門(当時、拱化門と称された)。1935年撮影。

梨樹県

上写真は、梨樹関岳廟(老翁廟、関帝廟、かつて興隆寺とも称された)。梨樹城分防照磨の地方役所が開設された 1821年、この同じタイミングで、僧の演録と演福の尽力により創建されたものという。
現在でも老翁廟として、地元で大切に信仰されている(梨樹県中心部、西大街路沿いの北側にある)。

梨樹県

上写真は、1934年当時の梨樹県城内にあった、文廟の大成門。



旧市街地を散策後、バスターミナルで白タクをチャーターし、北郊外にある偏臉城跡を巡ってみる。近くまで行くローカルバスも不明なので、時間節約のため、白タクを選択した。

ちょうど、梨樹県中心部から北東側を臨むと、東西に 10 kmほど連なる、高度のある白山丘陵が見渡せる。それを目指して田舎道を 4 kmほど進むと、招蘇太河を渡ることになり、すぐに古城跡に到着できた。下地図。

この城跡は、まさに山の斜面上に立地しており、まだまだ全体的に水平ではなく、北西面が高く、南東へ向かって傾斜が続く地形であった。このやや斜めの台地上に、高い土塁城壁がひし形型に連なっており、遠くから見ると、その高低差から「左右非対称の人面」ように見えたことから、地元で「偏臉城」と呼称されるようになり、今ではこの地元のニックネームがそのまま史跡名となっているわけである。

梨樹県




 偏臉城跡

梨樹県白山郷岫岩村の北にある、白山丘陵地帯の南斜面上に立地する。ちょうど北西から南東にかけて台地が降下していく丘陵斜面に沿って建造されており、その南の山麓すぐに昭蘇太河が流れている、という地形であった。このため城内は平坦ではなく、緩い坂道が続く形となっている。

現在の 長春市 西部から 四平市 西部にかけて、古くから南北を貫通する主要街道が通っており、かなり前から集落が形成されていた、と考えられている(下地図)。そして、遼王朝時代に「奚営(九百奚営)」という城塞集落が整備され、ますます繁栄する。遼王朝を滅ぼした金王朝時代も、重要な軍事、経済的拠点として認識され、「合叔勃城」と呼称されていた。後に、韓州の州都、かつ臨津県の県都、に定められることとなる。

その金王朝が北宋朝を滅ぼすと(1126年)、皇帝一族や近侍の子女らが、金王朝の 王都・上京会寧府(現在の 黒竜江省ハルピン市)や、黄龍府城(今の 吉林省長春市農安県)へ連行される(靖康の恥)。このとき、徽宗(第 8代目皇帝。1082~1135年)と、欽宗(第 9代目皇帝。1100~1161年)は、この韓州城内に 1128年10月~1130年までの 2年間、幽閉されたという。

その金王朝も、モンゴルの英雄チンギス=ハンの侵攻を受けて弱体化し、ついに韓州城も陥落すると、徹底的に破壊されてしまう。その後、モンゴル帝国の支配下で、城跡はモンゴル人らの家畜放牧場に転用され、小規模な集落だけが残存していたと考えられている。

梨樹県

なお、この時代、古城跡には「韓州駅」が開設され、駅伝網の一拠点を成していた(上地図)。北の 開元路城(黄龍府城)から、忽里出駅、十八里駅、大水泊駅、信州駅、韓州駅、売買駅と、、、、駅伝拠点網が張り巡らされた中の、一か所に名を連ねたわけである。
ただし、この「韓州駅」は、モンゴル人放牧民らによって「阿拉木図城」と俗称されていた。その意味が「梨の木がある城」ということから、当時、多くの梨の木が植えられていたと考えられている。現在、北西角に大きな梨の木が数本残っているだけだが、まだまだ毎年、多くの実を成すという。このモンゴル人時代からの由来で、「梨樹城」の名が後世へと継承されていくわけである。

なお、古城跡の南を流れる「昭蘇太河」であるが、この河川名も当時のモンゴル人放牧民らの呼称に由来しているという。伝説によると、モンゴル人皇族の太子で「昭蘇」という人物がこの地で死去したエピソードにちなみ、昭蘇太子河と命名されたというわけだった。この河川名から、梨樹古城は「昭蘇城」とも別称されてきたという。「昭蘇」とは、モンゴル語で「多くのお金」を意味するそうだ。

以後、数百年もの間、古城跡は草原の中に放置され、人々の記憶からも忘れ去られていく。ただ、地元の農民や遊牧民だけが知る遺跡となっていくわけである。

梨樹県

現在、古城跡の敷地は、一面がトウモロコシ畑となっている。金王朝末期から数百年を経て、古城はこの大地に静かに眠り続けているものの、全長 4,318 mにも及ぶ、その長大な土塁城壁は、今も見る者を圧倒する規模を誇る(下写真)。

上写真の通り、城塞はだいたい正方形に近い、ひし形で設計されていた(各辺の長さは約 1,000 m)。現在、土塁城壁の底辺部の厚さは約 12 m、頂上部の厚さは 1 m程度で、その表面は内外ともに大きく崩れ、全面が草木に覆いかぶされているが、城壁上はまだまだ馬車が通行できるほどの横幅があり、足もとにはレンガ碎瓦の破片が散乱しているという。特に南面城壁はひどく欠損され、残余土塁の高さは最高で 2 m程しかないが、他の三方面の城壁は今もしっかり保存され、その高さも 5~6 m程度ある。特に西面城壁の保存状態は良好で、最高で 7 mの高さの箇所も残る。

現存する城壁の最高のポイントは、北西隅の角楼部分の 8.6 mという。
韓州城時代、城壁の四隅には 望台(角楼)が増築され、周囲より 1~2 mほど高めの台座となっていた、その名残りである。ちょうど、この北西角を頂点とする丘陵斜面上に城塞が築造されていたことから、城塞遺跡の全容が一望できる絶景スポットとなっている。

梨樹県

土塁城壁の四辺には、それぞれ 1か所ずつ城門が開設され、その外側には瓮城が増築されていた(下写真)。また、それら城門は、東西と南北どうし、ちょうど対になるように配置されていたという。

城壁沿いには、外に突出した馬面部分も残存しており、頂上部分も円形の台座だったことが今でも視認できる状態という。西面と北面城壁の外には、幅 20 mほどの外堀跡が残っているが、現在、すべて農田となっている。

梨樹県

また城内に目をやると、一面が耕作地となっているものの、南門跡と北門跡辺りに小規模な集落が形成されており、この両村間を南北の農道がつなげている構図である。この農道の西側には、大きな側溝が二本、平行して走っており、それぞれ東大溝と西大溝と称される。城内から斜面に沿って城外へ流れ出ると、昭蘇太河へと注いでおり、城内の排水路を兼ねていた。西大溝の全長は約 520 m、東大溝は約 410 mで、その側溝の深さは約 3~10 m程あり、なかなかのサイズであった。

なお、この西大溝の北側の西半分に、非常に珍しい大型の建築台座跡が残されており、その地表には今でも多くのレンガ片、布紋瓦、獣面瓦当、花辺滴水、琉璃瓦、花崗岩礎石などの建築資材が散乱していることから、かつて大型の寺院が建立されていたと考えられている。
また、西大溝の北側の東半分にも、碎瓦、陶瓷残片、北宋銅銭、灰土焼骨などの遺物が複数、発見されている。

さらに、偏臉城の南郊外の、昭蘇太河の北岸あたりに、大型の建築物跡が確認されており、古城時代に南市を成していたと考えられている。ここの地表にも、レンガ碎瓦の破片や花崗岩の礎石が残されており、地元民から「小廟地」と呼称されているという。同様に、北門跡のすぐ外にも、大型住居施設跡が確認されている。

城の東郊外と西郊外には、一面、墓地が広がっており、多くは中小サイズのレンガ部屋式の墳墓という。副葬品である泥造りの灰陶骨灰罐、銅鏡、遼王朝時代の白瓷碗、醤釉雞腿瓶などが出土している。

また、東面の大溝の北端から 50 mの場所に小さな沼があり、地元村民から「金場」と呼ばれる場所がある。かつて、この沼から金製の樹葉、蜻蜓など、精緻に加工された装飾品が発見されたことがあるという。そして、この「金場」の東隣にある、丘陵斜面上に大きな建築遺構があり、今でもその地表には大量の琉璃瓦、青レンガ等の遺物が散乱している。ここからは、双魚紋銅鏡、双龍紋銅鏡、銅印、提梁瓜棱銅壺 などが出土しているという。
この他、城内からは、六耳鍋、鏵、犁などの鉄器、緑釉三彩罐、玉壺春瓶、瓷狗瓷碗 などの陶磁器類も多数、発見されている。
こうした貴重な遺物と、今でも見る者を圧倒する巨大な城壁遺構が高く評価され、1961年4月13日に吉林省政府により、さらに 2006年5月25日には中央政府により史跡指定を受け、大切に保護されているという。



梨樹県

古城見学後、再び、梨樹バスターミナルに戻り、ローカルバスで 四平市 中心部へ移動する(上地図)。この中心部は、もともと単なる農村であったが、清代後期、南満州鉄道が縦横に交わる交差点駅が設置されて、急発展した新しい都市であるため、特に見どころはない。

この市内で白タクをチャーターし、南東郊外にある轉山湖風景区を目指す(上地図)。
ここで、テレビドラマ用に復元された、葉赫古城(葉赫那拉城)を見学する。下写真。
もともと、葉赫那拉城は 3つの城塞に別れて築城されており、その東城跡を大改修して建設されたテーマパークという。

梨樹県



 葉赫那拉古城(葉赫那拉城)

葉赫那拉城は、もともと 珊延府城、東城、西城の三城から構成され、梨樹県中心部から南東にある葉赫鎮に位置していた。
この「葉赫」とは、満州語で「河辺の太陽」を意味し、満州族の重要な発祥の地の一つと目されてきた。それは、清王朝の太祖ヌルハチ(1559~1626年)の側室である、孝慈高皇后(本名:孟古哲哲。清朝初代皇帝ホンタイジの生母。1575~1603年。1588年結婚、1592年ホンタイジ誕生)の出身地であり、また、清末の 西太后(1835~1908年。1853年、咸豊帝の側室として入宮、1856年に後の同治帝を出産。慈禧太后として、アロー戦争、日清戦争、義和団事件などを主導した)の祖先の出身地でもあったためで、「両代皇后の故郷」と通称される由来となっているわけである。

1573年ごろ、この地に割拠した葉赫部リーダーの褚孔格の孫である清佳奴、揚吉努が周辺の小規模な部落を統合しつつ勢力を拡大し、葉赫河の両岸にあった山頂部分に築城したのが、現在の古城跡という。それらの城塞群は、木、土、石で築造された城壁と、外周を囲った外堀がメインで構成されていたという。

葉赫那拉氏と愛新覚羅家の一族は長年の対立関係にあり、度重なる血みどろの合戦を繰り返す中で、ついに 1619年、ウルハチによって最終攻撃を受け、葉赫国が滅亡に追い込まれると、これに合わせて、その城塞群も破却されてしまったという。以後、それらは再建されることなく、今日まで、当時の廃城状態のまま残っているわけである。

葉赫国滅亡に際し、那拉氏東城の最後のリーダー・貝勒の遺言により、「葉赫那拉氏の末代の子女にいたるまで、報復合戦の苦を味わい続けることとになる」ので、お互いの恨みを清算する意味で、那拉氏と愛新覚羅の和解成立の証として、娘の孟古哲哲をヌルハチの側室として嫁がせることとなったわけである。

現在、「葉赫那拉城」として復元されている城郭テーマパークは、もともとあった三城のうちの東城山跡に再建されたもので(1994年)、葉赫にある轉山湖名勝風景区内の目玉施設となっている。その敷地面積は 10,000 m2で、建物面積は 7,000 m2にもなるという。入園料 50元。

本来の「葉赫那拉城」本体は、この自然公園から 10 km離れた場所に位置し、すでに全面が耕作地に覆われてしまっている。わずかに、周囲を取り囲んでいた土塁城壁の痕跡だけが残存するだけだが、1981年より吉林省政府の史跡指定を受け、保護されている。

梨樹県 梨樹県

さて、復元された テーマパーク「葉赫那拉城」であるが、四方を水に囲まれたロケーションにあり、絶景が楽しめるようになっている。この外観や全体の景観が高く評価されたことから、テレビ連続ドラマ『葉赫那拉公主』の撮影ロケ地として使用されたという(1998年)。このことから、城塞テーマパークは「ドラマ城」とも別称されている。

この敷地内には、箭楼、旗兵営房、貝勒府、祭神殿、議事庁、公主楼、薩満園、城皇廟などの伝統的建築物が復元されており、満州族独自の古城風景を学ぶに最適な環境となっている。その中でも、特に八角明楼の勇壮かつ壮大な建物は見応え抜群で(上写真右)、中国東北方地方でも非常に珍しい伝統的建築物という。この他、点将台と烽火台は清代からの遺構とあって、訪問客必見の場所となっている。この見張り台の上にあがると、一気に視界が広がり、絶景を堪能できる。

なお、葉赫那拉景区は、この古城文化区と轉山湖風景游芸度假区の二部構成で設計されており、古城文化区内には東西二つの城遺跡が建学できる。その他、園内には 古驛駅(かつての朝廷への早馬用の駅伝施設)、伽藍寺、娘娘廟、虫王廟なども復元されており、清朝の中国東北地方の支配体制を視覚的に学ぶ環境が用意されている。
いちおう轉山湖景区のメインは、その名称も含まれる、約 5,000ヘクタールの面積を誇る湖で、その周辺の自然を散策できる設計となっている。



ひと通り見学後、車を手配して、高速鉄道駅「四平東駅」まで送ってもらう。

ここから、長春駅 まで一気に帰ることができた。高速鉄道は長春駅行(59.5元、40分)と、長春西駅行(53.5元、30分弱)があり、普通列車でも長春駅行がある(18.5元、1時間20分強)。この 3通りから選択することになるわけだが、もちろん、第一選択肢で帰ることにした。

17:25 四平東発 → 18:05 長春着(59.5元、40分)
17:39 四平東発 → 18:19 長春着(59.5元、40分)
19:02 四平東発 → 19:34 長春着(59.5元、40分)


 【 梨樹県の 歴史 】

県下の長山遺跡の考古学的調査により、新石器時代には、すでに古代人類の生息があったことが確認されている。その後、肅慎族が跋扈し、彼らの末裔である夫余族が 扶余国(紀元前 2世紀~ 494年)を建国すると、このテリトリーに組み込まれた。

梨樹県 梨樹県

その後、南から勃興した高句麗に支配され、唐王朝により高句麗が滅ぼされると、唐王朝により公認された渤海国下の扶余府に統括された(上地図)。
その渤海国も 遼王朝(916~1125年)により滅ぼされると、韓州が新設され、今の梨樹県一帯はこれに統括される。下地図。

以降、続く金王朝時代も通じ、韓州の州役所は、幾度も引っ越しを繰り返すわけだが、その過程の 1150年、韓州役所が 柳河県城(下地図。今の 遼寧省鉄嶺市 昌図県八面城鎮)から、合叔勃城(今の 梨樹県白山郷岫岩村にある偏臉城跡)へ移転されてくるわけである。
同時に臨津県役所も併設され、州都と県都を兼ねることとなった。下地図。

梨樹県

もともと、遼王朝時代に「九百奚営」という城塞が建造されており、金代初期に「合叔勃」へ改称されていた。当時から重要な街道沿いに立地し、集落としても栄えていたという。

しかし、金王朝末期、モンゴル軍が侵攻してくると、城塞都市は廃墟となり、人々の記憶から忘れ去られていくこととなる(前述した偏臉城跡)。
元王朝の治世時代には、現在の梨樹県一帯は、開元路下の 咸平府(今の 遼寧省鉄嶺市 開原市老城鎮)に統括された。

明代に入り、咸平府が廃止されると、衛制が採用される。現在の梨樹県エリアは、このうちの 遼海衛(今の 遼寧省鉄嶺市 昌図県が本部)に統括された。
1513年、松花江と嫩江の流域に割拠していた海西女真族の一部が、部落酋長の祝孔革に率いられて南下し、現在の梨樹県下の葉赫河岸に定居するようになると、葉赫部と称するようになる(下地図)。以降、塔魯木衛(本部は、今の 遼寧省鉄嶺市 開原市)に統轄される。

梨樹県

清代に入ると、現在の梨樹県全域は柳条辺の新辺内に位置し、南部は盛京西流水囲場に、北部は 内蒙古哲里木盟科爾沁左翼中達爾罕王の放牧地に区分されていた。
1803年、土地開放政策がスタートされると、山東、河北省などから漢民族が流入するようになる。

人口増加に伴い、1821年、昌図庁の北部行政区を統括するための出先機関として、梨樹城分防照磨が新設される。この時、守善社、瑞祥社、新恩社、恵遠社、永隆社、太定社、允順社、恩化社、貞順社の 9社と、 472の村落が新設された。

なお当初、分防照磨衙署(役所)は、旧韓州城跡(偏臉城、梨樹古城)内に開設されたが、間もなく、南の奉化屯へ移転される。
奉化屯の周囲は、かつて小さな沼地が広がっていたが、清代の 嘉慶年間(1796~1820年)以降に人々が住み着くようになり、集落が形成されていったと考えられている。分防照磨衙署がこの奉化屯へ移転直後は、当然、城壁は築造されておらず、四方は開放的な平地が広がり、何も防御となる地の利ももなかったという。盗賊団や無法集団を防ぐべく、すぐに集落の四方に水堀をめぐらせ、土塁を築造し、防衛設備を整えていくこととなる。

しかし、1865年11月4日、馬国良(「馬傻子」と称した)の農民反乱軍が梨樹城を攻撃してくると、土塁城壁や四城門は悉く破壊されてしまい、城内へ反乱軍が一気になだれ込むこととなる。官吏らは殺害され、監獄の囚人らは解放され、さらに食糧庫から食料などが接収されて、市民や貧民へ分配されたのだった。結局、この農民反乱は翌 1866年5月、首領の馬傻子が捕縛され処刑されることで、終息を見る。
梨樹県

1878年、奉化県が新設されると、そのまま奉化屯城内に県役所が開設される(昌図府に帰属)。
この県名の由来であるが、もともとは「売買街」と通称されていたが、当時、この北側の郊外で度々、盗賊らが出没しており、無法者らが常に跋扈したエリアであった。後に、当地に駐在してきた「清朝の役人が、当地の無法者らを教育する」という意味を込めて、「遵奉王化」のスローガンを掲げたことから、「奉化県」と命名されたという。下地図。

同時に、もともとこの奉化屯に開設されていた梨樹分防照磨の役所は、八面城(下地図。今の 遼寧省鉄嶺市 昌図県八面城鎮)へ移転される。

なお、この奉化県の新設当時、先の戦役の爪痕が色濃く残っており、集落を囲んでいた土塁城壁はほとんど修復されていなかったが、ようやく 1900年に至り、盗賊や不法集団の襲撃に備えるため、県長官の王順存が地元有力者から寄付を募り、奉化県城(奉化屯)の城壁再整備に着手することとなる。

中華民国がスタートした直後の 1914年3月1日、奉化県が梨樹県へ改称される(上写真)。 1929年、奉天省が遼寧省へ改称されると、そのまま梨樹県は遼寧省に属した。

梨樹県

満州国統治時代の 1937年12月、四平街市が新設されると、四平街はこれ以降、梨樹県から分離・独立することとなり、別々に奉天省に帰属する。 1941年に、遼寧省北部が分離され四平省が新設されると、梨樹県はこれに属した。

1945年、満州国滅亡後、四平省が廃止されると、遼北省や 遼西省(1949年1月~)が開設される度に、梨樹県はこれらに統括された。中華人民共和国成立すると、1954年6月19日、遼西省が廃止され、同年 7月21日以降、梨樹県は吉林省に属して、今日に至るわけである。
1960~1964年、一時期、梨樹県役所が梨樹鎮から郭家店鎮へ移転されるも(上地図)、 1964年、再び梨樹鎮へ戻される。1983年8月30日、四平市 が成立すると、これに属した。


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