BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~


黒竜江省 ハルビン市 阿城区 ~ 区人口 51万人、 一人当たり GDP 60,000 元 (市全体)


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  阿城県城(阿勒楚喀城、阿勒楚喀協領、阿勒楚喀副都統)
  金朝王都「上京会寧府遺跡」、金上京歴史博物館、莫力街古城遺跡
  金王朝 初代皇帝・完顔アグダ(阿骨打)の陵墓
  宝勝寺
  金朝 2代目皇帝・太宗の 陵墓(胡凱山=金龍国家山森林公園。アグダとの共同陵墓となる)
  金王朝時代の 鉄鉱石採掘、製鉄施設「小嶺東川煉鉄炉跡」



投宿先のハルビン鉄道駅前の 7天ホテルを出ると、ハルビン駅南広場(海城街)を始発とする、601番路線バス(ハルビン駅南広場 ⇔ 阿城区北新路客運バスターミナル)に乗車する

終点の阿城区北新路客運バスターミナルに到着後、まずは、阿城区の旧市街地を散策してみる。
かつて、ここには「阿勒楚喀城」という、地方役所(協領衙門)が入居する城郭都市が立地していた。しかし、目下、これに関する郷土史博物館は存在しないので、とりあえず、旧市街地の散策と、いくつかの史跡スポットを巡ってみた(下地図)。
現在、古城壁や城門などは一切、残っておらず、古そうな地名を頼りに歩いてみることとなった。なお、古城地区の北東端にある「会寧公園」内の池は、かつての北面外堀を改修したものと思われる。下地図。

阿城文廟小区、文廟社区、清真小区、清真寺小区、阿城清真寺、穆統領胡同、烏魯胡同、染坊胡同、牌路大街、火磨胡同、二道街、延川大街、延川南大街、三姓胡同、礼先胡同、白酒胡同、緑波路(東面外堀の跡地)、東環嘉園(古城地区の東郊外)、金都街道法官之家慶雲胡同、など。

阿城区

金上京会寧府城跡(当時、「翁鄂洛城」や「白城」と称されていた。下絵図)に開設されていた 地方役所(阿勒楚喀協領の衙門。1726年~)が、新たに築城された 新城(今の 阿城区中心部)へ移転されてくると(1729年)、「阿勒楚喀城」と呼ばれるようになる。以降、300年近い歴史を有することとなった旧市街地である。

清末に至り、東北地方全土で行政区の改編が実施されると(1909年)、阿勒楚喀城内に開設されていた副都統の 衙門(役所)が「阿城県」役所へ昇格される。その県名は、単に「阿勒楚喀城」を短縮しただけの造語であった。
そのまま「阿城県」として中華民国時代、満州国時代も継承された後、1987年にハルビン市に編入され、今日に至るという(一時期、阿城市へ改編後、最終的に 2006年、阿城区となった)。

阿城区

旧市街地の観光スポットは、阿城文廟、イスラム寺院(清真寺)、南牌楼の 3か所くらいだった。

まず、南牌楼(下写真左)であるが、これは阿城区を代表する史跡で、この基台跡は、阿勒楚喀古城の 南門(承化門)跡と考えられている。
下写真左の青色部分に見られるように、門上の南面には「上京会寧」が、北面には「渊遠金源」という文字が刻まれており、阿勒楚喀の誇る歴史を、見事に八文字で示したものと賞されている。このまま、南牌楼から南へ直進すると、金上京故城、金太祖陵、そして金上京歴史博物館などを訪問できるわけである。

阿城区 阿城区

また、古城地区の 南西端(清真小区)には、阿城清真寺(イスラム寺院。上写真右)が現存しており、今でも地元ムスリム教徒にとって現役の宗教活動の場となっている(敷地面積は 9,000 m2)。

このイスラム寺院は、清代中期の 1777年に創建され、ハルビン市 内で最古のイスラム教施設とされる。現在のデザインは 1900年に大規模改修された当時の様子を伝えており、保存状態も非常に良い(下写真は、清末の頃、ロシア人旅行者により撮影されたもの)。本殿の高さは 20 mで、瑶殿、中殿、卷棚の三部構成となっており、壁面は青レンガを積み上げたもので、中国の伝統的な大屋頂式建築スタイルが採用されている。
目下、中国イスラム寺院ベスト 100選にも名を連ねる一方、中央政府により史跡指定も受ける、当地屈指の歴史遺産である。
阿城区



 阿勒楚喀城

1115~1153年の 38年間、金王朝時代の王都が開設されていた上京城であったが、四代目皇帝・海陵王(完顔亮。1122~1161年)が 燕京城(今の北京市) へ強行遷都して以降も、引き続き「上京」と呼称されていた(会寧府城を兼務)。初代皇帝アグダの眠る旧王都として、以降も金王朝では神聖なる地として取り扱われてきたわけだが、チンギス=カン(1162?~1227年?)の率いるモンゴル軍が東北地方を蹂躙すると、この巨大城郭都市も落城し、荒廃することとなった。

以降、モンゴル族による元王朝時代、人口と経済ネットワークが破壊されてしまった東北地方では、モンゴル族のための放牧地が各地に広がる大地となっていた。こうした不毛の土地にあって、上京城跡は単なる一地方集落へ没落していた。間もなくモンゴル人によって東北地方全土に駅伝ネットワークが構築されると、かろうじて、その 1拠点としての駅伝が設けられることとなった。
しかし、元朝末期の 1351年、この古城跡に鎮寧州役所が開設されると、上京会寧府城跡は再び、州都として政治の表舞台に登場したわけだが、間もなく台頭した明朝により元王朝が滅ぼされると、東北地方に進出した明軍により鎮寧州城も破壊され、再び廃墟と化すのだった(1410年ごろ)。
以降、復興されることはなかった。

阿城区

時は下って、清代の 1726年、松花江の中流域を統括すべく、地方役所「阿勒楚喀協領」の設置が決定されると、以降、拉林河、穆棱河、螞蟻河などの流域エリア一帯を統括し、八旗事務も担当することとされた。当初、この役所は上記の上京城跡に開設されていたが、交通が不便だったことから、阿什河により近い、現在の阿城区中心部に新城が築城される。こうして 1729年、阿勒楚喀協領の 衙門(役所)が新城へ移転され、以降、阿勒楚喀城と称されるようになるわけである。上地図。

なお、「阿勒楚喀」とは、付近を流れる河川(地元女真族の間では「嘎拉哈」と呼ばれていた。婉曲的に「耳」を意味する単語で、曲がりくねって蛇行する様が、人間や動物の耳のような形状だったことに由来する)に関連しており、これを中国語の発音に当てはめてたものが、現在、「阿什河」という河川名で、ここから行政区の漢字名が考案されたのだった。

1756年、阿勒楚喀協領が阿勒楚喀副都統へ昇格されると、阿勒楚喀城はますます地域の中心都市として繁栄を謳歌していくこととなる。

阿城区

阿勒楚喀城が築城された当初、城門は 2ヵ所だけだったが、後に 4城門へ増加され、最終的に 6城門を有することとなる。これは、地域の中心都市として、ヒト、モノの往来が活発化した証左とも言える変化であった。
また、城壁は当初、木板をつなぎ合わせただけの簡易な構造であったが、後に土塁城壁へ全面改修されている(下写真は、清末の頃、ロシア人旅行者により撮影されたもの)。

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平易門 ↑

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文昌門 ↑

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東門(朝陽門) ↑

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天錫門(菜市場) ↑

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三皇門 ↑

1868年、阿勒楚喀城の城壁が補修された際、西面、南面、北面の三方向へ城域が拡張されることとなり、それまでの東西南北 4城門体制が、東面に 2か所、西面に 3か所、南面に 1か所を有する、計 6城門体制へ大改編される。

阿城区

また城内では、イスラム寺院(清真寺)が真っ先に創建され、さらに時間が経ってから文廟(上写真)が建立されていた。さらに清末の頃に至ると、イギリス系、フランス系の宣教師が、それぞれ プロテスタント系、カトリック系のキリスト教会を開設することとなる。こうして、早くも国際都市へと歩みを進め出すのだった。
以降、阿勒楚喀城は、吉林将軍(後に吉林省へ改編)下の 7大重要都市(吉林長春寧古塔三姓新城、阿勒楚喀など)の一角に君臨したわけである。

清末の 1909年、阿城県が新設されると、そのまま阿勒楚喀城内の役所施設が継承される。なお、この県名は、単に「阿勒楚喀城」を省略しただけの造語であった。
下写真は、往時の阿城県城の様子。歩行者道と 馬車道、犬道(笑!)が区分されているのが、印象的だ。

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1936年に、日本軍が阿城県に入城してくると、阿什河の東岸に 軍事基地(600 m2)が整備されたという。



さて、旧市街地の散策後、延川大道沿いの阿城客運バスターミナルへ移動し、このバスターミナルがある延川大街沿いから、阿城ローカルバス「7番、21番、27番路線バス」に乗車する(4元)。下地図。

そのまま市街地を抜け、南へ 2 km郊外にあるバス停「阿城博物館」で下車すると、ここが、ハルビン阿城金源文化旅游区だった。正面に金上京歴史博物館があり、すぐに入館してみる。続いて、屋外の金国都城上京会寧府遺跡、その西隣にある 金太祖・完顔阿骨打陵墓、宝勝寺を巡ってみた。下地図。

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あまりに広大なエリアに及んでおり(阿城区阿什河街道南城村~白城村~新城村の一帯)、かなり時間と体力を使う一日となった。

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 金国都城「上京会寧府遺跡」

金王朝時代(1115~1234年)、上京城と会寧府城が造営されていたことから、現在、「ハルビン阿城金源文化旅游区」として一大観光地を形成する。今でも遺構がほぼ完全な姿で残る、唯一の金王朝の 都城(二代目・王都)遺跡で、目下、中央政府により史跡指定を受けて大切に保護されている。 【初代】王都・寧江州府城(今の 吉林省松原市寧江区)や、【三代目】王都・燕京城(中都大興府城。今の北京市)はいずれも現存していない。

1115年1月、女真族の 族長・完顔アグダ(1068~1123年)がこの地に王都を定め、大金帝国の建国を宣言すると、以降、太祖、太宗、熙宗、海陵王の 4代の皇帝に渡って継承され、実に 38年もの間、王都として君臨することとなった。
なお、国号の「(大)金」であるが、完顔アクダら幹部が、「金は永久不滅」と考えていたことに由来しており、この時、王都の東を流れる阿什河も「按出虎水」へ改称されている(「按出虎」とは、女真族語で「金」を意味した)。

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王都を開設した当時、渤海国時代の北西端の拠点都市「鄚州城(奥喜県城も兼務。上地図)」の遺構を転用しただけの、一地方都市に過ぎず、ここを毡帳(中国語で「皇帝寨」の意)に定めたわけだった。
初代皇帝に即位後も、アクダは遼王朝との戦闘で外征が続き、王都建設まで手が回っていなかったため、主に 黄龍府城(今の 吉林省長春市農安県)を居所としていた(それ以前は、主に寧江州府城だった)。ようやく彼の晚年になって、本格的な王城建設が着手されることとなる。
しかし、遼討伐遠征からの帰路、完顔アクダは部堵濼西行宮(現在の 吉林省松原市 扶余市)で病死してしまうと(1123年9月19日)、そのまま遺体が当地に運ばれ、工事中だった王城脇に陵墓が造営されたのだった。

翌 1124、2代目皇帝・太宗(1075~1135年。完顔アクダの同母弟)により、南城側に 皇城(皇居)建設が開始されると、会寧府城へ改名される(当初、南城一つだけの設計であった。下絵図)。
続く 1125年には遼王朝を、1127年には北宋朝を滅ぼすと、これらから収奪した莫大な財貨がつぎ込まれ、一気に築城工事が加速することとなる。

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1138年8月、3代目皇帝・熙宗(1119~1150年。アクダの 長男・繩果の長男)が、会寧府城を「上京」へ改称すると、以降、会寧府と合体させて上京会寧府と称されることとなる。下地図。
この王都近郊の行政区は、会寧府が統括し、会寧県、 曲江県(仁合古城。今の ハルビン市賓県新甸鎮仁和村)宜春県(永勝古城。ハルビン市双城区永勝郷古城村)の 3県が配置されていた(下地図)。また、王都近郊には漢軍万戸の居住区も設定され、漢民族らも混ざって集住していたという。

1146年春、北宋朝の 王都・汴京(今の 河南省開封市)を参考に、王城が大規模に拡張されると、北城が増築され、以降、二城構造が確立する(上絵図)。しかし、熙宗は建国以来の功臣を次々を粛清したため、家臣団から不評を買い、最終的に従弟の 迪古乃(後の海陵王)らのクーデータで暗殺されてしまうのだった(31歳)。

こうして、1150年、4代目皇帝・海陵王(1122~1161年)が即位すると、先代と同じく、功臣や皇族らの粛清を続け、1153年、新天地である 燕京城(中都大興府城。今の北京市)への遷都を強行すると、38年に及んだ【二代目】王都時代が終焉を迎えることとなる。
1157年には「上京」の称号も取り消され、単に会寧府城へ改称されると、天下に二都は不要ということで、宮殿などの建造物も破却されたという。

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急激な大改革と旧臣らの粛清、南宋戦での大敗により、海陵王もまたクーデータを経て暗殺されると(40歳)、5代目皇帝・世宗(1123~1189年。アグダの 五男・訛里朶の長男)が即位する。
彼の治世下の 1173年7月、再び、「上京」の称号が付与されると、金王朝の副王都に定められる(上地図)。

1181年、上京城に大規模な全面改修工事が施され、2年後の 1183年には、城壁面が土塁構造から全面青レンガ積みスタイルへ生まれ変わる。これが今に残る上京会寧城の完成形となったわけである。

こうして膨大な月日と費用をつぎ込んで建造された上京城は、12世紀当時の北東アジアの最大都市として繁栄したことは疑いようもなく、政治、経済、軍事、文化の中心地として君臨し、その最盛期、王都近郊の居住人口は 36万人にも達していたという。

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しかし、 1211~12年にモンゴル軍を率いた チンギス=カン(1162?~1227?年)の侵攻を受け、東北地方各地は荒廃し、人口が大幅に激減して域内経済が崩壊してしまうと、ついに 1218年、金王朝は東北地方の支配権を放棄し、華北地方の防衛戦に追い込まれるのだった。

結局、1234年に金王朝は滅亡し、モンゴル族によって元王朝が建国されると、この上京会寧府城跡は一地方集落にまで没落してしまう。敷地内には、駅伝ネットワークの 1拠点「上京海哥駅(海呉駅)」が設けられるのみとなっていた。上地図。
しかし、時と共に東北地方の住民人口や経済が復興してくると、元朝最後の 皇帝・順帝(1320~1370年)の治世下、上京会寧府城跡に鎮寧州が新設される。こうして上京会寧府城跡は、再び、州都として政治の表舞台に登場したわけだが、間もなく台頭した明朝により元王朝が滅ぼされると、東北地方に進出した明軍により鎮寧州城も破壊され、再び廃墟と化すのだった(1410年ごろ)。 以降、復興されることはなかった。

明代初期、奴儿干都司の統括下にあって、この王城跡には駅伝ネットワークの 1拠点「上京海胡駅(海哥駅から改称)」が設けられ、再び、一地方集落にまで没落することとなる。明代後期以降は、女真族の 一派・棟鄂部族(付近を流れた「棟鄂水」に由来。この川は、鴨綠江の 支流・佟佳江の上流に相当する、現在の大鴉兒河のこと)の勢力圏に組み込まれる。

清代初期、金上京会寧府城跡は「翁鄂洛城」や「白城」と称されていた。これは、満州族の祖先・女真族が建国した、金王朝の王都が立地した地という、敬意が込められた呼称であった。引き続き、駅伝ネットワークの 1拠点が設けられていたと考えられる。
当時、この王朝跡には、レンガ積みの城壁面や城壁上の見張り台の遺構が未だ残存していたという。その後、 1726年に阿勒楚喀副都統が新設されると、当初はその行政庁が王都城跡に開設されるも、すぐに移転が決定され、新たに 阿勒楚喀城(今の 阿城区中心部)の築城工事がスタートされる。この工事のため、王城跡から城壁資材が大規模に撤去され、新城の建設現場へ搬出されてしまい、完全に廃墟となってしまうわけである(1729年に新城完成)。
こうして、現在の城郭遺構では城壁のレンガ面は喪失され、内部の基礎土塁だけが残る風景が広がっているわけである。下写真。

阿城区

往時には高さ 7~10 mほどあった、全面が青レンガ積みの城壁(1181~1183年の大工事で完成)も、 800年余りの間、風雨や戦火、住民らの資材転用などにより破壊と荒廃が進み、現在は、内面の土塁部分の、高さは 3~5 mほどが残るだけとなっている(そのうち最も高い地点で 7 mの箇所もある)。一部で、この土塁城壁の断面箇所も観察でき、黒土と黄土がまるで地層のように、規則正しく交互に塗り上げられた様子がはっきりと視認できる。

また、現存する土塁城壁の基台部分の厚さは 7 m前後が延々と続いているが、中には 10 mの箇所もある。それらは城壁の外側へ向かって突出された馬面(城壁面の死角を無くすため、増築された設備)跡というわけであった。

目下、この馬面は 89ヵ所が残存しており、往時には城壁の全周に合計 92ヵ所、設置されていたことが分かっている(下絵図)。それらは 70~120 mに 1つずつ配置され、北城の北面城壁に 11ヵ所、南城の南面城壁に 16ヵ所、南北二城の西面城壁に合計 29ヵ所、東面城壁(南城の北面城壁の突出部分も含む)に 24~28ヵ所、配置されていた(その中の 2ヵ所には 2つの馬面が同時設置されており、1か所には 3つの馬面が同時併設されていた)。
しかし、南北二城の突出した角部分 5か所は現存しておらず、上記の配置から類推され、これらにも馬面があったとカウントされている(馬面と共に、それぞれ角楼も配置された)。こうして合計 92ヵ所あった、と結論づけられているわけである。

これらの配置関係から、南城の西面と南面城壁に集中的に馬面が増設されており、皇城(皇居)の守備を最優先としていたことが窺い知れる。下絵図。
また、これらの土塁城壁の地下からは、大量の 擂石(城壁上から投げ落とす石)と、鉄製の矢じりが発掘されており、守備兵らが主に矢や石を用いて守備していた名残り、と考えられている。

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上絵図の通り、金上京城は、南城と北城の二段構造で設計され、特に皇城の位置に至るまで、遼王朝の 王都・上京(今の 内モンゴル自治区赤峰市巴林左旗)や北宋朝の 王都・汴京(今の 河南省開封市)と全く同じ構図であったことが分かっている。

南城と北城は共に長方形型でデザインされていたが、最初に築城された南城の方が北城側よりも面積が広かった。両者は縦並びで連結され、二城あわせて城壁の全長は 11 kmにも及んでいた。特に、南城は 内城(皇城)として皇居を成し、北城はその外城として、皇城の運営、管理のための役所機関や家臣団らの邸宅、城下町アリアとなっていた。

これら南北の二城には城門が 9ヵ所あり、その中の北城の北面城壁の 1門、東面城壁の 1門、西面城壁の 1門、内部中間城壁の 2門のうち 1門、南面城壁の 2門の計 7城門には、瓮城も増築されていた(上絵図)。これら瓮城の多くは多角形で設計され、城門正面の防御力を補強する工夫が凝らされていたという。

さらに、二城の城壁外と、両城を隔てる腰城壁の南面には、外堀が掘削されており、今でも大部分が深くえぐれた地形を残している。ここで掘削された土を積み上げて、周囲に巨大な土塁城壁が建造されていたわけである。堀部分には、上京城の西を流れる小川の水を引いて、水を通していた考えられている(上絵図)。
清末の 1900年ごろの記録によると、まだ堀跡には水が溜まっていたことが言及されている。

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さて、南城の北西端に位置する皇城跡であるが、その周囲の全長は 2.5 kmにも及ぶ広大な敷地を有していた。

文献の記録によると、宮殿には多くの名称がつけられており、二代目皇帝・太宗の治世時には乾元殿と明徳宮が立地し、3代目皇帝・熙宗の治世時には 慶元宮、敷徳殿、宵衣殿(寝殿)、稽古殿(書殿)、重明殿、五雲楼、祥曦殿などがあり、4代目皇帝・海陵王の治世時には勤政殿、泰和殿、武徳殿、永寿宮、永寧宮があったと言及されている。
5代目皇帝・世宗により、王城が全面改修された後、慶元宮も改築されたという。また、同時に光興宮、光徳殿、皇武殿なども増築されている。
これらの主要建造物の他、明徳殿、時令殿、龍寿殿、奎文殿、術廟、社稷、孔廟、儲慶寺なども、皇居内に建立されていたことが分かっている。これらの建物群は、まさに金王朝が集めた最高水準の技術が注ぎ込まれたものであった。

全体の構成としては、北向きに設計されており、皇城の南北ライン上に位置するように、規則正しく整然と各建造物が配置されていたという。これに合わせて、王宮の東西両端には、長大な回廊も増築され、壮大かつ勇壮な外観を誇ったわけである。
現在、この回廊の遺構の他、皇城午門を含む、宮殿内の 5つの建物群の遺構がはっきりと残っており、外周の城壁面が有した甕城、馬面、角楼、外堀遺構と含め、圧倒的スケースを訪問者に見せつけている。

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なお、皇城の南門の両側面には、高さ約 7 mの盛り土があり、左右対称に配置されていた。これは「闕(けつ)」と呼ばれる防御施設で、宮殿や重要な祠廟、陵墓などの門前に張り出して左右対称に設けられ、望楼(物見櫓)が建設されていた場所である。この左右の盛り土の間には、さらに高さ 3 mほどの小さな盛り土が 2ヵ所あった。

そして、この大小の盛り土の間に、皇城の南門へ通じる 3つの石畳道が整備され、中央の道は 正門(午門)へ、両側は左闕門と右闕門へと接続されていたわけである。上絵図参照。

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 金太祖・完顔アクダ(阿骨打)陵墓 (上地図)

金朝 初代皇帝(太祖)完顔アグダ(阿骨打)が、1123年9月、遼討伐の遠征からの帰路、部堵濼西行宮(現在の 吉林省松原市 扶余市)の陣中で病没すると、遺体がこの王都まで運ばれて埋葬されることとなった。

王都・上京城の西面城壁から約 420 m離れた場所に、13 mほどの盛り土で陵墓が造営され、その小山上に「寧神殿」という廟所が建立される。
しかし、1144年、胡凱山(末尾地図参照。阿城区の東部にある金龍国家山森林公園の南端、老母猪頂子に位置する陵墓遺跡。もともと、2代目皇帝・太宗【1075~1135。アクダの異母弟・呉乞買】が埋葬されているところに、完顔アクダの遺骸が移送され、兄弟陵墓とされた)へ移転され、さらに、1155年、 大房山(今の 北京市房山区)へ墓所が再移転されると、睿陵(初代~四代目皇帝が同葬された)と称されるようになる。
以降、旧陵墓上の寧神殿は、「大祖廟」や「阿骨打廟」と呼称されることとなったという。

現在、この墳墓の小山は「斬将台」「点将台」と称され、風雨などのダメージから、約 10 mほどの高さまで低減されている。それでも、盛り土の底辺部の周囲の全長は 100 mほどあり、その敷地面積は 1000 m2 近くに達するという。

1975年、1993年の二度、この陵墓の発掘調査が行われた際、その盛り土の地層構造が 6~10 mmごとに黒土と黄土が交互に積み上げられ、ちょうど王城の土塁城壁と同じ工法だったことが判明する。
また、この地表面は、紋瓦片、緑釉琉璃瓦、灰色雕レンガ、柱礎石などが、今でも散乱しており、金上京皇城内の宮殿跡で発見された建築資材と全く同種のものであったという。これら両者資材の一致は、5代目皇帝・世宗が王城を全面レンガ積み城壁へ大改修した際(1181~1183年)、あわせて、この陵墓も大規模に修繕されたため、と考えられている。

特に 1993年の発掘調査では、陵墓の南面の二階部分に、石板で舗装された石道と祭祀台が設けられていたことが確認されている。長年の風雨の中で、地下 1 m下に埋没していたという。

なお、皇帝の遺体が安置されていた墓穴部分には、すでに人工的に掘削された洞窟があり、盗掘の際に破壊されたものと考えられている。調査時には、棺や埋葬品なども一切、発見されず、わずかにレンガと瓦の残骸が確認されたのみであった。
また、盛り土の東面外周の土中からは、金代の建築物の 残骸(布紋瓦、筒瓦、板瓦、釉面龍、鳳紋瓦当、奔鹿行龍紋雕レンガ、左右対称な花崗岩製の石柱、など)が大量に出土しており、当時、巨大かつ壮麗な「寧神殿」が立地していたことが推定されている。

1981年1月27日、黒竜江省政府により史跡指定を受け、多くの訪問客が訪れるようになった金太祖陵は、総面積が 5.1 ヘクタールの公園として整備され、内部には 玉帯橋、門殿、陵台(宝頂)、寧神殿、そして地下宮殿などが復元されている。
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 ハルビン宝勝寺

先の金上京歴史博物館や完顔阿骨打陵、金上京城跡という一大観光地から、北西 200 mほどの距離に立地する宝勝寺であるが、境内の建物類はいずれも近年に再建されたものばかりで、一見すると、場違いに新しい寺院に見えるかもしれない。

現在でも、毎週日曜日に信徒が集い、仏教活動が行われているわけだが、その建立は 900年近く前であり、金王朝時代の王都近郊にあって、光林寺、興園寺、興王寺などの大寺院と肩を並べ、巨大な影響力を持った寺社勢力であった。当時、遼王朝時代から続く仏教全盛時代で、各都市では、天台宗、雲門派、曹洞派などの諸派が割拠していたという。
ライバルにあたる興王寺の開寺記念式典では、200人もの参列者を集めたという(1151年)。
1156年の記録によると、宝勝寺に在籍する門徒は、すでに 300人に達していたとされるも、金王朝が滅亡して以降、元代、明代に関する資料は一切、皆無という。

かなり時代が下って清代末期の 1880年代~中華民国時代、阿勒楚喀城(今の 阿城区中心部)内の 広済門付近(今の東関街)に、仏教寺院が一つあり、天台宗の門徒 147人(男 52名、女 95名)が在籍していたという資料が見つかっているだけである。

なお清末の 1909年、この宝勝寺境内の「廟台」と呼ばれる地点で、「前管内都僧録宝厳大師塔銘志」と刻印された石板(高さ 92 mm、上辺 56 mm、底辺 62 mm)が発見される。史書によると、金王朝時代の 1188年、上京宝勝寺の前管内都僧録宝厳大師の墓塔として、高さ 13.3 m(16層建て。每層の高さは約 7~10 cmで均一ではなかった)、六角形型の石塔が設置された、と言及されており、その一部と推定されている。
現在、この石板は、 黒竜江省博物館(ハルビン市南崗区紅軍街) に保管されているという。



その後、白タクをチャーターし、さらに南 40 km 郊外にある「阿城市巨源郷城子村」を訪問する。ここにある金王朝時代の 集落遺跡「城子村遺跡(黒竜江省指定)」と、「2代目皇帝・太宗の陵墓(胡凱山。金龍国家山森林公園の南端、老母猪頂子に位置する。後に兄の初代皇帝アグダの遺骸も移送され、兄弟陵墓となっていた)」も巡ってみる。下地図。

帰路は、再び、路線バスを乗り継いで、 ハルビン鉄道駅前 まで戻ることとなった。

なお、阿城鉄道駅は、1901年に駅舎が完成した当初、阿什河駅と命名されていた(1936年に阿城駅へ改称)。 1903年に東清鉄道が全面開通して以降、小規模な駅として利用されてきたという。



 小嶺東川煉鉄炉跡

小嶺東川冶鉄遺跡は、金王朝時代の 冶鉄基地(土法高炉・土法製鋼施設)の代表的な遺跡の一つで、黒竜江省ハルビン市阿城区小嶺郷西川村の東川屯の西北 500 mの黄土崗上に立地する。ちょうど、張広才嶺の西側麓の潜山丘陵地帯に位置していた(金上京会寧府遺跡から 32 kmの距離)。

このエリアは、女真族の完顔部族が金王朝を建国する以前から勢力圏としていた土地で、豊富な鉄鉱石の鉱脈が地表近くに埋蔵されていたこともあり、当時の技術水準でも、採掘や精錬作業を一体で進めることができたわけである。史書により、女真族は早くから製鉄、鍛鉄技術を保有していたことが分かっており、この鉄の産地と技術を握ったことで、東北地方の覇者となり得たと言える。

当時、黄土が硬化して積み重なった丘陵斜面をくり抜く形で、溶鉱炉(土法炉)が建造されていた。黄土の砂岩斜面に半円形の穴を開け、洞穴内には不規則な形状の花崗岩を敷き詰めて補強しつつ(厚さ約 0.56 m)、その後で、表面に耐火用の粘土を塗って平坦に調整した上で、洞穴の上を切り抜いて溶鉱炉の内壁と外壁を作っていた。この黄土が積もった地層内部は、保温に最適な環境がそろっていたわけである。

こうした恵まれた環境を利用し、原始的な土法製鉄と鋳造作業が分業で進められていたのだった。この「土法製鋼」で生成された鉄器は、近代以降の生産法とは比較にならない劣悪品であるが、中国で 長い間(最近では文革時代にも!)、伝統的に用いられた製鉄技術で、当時としては、鉄純度が高い海綿鉄が生産されていたという。

阿城区

この小嶺東川冶鉄遺跡はその代表的な史跡で、1961~1963年の大規模な考古学調査により、採掘所の洞穴と 製鉄施設跡(土法製鋼スタイル)が発見され、同時に、建物跡や 採掘跡、製鉄跡、作業員らの居住地などの遺構や、これらで使用されていた 青レンガ、灰瓦、瓷片、長柄鉄鉗子、鉄繊子(製鉄時の残留物)、瓷罐、石臼、北宋「景祐元宝」の銅銭など、50点近い遺物も出土している。

なお、溶鉱炉の燃焼室内部は方形に設計され(直径が 0.8 m、高さ 2.1 m)、南向きに設けられた鉱炉入口の前には、大型の長方形に加工された花崗岩の石門で開閉が管理されていた。花崗岩と粘土で強化されていた壁面は、現在、高温で溶解してしまい、ガチガチに固まってしまった状態にある。溶鉱炉の円形型の底面は深さ約 15 mmほどで、同じく耐火用の粘土が塗られていた。この炉底には、今もなお、木炭や製鉄時の残留物などの遺物が残っているという。

金代初期の社会経済や製鉄能力、軍事技術の研究資料として、非常に貴重な歴史遺産ということで、1986年12月17日に黒竜江省政府により史跡指定を受け保護されている。



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