BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~


吉林省 長春市 寛城区 / 南関区(中心部)~ 2区 人口合計 140万人、 一人当たり GDP 80,000 元


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  長春府城(長春庁城、寛城子)
  長春文廟(文昌閣。清代。長春市亜泰大街 と 東天街との交差点)吉林省政府指定の史跡
  吉長道尹公署旧跡(1909年。長春市南関区亜泰大街669号)中央政府指定の史跡
  偽満州国帝宮旧跡(満州国 皇帝・溥儀の皇居跡)勤民楼、緝熙楼、懐遠楼、嘉楽殿、同德殿
  満州国 官庁街跡
  浄月潭、南湖
  長春市清真寺 イスラム寺院(清代。長春市長通路北側)吉林省政府指定の史跡
  護国般若寺
  新興財閥グループ「京東劉家」が経営した「泰発合百貨商店」跡地
  完顔類室の 墓地(金王朝時代。長春市三道鎮豊産村)



長春市龍嘉国際空港に到着後、長吉城際鉄路で長春鉄道駅へ移動する(列車券売機でチケット購入可能。10元)。乗車時間 15分ほどで、長春鉄道駅 2Fに到着する。
もしくは、⑥番空港バス「長春火車駅行(運行時間 6:00~21:00)」に乗車し、終点「長春鉄道駅」で下車する(20元、1時間強)。

この長春駅前(南側)にある 7天ホテル(長春火駅店。長春市寛城区黒水路 258号)で 2泊する(40元~)。もし、外国人の宿泊が拒否されたら、どこか駅前のホテルを探してみる(如家ホテル、錦江之星ホテルなど、全国チェーンも多い)。二日後には、早朝、この鉄道駅から 農安県徳恵市 を往復するので、移動の手間や時間を節約できる。また 九台区への 399路線バス や、双陽区への 377D or K377路線バス も、この 長春鉄道駅前(南口)の黄河路にある「長春客運中心バスターミナル」から発着しており、アクセスが非常に便利となる。

翌朝、東へ 1.5 kmにある 偽満皇宮博物院(皇宮博物館公園。長春市寛城区光復北路 5号)まで歩いてみる。満州国 皇帝・溥儀(1906~1967年)の居所だったという、 皇居内の建物群や 博物館、庭園を巡ってみた。


1931年9月18日の 満洲事変(The Manchurian Incident)後、日本軍により中国東北部全土が占領されると、 1932年3月1日、中華民国から独立する形で 満洲国(Manchukuo)が建国される。この時、満洲国執政として、清朝最後の皇帝だった 愛新覚羅・溥儀(1906~1967年。2~6歳の間、皇帝職にあった)が就任する(26歳のとき。同年中に完成した、この満洲国宮殿に移住する)。

1934年3月1日、満洲国が 満洲帝国(Manchurian Empire)へ改編されると、溥儀は執政から皇帝へ改称される。以降、溥儀の宮殿は「皇宮」と呼ばれることとなった(下写真)。

長春市南関区 長春市南関区

当時、満州国皇宮は、内廷と外廷に二段構成となっていた。内廷は、皇帝・溥儀とその家族の生活空間で、外廷は溥儀が政治活動を行うための空間であった。
内廷には東西両院があり、西院には 緝熙楼(この 2階を寝室、書斎としていた)が、東院には 同徳殿(1936年建。当初、皇宮内の宴会場として使用されていたが、1943年に日本の皇室より妃子が嫁入りすると、二階部分が彼女の寝室となる。一階部分は溥儀ら親族との 応接間、食事空間となっていた)があった。中和門の外は外廷と称され、勤民楼(清朝皇室の家訓である、『敬天法祖、勤政愛民』に由来。満州国に訪問した外国使節との謁見や、関東軍幹部らと「御前会議」が行われていた建物)、懐遠楼(1934年建。皇宮内の宴会場)、嘉楽殿(1940年建。皇宮内の宴会場。日本軍が南京に樹立させた 傀儡政権・汪兆銘の訪問時、彼を接待した建物)などが配されていた。いずれも現存し、一般公開されている。

また、満州国時代の中央官庁の建物もそのまま保存されており、現在、中央政府により史跡指定を受けている(下地図)。

 日本関東軍司令部跡(1933年建。長春市寛城区新発路 577号)
 日本軍関東憲兵隊司令部跡(1932年建。長春市寛城区新発路 329号)
 満州国国務院跡(1935年建。長春市朝陽区新民大街 126号)
 満洲国軍事部跡(1935年建。長春市朝陽区新民大街 71号)
 満洲国司法部跡(1935年建。長春市朝陽区新民大街 828号)
 満洲国民生部跡(1935年建。長春市朝陽区人民大街 3623号)
 満洲国総合法衙跡(1932年建。長春市朝陽区自由大路 108号)
 満州国経済部跡(1935年建。長春市朝陽区新民大街 829号)
 満州国交通部跡(1935年建。長春市朝陽区新民大街 1163号)
 満州国外交部跡(1932年建。長春市朝陽区建設街 1122号)
 満州国中央銀行跡(1938年建。長春市朝陽区人民大街 2219号)
 日本軍第 100部隊遺跡(1935~1936年建。長春市緑園区西環城路 8211号)
 満州建国忠霊廟跡(1938年建。長春市朝陽区南湖街道長飛社区) など

長春市南関区

なお、満州国首都警察庁跡(長春市朝陽区人民大街 2627号)、満州国国民勤労部跡(1932年建。長春市人民大街 3758号)、満州国務総理大臣・張景恵官邸跡(1936年建。長春市西民主大街 429号)、溥儀の 地下避難所跡(1938年建。長春市東民主大街)に関しては、吉林省政府指定の史跡となっている。

その他、長春市中心部の南東部にある、8,000万 m2もの広大な南湖公園内に、浄月潭が残されている。これは満洲国皇帝のための庭園として、日本軍により整備されたものという(上地図の左下)。



満州国皇居跡を散策後、人民広場(広場中央に、1949年建立のソ連軍烈士紀念塔が残されており、現在、吉林省政府の指定史跡となっている)の方向へ南進すると、長春市方志館(長春道台衙門博物館。長春市南関区亜泰大街 669号方志館)があるので、これも見学する。

そのまま「勝利公園駅」で地下鉄・南北線に乗車し、「市政府駅」で下車する。ここから、徒歩 1.5 kmほど歩き、長春市博物館を見学する。
博物館を後にすると、再び、地下鉄・南北線に乗車して北上し、「解放大路駅」で東西線に乗り換えて、二つ先の「南関駅」で下車する。ここが、古城地区の南門跡地である(下地図)。

この旧市街地区では、まず長春市文廟博物館に立ち寄ってみた。そのまま旧城壁跡を巡った後(下地図)、同じ長春市南関区にある、護国般若寺と 清真寺(イスラム寺院)を視察し、初日は終了する。

長春市南関区

なお、この清代後期の 1865年に築城された長春古城であるが、土塁城壁と外堀で急造された城塞都市であった。 1889年には長春庁が長春府へ昇格され府城となっていたが、最後まで石積み城壁へ改修されることなく、その寿命を終えることとなる。

今日、城壁や城門は完全撤去されてしまっており、かつての面影もわずかな路地名に残されているのみである。
孔子文化園、文廟路、大馬路、東門街、東天街、東門路、文廟、桃源東大橋総合市場、三義胡同、川心院胡同、馬営子北胡同、西三小学校、財神廟胡同、田家大院胡同、農園胡同 など。
なお、長春市児童公園にある池は、かつての西面外堀跡である(上地図)。


 【 長春古城跡(寛城子歴史地区)】

18世紀末、現在の長春市中心部は、まだまだ城壁のない小規模な集落地で、「寛城子」と呼ばれていた(下地図)。新立城(今の 長春市南関区新立城鎮)に開設されていた長春庁役所が(1800年)、1825年、当地に移転されてくると、ようやく長春市史が正式スタートした、と考えられている。

この時、長春庁役所(衙門、衙署)が開設された場所が、ちょうど現在の長春市 103中学と、南関客運バスターミナルの 敷地一帯(上地図。今日の大経路の西側、西四道街の北側)であった。当時の建物は、中央部の本堂が三部屋、左右の両脇に各五部屋で設計され、最近まで、1829年に建設された南向きの壁が一つ残存していたという。
こうして長春庁衙門の開設後、共産党時代初期の 1954年までの 120年以上もの間、長春市の主要な行政機構が、常にこの一帯をお膝元とすることとなったわけである。

また、その東側のやや離れた位置にあった、北へ延びる街道も、この時に石畳へと大改修が進められ、今日の「大馬路」となっていくわけである。当時、この新街道は集落地を南北に貫通したことから(全長 1,000 mほどで、当時、最長の街道であった)、北半分は 北大街、南半部は南大街と命名されることとなる(三道街との交差点で区分け)。今日の地理で言うと、南大街は全安広場から三道街の交差点まで、北大街は三道街交差点から二馬路交差点までの部分に相当していた(上地図)。

なお、この時、町割りが進められ、東西の街道として、順番に 頭道街、二道街、三道街、四道街、、、と命名されており、その名残りが今日も残っているわけである(大きめの街道は 〇〇街、小規模な路地は 〇〇胡同、と命名されていた ー 狗皮李胡同、九聖祠胡 など)。この過程で整備された南北メインストリートの「大馬路」は、当時、最もモダンな石畳スタイルの新街道で、内外から移住してきた商人らもこの街道沿いでの商業活動を許され、瞬く間に賑やかな通りに生まれ変わることとなる。以後、200年近く経っても現存する「大馬路」は、今日の長春市内で最も古い街路の一つと言える。

長春市南関区

なお、長春庁城には 1865年まで城壁が建造されることはなかった。しかも、その城壁建設の直接の背景となったのも、役所機関としての威厳確立のためというより、中国東北地方で勃発した農民反乱に対応するため、という消極的要因であった。

清代も後期となった 1850年代、朝廷や役所の腐敗は蔓延し、また欧米列強の侵入もあって、清国経済や社会は大混乱をきたし、市民らは生活に困窮していた。この反動で、中国各地で民衆反乱が頻発するようになっていく。
1863年10月20日、奉天昌図庁下の 梨樹城分防照磨(下地図)の管轄内でも農民反乱が勃発し、 榆樹台や 小城子(今の 四平市梨樹県小城子鎮。下地図)を占領すると、逃走していた梨樹城照磨官の徐棠を捕縛し、城門に吊るして絞首刑とする事件が発生する。  

翌 1864年夏、貧民出身の馬国良も、故郷の梨樹県城の南東 15 kmにある 守善社団山子(今の 梨樹県十家堡鎮団山子村。下地図)で、地元の青年らを巻き込んで世直し一揆の準備に着手し、同年冬、李維藩部の農民軍と連携し、 100人余りの農民兵を率いて 郭家店小泉眼村(下地図)を襲撃すると、悪徳地主 2人を捕らえて、十家堡仙馬泉(下地図)で火あぶりの刑に処する。以降、馬国良は馬振隆と改名し、馬傻子(イカれた馬さん)と号して、各地を転戦するようになる。清朝廷は、この反乱軍を「馬賊」と呼び、各地の役所に鎮圧を指令する。

しかし、馬傻子の農民反乱軍は、当初こそ参加人数は 100人程度であったが、各地の役所や地主らを成敗し、貧しい人々に物資を分け与えていったため、ますます農民兵らを糾合することとなり、瞬く間に 500人規模へと膨れ上がっていく。馬傻子自身、小さい頃から地主の屋敷で雑用係として生活し、役人や地主らの横暴を知り尽くしていたことから、貧困にあえいでいた農民らの心を完全に掴み、絶大な支持を集めたのだった。 梨樹県、昌図県一帯の農民からは、「馬大人=(敬意を含めて)馬さん」と愛称を込めて呼称されるようになっていく。

長春市南関区

翌 1865年5月には、現在の伊通県域へも進出し、長春庁から派遣されていた薄正堂の率いる騎馬部隊 300を撃破して、赫爾蘇街(今の 伊通県中心部。上地図)を占領する。そして、この年の 9月3日、長春庁城にも攻撃を加えるのだった。しかし、その直前に完成されていた長大な城壁と外堀に阻まれ、長春庁城の攻略には失敗するも、11月4日には農民兵 2,000を動員し、売買街(今の 梨樹県中心部。上地図)を攻撃する。梨樹照磨(地方行政官)の姚利紳は、配下の役人や 義勇兵、地主層、商人らと共に、3日3晩の籠城戦を戦い抜くも、形勢不利を悟ると、一部の高官と共に我先にと城を放棄し逃走してしまう。間もなく、城内になだれ込んできた反乱軍によって、逃げ遅れた役人や資産家らは殺害され、食糧庫は開放されて貧民へ分与されたのだった

12月、馬振隆(馬傻子)と黄旗隊リーダーの 王起(四平街出身)が連合し、再び 伊通街(今の 伊通県中心部。上地図)へ攻め込み、巡検衙門(警察部門)と、佐領の衙門 2ヵ所(鑲黄旗と正黄旗の、2つの地方武官の下部組織の駐在所)の焼き討ちに成功する

長春市南関区

さらに大攻勢をしかけ、同年末には、開原(今の 遼寧省鉄嶺市 開原市。上地図)、鉄嶺(今の 遼寧省鉄嶺市中心部。上地図)を突破し、一時は 奉天府城(盛京。今の 遼寧省瀋陽市。上地図)にも攻撃を加えるも、装備の差から攻略を断念し、さらに南下して奉天省一帯を蹂躙していく。

この時、馬振隆(馬傻子)は兵を三軍に分けて作戦を展開した。
一部隊には引き続き、奉天省一帯の制圧を任せ、昌図府城(今の 遼寧省鉄嶺市 昌図県。上地図)や、法庫県城(今の 遼寧省瀋陽市法庫県。上地図)、鳳凰庁城(今の 遼寧省丹東市 鳳城市。上地図)などへの攻撃を継続させつつ、他の二部隊は 赤峰(今の 内モンゴル自治区赤峰市)方面と、朝陽(今の 遼寧省朝陽市)方面へ進軍させることとした。馬振隆自らは 4,000名を率いて朝陽方面へ出撃し、興城(今の 遼寧省葫芦島市 興城市。下地図)にまで勢力を伸長させる(上地図)。

王都・北京(上地図)に接近しつつある農民反乱軍に対し、清朝廷は大いに震撼し、すぐに戸部尚書の 文祥(1818~1876年。下写真)を軍機大臣に任命して対抗させる。文祥は最新の火砲兵器を駆使して反乱軍を圧倒すると、総兵の劉景芳ら数百名の騎馬兵を使って蹂躙し、農民軍を潰走させることに成功する。そのまま文祥は、盛京将軍、吉林将軍、黒竜江将軍へも出兵を命じ、全方位から反乱軍をせん滅する作戦が展開されていくこととなる。

長春市南関区

河北省の手前で進軍を止められた農民反乱軍は、再び 奉天省(現在の遼寧省)北部へと撤退し、近隣主要都市の制圧に専念していく。

ようやく 昌図府城(今の 遼寧省鉄嶺市 昌図県。下地図)を占領した反乱軍は、昌図通判を撲殺する。そのまま北へ作戦ターゲットを方向転換すると、翌 1866年2月、馬振隆(馬傻子)の率いる 5,000名は吉林省方面へ進出し、2月13日に、再び長春庁城に二度目の攻撃をしかけるも、またしても撃退されてしまう。
さらに北上し、農安城(下地図)や 夫余(下地図)などの地方都市の襲撃しつつ、伯都訥城(今の 吉林省松原市 寧江区。下地図)を攻略すると、副都統兼左翼協領(地方武官職)の常奎と同知の安栄らを捕縛し、彼らを馬車に乗せて市中引き回しの上、処刑する。さらに 双城堡(今の 黒竜江省ハルビン市 双城区。下地図)、阿勒楚喀(今の 黒竜江省ハルビン市阿城区。下地図)、五常(今の 黒竜江省ハルビン市五常市中心部。下地図)、拉林(今の 黒竜江省ハルビン市五常市拉林満族鎮。下地図)などの諸城も攻略し、松嫩平原一帯を席巻する。反乱軍の名声は東北地方全域にとどろき、双城堡戦では、歓喜した住民らが自ら「馬大人」軍を城内へ迎え入れたという。

3月初め、柳条辺(新辺)最北の 関所「法特哈門(今の 吉林省吉林市舒蘭市法特鎮。下地図)」を攻撃し、そのまま 烏拉街(今の 吉林省吉林市 烏拉街満族鎮。下地図)も攻撃するも、ここでも清方の守備隊に二度も撃退されることとなった。

長春市南関区

ようやく冬が終わった 3月下旬、北京 方面からの清朝援軍部隊の到着を察知すると、馬振隆(馬傻子)は主力部隊を一気に南へ再展開し、朝陽坡(今の 吉林省四平市 公主嶺市朝陽坡鎮。上地図)で一大決戦が行われる。この時、清軍に多大なダメージを与えるも、同時に自軍も大きな損害を被り、この時の戦闘で、連合を組んでいた黄旗隊リーダーの王起が戦死してしまい、腹心だった部下の許占一が清側へ寝返ってしまうと、烏合の衆の反乱軍は求心力を失い、農民兵力の一部は散り散りとなっていく。

馬振隆は多勢に無勢の中、残党兵を率い、翌 4月にかけて、遼寧省下の 鉄嶺市(上地図)や 開原市(上地図)、清河(今の 鉄嶺市清河区。上地図)などで、清朝と死闘を繰り広げていく。この過程で、いよいよ即席だった反乱軍は内部崩壊してしまうのだった。もともと内部規範が不明確だったこと、また戦略も稚拙で、敗走後に部隊を再結集させるノウハウも欠如していたわけである。

長春市南関区

5月16日、開原県下の 黄旗堡(今の 遼寧省鉄嶺市 開原市黄旗寨鎮。上地図)の郊外で、兵力を増強した清軍と激突した 馬振隆(馬傻子)の本隊はついに力尽き、馬振隆自身も捕縛され、 盛京(奉天府城。今の 遼寧省瀋陽市。上地図)へ送られると、最も残酷な遅死刑に処せられる。しかし、域内の農民反乱軍はその後も、7年もの間存続され、中国東北地方最大の農民反乱として歴史に刻まれることとなったわけである。

長春市南関区

この一連の馬傻子による中国東北地方最大の農民反乱の 最中(上地図)、 長春庁の 集落地(寛城子)も二度、攻撃を受けるも、いずれも撃退に成功したことから、戦後、安全を求める富裕層や周囲の破壊された集落から流民らが市内に流入し、人口や経済規模を急拡大させることとなる。

なお、この長春庁城の防衛設備は、反乱軍が攻め寄せる直前、庁役所(衙署)が地元の有力者らを通じて寄付を募り、突貫工事で城壁と外堀を建造し、反乱軍の攻撃に備えたものであった。
戦前の「寛城子」は、すでに大規模な集落地に成長しており、通常の県城の半分レベルの人口規模にまで発展していたという。しかし、経済的にはそれほど豊かな都市ではなく、県城へ昇格されることも、外周城壁が建造されることもなかった。そうしたタイミングで、農民反乱軍襲来の危機が迫り、住民らがなけなしの資金を出し合って、木板をメインとする城壁を建設したわけである。二重の木板壁の中央に泥を挟み込む構造がメインで、一部は木板もなく土塁だけの部分もあったという。また、ある部分は商家や農家の外壁を転用するだけの箇所もあったようである。この木板城壁による城塞は、当時、吉林将軍下の管轄区内では、 吉林城 の次に建造された、二例目であった。

その簡素で粗い木板城壁は、高さ 3 m前後で設計され、全長約 10 kmにも及んでいた。特に 四角形、円形といった整った形状でもなく、不規則な多角形型となるも、その城内面積は約 7 km2(528ヘクタール)にも至ったという。南北の長さの最長箇所は 1.9 km、東西の最長部分は 3.2 kmで、東は伊通河から西は今の岳陽街まで、南は今の長春大橋から北は大馬路北の交差点までのエリアであった。この長春庁城の城域が、「寛城子歴史街区」という旧市街地に相当するわけである。下地図。

長春市南関区

この長大な 木板&土塁城壁に対し、当初、6つの城門が配置されていたが、後に 4か所の小門と 2ヵ所の内門が増設されることとなる(上地図の青文字)。メインの 6城門の上部には、当初、突貫工事だったこともあり、土壁の簡易な楼閣が組まれただけだったが、1896年に木造レンガ積みの楼閣へ全面改修が行われている。
以下、それぞれの城門に関し、その特徴を俯瞰してみたい。

長春庁城の南端には 城門「全安門」があり、地元では「南門」や「南関」と通称されていた。ちょうど城内の南北メインストリートであった 北大街 ー 南大街(今の大馬路。下地図)の南端に位置し、今の 長春大橋(旧名:全安橋)の西側、解放大路 7号の入口辺りにあった。東側を流れる伊通河を渡河するには必至の城門であった。下地図。

1865年の初代に続き、1896年に二代目として城門全体が改修されると(高さ 8.25 m、横幅 6.6 m、東南向き)、城門の左右両脇の城壁もあわせて、木板と土塁スタイルから、レンガ積み 城壁(66 m分)へ全面改装されることとなった。また門上には、「众山遠照」の四文字の額縁を有する楼閣が組み上げられ、この楼閣前とその両脇には、矢間付の凹凸壁 31つが増設される。
1930年に大馬路が拡張整備される際、撤去されてしまう。

長春市南関区

対して、南北メインストリートの北端には永興門があり、地元では「北門」と通称されていた(上地図。現在の大馬路と長春大街との交差点南側で、大馬路 96号の入口西隣あたり)。 1896年の全面改修の際、南門と全く同じ設計でレンガ積み木造建てとなり、城門上の楼閣には「関左通衢」の四文字が刻まれた額縁が掲げられていた。

しかし、この時代、都市人口は膨張し、いよいよ手狭となった古城地区からはみ出す形で、郊外エリアの開発が進められることとなり、長春府城の北側に 新都市「商埠地」が建設される(上地図の右上赤〇。1900年当時)。この新都市と府城とを連結する街道も整備され、それが北門を通じて、城内の 北大街(今の大馬路)と連結されていたことから(上地図の赤線)、間もなく北門が交通の障害物とみなされるようになり、清朝が滅亡した直後の 1912年、早々に撤去されてしまうのだった。
これが最初の府城破壊の発端となり、以後、城壁の撤去作業が順次、進められていくこととなる。

なお、この北門から延びる街道は、北の新都市地区以外にも、南満州鉄道駅や 農安県徳恵県 などへも通じており、長春市以北への必須ルートとなっていく。

長春市南関区

その西隣には乾佑門があった(上写真)。ちょうど、今の民康路と平治街の交差点に位置していた。同じくレンガ積み木造建てで設計され(高さ 8.25 m、横幅 6.6 m)、城門上には楼閣と凹凸壁が増設されていた。北面城壁の西端に平治街が整備される際、撤去される。

その南側には聚宝門があり、地元では「西門」と称されていた(下写真)。南門、北門と同じサイズ(高さ 8.25 m、横幅 6.6 m)で設計され、レンガ積み木造建てで建設されていた。城門上には凹凸壁 19ヵ所が増築されていた。
もともと西三道街の西側に立地し、その撤去後は跡地に 華俄道勝銀行(今の蓓蕾宮)が建てられていた。ちょうど、西河溝上にあった西双橋の向かいに位置していたという。当時、孟家屯車駅(今の長春南駅)、懐徳県(今の 吉林省長春市公主嶺市)、梨樹県(今の 吉林省四平市梨樹県)、通江口(今の 遼寧省鉄嶺市 昌図県通江口鎮)などへ向かう際の、必至ポイントとなっていた。

長春市南関区

そのさらに南隣には、西南門(永安門)が配されていた。ちょうど、現在の全安街と大経路との交差点あたりで(地下鉄「南関駅」の南側)、住所でいうと、大経路 174号の入口辺りにあった。そのサイズは、高さ 6.6 m、横幅 3.3 m で、城門上には永安門と刻印されていた。

門前には西河溝と興隆溝が流れており、それぞれに橋が架けられていた。西橋の方は、西橋外の朱家大屯(今の 吉順街東、通化路、至善路の東側一帯)へと通じ、また 南橋(永安橋)は、南嶺大営へと通じる必須の街道であった。
1926年夏、吉林督軍兼省長官の 張作相(1881~1949年。奉天閥の 領袖・張作霖の部下)が、南嶺大営の駐屯兵団を視察するために当地を訪問した際、この南西門を忌み嫌ったことから、すぐに撤去が命じられ、解体されてしまったという。

最後に、東角には崇德門があり、「東門」「大東門」と称されていた(下写真)。現在の東門里路と東門路との交差点辺り、東門里路 3号門前に立地していた。実質的には城の最北端&北東角に位置していたが、東大橋や府城北側の村々を往来する際に必至ポイントとなったことから、「東門」と通称されていたという。

城門自体の設計も南門と全く同じで、レンガ積み木造建てであった(高さ 8.25 m、横幅 6.6 m)。城門上には楼閣と 凹凸壁(矢間もあった)が装備され、その両脇の城壁もレンガ積みとなっていた(1923年に全面レンガ積みへ大改修されていた。この時、城壁の底辺部には排水溝が設けられる)。この東門は、古城遺構の中でも最後まで残存していたが、1952年に東門里路が整備される際に撤去されてしまう。

長春市南関区

以上の 6つが、長春庁城時代に最初から設置されていた城門であった(下地図の大文字)。
これらの他、 6か所の 小門(下地図の小文字)ー 馬号門、小東門、小西門、東北門、東双門、西双門 ー が設置されていた。清末に城内外の都市化の影響により、増設されたものであった。

北面城壁沿いに設置された 馬号門(下地図)は、今の大経路と平治街路との交差点に位置し、住所で言うと、大経路 59号にあった。府城の北郊外を往来する利便性向上のために増築されていた。当時、騎馬の移動に便利なように、長春庁役所の 馬厩(庁衙騎馬隊の馬屋)裏手に設置されたことから、このように命名されたという。
中華民国初年の 1912年に北門と共に撤去作業が着手され、1914年5月には完全消失される。

小東北門は、今の原生街 2号辺りに立地していた。
小東門は、今の頭道街一胡同 5号にある、興盛小学の附近に設置されていた。
小西門は、かつての西河溝の東側にあり、今の西二道街 47号の門前あたりに位置していた。

長春市南関区

以上の 4城門は、木板城壁にわざわざ穴をあけて、城門として増築したものであったが、下記の 2門は、東門と西門を補強するために、城内に二重に設けられた城門であった(外門と内門の関係)。中華民国初年の 1912年に新設されたもので、あくまでも装飾目的であったという(構造上、防衛能力は期待されていなかった)。

そのうちの一つ、東双門は、今の東門里路 45号辺りに立地していた。もともとは牌坊式の木門であったが、1921年に門柱が折れたため、そのまま城門ごと撤去されることとなった。
もう片方の 西双門(金安門)は、東双門と全く設計で、これも設置後、間もなく撤去されている。

長春市南関区

また木板城壁の外周は、天然の河川と小川、そして人工的に掘削された外堀が四方を取り囲んでいた。
東面には伊通河の大河が流れ(上写真)、西面と南面には 西河溝(黄瓜溝、興隆溝)という小川があり、伊通河へと注いでいた。その西端は今の児童公園の南西辺りで、そのまま今の平陽街を経て、永安橋を経由し、伊通河へとつながっていたという。この西河溝は共産党中国の成立前、大部分が排水路へ転用され、1952年に全面地下化されて以降、今日現在では目にすることができなくなっている。
そして北面のみ、全長 2 kmほどの 外堀(幅約 3 m、深さ約 3 m)が人工的に掘削されていた。西端は乾佑門から、今の平治街を経由し、長春大街から亜泰大街へと通じていたという。

1888年、長春庁が長春府へ昇格される。1896年に、当初の 6城門がレンガ積みへ全面改修されることとなる。
1905年、日露戦争に勝利した日本との間で、 南満州の租借に関し、「北京条約」の改定が行われ、長春府が開港される。
1906年、開港に向け、長春府が北郊外に 新都市「商埠地」を整備すると、旧市街地とこれを結ぶ商埠大馬路が正式に開通される。府城内の南北 メインストリート「北大街」と接続され、全長 2,584 mの主要街道が出現することとなった(現在の大馬路)。


清代末期、多くの人口が流入すると、長春府城は瞬く間に手狭となり、郊外に宅地が拡張されていく。北郊外に 新都市「商埠地」が未だ整備されていなかった時代でも、農安県 や扶余などへ向かう 街道(後の商埠大馬路)が、元々、北へと延びており、その街道沿いに商店や住居が建設されていったと考えられる。

それら初期に進出した商店の一つに、中国近代史上、著名な新興財閥一族の 1つ「京東劉家」が経営する、「泰発合百貨商店」があったわけである。ちょうど、現在の大馬路と西四馬路との交差点辺りに立地していた。この企業グループは、清末から 中華民国時代、満州国時代を通じ、長春市街地で最も繁盛した 100%中華系の地場資本であった。
彼らは、王都・北京 東部の 河北省唐山市 楽亭県汀流河鎮劉石各庄を地盤とする新興財閥一族で、その出身地のロケーションから、「京東劉家」「京東第一家」と称されたわけである(下写真)。

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そもそも、この「京東劉家」を勃興させるきっかけを作ったのは、劉福という人物であった。 1790年代、彼は地元の屋内市場で机一つを置いて質屋を始め、金銀、宝飾品を基に現金を融通する事業をスタートする。この「質屋テーブル」ビジネスが軌道に乗ると、その子に引き継がれ、孫の劉如娥の代に、全盛期を迎える。

その 三代目・劉如娥には三人の息子がおり、それぞれに全く異なる分野の進路を選択させていた。すなわち、長男の劉兆京は実家で土地経営を継承させ、次男の劉兆年には家業に従事させ、三男の劉兆熊は学問に励んで役人に進ませたのだった。三人ともにそれぞれの分野で大成すると、不動産、ビジネス、公的セクターという三方面で一族が団結し、「京東劉家」は無双状態となり、ますます栄華を極めていく。
しかし、その三人は次第に仲違いし、1889年、劉家の財産が三分割され、それぞれの分家へ分与されることとなる。すなわち、四代目にして、「京東劉家」グループは 3つの 事業体(「堂」と呼ばれた)へと分割されたわけである ー 長男・劉兆京のグループ「合徳堂」、次男・劉兆年のグループ「合義堂」、末弟・劉兆熊のグループ「保合堂」。その後、「合義堂」は、さらに「仁合堂」と「中合堂」へ分派されることとなる。

まさにこうしたお家騒動の渦中にあった 1886年、初めて長春市内へと事業進出してきたのだった。
この直接的な事業進出のきっかけは、農安県城 内にあった「義和当」という質屋が倒産したため、これを引きとった縁であった。劉家財閥のうち、末弟・劉兆熊の率いる「保合堂」グループが、質屋の敷地跡に 雑貨店「泰発合」を開店し、同時に 食用油店、食堂、質屋など、複合的な事業をスタートさせる。

1892年には、長春府城の北郊外に「大車店」を開店する。
鉄道やトラックのない時代、馬車が主要な物流手段であり、それら商品や物資を運ぶ馬車は、「大馬車」や「大車」と呼称されていた。農安県城内の本店から発せられた物資は、馬車による移動式店舗で各地を行商しつつ、この「大車店」に到着するスタイルであった。そして、この「大車店」を拠点に、さらに長春府一帯のマーケットにも浸透を図ったわけである。また、この「大車店」は運送人員用の宿舎や食堂も兼ねており、それらは無料で提供されていたという。
この界隈は「西嶺」と称され、まだまだ住居や商店はまばらで、特に、米屋や 粉屋、豆腐屋などの精製所や食堂も少なかった。そこで、「大車店」が米販売をスタートすると、一気に人々の胃袋をつかみ、さらに 木綿、油、酒などの商材も販売するようになり、周辺住民らの生活必需店となっていく。

間もなく、正式に「大車店」が「益発合」店へ改称され、本格的な店舗経営が開始されると(現在の大馬路と西四馬路との交差点辺りにある、児童公園一帯に立地していた)、雑貨屋をメインにさまざまな生活ニーズに合った商材を取扱い、「益発合に人々は住む」と比喩されるほどに長春市民らに広く深く浸透することとなった。自宅配送サービスや在宅決済サービスなども導入し、まさに長春市民にとって”便利屋”となっていくわけである。「京東劉家」は、ますます巨大化する長春市の潜在力を見込み、「益発合」店を二階建てに改装し、上階と下階に多様な商店や サービス店(金融業、制油業、制粉業 など)を入居させ、多方面の業種へ事業を拡大していく。

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1932年、日本の 傀儡政権・満洲国が長春市を首都に定めると、市街地の人口はさらに激増する。これにあわせて、「泰発合」店を仕切っていた京東劉家グループの 一派「保合堂(東発合へ改称されていた)」と、「仁合堂」と「中合堂」に分裂していた旧「合義堂」らが再結集して出資し合い、株式会社「益発合」を発足させると、「益発合」店は「益発合百貨店」へ改称され、モダンな洋館風に建て替えられることとなる(上写真)。
この頃には、大分裂していた 財閥グループ「京東劉家」も陰りが見え始めていたが(「京東劉家」の経営する事業は、中国北部で 100以上あった = いずれも「発」という文字が含まれていた)、一気に V字回復の起爆剤となるのだった。

日本統治下にあって、日本人などの外国人が満州国首都に次々と進出し、新規事業を手掛けるようになると、日本人によって百貨店も開業される。これに対抗すべく、100%中華系地場資本の 百貨店「益発合百貨店」が 1932年に正式オープンすると、すぐに敷地を再整備し、三階建てのショッピングモールが建設される(上写真)。当時、最新設備が導入された、長春市最大面積の商業モールとして君臨していくこととなる。
その全盛期は、合計 15の営業店が入居し、総面積は 3,600 m2もあったという。内部では、制鞋、制帽、制衣の附属工場まで併設していた。あわせて、日本などの海外に常駐のバイヤーを配置して事業ネットワークを広げており、その隆盛は飛ぶ鳥を落とす勢いであった。

満州国時代、中国東北地方では「関外牛、関内劉」という合言葉が流行ることとなる。当時、この地方に住む人々に影響を与えた二つの一族を表した言葉で、「牛」とは「吉林 の牛子厚」を指し、「劉」とは「京東劉家」の分派が経営した「益発合百貨店」を指したという。



1912年、辛亥革命が成功し、中華民国が建国されると、翌 1913年、長春府が長春県へ改編される。ただし、地元では引き続き、「寛城子」と通称され続けていたという。

このタイミングから、長春県城を取り囲んでいた木板城壁や外堀の撤去がスタートされる。早くも同年、商埠大馬路上にあって交通の障害物とみなされていた、北門(永興門)と 馬号門が除去されることとなる。
また当時、木板城壁は、半世紀にも及ぶ風雨にさらされ腐食がかなり進んでおり、あちこちで倒壊が始まっていたこともあって、住民によってなし崩し的に撤去されていったようである。

共産党時代の 1952年、東門路の整備に際し、最後まで残存していた「東門(崇徳門)」も撤去されるに及び、旧長春府城の城郭遺構は完全に姿を消すこととなった。

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なお、長春庁役所(衙門)の建物に関して見てみると、 1886年と 1917年の二回、大規模な改修工事を施されている。しかし、以降も毎年夏には、雨洩りに悩まされ、また一年中、高い湿気に苦しめられたという。このような環境の中、勤務する役人らの怠慢が蔓延し、清朝時代の古文書類も全く保存されずに、紛失されてしまっていたとされる。

1926年、長春県知事の張書翰が、吉林省署へ 県役所(県衙)再建を願い出ると、すぐに許可され、洋式スタイルのレンガ壁と屋根瓦付のモダンな建物へ生まれ変わり、翌 1927年10月に完成後、共産党時代初期まで継承されていくこととなる(上写真)。
西側には、県長官の公邸も内包されていたという。

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なお、この中華民国時代、中国全土には軍閥が割拠し、中華民国政府の指示が全く通じない独立勢力圏が各地に形成されていた。この中国東北部でも同様で、清朝時代の正規軍を継承した 遼寧省(奉天省)、黒竜江省・吉林省それぞれに軍閥が割拠したが、最終的に 遼寧省(奉天省)を率いた 張作霖(1875~1928年)により、中国東北三省が統一されていく。その攻防戦の最中の 1919年当時、吉林閥を率いた 孟恩遠(1859~1933年)と激しく対立する中で、同年 7月に日本軍の支持を得た、張作霖が仕掛けた事件が「寛城子事件」であった。

7月19日、長春市に駐屯中の吉林省軍と、満鉄附属地(下地図)に駐屯していた日本軍との間で 軍事衝突が発生し、双方に死傷者数十人が出る。この長春での 事件「寛城子事件」をきっかけとして、奉天軍&日本連合軍が吉林省を制圧し、その地を併合することとなったわけである。孟恩遠は罷免され、天津 の租界地への亡命を余儀なくされる。

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時間があれば、長春市三道鎮豊産村劉家炉屯(長春市中心部から東へ 5 km)の北側にある、石碑嶺上の「完顔類室墓」も訪問してみたい。
アクセス方法は、人民広場から発着する 332番路線バス(9:10~14:30のみ運行中。人民広場 ⇔ 邵家溝)で東進し、バス停「三道市場」で下車後、さらに進行方向を前進して、右手にある登山道から石碑嶺に登ることになる。付近の住民に確認しながら、現地訪問した方がいいだろう。

なお、この墓は 1912年に日本人によって盗掘されたらしく、その後、紆余曲折を経て、 32点の埋葬品などが日本人研究員によって、旅順博物館(今の 遼寧省大連市 旅順口区)に保管されることとなる。そのうちの 銀毛拔、銀帽冠、玉柄鉄刀、各種玉佩など 12個の遺物が、引き続き、旅順博物館で展示中という(目下、それらの複製品が、吉林省博物館でも公開されている)。

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1988年6月、中国側の手でようやく墓地跡が発掘調査された際、 碑亭や盗掘時のトンネル、石碑の残骸、墓前石雕の残骸などの遺物が発見される。
2015年11月まで、完顔類室墓はそのまま放置されたままで、墓所へ続く神道両側の石俑と石獣などは地上に倒れさままであった。また、墓地の南端にある亀形の 巨大石像(駄碑獣)も壊されて、三つに割れたままの状態で放置されていたという。その後、下写真のように公園化されたようである。

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現在、墓地には大小 2つの亀形の石像が残されているのみである。大きな亀石像の上には、石碑が乗っている。これが完顔類室神道碑と呼ばれる墓標で、完顔類室のエピソードなどが 4000字余りで刻印されている。墓所自体は清代後期の 1900年ごろにはすでに喪失されていたが、この墓標は当時からその存在が確認されており、遼王朝&金王朝時代からの歴史資料として、大変に貴重なものという。また、完顔類室の墓周囲には、長方形型や正方形型で加工された青石板が散らばっており、いずれも石棺の残骸という。それらの数量から、埋葬されていた墓地の石棺は一つ以上あり、完顔類室を中心とする家族らの墓地を兼ねていたと考えられている。

なお、完顔類室(1078~1130年)は、女真族語の本名は斡里衍といい、金王朝建国の功臣と称えられる名将である。1099年、21歳の時、父の完顔白苔から 完顔七水部族(今の 長春市南部一帯に割拠した女真族の一派)の族長を継承すると、 1114年に 完顔阿骨打(1068~1123年)が率いた反遼の決起軍に参陣する。以降、各地の戦線で活躍する中、最終的に 1125年、応州の東 30 kmにある 阿睹谷 (余睹谷、伊都谷とも別称された = 今の 山西省朔州市 応県東部)で、遼王朝 9代目皇帝・天祚帝(1075~1128年。本名:耶律阿果)の生け捕りに成功する。その後、多くの受勲を受けつつ、北宋朝との戦闘中の 1130年、遠征先で病死することとなる(下地図)。その遺体はこの石碑嶺に埋葬され、 1146年には 3代目皇帝・熙宗(初代皇帝・完顔阿骨打の孫。1119~1150年)より、莘王と金源郡王の称号が追贈されたという。

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 長春市には 10日ほど滞在した(長春駅前の 7天ホテルに投宿)。

 1日目:長春市博物館、満州国宮殿公園、長春府城跡を訪問。
     長春駅前泊。
 2日目:高速鉄道で北上し(38分)、農安県を訪問。博物館、府城跡、遼塔
     夕方に長春へ戻り、再び、長春駅前泊
 3日目:早朝、長春鉄道駅から通勤快速列車で 徳恵西駅 へ北上する(23分)。
     地元のホテルに チェックイン(徳恵乾嘉商務大酒店か、漢庭快捷酒店)。3泊4日の予定。
     すぐに 算盤博物館、双城子古城①、攬頭窩堡遺跡、丹城子古城跡、卧虎古城、馬家城子古城跡 などを訪問。
     そのまま徳恵泊
 4日目:都市間バスで、榆樹駅へ 北上(2時間)。博物館、榆樹県城跡、山泉城跡 などを訪問。
     普通列車で戻り(2時間)、再び、徳恵泊。 
 5日目:都市間バスで、東隣の九台区上河湾鎮を訪問する。
     懐徳堂后山山城跡、石羊嶺山山城跡、樺樹嘴子西山城跡、北城子古城 など。
     都市間バスで戻り、再び、徳恵市内泊。
 6日目:この日は、予備日。徳恵市九台区 エリアの山城群を、できるだけ巡ってみる。
     夕方、ホテルで荷物回収後、徳恵西駅から高速鉄道で長春鉄道駅へ移動する(23分、38.5元)。
     再び、長春駅前に投宿(3泊)。
 7日目:翌朝、駅前の黄河路沿いのバスターミナルから、双陽区行 377D路線バス(快速)に乗車する。
     双陽区内では、姚家城子古城、東営城子古城、二道梁子遺跡、南城子古城 などを巡る。
     再び、K377路線バス(各駅停車)に乗り、長春市内に戻る。
     長春駅前に投宿。
 8日目:予備日。午前中に 完顔類室墓(上解説文)を訪問し、午後に 九台区の南西端にある、和気古城跡を見学。
     その他、市中心部を巡って、最終日終了。
 9日目:帰路につく(長春鉄道駅から空港へ移動。列車で 15分、10元)。




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