BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~


吉林省 長春市 双陽区~ 区内人口 35万人、 一人当たり GDP 80,000 元(長春市 全体)


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  東営城子古城(遼王朝&金王朝時代。双陽区新安鎮向陽村向陽坡子屯)長春市政府指定史跡
  姚家城子古城(遼王朝&金王朝時代。双陽区舍嶺郷双榆村)長春市政府指定の史跡
  二道梁子遺跡(遼王朝&金王朝時代。双陽区二道梁子煤矿レンガ厂)長春市政府指定の史跡
  南城子古城(遼王朝&金王朝時代。双陽区太平鎮長山村)吉林省政府指定の史跡



早朝 7:30、長春鉄道駅前の黄河路沿いの中心バスターミナル から、双陽区行 377D路線バスに乗車する(快速バス)。
この快速バスは、377路D線で、長春駅前 ⇔ 神鹿嶺公交旅游専用ラインとして、南郊外の双陽区への観光客向けバス路線となっている。
定時発車(乗車時間は、約 2時間)。 6:30、7:00、7:30、8:30、10:00、11:00、12:00、14:00

なお、逆に神鹿嶺から長春市内への復路の発車時刻は下記の通り。うまく夕方か、夜便に乗車できれば、各駅停車の路線バスよりは早く帰着できる。
6:30、7:30、8:30、9:30、14:00、15:30、16:30、19:10

なお、各駅停車の K377路線バス(東大橋街 ⇔ 双陽客運東バスターミナル)は、地下鉄「東大橋駅」南側から発着しており、6~10分間隔で運行され(5:30~19:00、8元)、双陽区までは全く同じルートをたどるので、快速と各停便をうまく組み合わせて移動したい。

途中、バス停「奢嶺」で快速バスを下車し、ここでバイクタクシーをチャーターする。奢嶺公路を東進し、まずは姚家城子古城と東営城子古城の 2城跡を訪問してみる(下地図)。

長春市双陽区



姚家城子古城

渤海国を滅亡した契丹族により遼王朝が建国されると、旧渤海国遺民らの多くは遼陽の南部へ強制移住させられる中、下層部族民らはそのまま居住を許され、遼王朝の支配下で過酷な生活を強いられることとなった。彼らは、この時代から女直族、特に生女真族と呼称されるようになる。時と共に、各地に点在した女直族の中から、強弱の差が生じるようになり、現在の 黒竜江省ハルビン市 一帯に割拠した完顔部族の一派が特に台頭してくる。
なお、その急拡大には、困窮した近隣の部族集団を吸収合併することで、相乗的に土地と人員を急増させた背景があった。こうして、完顔部族は南へ南へと勢力を拡張させる中で、現在の長春市双陽区にまで至ることとなる。完顔部族の中でも、この最南端の地に割拠したのが、金王朝建国の名臣・完顔類室(1078~1130年)の祖父・恰魯直と父・白達で、彼らは自らの本拠地を双陽河と石頭河(今日の双陽区に流れる石溪河)との合流地点に定める。こうして現在の 長春市榆樹市 を流れる阿什水(今の阿什河)、飲馬河、雅撻瀾水(今の双陽河)など、七つの河川流域をテリトリーとしつつ、それぞれに下部部族を棲み分けさせたのだった。この七水部の部族長を白達が務めたわけだが、後に 21歳で成人した完顔類室へ継承させることとなる。

完顔類室は、完顔部族の大首長だった完顔阿骨打(1068~1123年)が遼王朝に対し反旗を翻して挙兵すると、これに追随し、1118年に中国東北地方最大の拠点だった 黄龍府城(今の長春市農安県)の攻略という大功を挙げる。金王朝を建国し、初代皇帝となっていた阿骨打から絶大な信用を得た完顔類室は、王都となった黄龍府城近郊の領地を下賜され、その守備を一任される。 1130年に類室が死去すると、その一族は引き続き、黄龍府(1140年、済州へ改編)郊外に居住し続けたという。

長春市双陽区

なお、完顔部族が現在の双陽区エリアへ進出してくる以前、この地方には東山を拠点とする曷蘇館部族が割拠していた。彼らは遼王朝により、旧渤海国遺民らと共に、遼陽の南側へ強制移住させられてしまった、と考えられている。彼らによって築城されていた城塞集落が、今日の双陽東山、及び、その南麓に残る古城遺跡の原型というわけである。彼らは当時からすでに高度な製鉄技術を有していたという。

現在の双陽区の東山から 20 km北にある姚家城子古城に関しては、遼王朝&金王朝時代に築造されたことは分かっているが、この曷蘇館部族時代に起源を有するか、後に南進してきた完顔部族の手によって築城されたものかは、不明という。いずれにせよ、姚家城子古城はその規模から、当エリアに割拠した有力部族の集落だったことは確実視されている。
史書によると、完顔類室のコアな親族は雅撻瀾水(今の双陽河)の沿岸に居住していたようで、この姚家城子遺跡からは距離があるため、直接的な親族メンバーが居住していなくても、配下の有力部族メンバーが割拠していたのかもしれない。

双陽区奢嶺街道の双榆村姚家城子屯村の北へ続く、細長い道を通り抜けていくと、「姚家城子遺跡」の石碑が目に飛び込んでくる。その背後には、一面、トウモロコシ畑が広がっている。この敷地内には、屋根瓦の破片が今でもたくさん散乱しており、いずれも遼王朝&金王朝時代の布紋瓦という。この布紋瓦は、制作の過程で、凹面に粗い麻布をあててデザインを施しているのが特徴で、そのまま焼いて固めており、この時代以降に多用される屋根瓦の一つである。下写真。
長春市双陽区

東営城子古城
双陽区新安郷向陽坡子屯に残る城塞遺跡で、遼王朝&金王朝時代のものである。双陽区内では大型の古城遺跡で、城壁の全長は 1,920 mにも及び、保存状態も非常に良好という。
南西から北東へと緩やかに下がる丘陵の頂上部に築城されており、東面と南面には平原が広がっていた。また、東へ 1kmの地点に双陽河があり、南から北へ向けて流れている。城塞の北外には、奢嶺へ至る郷道が設けられていた。

双陽区内の他の古城遺跡と同様、長方形型で設計され、現存する土塁城壁は、今なお 2~2.5 mの高さを誇り、馬面も 12ヵ所、残されている。現在、遺構の大部分は農地と化してしまっているが、外周の外堀跡がはっきりと視認できる点が、他では見れない当古城の特徴である。



見学後はすぐに元のバス停「奢嶺」に戻り、続いてくる K377路線バス(6~10分間隔。各駅停車)か、双陽区のローカルバス(101B番路線バス)で、終点のバス停「双陽客運東バスターミナル(下地図)」へ向かうことにした。

市街地に到着すると、ここで再び白タクをチャーターし、双陽大街を 10分弱ほど東進して東大橋へ行ってもらい、この東大橋から見える、双陽河の東岸にある東山を見学してみたい。この山頂に、かつて錫伯(シボ)王国の王都が開設されていたという。下地図。

この東山は、双陽区の中心エリアでは最も高い山なのだが、ぱっと見た印象は、平地に隆起した丘程度のものだ。しかし、山上に登ってみると、その眺望はすばらしく、双陽区中心部を完全に眼下に見渡せる。

長春市双陽区

続いて、南郊外にある二道梁子遺跡と南城子古城を巡ってみる(冒頭地図)。これらは錫伯王国下の城塞集落跡と考えられている。
本日訪問した遺跡のうち、この南城子古城だけが吉林省政府指定の史跡で、その他は長春市指定となっている。


現在、長春市双陽区内では 140余りの古代遺跡が確認されており、その中でも、遼王朝&金王朝時代の遺跡が 50近くを占めている。墓地遺跡(将軍古墓群など)、古城遺跡(南城子古城など 7ヵ所)、都市遺跡(東山遺跡ー上地図、二道梁子屯落遺跡 ー 長春市双陽区太平鎮二道村頭道梁子屯、殯儀館南屯落遺跡 ー 長春市双陽区雲山街道の園芸場村 など)は、いずれも「東山」を中心とする 50km圏内に分布する。
この「東山」の山頂には、かつて錫伯(シボ)王国という地方政権の王都が開設されていたことから、これらの遺跡群は、この王国に関連するものと考えられているわけである。

特に、古城遺跡に着目してみると、大規模なものは皆無で、城壁の全長が 2,000 m未満のものばかりであった。あくまでも、一地方の中心集落レベルの城塞都市であったと考えられ、特に河岸の要地に配置されていたことから、軍事拠点としての効用も重視されていたようである。


 南城子古城
双陽区中心部から 10km離れた地点にある、双陽区太平鎮長山村の長山小学の真南 500mに立地する。
東西、南北の土塁城壁が正方形型(各辺 500 m)に近い設計で築造されており、南面と北面の城壁の東端に、それぞれ一つずつ城門が設置されていた。北門は北東角から 180 mの場所に位置し、かつ瓮城まで増設されていた痕跡が確認されている。南門は、南東角から 121 mの場所にあった。両者ともに、横幅は 10 mほどのサイズで、城門の両脇にはそれぞれ馬面(約 1mほど城壁面より前面に突出する形)が対称的に増築されていた。また、城壁の四隅には、角楼があった痕跡も残されているものの、外周に外堀が掘削されていたかどうかは、確認できない状態という。

現在、高さ 1 m弱ほどの古城壁が 500 mほど残っているだけで、その全面が雑草に覆われており、城塞内部は、一面、トウモロコシ畑となっている(下写真)。古くから、地元農民らが遼王朝&金王朝時代の陶器類の破片や大量の建築資材の残骸を発見してきたというが、調査不足もあって、どの政権時代のものであったのか、未確認のまま放置されてきたという。学者らの推察では、地理的な近接性から、この南城子古城遺跡もまた、錫伯(シボ)王国の一城塞であったと考えられている。
目下、吉林省政府により、城内及び、城壁外 50 mの範囲が保護指定区画となっている。

なお、1984年の考古学的調査により、古城跡から 3000 m離れた賈家屯と山咀子に、遼王朝&金王朝時代の集落遺跡が発見され、さらに東面城壁から 2000 mの地点には、二道梁子遺跡が現存する。この他、南東 4500 mの将軍嶺屯にある、遼王朝&金王朝時代の大型墳墓も残されており、墓前には今も石人、石羊の各一対が残されている。


 二道梁子遺跡
二道梁子煤礦レンガ工場の北東部にあり、遺跡の規模は、東西幅 200 m、南北幅 100 mほどという。しかし、レンガ工場による土砂掘削で、相当にダメージを受けており、地表の大部分は大きく陥没してしまっている。
1980年4月、このレンガ工場が土砂を掘削中、地表から 30 cmの深さで、六耳鉄鍋、三足鉄鍋の各一つずつ、鉄鎌(草刈りカマ)が四つ、菜刀、鉄鍬、鉄鑿、鉄釿それぞれ一つずつを発見し、すぐに役所の文物部門へ報告されたことから、遺跡の存在が確認されたという。

双陽殯儀館南遺跡と錫伯国王城(東山)遺跡とも近接しており、その面積も 40,000 m2にも広がっていたことから、古城遺跡というより集落遺跡であったと考えられている。
この他、錫伯国王城(東山)の近郊には、后跨家屯古城、庄家屯古城、買家屯遼金遺跡などが点在しており、いずれも王都周辺の集落跡と目されている。


 将軍古墓群
南城子古城から南へ約 8kmの場所に立地する。
1980年に現地調査が行われた際、墓所の副葬品である石人と石羊が発掘される。それらの遺物が解析された結果、金王朝時代初期の女真族系貴族の墓跡ということが判明する。当時、この一帯が錫伯(シボ)王国の版図下にあったことから、この王国に関連する遺跡と目されている。
石人の方は、朝廷へ出仕するための正装姿で、両手を交差して胸の前に置き、手には笏板を持っている状態であったが、頭部が欠落して喪失されていた。これは、雕刻した石像を副葬品として埋葬する、金王朝時代の習俗に合致するもので、かつ、石像の正装姿から、士大夫以上の高級官吏のものであると類推されたわけである。

長春市双陽区 長春市双陽区


 錫伯(シボ)王国とは

錫伯国は、長春市南部を地盤とした小規模な地方政権で、金王朝時代の封国の一つであった。 1122年に建国されてから、明代後期の 1588年の滅亡まで、合計 466年間、存続していた。

かつて渤海王国時代、錫伯系(シボ族、シベ族)には四部族があったが、西方から契丹族が侵入して渤海王国を滅ぼすと、そのうちの二部族が契丹族に投降し、残りの二部族は嫩江中下流域へと逃亡し、隠棲することとなる。その後、契丹族によって遼王朝が建国されるも、200年後に女真族が台頭して遼王朝に対し挙兵すると(1114年)、遼王朝の拠点だった寧江州城の奪取に成功し、ここに王都を開設して金王朝が建国される(初代皇帝は完顔阿骨打。下地図)。

以降も、遼王朝から派兵された軍勢を悉く撃退した金王朝は、周囲の諸部族からの信用を勝ち取り、多くの部族が傘下に加わることとなる。それらの中に、遼王朝の配下に組み込まれていた錫伯系の二部族と、同王朝から迫害を受けていた二部族が大合流し(錫伯系四部族 ー 大黄頭室韋部族、小黄頭室韋部族、涅剌拏古部族、突呂不室韋部族)、また旧渤海国の残存遺民らも含まれていたわけである(1117年)。

長春市双陽区

翌 1118年、黄龍府城(今の長春市農安県)の占領に成功した金王朝は(上地図)、そのまま、ここに王都を移転させると、配下の女真人らをこの王都近郊へ大規模移住させる。この時、黄龍府城攻略の第一功労者だった完顔類室(1078~1130年)が万戸侯に封じられ、府城の守備を委ねられることとなった。
この時、完顔類室は初代皇帝・完顔阿骨打(1068~1123年)に対し、「黄龍府城の守備と王権体制を強化すべく、配下の各部族を扇状に各方角に居住させ、それぞれに持ち場を守備させていくことが効率的です」と進言すると、太祖もこれに同意し、順次、諸部族らを周辺エリアに配置させ、王都を取り囲む衛星群のように、棲み分けが調整されていくこととなった。各民族らは持ち場に定住すると、土地を開墾し、集落や農地を形成させていくわけである。

この一環で 1122年、いよいよ遠方に居住していた錫伯系の各部族にも、王都・黄龍府近郊への移住命令が下される。金朝からは大将の完顔昂(?~1142年。初代皇帝・完顔阿骨打の末弟)と呉克堯らが派遣され、兵四千余りを伴って、錫伯系四部族と一部の旧渤海遺民らを護送する形で、黄龍府下の大平原地帯へ誘導することとした。
この時、数千戸、数万人、及び数万の家畜が、綽爾河流域から出発し、渡嫩江や松花江などを渡河しながらの大移動となることから(下地図)、船の利用なしで凍結した河川を越えられる冬季に決行される。こうして、1122年厳冬期の過酷な集団移住作戦が強行されたわけだが、その道中、金軍の兵士らは移動中の部族民らに対し、かなりの残虐非道を働いたとされ、扱いに不満を募らせた一部は、徐々に隊列から離反していったという。その中には、新疆地方まで逃亡した大黄頭室韋部族らも含まれており、彼らは金王朝の手が及ばない、西遼王朝の耶律大石に帰順したと推定されている。
また他の錫伯系四部族のうち、涅剌拏古部と突呂部室韋部も集団離反してしまうも、金朝廷は彼らに制裁を加えず、そのまま去ることを許したという。このため、離反組は無傷で故郷に帰りつき、以前の生活へ容易に復帰できたとされる。この二部族は、以後も金王朝から報復攻撃も受けず、また遼王朝側へ寝返ることもしなかったことから、そのまま独自勢力として存続することとなり、後に「黄頭女直人」と通称されるようになる。
こうして錫伯系の三部族が離脱する中、残る小黄頭室韋部族と旧渤海国遺民だけが、無事に金軍の護送の下、王都近郊への移住に成功するのだった。

金朝廷は、小黄頭室韋部族の兵士の一部を通河に残留させた後、残りの部族の人々を、雅撻瀾水(今の双陽河)流域まで移動させ、ここに居住テリトリーを形成させることとした。

このエリアは、少し前まで、雅撻瀾水(今の双陽河)エリアに割拠した完顔類室配下の女真族系完顔部族が定住していたが、完顔類室は家屋や集落をそのまま残し、この一族メンバーを退去させる。こうして小黄頭室韋部族は、これらの集落地にすぐに入居することができたわけである。その集落の中の一つが、東山上に築城されていた木柵欄城で、後に、錫伯国の王都に定められるのだった。

なお、王都「錫都(喜都、蘇完城、蘇完顔城)」が、東山上に開設された事実だけは伝承されているが、未だに史料や考古学上の調査が進んでいないため、実際の位置は特定されていない。多くの学者が「長春市双陽区の東大橋から見える、双陽河の東岸にある高い山の頂上部」にあった、類推しているだけである。

長春市双陽区

この大移住の前後、錫伯系の小黄頭室韋部族を率いたのが古里甲氏で、この地に定住して以降、刷覘河の流域(「蘇瓦延」「蘇斡延」と呼ばれていた。現在の長春市双陽区や 吉林市 南西部エリア)を中心に、勢力圏を定めたのだった。錫伯王国の誕生である。上地図。
その後、古里甲氏は錫伯王国の国主として君臨し続け、さらに松花江から東遼河流域の空白地帯へと版図を拡大し、現在の 吉林市 永吉県、吉林市磐石市、吉林市樺甸市、四平市伊通満族自治県 の一帯をその版図下に組み込むほどであったが、その王国の歴史は、中国東北部の最大勢力だった女真族とのパワーバランスの中で、常に不安定なものであり続けた。

もともと女真族の王朝・金朝廷は、錫伯人が誇る高い戦闘力と生死を恐れない闘争心を、その戦力に利用することを最大目的としていた。このため、錫伯国から派遣された部隊は、常に金軍の最前線部隊に組み込まれることとなった。
当初、双方の取り決めにより、戦時に収奪した敵軍の戦利品に関しては、錫伯人と金軍兵士は全く同じ条件で分配されていたが、時と共に、錫伯人兵士の取り分が徐々に減じられ、錫伯国の兵士や中枢部は大いに不満を蓄積していくこととなる。さらに、もし親族が戦争中に死亡すると、その錫伯人の家族が遺体回収を願い出ても、金銭まで要求されるようになっていく。
こうして、犠牲を強いられる中で、経済的な不公平感も増大化していくと、ついに錫伯王国は全土を挙げて、反金で挙兵することとなる。史書で「1133年の乱(天会十一年の遂叛)」と言及される事件である。反乱の鎮圧を図った金軍は、一度、錫伯王国の土地へ侵攻するも、錫伯人によって撃退されてしまい、多くの死傷者を出したことから、力づくでの平定を断念する。こうして持久戦に切り替えた金軍は、山頂の王城を麓からひたすら包囲し続け、兵糧攻めを行うのだった。包囲から二年が過ぎ、王城で食料や武器も尽きてしまったことから、錫伯王国はついに金軍に降伏する。

この金王朝時代の初期、帝国の主要兵力は常に最前線へ投入されていたため、金朝廷は国内の反乱に対しては、ひたすら懐柔政策を採用し、投降してきた反乱者は一切の罪を不問としていた。このため、錫伯国もそのまま元の生活が保証されることとなる。最大のピンチを乗り切った錫伯王国は、そのまま金王朝下の封国として公認され、ますます発展を遂げていくわけである。

長春市双陽区

その後、12世紀後期に西方でモンゴル族が台頭し、金王朝が弱体化していくと(上地図)、錫伯国王・納斉布禄は混乱に乗じ、その勢力をさらに東西へ拡張させる。こうして、女真族系の強国として台頭し一帯を席巻するも、モンゴル帝国軍の前に惨敗し、納斉布禄はやむを得ず、モンゴル軍に帰順する。この時、多くの兵士や住民らが山間部へ逃亡してしまい、そのまま王国は滅亡することとなった(「林中百姓」のエピソード)。
この戦争中、洮児河と綽爾河の流域に居住していた錫伯人らの農業生産も甚大な被害を受け、そのまま多くの農地がモンゴル族のための牧草地へ変えられてしまうと、錫伯人の生活はますます困窮に追い込まれていく。

これに対し、まだまだ戦意の衰えていなかった納斉布禄は、モンゴル帝国が派遣してきた官吏を殺害し、再挙兵に踏み切る。
彼は妻の柳叶公主と男女双子の子を疎開地に残したまま、遠征先の弘尼勒城を占領し、扈倫国という王国を立国し、扈倫国王を称する。この時、納斉布禄は 40歳余りの年齢となっていたという。
その後も扈倫国の勢力をますます拡張させた納斉布禄は、数年後、使者を錫伯部族の集落地へ派遣する。しかし当時、錫伯族の疎開地の留守を託していた後継者はすでに死去しており、錫伯族も分裂状態に陥っていた。彼は自身の妻・柳葉公主と、その子の多拉胡其(約 20歳)を旧領地から呼び寄せると、そのまま多拉胡其に扈倫国の王位を継承させる。納斉布禄は隠居生活に入り、一人、輝発河谷へ向かい、生母を探す旅に出たという。しかし、二度と戻らず、どこで死去したのかも全く分かっていない。
そのまま旧本国だった錫伯王国領は没落し、他の部落によって占領されてしまうのだった。

このモンゴル人の支配時代、泰州などの祖先の地へ逃亡していた旧錫伯王国の人々は、綽爾河や洮児河の流域で、なんとか生活基盤を取り戻していくことになる。他方、人口が激減していた旧王国内でも、なんとか残存農業生産力で激減してしまった遺民らの生活が賄えるようになっていく(この時代、遼陽省の管轄域に組み込まれていた)。

こうして元代を通じ、没落していた錫伯部族であるが、明王朝によりモンゴル人らが駆逐されると、再び、錫伯王国の復活が許可される。下地図。
金代に錫伯国主であった古里甲氏は、モンゴル帝国下で、瓜勒察氏、もしくは卦勒察氏へ改姓して生き延びていたが、この明代に王国が復権されると、瓜爾佳氏と改称して王位に復権することとなった。

長春市双陽区

明代の錫伯王国に関しては、徐々に史書にその詳細が触れられるようになっていく。
この時代、錫伯王国の東端には蘇瓦延島城(今の 吉林市 松花湖湖心島古城遺跡)が、西端には伊通烏蘇城が配置されていたという。

東端の蘇瓦延島城であるが、混同江の川中に形成されていた三角州「蘇斡延島(刷煙島)」上に建造された城塞で、その城壁の全長は 500mという小規模なものであった。南面に城門が 1か所、設置されているだけであったという。島の最も標高の高い 320 m地点に築城されており、南北の長さは、38.4m、東西幅は 32mで、土塁城壁の高さは、2.6~3mほどであった。
元々、遼王朝時代に主な基礎的な城塞集落が築造され、金王朝時代に封国の一つとして配置された烏拉国の王都であった。当時は、烏拉城【 吉林省吉林市 永吉県烏拉街鎮】と称されていた。元代に入り、錫伯王国の版図下に組み込まれると、さらに城塞が補強されることとなる。このエリアには、引き続き、烏拉部族の末裔たちがたくさん居住していたようで、明代に入っても海西女真扈倫四部族の一勢力を成し続けていた。

また、西端の烏蘇城であるが、ちょうど現在の伊通満族自治県の中心部という低地に立地しており、当時、伊通河がエリア内を流れ、伊通盆地と通称されていた。ここには全長 1kmほどの城壁が建造され、城門前には外堀が掘削されていた。ちょうど烏蘇城の南外に烏蘇古辰路という街道が整備されており、そのまま納殷路の北部、すなわち、旧蘇完の地へ通じていたという。
この時代、現在の伊通県一帯では、この錫伯王国の民と、女真族蘇完部族が混在して生息していたという。

しかし、明代も後期に入ると、兀良哈三衛下のモンゴル族が南へと大移動を開始し、洮児河、綽爾河などのエリアをその勢力圏下に組み込んでいく。以後、錫伯族は、モンゴル系科爾沁部族の支配下に置かれ、そのまま王国は滅亡に追い込まれてしまうわけである(1588年)。下地図。

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同時期、中国東北地方南部では建州部女真人が台頭してくると(上地図)、1593年、ついに満州地方の覇権をかけ、南北の両勢力が激突することとなる。先述のモンゴル系科爾沁部族は、錫伯族、叶赫族、哈達族、烏喇族、輝発族、卦爾察族、朱舍里族、訥殷族ら 8部族を糾合し、建州部女真族を率いたヌルハチ(1559~1626年)を攻撃するも、九部族連合軍が大敗してしまう。世にいう、「九部の戦い」である。

この後、ヌルハチは中国東北地方の統一を最優先し、敗北者らに対し報復手段をとらず、自主的に服従した者は、満洲人とすべて同類として取り扱う寛容政策「佛満洲」を採用する。これにより、旧錫伯王国の多くの貴族らが投降することとなり、「錫伯(シボ)満洲」と通称されることとなる。彼らの中にはヌルハチから官位を授けられた者もおり、「錫伯(シボ)世管佐領」と呼ばれた。
九部の戦いの後、ヌルハチは帰順してきたモンゴル系科爾沁族らを、盟旗制度下で十旗として編成すると、錫伯族は、そのまま科爾沁モンゴル十旗に組み込まれる。この頃から、錫伯人の遺民らは、女真扈倫族と通称されるようになっていく。下地図。

なお、明代までは錫伯族と女真族系蘇完部族らが混在していたが(下地図)、最終的に女真族が清王朝を建国して中国全土を支配すると、女真族系蘇完部族の勢力が増し、民族同化が進んでいくこととなった。こうした関係上、現在の双陽区は、女真族の言語で「蘇完」、「酸焉」、「刷煙」、「蘇瓦延」、「蘇斡延」という呼称が定着されていった。
もともと、金王朝時代から続く錫伯族からは「刷水」と呼称されたエリアであったが、これをゆっくり発音すれば「刷」は二文字として発音できることから、「刷覘」や「刷煙」、「蘇湾」、「蘇完(双陽)」という漢字があてはめられるようになったわけである。最初は、河川名で使用され、そのまま地区名へと転用されていったと考えられている。
こうして、清王朝の史書には、蘇完地方にいた錫伯族の王家・瓜爾佳氏もまた、満洲族、女真族の一派とみなされるようになり、彼らが蘇完部族(下地図)の族長を兼ねたと、史書に言及されるようになる。

長春市双陽区

以降、旧錫伯(シボ)王国の国主だった瓜爾佳氏らは、ヌルハチの後金軍に組み込まれると、各地の戦線に駆り出されていくわけだが、その中でも、瓜爾佳家の出身だった瓜爾佳・鰲拜(オーバイ。1610?~1669年)が、特に有名である。彼は、ヌルハチの満州統一戦に初期から参加し、数々の戦功を重ねて、清朝の建国の功臣となっていく。しかし、後に鰲拜とその一族は康熙帝により粛清され、政界を追放されてしまうのだが。
以降も彼の子孫は継承され、清代中後期~現代までの間に、関氏、石氏、呉氏など、二十もの氏族へ分派していくこととなる。

なお 1692年には、科爾沁モンゴル十旗から、傘下の錫伯(シボ)族、卦爾察族、达斡爾族ら 14,458名の兵士が、清朝廷直属の部隊へ派遣された記録が残されている。彼らの主な任務は、「伊徹満洲」として各地の警備や守備を担うことであった。
特に、弓術に秀でた錫伯(シボ)族の武力は、清朝廷からも高く評価されていたようで、積極的に八旗軍に採用され、北の国境警備に配置されていったという。
古くから、錫伯(シボ)族は弓術の使い手として知られており、農業と共に狩猟生活も長らく営んでいたことから、弓術、馬術を男女ともに子供の頃から訓練された民族であった。シボ族の社会では「一馬三箭」と言って、百歩走るうちに三本の矢を放つ早業を誉めたたえる伝統があった。このようなシボ族の特技は、清朝の八旗軍の中にあって大いに重宝されたという。

長春市双陽区

上写真は、ウイグル自治区に残る、錫伯族の城塞遺跡。
この清代において、国境警備の必要性から、多くの錫伯族が西域方面へ移住させられ、辺境の守備兵として活用されている。こうした事情から、現在、ウイグル自治区内に錫伯族自治県が立地しているわけである。



古城見学後、双陽区中心部に戻ると、377D路線バス(快速)か、 K377路線バス(各駅停車)に乗り、パソコ作業&昼寝しながら 長春市内 まで戻ることにした。

本当は、このまま双陽区内の漢庭チェーンホテルなどに投宿し、すぐ西隣の四平市伊通満族自治県も訪問したかったが、市域が異なることもあり、鉄道、バスともにアクセスが最悪だった。伊通満族自治県内には、多くの遼王朝、金王朝時代の城塞跡が残っているわけだが、次回の訪問の楽しみにとっておくことにしたい(長春バスターミナルからだと、一日 8本、都市間バスあり)


 【 双陽区の歴史 】

この「双陽区」の地名は、エリア内を流れる「双陽河」に由来しており、かつて、蘇万河、蘇完河、刷煙河とも別称されてきた。
これらはいずれも満州語で、「水が黄色く濁った河川」の意という。この満州語の音が中国語化される中で、「酸」「出万」「刷煙」などの漢字が当てられると、この地に居住してきた女真族もまた、「蘇完部」や「酸部」と称されることとなったわけである。

そもそも、現在の双陽区エリアの歴史は古く、4000年以上前の新石器時代から古代人類の生息があったことが確認されている。これまでの発掘調査により、山河鎮、太平鎮、勸農山鎮などの郊外地区で、石刀、石斧、石紡輪、石网墜、石箭鏃などの遺物が多数出土しており、この時代から既に原始的な氏族系社会が確立し、狩猟採集、漁業、農耕、織物などの活動が行われていたことが分かっている。
長春市双陽区

その後、長らく肅慎族のテリトリーに属することとなる(下地図)。中国東北部の不咸山(今の長白山)の山岳地帯を中心に勢力を張り、吉林省全域のみならず、勃海国の北部から黒龍江沿いの全域にまで及んでいたという。その後、複数の分裂を繰り返し、満州族となっていくわけである(上図)。
彼らは、漁業や狩猟に適した山野と水辺、そして日当たりが良く、風を回避できる盆地を好んで、集落を形成していたという。

長春市双陽区

紀元前 841~前 231年の間、肅慎族は周王朝に帰順し、玄菟部の管轄下に組み込まれる。
紀元前 231年~ 210年までの 500年余りの間、勿吉靺鞨族と改称されるも、引き続き、前後漢王朝下の玄菟郡に統括されていた。その後、中原王朝の支配力が弱体化すると、中国東北部に建国された扶余国の遼東郡に組み込まれる。

581~618年の隋王朝の治世時代、勃海女真族のテリトリーとなり、社会は比較的安定して中原文化が多く流入すると、先進的な農耕技術などが伝播することとなる。また同時に、漢民族文化や中原王朝の諸制度も中国東北部へと流入してくると、このエリアの文化、経済は大いに発展することとなった。

618~907年の唐代には、勃海国下の扶余府に属した(下地図)。
900年ごろ、北方で契丹族が勃興し、耶律阿保機(872~926年)に率いられて各部族らを統一していくと、 916年、契丹国が建国される(947年に遼王朝へ改称)。この時代、今の双陽区エリアは、扶余府に統括される。下地図。

長春市双陽区

以降、1118年まで、遼王朝下の東京道に帰属し、黄龍府(今の長春市農安県)下の隆州に統括されていたが、同年に新たに勃興してきた金王朝に占領されると、以後、上京路隆安府に統括される。
この時代の城塞遺構として、東営城子城、姚家城子城など、十余りの遺跡が区内に現存する。いずれも、モンゴル軍の攻撃を受け、廃墟と化したと考えられている(1211年)。

モンゴル軍によって元王朝が建国された 1279~1368年の 90年間、今の双陽区一帯は、遼陽行中書省に、後に遼東道宣慰司開元路軍民万戸府に統括されることとなる。

1369年、モンゴル勢力を駆逐すると、中国東北部は明王朝の支配下に組み込まれる。1406年に蘇完河衛が新設されると、その衛所が蘇瓦延に開設される。
1411年には、中国東北部全域を統括する奴児干都司が新設されると、この配下の出万河衛(今の双陽区中心部に開設)の監督を受けることとなる。これ以降、今の双陽区中心部がこのエリアの政治、経済、文化の中心地となり、最大の集落を形成していくのだった。

こうした衛所の開設は、元来、女真族が有した伝統的氏族社会を、中原の中央集権体制に組み込むことを意図するものであったが、衛所の官吏らは地元部族や族長が世襲して 担当することとなり、実質的に地元の伝統的社会構造の追認による、間接統治スタイルであった。

長春市双陽区

1586年、ヌルハチが挙兵すると、建州女真族が統一されていく過程で、翌 1587年、蘇完部(今の 吉林市中心部 の西 90kmにあった蘇瓦延河の流域一帯に生息した)の女真族も、建州部のヌルハチ(もともと、建州衛所の世襲官吏を担う族長だった)に合流することとなる。こうして、次年の 1588年、蘇完部(酸部)の酋長である葛爾気唆児戈が、軍民 500戸(2,000~3,000人)を率いて正式に帰順すると、ヌルハチはその子の非英凍(費英東)を連合政権の大臣格として厚遇する。

そのまま 1590年代かけて、ヌルハチは中国東北地方の南部一帯に割拠していた地場部族の統一を成し遂げ、いよいよ 1616年、明朝に対し挙兵する。このタイミングで、蘇完部女真族が建州部に大移住し、徐々に同化が始まるのだった(下地図)。

長春市双陽区

最終的に 1644年、清王朝が建国されると、今の双陽区一帯は奉天府に統括される。
1676年に吉林将軍が新設されると、吉林府 の行政区に組み込まれる。

1690年ごろ、今の双陽区中心部に、吉林から 盛京(今の遼寧省沈陽市)へ至る街道沿いの三番目の駅伝拠点「蘇瓦延駅」が開設される。付近を流れる蘇万河(出万河)から命名されたという。下地図の →方向。
当時、これら各駅には、役人 1名、駅丁 50名、牛馬各 50匹が配置されており、早馬ネットワークを構築していた。今日の双陽区中心部の南西にある「放馬嶺屯」は、この時代、駅伝拠点(驛駅)で準備されていた牛馬などの放牧地があったことに由来している。

こうして役人が常駐する駅伝拠点が開設されると、蘇瓦延の集落はますます発展することとなった。もともと蘇瓦延は、地理的に 吉林府城 からも遠く、行政管理上は不利なロケーションであったが、このタイミングで巨大都市とのネットワークが整備されたわけである。

長春市双陽区

さらに時は下って 1910年3月9日、吉林巡撫の陳昭常(1867~1914年。1894年に科挙試験に合格後、各地に赴任して、1907年から琿春副都統、1910年から吉林巡撫となっていた。そのまま清朝が滅亡すると、1912年より吉林都督となるも、間もなく死去する)が清朝廷へ上奏し、吉林府の管轄区域は、全長 900~950 kmもの長大な距離があり(下地図)、あまり広大な上、吉林府城の北東にある舒蘭県城(今の 吉林省吉林市 舒蘭市)から、西端の 伊通 までの 140kmほどの間に県城もない有り様で、あまりに空白エリアが多すぎることを警告する。街道(驛道)沿いでは、駅伝拠点や集落が点在しており便利ではあるが、あまりに行政統括上、非効率であるため、南端の双陽河エリアに新たに県役所が開設されることとなる。これが「双陽県」で、元々開設されていた駅伝拠点「蘇瓦延」の発音から生成された漢字名という。

同年5月22日、文信が初代・双陽県長官に任命されると、7月20日に当地に着任してくるも、この行政区はまだまだ、南北の長さが約 70km、東西幅は約 45kmという広大なものであった。各地方を社、保、甲の小規模単位に区分けすることからスタートするも、間もなく清王朝が滅亡することとなるわけである。

長春市双陽区

1912年に中華民国が建国されると、県長官が県知事へ改編される(1929年に県長へ改称)。
1931年、日本が満州事変を起こし、満洲国を建国させると、日本の間接統治を受けることとなる。双陽県域は当初、変更が加えられなかったが、 1941年、双陽県と西隣の 伊通県 の合併が進められ、両者の地名から一つずつとって「通陽県」と命名される。県役所は、伊通県の中心部に開設される。

1945年9月3日に日本軍が投降すると、国民党政権が通陽県を再分割し、同年 10月に陽春県と命名するも、翌 1946年5月に再び、双陽県へ戻される。
共産党中国時代の 1952年冬、長春市に編入される。1955年12月8日に「双陽区」へ改編され、今日に至る。


 円通寺
双陽区の北山(地元では「龍頭山」と称される)の、南斜面上に立地する寺院であるが、宗教活動の場所だけでなく、区内でも有名な観光地の一つとなっている。
特に必見スポットは、1908~1913年8月にかけて建設工事が進められた霊岩閣(俗称:北大閣)で、満州族の伝統的な建築物という。しかし、1917年に勒令により、いったん破却されてしまい、今はわずかに東側の建物だけが残るのみとなっている。
1994年3月18日、吉林省政府によりその跡地に霊岩閣の再建が決定され、さらに中央部に北山公園も整備されることとなる。この時、再建された円通寺の敷地面積は 4ヘクタールにもなり、建物面積は 4,000 m2であったという。
霊岩閣の本来の姿が参考にされ、牌楼、山門、鐘鼓楼、天王殿、大雄宝殿を主体として、それらが自然の地形を利用して、斜面上に配置されている。特に大雄宝殿の床面積は 1,150 m2にもなり、その高さは 26.69 mもある。これは現在、中国東北地方で最大の建築物となっている。



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