BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~


吉林省 四平市 伊通満族自治県 ~ 県内人口 35万人、一人当たり GDP 26,000 元(四平市 全体)


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  伊通満族博物館
  城子村古城
  大営城子古城
  宋家洼子古城
  前大屯古城
  前城子古城
  城合店古城



早朝、長春市内の地下鉄「南北線」に乗車し、一直線に南下して「衛生広場駅」で下車する。そのまま人民大道を 400 mほど徒歩移動すると、長春高速公路客運バスターミナルがある。ここから、伊通行の都市間バスに乗車する。一日 34本のバスが運行されており、20分に一本ずつ発車している。筆者は、 7:45発に乗車してみた(1時間強、20元)。

旧市街地の北側にある伊通客運総合バスターミナルに到着後、徒歩で南下し、県中心部のメインストリート「人民大路」沿いに立地する、伊通満族博物館(下写真。開館時間:9:00~11:00、13:30~16:00)と、吉林伊通火山博物館を訪問してみる。

伊通満族自治県

博物館見学後、旧市街市を一周してみた。
この旧市街地は、1814年に 伊通河分防巡検(伊通河巡司)が新設されて以降の行政拠点であり、1882年に伊通州へ昇格され(1909~1910年の 1年間、直隷州へも昇格)、州城となっていた場所である。
現在、土塁城壁や外堀は完全に撤去されており、城郭時代の遺構は全く残されていない。しかし、一部の地名には、往時の記憶がはっきり刻み込まれていた。南壕街(古城南面の空堀跡)、慶徳街、慶陽胡同、七星街、老街焼烤(天馨商業街店)など。下地図。

伊通満族自治県

下写真は、伊通満族博物館で展示されている、伊通州城時代の模型。

伊通満族自治県

再びバスターミナルに戻り、白タクをチャーターして、郊外に点在する城跡 6か所を巡ることにした(下地図)。これらはいずれも、遼王朝&金王朝時代の城塞跡という。
それら古城群は地上の北斗七星のように点在しており、西から順番に、城子村古城、大営城子古城、宋家洼子古城、前大屯古城、前城子古城、城合店古城が連なる(下地図)。

伊通満族自治県

この配置にはもちろん意味があり、一直線に敷かれた街道ルート沿いに立地していた。

この街道は、金王朝下の 上京会寧府(上京路の首府を兼務。今の 黒竜江省ハルビン市阿城区白城)から、 中都(今の北京市)へと至る幹線道路の一つで、当時、榆樹市新庄鎮の 城子村古城九台区城子街鎮の 城子街古城双陽区奢嶺街道の 姚家城子古城、伊通県の 城合店古城、前城子古城、前大屯古城、宋家洼子古城、大営城子古城、城子村古城を経て、咸平路咸平府(咸平路と府の首府を同時兼務。今の 遼寧省鉄嶺市 開原市老城鎮)に至るルートが形成されていた(下段地図)。

特別に重要な幹線道路でもなかったが、歴史上、その存在が知られる事件としては、 1153年、金王朝の第 4代目皇帝・海陵王(完顔亮。1122~1161年)が、王都を上京会寧府から中都へ遷都する際に、大量の人馬、家畜、物資などがこの道を通過させた一件であろう(下絵図)。

伊通満族自治県

なお、これらの古城群が具体的にいつどのように築城され、どれくらいの人口規模があり、いつ破却されたのか、全く史料に残されていない。モンゴル帝国は、攻略した敵の城塞を破壊する習慣があったことから、おそらく、モンゴル軍との抗争中に廃墟にされたと考えられている。

もしくは、地震などの天災にみまわれた、という意見もある。
『元史』によると、1288年11月、咸平府エリアで大地震が発生した記録が残されており、咸平府一帯は壊滅的な被害を受けた、と言及されている。


6城のうち、城合店古城、前城子古城、前大屯古城の 3城は、遼王朝が渤海国を滅ぼし(926年)、渤海遺民らが南へ強制移住させられた後の空白地帯に、女真族らが入り込んで自らの居住区とした際(以降、生女真と通称される。契丹族化しなかった人々。逆に、契丹族化した女真族は、熟女真と称して区別された)、城塞集落の一つとして築造されたもので、かなり時代が古いという。

最終的に、彼らが台頭して遼王朝を滅ぼすわけだが、その生女真族による金王朝の治世時代、これらの城塞群には、猛安(官職名。当初は千夫長、後に从四品クラスを意味した。軍務、訓練武術、農業奨励などを担当)や、謀克(官職名。当初は百夫長、後に从五品クラスを意味した。軍籍管理、訓練武術などを担当)らが配置されていた。

なお、この時代、これら三城は 上京路(路役所は、今の 黒竜江省ハルビン市阿城区白城に開設) に統括される一方、西半分の宋家洼子古城と大営城子古城、城子村古城は、咸平路(路役所は、今の 遼寧省鉄嶺市 開原市老城鎮に開設)の行政区に組み込まれていた。下地図。

伊通満族自治県


 城子村古城
伊通県三道郷城子村の北部に位置し、大きな岩盤の丘陵上に築城されていた。東面と西面の長さは 340 m、南面と北面は 300 mという、長方形型での設計であった(全長は 1,280 m)。金代王朝時代に築城された北女真族の城塞集落だが、今日までほぼ完全な形で現存する貴重な古城遺跡である。

四方には角楼が設けられていたが(直径 11 m、高さ 2.5 mの高台。下写真は参考資料)、馬面や瓮城は増設されていなかった。また、城門(門幅 10 m)が 2ヵ所設置され、1つは北面城壁の西端から 100 mの地点(門幅 10 m)に、もう 1か所は南面城壁の東端から 50 mの地点に位置していた。四方には外堀が掘削されており、今日でもはっきりとその遺構が視認できる。

現在、古城内はすでに全面が耕作地となっているが(民家も数軒あり)、この敷地中央部には、四方よりもやや高い盛り土の場所が残されており、当時、何らかの建物があったと考えられている。城内からは青レンガ、布紋瓦、陶瓷器などの破片が複数、発掘されている。

伊通満族自治県


 大営城子古城
伊通県大孤山鎮万福徳村大営城子屯(村)の北部に位置し、敷地内からは、数多くの レンガ瓦(全面灰色で、内面には全て布紋が彫刻されていた)や、派手な色彩の 陶瓷器(泥質灰陶、泥質紅陶、夹砂紅陶など)の破片が多数、発掘されている。
東面と西面の長さは 380 m、南面と北面は 310 mという長方形型で設計され(全長 1,380 m)、東面と西面の城壁中央部に、 1か所ずつ城門が設置されていた。他と同じく金代に築城されたものだが、現在、遺構は非常に破損が激しく、わずかに高さ 1 mほどの北面城壁の土塁が残っているだけである。

 宋家洼子古城
伊通鎮中心部に最も近い、東宋村后沈家洼子屯の西部に位置しているが、保存状態は最悪で、基本的には何らの城壁遺構も残されていない。南面城壁の外にわずかに溝が残っており、外堀跡と考えられている。
東面と西面の長さは 250 m、南面と北面は 330 mという長方形型で設計されていた(全長は 1,160 m)。発掘調査により、青レンガや布紋瓦、乳白釉碗などが出土している。住民らの言い伝えによると、敷地内からは鉄鍋や銅銭、井戸跡なども掘り出されたことがあるという。

遼王朝時代の末期、北女真部が南へ大移動した際、この伊通県一帯に居住した一派は、移燉益海路族と通称されることとなる。「移燉」とは、「伊敦」「伊屯」「伊通」とも書き、女真語(満州族語)を中国語訳したもので、「荒々しく広大な」河川という意味であった。この時に築城された城塞集落「宋家洼子古城」は、まさにこの伊通河沿いに立地していたわけである。
なお、「益海」とは、雅哈女真族語(満州語)で「火がつかない」を意味する単語で、すなわち、死山となっている 火山(今の大孤山)を指していた。先述の「大営城子古城」は、まさにこの大孤山の山裾に建造されていた。同じく移燉益海路族の城塞集落であったと考えられている。

伊通満族自治県

 前大屯古城
伊通鎮東尖山村前大屯にある城塞遺跡で、敷地内からは、布紋瓦、陶器口沿、陶器などの破片が出土している。住民らの伝承によると、かつては 鉄鍋、銅鏡、銅碗、井戸跡なども発見されたこともあるという。
東面と西面の長さは 300 m、南面と北面は 360 mという長方形型で設計され(全長は 1,320 m)、小規模な城塞であったが、城門は 5ヵ所も設置されていた。すなわち、南面城壁の中央部に 1つ、東面城壁の中央部と北半分の途中に 1つずつ、西面城壁の中央部と北半分の途中に 1つずつ、があったという(いずれも、門幅 8 m)。また、東面、西面、南面の三方向には、外堀が掘削されていた。

 前城子古城
新興郷前城子村前城子の北部に立地し、敷地内からは青レンガ、布紋瓦、陶瓷器などの破片が出土している。
一辺の長さ 450 mの正方形型で設計され(周長 1,800 m)、西面城壁に城門が一か所、設けられていた。

 城合店城跡
伊通県新興郷遠大村の城合店屯の東部に位置し、北西から南東へと下り坂となっている丘陵斜面上に築城されていた。
一辺 480 mのひし形で設計され(全長 1,920 m)、城塞の四隅には角楼が増設されていた。また、四方の城壁面にはそれぞれ馬面(横幅約 100 m)が装備されていた。現在、南西と北東の両隅に角楼跡が完全な形で保存されており、その城壁上にいずれも馬面があったことがはっきり見てとれる。

敷地内の発掘調査の結果、中央部の一か所、特に四方よりやや高くなっている高台の場所に、密集して遺物が発見されているという。それらは、泥質紅陶片、青レンガ、布紋瓦、瓦当などの残骸や、灰青色の花紋模様が装飾された瓷器の破片などであった。地元で、金馬駒の伝説が言い伝えられている場所でもある。



 【 伊通満族自治県の 歴史 】

早くも 7000年以上前、伊通県下の景台鎮昌盛村一帯に古代人類が生息していたことが、発掘調査により確認されている。
遼王朝、金王朝時代までの間に、居住人口は着実に増加し、城塞集落を形成して各地に割拠するようになる。目下、伊通満族自治県下だけでも、ここまでの時代の遺跡が 38ヵ所ほど現存している。

伊通満族自治県

中原が南北朝時代の動乱に明け暮れる中、現在の伊通県一帯は、勿吉(靺鞨)白山部のテリトリーに属していた。白山靺鞨族は、だいたい今の牡丹江上流の吉林省延辺一帯、松花江の水源地帯一帯に割拠し、早くから高句麗に服属したことから、現在の伊通県エリアも高句麗の版図下に組み込まれることとなった。上地図。

唐王朝と高句麗戦争では高句麗側について戦うも、668年に高句麗が滅亡すると、多くの残存部族が唐王朝に服従する。その白山靺鞨族の末裔の一人が始祖・大祚栄(?~719年)で、唐代中期に渤海国を建国するわけである。
この渤海国の治世時代、五京十五府六十二州の行政区が整備されると、今の伊通県エリアは中京顯徳府栄州に統括された。

伊通満族自治県

契丹族が渤海国を滅ぼすと、東丹国を建国する(947年に遼王朝へ改称)。この時、伊通県一帯は 満州族扈倫四部(海西女真族)の一つである、輝発部に属した(上地図)。

1105年、女真族完顔部リーダーの 完顔阿骨打(1068~1123年)が遼王朝を滅ぼし、金王朝を建国すると、伊通県一帯は東京咸平路に統括された。

元代、地方は実行行省制が採用され、全国で 11行省が設置されると、遼陽行省下で一府七路が新設される。この時、開元路下の咸平府(今の 遼寧省鉄嶺市 開原市老城鎮)の行政区に統括された。

伊通満族自治県

明代初期、元代の統治体制が廃止されると、中国東北部に奴児干都司が設置される。
今の伊通県エリアは、奴児干都司下の 塔山衛、勒克山衛、呼蘭山衛、烏爾堅山衛、伊敦河衛、雅哈河衛、烏蘇衛、穆蘇河衛、呼魯河衛などに別れて、統括されることとなる(衛所の官吏は、地元部族や族長が 世襲で担当したため、実質的に、明朝による地元の伝統的社会構造の追認、というスタイルであった)。上地図。

明代末期、海西女真族(満州族扈倫四部)が台頭してくると、葉赫、哈達、輝発、烏拉の女真族四部にまとめ上げられていく。この時、現在の伊通県域の大部分は、葉赫部のテリトリーに属し、南東部の一部のみ、輝発部に属した。
1616年、建州女真族の族長・ヌルハチ(1559~1626年)が後金朝を建国する。1619年には葉赫部の女真族を屈服させると、今の伊通県全域も建州女真族の支配下に組み込まれる。

清王朝の治世下の 1681年、京師(今の北京市)から 吉林 へと通じる街道(驛道)が整備されると、今の伊通県域が、ちょうど 盛京(今の遼寧省瀋陽市)から吉林への途上に位置したため、蒙古霍羅、葉赫、赫爾蘇、阿勒坦額墨勒、伊巴丹の 5つの 驛站(駅伝拠点)が開設されることとなる。

伊通満族自治県

1728年、現在の伊通県エリア内に、鑲黄旗、正黄旗の 2つの駐屯基地が開設される(永吉庁に帰属)。
1814年、伊通河分防巡検(伊通河巡司)が新設されると、吉林庁 に統括される。なお、この時、初めて公的に使用された「伊通」の地名は、付近を流れる伊通河に由来していた。それは地元の満州族の言葉で、「広大で荒々し河川」を意味する単語を漢語訳したものという。

1882年、伊通州が新設されると、州役所が今の伊通県中心部に開設される(吉林府に属する)。
1909年、伊通州は直隷州へ昇格されるも、翌 1910年に散州へ再降格される(西南路道に帰属)。

中華民国が建国された翌 1913年3月、全国で州制が廃止され県制へ統一されると、伊通県へ改編される(長春道に帰属)。県公署が開設され、県長官が県知事へ改称される。 1929年2月、県公署が県政府へ、県知事が県長へ改称される。

伊通満族自治県

1932年、満州国時代に入り、伊通県公署が開設されると、吉林省に帰属される。
1941年1月1日、伊通県と 双陽県 が合併され(上地図)、通陽県が新設されると、県公署は伊通街に開設される。

終戦の翌 1946年3月15日、通陽県が廃止され、伊通県と双陽県へ再分割される。同年 5月20日、国民政権により、伊通県役所が輝南県内へ移転されるも、翌 1947年10月1日に共産党軍が占領すると、伊通県役所は再び伊通県城へ戻される(引き続き、吉林省に帰属)。
1983年8月、伊通県は 四平市 に組み込まれる。1985年2~12月の間、一時的に公主嶺市側へ移籍されるも、再び、四平市の管轄下に戻されることとなる。1988年8月30日、伊通県が廃止され、伊通満族自治県が新設される(四平市に帰属)。現在、吉林省下で唯一の満州族による自治県となっている。


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