BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~


吉林省 長春市 榆樹市~ 市内人口 85万人、 一人当たり GDP 80,000 元(長春市 全体)


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  榆樹県城(孤榆樹屯城、伯都訥庁城、榆樹直隷庁城)
  山泉城跡(遼王朝&金王朝時代。榆樹市恩育郷新勝村)吉林省政府指定の史跡
  城子古城(遼王朝&金王朝時代。榆樹市双井郷城子屯)長春市政府指定の史跡

  哈拉海古城(遼王朝&金王朝時代。榆樹市先鋒郷城子村后城子屯)長春市政府指定史跡
  十八盤遺跡(漢時代。榆樹市五棵樹鎮龚家村十八盘屯)長春市政府指定の史跡
  東崗子遺跡(遼王朝&金王朝時代。榆樹市秀水鎮劉芳村)吉林省政府指定の史跡
  大坡古城(遼王朝&金王朝時代。榆樹市大坡鎮大坡村大坡屯)吉林省政府指定の史跡
  朱家橋子遺跡(遼王朝&金王朝時代。榆樹市大坡鎮城南村)吉林省政府指定の史跡
  大坡石墓群(後漢、唐朝、渤海国時代。今の 榆樹市大坡鎮)

↓ 遠い
  曹家屯遺跡(遼王朝&金王朝時代。榆樹市保寿鎮曹家村)吉林省政府指定の史跡
  前太平遺跡(金王朝時代。榆樹市青山郷岳家村)長春市政府指定の史跡
  墩台遺跡(遼王朝&金王朝時代。榆樹市新庄鎮墩台村)吉林省政府指定の史跡
  遼金古城遺跡(今の 榆樹市新庄鎮城子屯西)
  榆樹城子古城(遼王朝&金王朝時代。榆樹市五龍郷前榆樹城子屯)長春市政府指定史跡
  古化石古城(今の 榆樹市新立鎮)



投宿中だった長春市徳恵市内の徳恵公路客運バスターミナルから、榆樹公路客運バスターミナルまで、都市間バスで現地入りした(7:30発の一日 1本のみ。25元、所要時間 2時間半)。下地図。

もしくは、徳恵鉄道駅 から普通列車で、榆樹駅を目指すこともできる(7:50発 → 9:46着。7.5元)。車内では 2時間弱も過ごすことになるので、パソコンを持参して移動することにした。駅下車後、先に帰路の乗車券(17:56発 → 19:59着。8.5元)を買っておいた(帰路の都市間バスは終了しているので、列車しか方法がない!)。

駅を出ると、まずは北へ 1.5 kmにある 榆樹市博物館(三盛路沿い)を訪問する。市街地の西端に位置していた(下地図)。

長春市榆樹市

続いて、市街地を横断する形で、東端を目指す。この東半分が、かつての古城地区というわけだった(上地図)。

城郭都市時代の土塁城壁や城門は全く残されていないが、その記憶は現在の地名や路地名にはっきりと刻み込まれていた。
北門村、衛前胡同、城濠路、北勝一胡同、北勝二胡同、東門一胡同、東門二胡同、東勝胡同、東門胡同、東門村、華西一胡同、承恩街、米蘭胡同、南門村、中城路、城南街、市場街、鐘榆路 など。

長春市榆樹市

上写真は、現在の 榆樹市培英小学(下地図)附近にあった、魁星楼。今は現存せず。

長春市榆樹市

なお、かつての県城は長方形型で設計され(南北 1,550 m、東西 1,200 m)、城内のメインストリートは今の榆樹大街で、これを中心に東西南北に町が形成されていた。その 4方向それぞれに、一か所ずつ城門が配置されていた(上地図)。

南門(下写真)は、現在の榆樹客運バスターナルの北東、県新華旅社の西側に位置していた(向陽路と榆樹大街との交差点)。北門は、今の 福順香紙業(かつての 県扑克原紙工場)の北西壁の端っこの西面にあったという。東門は、かつてあった柴油機工場の南大門前の、坂道を下だった辺りに立地し、西門は、榆樹市第四小学的の北西壁の端っこの北面に設置されていた。上地図。


1825年以降、伯都訥庁(伯都訥新城に開設 ー 今の 吉林省松原市 寧江区新城郷)の行政区内でも、農地解放と屯田が許可されると、多くの漢民族らが移住し、「孤榆樹屯」という集落が形成されることとなる。
1876年12月3日、この集落地に王洛十の率いる 60名ほどの山賊が襲撃してくると、町は大損害を被る。あわせて、当時、伯都訥庁配下の 出先機関「巡検衙門(主に警察業務を担当)」の役所施設も全焼させられたという。

翌 1877年、多大な損害を受けた教訓から、集落内の名士や豪商らが資金を出し合い、集落地を取り囲む外堀と城壁の建造が着手される。城壁の四隅には、それぞれ小規模な砲台も増築された(その後、さらに 4つの砲台が追加建設される)。完成された城壁の全長は 5,233 m にも至り、南北幅が 1,550 m、東西幅が 1,200 mの長方形型で設計されていた。
また、各四方の城壁面には城門が設置され、それぞれ東門は 迎旭門(朝日が昇ることを出迎える意)、南門は 向陽門(下写真。陰陽五行思想の中にある一説「南を丙丁火(火属陽)となす」から命名)、西門は承恩門(王都・北京 がある方角。皇帝への忠義の意)、北門は 星拱門(北極星を警護するかのような存在感がある北斗七星を象徴)と、命名されることとなる。
あわせて、この城壁の四方には外堀が掘削され、その両岸には合計 3,202本もの榆樹の木(シベリア・ニレ)が、約 3 m間隔で植樹され、外敵による外堀や城壁の破壊を防止する工夫が凝らされていた。

中華民国時代に入った直後の 1914年、四城門が土壁造りと木造から、レンガ積みへ大規模改修される(下写真)。
この時の工事により、四城門はいずれも同じデザインに統一され、大屋根を持つ 1階建ての小屋が城門上に設置されることとなるわけだが(下写真)、城門上の見張り台や凹凸壁、城門下にあった守備兵のための宿舎などは、四者四様に異なっていたという。

長春市榆樹市

1931年、満州事変を経て、日本軍がこの榆樹県城をも占領した当時、県城の外周に植樹されていた シベリア・ニレの木々は、すでに五十年以上が経過しており、いずれも根元の直径が 40~50 cm、中には 50~60 cmほどに成長している木もあり、また高さも 10 m以上にもなっていたという。木々は天を覆い隠し、多くの日陰を作っていた、とされる。

この日本統治時代にも、数度にわたって榆樹県城の外堀汚泥掃除や水路清掃が手掛けられ、城郭遺構が大切に維持されていた。なお、この外堀の両岸に植樹されていたシベリア・ニレの木には、電線が通され電柱のように使用されていたが、結局、送電用には使用されず、主に深夜に外堀を渡ってこようとする侵入者を阻止するための、抑止的設備として残されるだけとなる。

また、清代後期の築城から継承されてきた四つの城門であるが、城門上にあった守備兵のための宿舎は、日本統治下では警察派出所に転用されていた。
城門の通用口は、高さ約 3 m、横幅約 5 m、奥行き約 5 mの規模で、現在の大型車でも通行可能なサイズであった。その城門の外面には、厚さ 10 cmの木製の大きな城門が設置され(観音開き式)、直径 4 cmもの鉄製の鎖とガチョウの玉サイズもある鉄栓が装備され、頑丈に施錠される設計となっていた。城門の開閉は不規則で、日の出とともに開門され、日の入りと共に閉門される仕組みであった。曇りや 雨天(雪も含む)の際は、守衛の警察官の独自判断により、適宜、開閉が実施されていたという。緊急事態に際しては、昼間であろうと門を固く閉じ、鉄の鎖や電線を使って、強固に施錠することとなっていた。

なお、これら四城門に配置された警察派出所は、こうした城門管理以外にも、それぞれの担当管轄区域が決められており、定期的に巡察していた。当時、城壁の内外には、二つの大きな環状道路が設けられており、それらは 4区画に別れて、この城門警察によって管理されていた(道路の片側には木々が植樹されていた)。各道路端に木製の巡邏箱が設置され、見回りの警察官がここに至ると、小箱を開けて自身の名前を箱内の巡邏表に記名し再施錠することが、日々の公務の一環であったという。

長春市榆樹市

ただし、この四城門に駐在した警察官らは、当時、かなり庶民から忌み嫌われる存在であった。
城門を通行する庶民らに対し、威張り倒した態度で接しており、経済犯の取締りを名目に、通行人の荷物を高圧的に検査していたという。庶民らは城内に住む親類などのために、肉や卵、米、麺類などの食料品を手持ちで持ち込んでいたにもかかわらず、都度、警察官らは執拗に難癖をつけることが常態化しており、ごくごく少量を除いて、課税や理由説明が必ず求められていたという。基本は、油モノを見つければ課税し、現金を見つければ尋問し、物品を見つければ没収、差し押さえしていたという。

特に厳格だったのは、南門と東門の派出所で、当時の人々から「平手打ち」警察所と称されていたらしい(南門は「周大巴掌」、東門は「程大巴掌」)。荷物検査の過程で、通行人らが少しでも不満を見せたり、言い争いになると、警察官らは容赦なくビンタをくらわせるか、クツで殴りつけるのが日常となっていた。これらの暴力は相手が謝るまで、さらに相手が警察官の決定を飲むまで続けられ、相手が納得すると、笑いながら処理して通行が許可されていたのだった。



さらに、20 km北の山奥にある「榆樹市恩育郷新勝村」まで、白タクで往復してみる(下地図)。

ここには、遼王朝&金王朝時代に利用された城塞「山泉城跡」が残っており、現在、吉林省政府から史跡指定を受けている。高さ 2~3 mの土塁城壁(底辺部分の厚さは約 9 m、頂上部分は 2 m)が、ほぼ正方形型ではっきりと残存する(東面 390 m、西面 395 m、南面 405 m、北面 390 mの、全長 1,580 m)。
特に、東面土塁と北面土塁はほぼ完全な形で現存するも、西面土塁は、南側 60 m分が崩落している以外、同じく良好な状態で保持されている。南面土塁に関しては、 200 m分と 120 m分が断片的に残っているだけであった。また、かつて土塁壁の四隅には角楼が設けられており、現在、西南端の角楼跡が喪失されているものの、その他の三面の保存状態は良好という。なお、南面土塁の東西両端に、城門が 2ヵ所設置されていたというが、一度も発掘調査は行われていないため、詳細は不明という。

あわせて、その道中の榆樹市双井郷城子屯にあるという、城子古城も訪問してみた(下地図)。

長春市榆樹市

続いて、そのまま西郊外、南郊外も訪問してみる(下地図)。 17:56発の普通列車までに榆樹鉄道駅に戻ればいいので、かなり広範囲を巡ってみることにした。

高速道路 G1015沿いを西進すると、まず、哈拉海古城(榆樹市先鋒郷城子村后城子屯)に至る。下地図。

哈拉海古城は、榆樹市先鋒郷城子村の東側にある、后城子屯のやや北西 20 mに位置する。東面土塁と西面土塁がそれぞれ 365 m、南面と北面の土塁壁が各 420 mという、全長 1,570 mの城壁に囲まれた、長方形型の城塞集落遺跡である。

遼王朝~金王朝時代、中国東北地方では大小さまざまな戦争や紛争が頻発しており、軍事目的のために堅守な地形を利用して、数多くの城塞が山頂に築城されていた。こうした時代背景にあって、平坦な 松花江(当時は、鴨子河や混同江と通称されていた。下地図)の平原地帯に築城されていた哈拉海古城は、非常に特殊が存在であった。一帯は肥沃な土地柄で、耕作にも非常に適していたことから、女真族の定住集落地が形成されていたと考えられている(生活用品類が数多く出土している)。周辺地域の都市との交易で繁栄したようであるが、チンギス・ハン率いるモンゴル軍が金王朝を征服した際、大軍が各地の城塞集落を蹂躙する中で、この哈拉海古城も歴史の中に消失されてしまった、と考えられている。

長春市榆樹市

古城遺跡内部では、今でも屋根瓦の破片がたくさん散乱しており、かつて建物が密集して立地していた証左となっている。
国共内戦が終結した直後の頃、この地を大嵐が襲った際、古城遺跡の土中から大量の鉄鏃、銅銭などの、遼王朝&金王朝時代の遺物が出土したという。直後より、住民らの無法採掘がはじまり、それまではっきり残存していた土塁城壁や点将台などの遺構も破壊され、消失してしまったらしい。この「点将台」の土丘であるが、面積 8,000 m2もの規模で今も痕跡自体は残されている。それが、城郭集落遺跡の北東端 1 km離れた場所にある、地表から 10 mほど盛り土されたポイントという。軍事教練や戦闘出陣の折、将軍クラスが臨席した高台跡のあった場所で、この存在から当城塞集落が単なる城郭都市だけでなく、軍事上の拠点でもあった証拠と考えられている。

長春市榆樹市 長春市榆樹市

現在は、長春市政府により史跡指定を受けた旨を示す石碑が残されるのみとなっており(上写真)、普通に道路を往来しているだけでは視認できないほどに、平地化されてしまっている。



ちなみに、この南側にある五棵樹鎮の湛江寺(下地図)は、同地の観光名所らしいが、前身は関帝廟だったという。文革時代に破壊されてしまうも、1990年代初期に関帝廟として再建されるも、すぐに湛江寺へ改称され今日に至るという(2001年、長春市指定の文化遺産となる)。

今回はここは訪問せず、同じ五棵樹鎮内で発見されたという、漢代の 十八盤遺跡(下地図。榆樹市五棵樹鎮龚家村十八盤屯)に立ち寄ってみることにした。

長春市榆樹市

さらに南下していくと、東崗子遺跡(上地図。榆樹市秀水鎮劉芳村)に至る。吉林省政府指定の史跡で、遼王朝&金王朝時代のものという。

時間があれば、もっと南にある榆樹市大坡鎮まで訪問し、大坡古城(大坡鎮大坡村)や、朱家橋子遺跡(大坡鎮城南村)、大坡石墓群(大坡鎮のどこかは不明)なども見学してみたい。
特に、前者二つは共に吉林省政府指定の史跡となっており、必見の場所だろう。いずれも、遼王朝&金王朝時代の遺跡である。


 大坡古城
不規則な台形型で設計され、東面土塁は 105 m強、西面土塁は 840 m、南北両面の土塁はそれぞれ 630 mで、城壁の全長は 3,150 mあったという。このうち、東面土塁と西面土塁は、その地形から弧を描くように湾曲した設計となっていた。また、城塞には東門、西門、南門、北門の四城門が設置され、それぞれ入口幅は 15~20 mという巨大さであったという。
現在、高さ 3~4 m、底辺部分の厚さ 5~7 m分の北面土塁のみが残る。黄揭色の土と材木で築造されていたことが視認でき、土塁外には現在でも、幅 10 m前後、深さ 2 mほどの外堀跡の遺構が残されている。



この日は、重量のあるパソコン持参ということもあり、白タクを駆使した郊外巡りをメインとした。最後に榆樹鉄道駅前で下ろしてもらい、お別れした。

投宿先の長春市徳恵市 への帰路は、都市間バスが午前中で終了しているので、普通列車での移動となった(17:56発 → 19:59着。8.5元)。ちょうど夕食時の 2時間強を列車内で過ごすことになるので、駅前で夕食をテイクアウトし、車内で食べることにした。


 【 榆樹市 の歴史 】

四万年前、すでに今の榆樹市内では古代人類が生息していたという。
紀元前 11世紀以降、肅慎族、夫余国のテリトリーに属してきた。
この肅慎族とは、後に女真族へ、最終的に満州族となる民族集団である。秦王朝が中原を支配し、その威勢を周辺国や地域まで影響させてくると(紀元前 220年以降)、肅慎族社会でも大きな社会変化が始まり、それまでの新石器時代風の血縁中心の共同体社会が終焉を迎えたようである。

中原が南北朝時代に入り、中国東北部への影響力が低下すると、今の榆樹市エリアは、夫余国下の 伯嘟部(下地図。後に伯都部へ改称される)のテリトリーに組み込まれる。

長春市榆樹市

中原が隋王朝により統一された頃、女真族の 一派「伯咄靺鞨族」の勢力圏下となっていた(上地図)。地図内の青色テリトリーは、高句麗の領土。ちょうど国境を接し、紛争の絶えないエリアだったと考えられる。

その後、唐王朝により高句麗が滅ぼされ(668年)、代わりに渤海国の建国が承認されると(698年)、扶余府(今の 長春市農安県)に統括される。その渤海国も 926年、遼王朝により滅ぼされると、この支配下で東京道寧江州に組み込まれた。
続いて 1115年、遼王朝も金王朝に滅ぼされると、その版図下で上京肇州路の行政区に管轄される。
元王朝時代には遼陽省下の開原路屯田万戸府に、明代には三岔河衛に統括された。

清代、皇家直轄の封禁の地に組み込まれていたが、柳条辺の外に位置していた。
1683年、伯都訥副督統(伯都訥城に開設 ー 今の 吉林省松原市 北部)に統括される。
1727年、長寧県が新設されると(盛京奉天府に所属)、これに属するも、 1736年に長寧県自体が廃止されると、永吉州(後に吉林庁へ改編)に直轄された。

1811年、伯都訥庁が 伯都訥新城(今の 吉林省松原市 寧江区新城郷)に新設されると、その下部組織である理事同知が伯都訥城に開設され、これに統括される。1825年、伯都訥の行政区一帯でも農地解放と屯田が開始される。
1882年、伯都訥庁の役所が 孤榆樹屯(今の 榆樹市中心部)へ移転されると、集落は急成長していくこととなった。

長春市榆樹市

しかし、1906年に伯都訥庁が伯都訥府(新城府。上地図)へ昇格されると、府役所は再び、伯都訥新城(同時に新城県が新設され、新城県城となる)へ再移転される。あわせて、孤榆樹屯が榆樹県へ昇格され、県城がスタートする(新城府に所属)。以降、新城府は新城県と榆樹県の二県を統括した。
1909年、榆樹県が榆樹直隷庁へ改編されると、吉林省西北路分巡兵備道に直轄された。

中華民国が建国された翌 1913年、榆樹直隷庁が榆樹県へ戻される(引き続き、吉林省に帰属する)。同時に、新城府も廃止されることとなった。
下写真は、 この 中華民国時代(1912~1932年)の 県公署(県役所)の様子。清代の榆樹県役所がそのまま踏襲され、使用されていた。この時代、初代県長官の趙邦彦にはじまり、許無震、李奎保、舒鳳儀、周敬熙、王文治、莫徳恵、盧維時、王惕、譚書紳、宋雲同、歴維成らが歴代の県長官職を継承していく。
長春市榆樹市

1945年、14年間にも及んだ日本軍の統治が終了すると、同年 12月27日、国民党軍が榆樹県に入城してくる。
翌 1946年春、国共内戦のための資材調達目的から、榆樹県民主政府が城内外の近隣住民らを動員し、外堀沿いの 榆樹(シベリア・ニレ)の伐採を進めると、一日もかからずに作業は完遂され、同時に外堀も埋め立てられて、完全に平地化されることとなった。直後に 4城門も撤去され、城郭の解体がスタートされてしまうのだった。

1990年12月26日、榆樹県が榆樹市へ改編されると、長春市 に編入され今日に至る。


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