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吉林省松原市 ~ 人口 290万人、 一人当たり GDP 58,000 元


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  伯都訥新城(新城府)
  榆樹県城(駐孤榆樹屯)



【 松原市の歴史 】

2100年前には、早くも古代「粛慎王国」が建国されていたと言われている。
その後、この地方には濊(わい)族が居住するようになる。彼らの集落跡として、現在の黒龍江省賓県に周囲約800mにも及ぶ濊城跡が発見されている。
時は下って、前漢時代の初期、松花江上流の弱水(奄利大水、今の拉林河)を渡河して、南下してきた夫余族により、中国東北地方で初の農業国家―扶余国(王都は長春市)―が建国される。中原から伝わった先進的な農業、牧畜産業が導入され、当時、東北地方で最も繁栄した地域となっていたようである。その勢力圏は、松花江の南岸一帯まで達していたものの、北岸の肇源県側にはまだまだ異民族の土地が広がっていた。
扶余国は時折、さらに南下しては後漢王朝が設置した玄菟郡への侵入を繰り返したが、基本的には使節を派遣して、前後漢王朝とは冊封国関係を構築していた。後漢王朝時代の統治制度の下、夫余国は玄菟郡に属されていたが、後漢末期の献帝(在位:189年~220年)の時代に、夫余国王の尉仇台が自ら遼東郡に帰属地を変更したいとの依願を行ったため、遼東郡への転属が許可されている。しかし、この当時、すでに玄菟郡や遼東郡は公孫氏の支配下となっており、高句麗や鮮卑族、扶余国などの東夷諸国は皆、公孫氏に服属した。しかし、その中でも突出した勢力を持った高句麗と鮮卑は、度々、他の東夷諸国や公孫氏とも敵対関係になっており、中原の三国時代とは別の戦国時代が現出されていたようである。さらに外交上の選択肢を広げるべく、220年には夫余国は魏とも朝貢関係を結ぶことになる。

松原市

公孫氏が238年に滅亡すると、国境を接した高句麗と魏との関係が悪化し、244年、魏領下の幽州刺史「毋丘倹」による高句麗討伐軍が発動される。このとき、扶余国も魏側につき、兵士や兵糧を提供する。この戦いで、高句麗は王都を奪われ、朝鮮半島の北側部分まで追いやられてしまう。しかし、引き続き、西部には鮮卑族の勢力が活発で、扶余国は魏や、その後を継いだ西晋王朝との朝貢関係を密接に保っていた。

だが、内部紛争と民衆反乱により、西晋王朝の統治力は急速に弱体化し、東北地域の冊封関係を維持できなくなっていく。こうした中で鮮卑族の東進が進み、さらに東側の高句麗勢力も挽回しつつあり、扶余国は東西からの圧迫を受け、ますます中原王朝に頼るようになるも、援助は期待できず、ついに346年、鮮卑族の首長であった慕容廆により建国された前燕国に降伏し、その属国としてようやっと命脈を保つ有り様となった。 さらに410年、東側の高句麗の広開土王による領土侵攻を受け、ここに滅亡することとなる。このとき、夫余族の宗主国であった前燕の後を継いでいた後燕国や 北の契丹の勢力にも打撃を与え、高句麗の広開土王は遼東地域一帯を平定することに成功している。

以後も、主に漢民族以外の民族による王朝支配圏であった時期が長い。そして清朝時代、松原市一帯は吉林将軍伯都訥副都の管轄地となり、副都統は伯都訥城に駐留していた。清時代初期、伯都訥城は異民族領として清朝の版図下になかったが、清王朝の拡大とともに支配下に組み込まれるに至る。後に、北方防衛のための7大軍事重要拠点の一つとなっていく。

松原市
松原市松原市

松花江(嫩江)のさらに上流にある現在のチチハル市方面へ、清王朝は勢力拡大を図るようになる。 1674年、吉林水師営による移民促進と屯田政策の実施が開始される。これにあわせて、1682年、伯都訥駅が設置され、寧古塔将軍の管轄区域から西側へ移動する水運主軸ルートとして重要視されるようになっていった。
1684年、北方民族らの討伐のためにチチハルに火器営が設置され最前線軍事拠点としてますます重要視されるようになる。1691年には木城も築城されるも、後に交通の便の良い卜奎駅へ移転される。翌年、300名の兵力をチチハルに派遣し辺境防衛に当たらせることとなった。 1699年には、黒竜江将軍がメルゲンからチチハルの地に移転され、チチハルの中国東北部における政治の中心地としての地位はますます強化されることとなる。

1693年には、伯都訥驛駅(内モンゴル方面への交通ルート上にあった宿場町)の南10kmのところに新しく軍事拠点が築城され、伯都訥新城と命名される。これが今の扶余鎮の旧市街地である。ここに、伯都訥副都統専城駐防が設置された。

1811年、伯都訥庁が設置され、伯都訥新城内に開設される。同時に、分防巡検一員も設置される。伯都訥庁の管轄下に駐孤榆樹屯(今の榆樹市)も置かれた。
1906年2月15日、伯都訥庁は新城府へと昇格される。ロシアと日本の勢力に対抗するため、以後も度々、満州統治と防衛のための改革が実施されていくことになった。

中華民国が成立すると、1913年3月に松原市一帯は新城県へと改名され、吉林省西北路道に帰属された。翌1914年2月、河北地方の山東等省新城県と名前が重なるということで、扶余県へと改名される。戦後、1987年11月19日に扶余市が成立し、1992年6月6日に松原市として扶余区を含む一帯が地級都市として組成された。

松原市

清代初期の築城された伯都訥新城跡であるが、現在の松原市寧江区という、中心街にある。古くからの旧市街を形成しており、胡同という古い庶民街を表す路地名が多い。1693年にレンガ積みの城壁都市として建造された。 1906年には、1811年からあった伯都訥庁が新城府へと昇格され、かつての旧「伯都訥城」県(県役所は、今の伯都郷にあった)と、榆樹(今の榆樹市)の2県を統括するものとされた(1913年に中華民国により廃止されるまで続く)。

なお、この伯都訥新城跡であるが、今日では完全に城壁も撤去されており、かつての面影もわずかな路地名に残されているのみである。関東第一村、新和胡同、建栄胡同、建安胡同、文化胡同、文興胡同など。

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