BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~


黒竜江省 ハルビン市 依蘭県 ~ 県内人口 27万人、 一人当たり GDP 31,000 元 (依蘭県 全体)


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  五国頭城(鉄利府城、鉄驪国首都、五国部城、越里吉部城、胡里改路城、故里改万戸府城)
  三姓城(三姓協領、三姓副都統、依蘭府城、東北路兵備道)新旧 2城あった
  慈雲寺、依蘭民俗館、財神廟、清真寺(イスラム寺院)、防洪紀念塔
  土城子古城(依蘭県の南 45kmにある牡丹江沿い)
  対ロシア戦場となった 兵士駐屯地「靖辺営」跡、巴彦通砲台陣地(巴彦通抗俄要塞)遺跡
  斡朵怜万戸府城(牡丹江沿いの依蘭県西馬大屯。5軍民万戸府の一つ)



依蘭県は ハルビン市 に属すると言っても、かなり東端に位置し、鉄道移動でも片道 1時間40分を要する。それならいっそ、より東にある 佳木斯(ジャムス)市 に投宿しつつ、ここから普通列車で 35分を移動した方が、アクセスは効率的だった。

佳木斯駅から依蘭駅への、普通列車の時刻表は下記の通り。
6:08発 → 6:41着、7:10発 → 7:43着、7:43発 → 8:22着、8:15発 → 8:48着、8:23発 → 8:56着、 9:02発 → 9:35着、9:30発 → 10:03着、10:06発 → 10:39着、11:06発 → 11:39着、 11:32発 → 12:05着、14:23発 → 14:56着、14:36発 → 15:09着、15:26発 → 15:59着、 15:26発 → 15:59着、16:13発 → 16:52着、17:05発 → 17:38着、17:55発 → 18:28着、 18:39発 → 19:12着、18:53発 → 19:26着、19:45発 → 20:18着、19:59発 → 20:32着


なお、佳木斯客運バスターミナルから、依蘭県へは都市間バスでもアクセスできる(18元。距離 105 km)。佳木斯発は、6:10、7:30、8:00、8:40、9:20、10:10、11:00、11:40、12:20、 13:00、13:40、14:20、14:50、15:10、15:30、16:10。これらの他、両都市を循環するバスも、朝から夕方まで運行されているらしい。

佳木斯駅前の 7天ホテル(佳木斯西林路大潤発店)に 3連泊し、そのうちの丸一日を使って、依蘭県を訪問してみることにした。

依蘭県

まずは、当地随一の観光地「五国頭城跡」の北西にある、依蘭博物館(依蘭県花園東巷)を訪問する。上写真。
この博物館(敷地面積 1万 m2、建築面積 2,000 m2)の外観は、古城をイメージさせる設計となっている(1958年に建設、2000年に全面改修)。合計 4,263点もの遺物を保管し、特に 1,216点が貴重な品々として高い評価を得ているという。古都・依蘭地区の千年の歴史を事前学習する上で、必須の訪問地であった。

ここで、三姓城が新旧の二城、築城されていたことを発見する。すなわち、五国頭城公園とその南側一帯(遼王朝~金王朝~元王朝時代の五国頭城、清代中期まで)、および、五国頭城公園の東隣一帯(清代中期に新たに築城)である。今日現在、後者の城郭遺構は全く残っていないが、多くの路地や地名にその名残りが刻み込まれていた(後述↓)。

依蘭県

博物館見学後、そのまま南進し、五国頭城遺跡を訪問してみた。下写真。
ここは、1000年前の遼王朝時代、生女真族の中心集落だった場所であり、また金王朝時代に入っても胡里改路の首府が開設され、重要都市の一つとして君臨し続けた。

当時、長方形型で設計された土塁城壁の全長は 2,210 m(別説では、2,800 m)という巨大さで、城内面積は 3.8万 m2もあったという。現在でも、高さ 3 mほどの土塁城壁が残っており、黒竜江省政府により史跡指定を受け保護されている(1981年)。

依蘭県 依蘭県

特に本城は、金王朝が北宋朝を滅ぼした後(1127年)、その最後の皇帝(徽帝、欽帝の父子)を当地に幽閉し(靖康の変)、その死まで生活させた地として知られている。下写真。

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 五国頭城跡

西の牡丹江、東の倭肯河が、同時に松花江に合流する河口部に位置し、三方を大河に囲まれた要害の地に築城されていた。さらに、拉哈府山(俗称:西山)と倭肯哈達山(俗称:東山)を東西のバリケードとする地形だったことから、古くから「松花江の出入り口」とも称され、水運、陸路交通の要衝の地として知られていたという。

600年ごろ、東北地方の南部は高句麗(紀元前 37~668年)が支配したが、北部は古代から続く靺鞨部族の生活圏が継続されていた。この時代、今の依蘭県中心部には、靺鞨族の鉄利府徳理鎮の集落拠点が開設されていたという。

その後、高句麗が唐と新羅の連合軍により滅ぼされると(668年)、唐王朝の直轄支配がスタートする。しかし、北部に割拠した靺鞨族七部のうち、粟末部が強大化し、高句麗遺民らを糾合して震国を建国すると(698年)、再び、唐王朝と戦闘状態になるも、713年、震国国王・大祚荣(?~719年)が唐朝に帰順し、渤海郡王に封じられると「渤海国」と称されることとなった。以降、現在の依蘭県一帯は、この渤海国下の鉄利府によって統括された。

その渤海国も、末期の頃には複数の小国に分裂していたようで、この依蘭県エリアには、鉄驪部族が建国した鉄驪国が割拠していたという。
最終的に 926年、東北地方の西部で台頭した契丹族により渤海国が滅ぼされると、鉄驪国の使者が契丹族へ派遣され、そのまま服属することとなる。その後、旧渤海国の遺民らは東北地方南部へ強制移住させられるのだった(以降、熟女真族と呼ばれる)。

こうして、さらに北部に割拠していた女真族の一派(「靺鞨族の黒水部」と称されていたが、このタイミングで「生女真族」へ改称される)が、渤海人が居住していた空白地帯に入り込み、自らの居住区に取って代わってしまう。そのまま彼らは五部族(五国部とも称される ー 剖阿里部族、盆奴里部族、奥里米部族、越里篤部族、越里吉部族)に分裂し、松花江、黒竜江(アムール川)、及び、烏蘇里江の沿岸に割拠することとなった(下地図)。

依蘭県

そして、モンゴルから東北地方一帯を支配した契丹族(916年に契丹王国を建国、947年に遼王国へ改称)の勢力が東進してくると、遼朝 6代目皇帝・聖宗(972~1031年。10歳時の 982年に即位)の治世下、この五国部族長らも遼朝に帰順することとなる。彼らはそのまま本領を安堵され、 黄龍府都部署司(今の吉林省長春市農安県)に統括された。下地図。

しかし、1037年、五国部のうち最西端に勢力を持った越里吉部族が、遼朝廷に行った密告により、三国(三部族)の族長が一斉罷免され(実際には、政治的権限をはく奪され、祭礼上の象徴的立場に限定される)、代わりに契丹人の役人が節度使として各地へ派遣され、三国を直接統治するようになる。
こうして生女真族の中でも、遼王朝に接近した越里吉部族が五国部の中で一歩抜きん出る立場となり、以降、最大勢力を誇って盟主的存在として君臨する。その首府があった越里吉城は「五国城頭城」と呼称されることとなった。これが、今の依蘭県中心部というわけである。

その後も、越里吉部族は遼王朝に従順な姿勢を取り、遼王朝が東北地方の東部辺境を統治する上で、「五国城頭城」はその政治的、軍事的拠点として非常に有効に機能していくのだった。

その後、生女真族・越里吉部族の中でも、最も西端に割拠した完顔部族(下地図)が、遼王朝に反旗を翻して挙兵し(1114年10月)、翌 11月、出河店の戦いで遼軍を大破して、金王朝を建国すると(1115年1月)、これら五国部族らも続々と王権に帰順し、共闘して遼軍を駆逐しつつ、ついに 1125年、遼王朝を滅亡に追い込むことに成功する。

依蘭県

勢いに乗った金王朝は、そのまま翌 1126年、中国華北地方へ侵攻し、北宋朝との全面戦争に突入する。連戦連勝を飾った金軍は、一気に 北宋朝の王都・汴梁(今の河南省開封市)を陥落させると、北宋朝の皇帝(徽帝と欽帝の二皇帝)や皇族、高官ら千人余りを、金銀財宝と共に東北地方へ連行してしまう(1127年4月、靖康の変)。

連行された二皇帝は、翌 1128年7月に 燕山府(今の北京市)へ、さらに中京(今の 内モンゴル自治区赤峰市 寧城県)へ、そして、 上京(今のハルビン市阿城区白城村。下地図)へと移送され、ついに金王朝二代目皇帝・太宗(1075~1135年。初代皇帝・アグダの同母弟)と面会することとなる(今日に見られるような北京→瀋陽→長春→ハルビンという交通ルートと異なり、この時代、遼王朝時代の名残りから中京が非常に大都市であったたため、北京→中京→黄龍府を経由するルートが一般的であった。上地図参照)。そのまま徽宗は昏徳公へ、欽宗は重昏侯へ封じられ、金朝廷の臣下として遇されることとなった。同年12月、二人の皇帝は上京から 韓州城(今の遼寧省鉄嶺市昌図県八面城鎮に残る八面城跡。下地図)へ移送され、軟禁される。

さらに 1130年5月、二皇帝は松花江の上流部から船に乗せられ、46日後の同年 7月、五国頭城(当時、胡里改路の首府が開設されていた。下地図)に到着すると、そのまま城内で死ぬまで軟禁生活を強いられることとなった(この亡国の二君の飼い殺し状態の日々は、後に「座井観天」と比喩された。監禁生活や収監生活の惨めさを形容した言葉で、"井"とは、中国式の邸宅である四合院の中庭を指す。ここから、五国城遺跡は「坐井観天遺跡」とも別称される)。 1135年と1156年、徽帝と欽帝の父子が相次いで死去すると、この地に埋葬されたという。

依蘭県

その金王朝も 1234年、モンゴル軍の侵攻を受けて滅亡すると、東北地方は元王朝・遼陽行中書省下の開元路に統括される。その開元路下にあって、海蘭府碩達勒達(水達達路)の故里改万戸府が開設されることとなった。下地図。

明代には明爾哈部と三万衛に統括される。

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そのまま五国頭城周辺の旧市街地を散策してみた。下地図。
清代初期と中期に築城された三姓城跡に関する城郭遺構は全く残っていないが、その跡地である旧市街地区には、往時の名残りを刻み込まれた地名が、あちこちに見受けられた。
通江路、古跡路、南壩街、壩北胡同、北国亭、鎮護巷、南環城路、東順城路、城南巷、鎮東路、東店路、北菜市路、水利胡同、排水胡同、古堡幼稚園、西環城路、東北抗日聯軍依蘭県城戦闘総指揮部遺跡、など。

特に、五国頭城周辺は、遼王朝~金王朝~元王朝時代から続く旧市街地区で、清代中期に至り、東隣に新たに三姓城(下地図の青枠)が築城されて以降も、その城外にあって、引き続き、古寺、古廟、古民家などが密集していたと考えられる。

とりあえず、このエリアに歴史遺産として残る、関帝廟、関岳廟、財神廟、文廟、三官廟、火神廟、玉皇廟、地藏寺、慈雲寺、清真寺、神樹寺、平安寺、三姓都統 役所(大众街沿い。下地図)や、旗務処、徳発魁百貨公司(中央大街沿い)、協和昌、源聚東、洪泰祥(夹信子路沿い)、康園校旗務処などの古民家邸宅(四合院スタイル)を見て回ることにした。いずれも、清代~満州国時代の遺産で、往時の街角風景を垣間見せてくれる「歴史の生き証人」となっていた(下地図)。

依蘭県

特に、通江路、中央大街、菜市路の道路沿い、西小江子など、旧市街地西部と南部に、古民家邸宅(四合院スタイル)が多く点在する(上地図の赤ライン)。今ではわずかに 30軒ほどが残存するのみであるが、最盛期には 500~600もが軒を連ねたという。現存するもので代表的な古民家は、趙国信大院房(巴黎広場の東隣)、石猴(郎季良)大院房(石猴巷沿い)、悦二大院房(大众路沿い)、閻横三大院房(牡丹江の東側、平安巷沿い)、韓同来大院房(清真路と平安巷の交差点。イスラム教徒の古民家)、元茂店(依蘭県四合発飯店沿い)、久如客栈(新開胡同と石猴巷交差点辺り)、葛索鏈大院などがある

特に葛索鏈大院(上地図。イスラム寺院の北 50 m)は、清代初期からの原住民・赫哲族(新満州族)のリーダーが、当地の行政を取り仕切っていた建物で、さまざまな祭祀や戦時の司令部なども兼ねていた。初期に開墾された赫哲族の集落地内に立地し続けたため、清代中期に築城された新・三姓城の城外にあったという(上地図)。
目下、依蘭県下で唯一現存する、赫哲族に関する公的施設(敷地面積約 10,000 m2)となっている。下写真。

依蘭県




 「三姓」女真人の建築文化が息づく旧市街地区

そもそも、女真族(満州族)の祖先である靺鞨族は、東北地方の森の中で生活し、地面に掘っ建て小屋を建てて生活してきた。時を経て、靺鞨族から女真族へ改称されると、そのうちの一派として東海女真族が分派され(明代)、これがさらに 4部族に分裂することとなる。その中の最大集団が「女真叶海族」と呼ばれたグループで、この依蘭県エリアに割拠していた。
その後、東北地方南部で台頭し、後金朝(清王朝)を建国したヌルハチの勢力に糾合され、同じ「満州族」に組み込まれることとなる。

この時代、女真叶海部族グループはすでに依蘭県エリアに割拠していたが、その集落は、まだまだ泥や草木で作った粗末な小屋が集まった程度のものであった。清朝により同族の「満州族」に組み込まれるも、細かい分類として「赫哲族」とも呼称されることとなる。
以降、大陸中国の文化的影響も受けた 200年を経て、青レンガ積みの四合院スタイルの家屋が大量に建設されていくのだった(下写真)。

依蘭県

もともと女真族は、東向きに建物を建てる伝統的習慣があり、古来より竪穴式住居もすべて東向きで設計されてきた。この依蘭県エリアに割拠した「赫哲族」も、その例外ではなく、民家や庭園、路地の出入り口などはすべて東向きにデザインされていたという。

また、都市発展の歴史も「東向き」で進められていった。
清代初期、牡丹江(旧称:小江子)の東岸沿いに多くの民家が建設され出し、そのまま南北に延伸されて松花江との合流ポイントまで広がっていく。牡丹江東岸がいっぱいとなると、次に東へ東へと内陸側へ拡大されていったと考えられる。こうした文化的背景から、最初の五国頭城も牡丹江東岸沿いに造営されていたわけである。

現在の旧市街地(牡丹江沿東岸で、市街地の西半分)に残る多くの古民家群(徳二老宅や石猴官邸、小江岸西小橋子胡同路十八牌に連なる民家や妓女院=満州国時代の日本軍の売春宿、など)、さらに、 1655年に建立され 1756年に再建された清真寺、北菜市路西側にある元・水産局臨街李忠国家住房、さらに聯合路東路口の北側にある正房連脊厢房、この南北に隣接する邸宅跡や寺院なども、ほとんどすべてが東向きに設計されている。もちろん、中央大街の南北夹信胡同沿いにある多くの古民家群、四合発、洪泰祥、日本憲兵司令部、興隆街沿いの古い商家なども、例外なく出入口はすべて東向きとなっている。

これら清代~中華民国時代に建設された四合院スタイルの邸宅群は、中華風の建築様式を取り入れつつ、脈々と継承されてきた地元・満州族(主に依蘭の原住民だった赫哲族)の伝統文化が活かされた、独特な建築文化遺産となっている。それらはすべて、南北に長く東西に短い長方形型という特徴でも統一されている。

特に 1732年、依蘭県の旧市街地(五国頭城とその南側)に三姓副都統の役所が開設されると、都市発展が爆発的に進むこととなった。三大河の合流ポイントにあって、物流、経済、政治、軍事の中心地として成長し、東北地方の七大重要都市の一角に数えられるまでに台頭する。
この過程で進められた都市設計は非常に芸術的で、計画的に路地や街道が敷設された後、その街道沿いに建物が建設されるという手順を追っており、整然とした空間が現出されていった(下古写真)。その都市発展の歴史は、旧市街地の寺院、三姓都統府、県署が、市街地の各地区に分かれて立地していることからも明らかで、町と路地の発展に伴って順次、新設されていった時間的背景を、現代の我々にはっきりと示している。

依蘭県

なお、この 1732年に開設された三姓副都統衙門の役所施設であるが(下絵図)、度重なる改修工事を経た今でも現存している。左司旧宅(役所施設)と档房(秘書室、庶務室)、金銀庫(倉庫)、伙食房(キッチン、食堂空間)の三つの建物が、当時の姿のまま保存され、見学可能となっていた。

その中の大殿(5部屋)東側の左司旧宅(3部屋)の建物敷地面積は 12 m× 7 mで、正面に応接空間(正房)があり、その両脇には 5つの小部屋(劏房。敷地面積は 10 m× 6 m)が配置されていた。特に、この左司旧宅は役人の執務室に相当し、清代の東北地方東部における政治文書、皇帝への上奏文書、などが作成されていた空間であり、併設されていた細かい部屋(劏房=秘書室)3部屋は、左司が押印した各種公文書や朝廷との往復書簡などを保管するスペースであった。食堂とキッチンは、三姓副都統衙門府の上官、下士官の役人らが食事をする場所で、収納倉庫とあわせて 5部屋(10 m×7 m)で構成されていた。

ただし、この現存する 3つの建物は、あくまでも、清代当時において東北地区で最も壮大かつ広大な建築物群が軒を連ねた施設の一部に過ぎない。実際の敷地面積は 22,500 m2近くにも及び、合計で 30棟あまり、百部屋を数える官舎や庭が配置されていたという(下絵図)。そして、それらは南北の中央軸の両側に左右対称となるように配置されており、いずれも三進院(すべてが青レンガ造りの建造物 )スタイルの建物で統一されていたという。

清朝が倒れ中華民国時代に入ると、そのまま役所機関として転用されるも、 1931年に満州国が成立すると、この施設は依蘭中学の校舎に利用される。その後、1945~49年までの国民党政権時代には、廃墟として放棄されていたらしい。

依蘭県

清代末期に至る頃には、青レンガ技術の成熟と発展もあって、青レンガ邸宅が依蘭市街地の一般的な風景となり、普通の庶民までもこれらに住めるようになっていた。19世紀未~中華民国後期かけて、旧市街地の青レンガ民家はピークを迎え(最高 500~600軒もの家屋が軒を連ねた)、当時の 吉林省(清代、三姓都統府は吉林省に帰属していた)の中でも最大規模を誇り、もちろん、黒竜江省 でも最多を誇ったという。人口も経済も充足し、非常に成熟した都市を出現させていたのだった。

そんな中、1842年、1846年、1855年、1862年、 1867年、1898年、1911年、1915年、1929年、1932年に、松花江からの洪水被害を受けた記録が残されており、都度、この旧市街地も大きなダメージを受けたという。さらに 1900年には、ロシア艦船の艦砲射撃を受け、1931年の満州事変時には日本軍の侵入により一部市街地が破壊されたこともあった。さらに、 1945年夏にソ連軍の戦闘機が市街地に残る日本人民間人らを空爆した際、多くの地元民も犠牲となっている。この時、伝統的な青レンガ邸宅も大きく被害を受けたという。

こうした受難を乗り越え、奇跡的に継承されてきた古民家群であっが、近年の都市開発により多くが破壊されてしまい、目下、わずかに、石猴、悦二、横三、委可吉里、韓同来(回民)、趙国信、孫老好、王海山、孫紫雲、欧陽向景、婁仁、馬寿山、金家油房、張恒義(福盛魁油房)、劉樹琴、葛索鏈官邸などが、かろうじて保護&保存されるのみとなっている。

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 依蘭財神廟(下写真)

『盛京通志』によると、当初あった財神廟は、今から 230年以上前に建立され、本殿を中心に、五部屋から成る長屋が東西方向に連なるものであった。また、境内には大門と鐘鼓が配置されていたという。この廟殿の建物群はその後、中華民国時代には商会所に、満州国時代には法院所に、共産党時代には県第四小学校として転用された後、最終的に文化大革命により、残存していた建物群がことごとく破却されてしまうのだった。 2000年、ようやく民間出身の王慶林が私財を投じ廟殿を再建したものが、現在の財神廟である。

敷地面積約 5,000~6,000 m2の境内には、目下、門殿や正殿、后殿、東西配殿などが再建されており、いずれも南向き設計となっている(建築面積の合計は 950 m2ほど)。
特に、この門殿は、山門、劇楼、鐘楼、鼓楼が一体化された、非常にユニークな建物となっている。門殿の一階部分は 3部屋あり、総床面積 180 m2となっている(横 24 m×縦 7.5 m)。鐘楼にある鉄製の巨大鐘は重さ 1.3トン、鼓楼の大鼓の直径は 1.3 mあり、吉祥を呼ぶ神事として、当寺院の宝物となっている。門殿の中門西側には、四大金剛(別称「四大天王」。東方の持国天王、南方の増長天王、北方の多聞天王、西方の広目天王)が安置され、それらの脚下には、踏みつけられている悪魔や悪人らもあって面白い。

なお、この財神廟の向いに依蘭民俗館が開設されている。

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 依蘭清真寺

現在、依蘭県依蘭鎮清真路 5号に立地するイスラム寺院で、1655年に最初に建立された。
当地出身の金玉旺が、聖地メッカ(麦加)まで徒歩で巡礼に赴き、聖地でフギー(哈吉)の洗礼名を受けて帰郷し、建立した礼拝堂という。最初は、泥と草木を組み合わせて建てた、粗末な建物だけだったが、金玉旺がこの依蘭県一帯はおろか、東北地方でも初の巡礼者だったことから、清代を通じ、この清真寺の名声は絶大となり、礼拝堂は改築に改築を重ねて巨大化していったようである。現在の本堂は、中国式の廟殿スタイルとイスラム建築様式が融合したデザインとなっている。

当寺院には、現在、乾隆帝が奉納した鳳棺罩(棺桶を包む赤色の布)や、康熙帝の聖旨牌(木製の神札)、明代初期に作成された百字贊(明朝初代皇帝・朱元璋が在位中、百文字から成るイスムラ教の礼賛文を手書きしており、その原本は王都・南京に保管されるも、その写しが中国大陸各地のイスラム寺院にて保管されている)なども保存されている。

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 慈雲寺(上写真)

東北地方にあって反日戦争を戦い抜いた名将、奉系軍閥依蘭鎮守使&東北軍 24旅旅長の李杜(1880~1956年)の実姉が、元々あった龍王廟の跡地に建立したものである(1928年)。

境内には依蘭県出土文物陳列室が併設され、石器、陶器、銅器、鉄器、玉器など、かつて地元の女真人(満州人)が生産した、もしくは生活で使用していた用具類が展示されている(金代の官印、銅鏡、銅鍋なども含む)。特に、三氏(三姓)の一角・葛氏の七世祖先・阿木奇卡、及びその長男・董薩那と結婚していた両代夫人に、清代の乾隆年間に下賜されたという「誥封の文書(先代の役人の妻に送られた爵位や称号)」の書面は、非常に貴重な歴史遺品となっている。
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 防洪紀念塔(上写真)

三方を大河に囲まれた依蘭県は、古来より度重なる水害被害に見舞われてきた。この天災に一致団結して立ち向かってきた勇気ある祖先を称えるべく、その紀念塔として依蘭県政府が建立したものである(1985年)。 2008年に全面改修工事が施され、今日、河畔公園におけるシンボルの一つとして市民に親しまれている。

塔の高さは 18 m、直径は 3.5 mで、塔の台座は正方形型(一辺の長はそれぞれ 18 mで、高さは 1.3 m)となっている。紀念塔の下部の四壁面には、1932年時の洪水被害の様子、依蘭人民が洪水に立ち向かった歴史的な場面、共産党政権による治水対策などの場面が彫刻され、頂上部には、洪水に立ち向かう 3人の立像が設置されている。また碑文には、大洪水の被害とその受難の歴史が刻み込まれる一方で、共産党時代にいかに困難な水害対策が実施されてきたかが綴られている。

 【 三姓城の歴史 】

明代を通じ、この松花江と胡爾哈河(今の牡丹江)との合流地点、および湯旺河との合流地点(下瑪那哈地方)、さらに胡爾哈河の東側に広がる倭和地方には、東海女真族の最大グループ「女真叶海族」が割拠したわけだが(特に、その中でも、数十戸、もしくは百戸程度の小規模な集落単位で生活していた、胡爾哈部費牙喀人、赫哲所部族)、明末に後金朝が東北地方で台頭し、この依蘭県一帯もそのテリトリーに併合されることとなった(1616年)。以降、後金朝は女真族を満州民族へ改称し、当地の「女真叶海族」も新満州族として、一括りにまとめることとする(細かくは、満州族下の赫哲族、伊彻満洲族、伊車満洲族などと呼称された。なお、こうした満州族内での別称は、他の部族には使用された形跡はなく、唯一、「赫哲族」のみに対し、別枠で呼ばれた名称で、満州族の中でも特殊な存在として認識されていた。これは、女真族のかつての本拠地・五国頭城エリアに割拠したことから、敬意を表されての呼称だった、と考えられる)。

1630年代、清軍が中原へ進出し、中国大陸の統一戦に乗り出すと、東北地方全域から兵士が徴用され、中国側へ出征させられる。この時、赫哲族(伊彻満洲族)出身の 1000人の兵士も徴兵され、山東省 方面へ派兵されている。

その後、中国支配を成功させた清朝であったが、多くの兵士が徴用させてきた東北地方の過疎化が問題となり、また、漢民族との混血化、文化融合が進行しつつある事態を危惧し、できだけ純粋な女真族(満州族)のまま、故郷の東北地方へ帰郷させる政策に方針転換する。さらに、東北地方と満州族を純粋培養するため、東北地方への他民族の移住、進入を禁止するのだった。
こうして、山東省エリアに展開中だった赫哲族の部隊約 1000人も、故郷の依蘭県一帯へ送還される(1645年)。この時、帰郷した赫哲族メンバーらは、盧業勒、葛依克勒、舒穆魯、胡什哈哩の四氏族の家長に率いられた、同姓集団に統括されることとなった。彼らはそのまま、今の依蘭県旧市街地にあった五国頭城跡地に居所を定め、これが手狭となると、古城外の南へと集落地を拡張させる形で、現在の依蘭県を形成させていく(1664年に初めて「三姓城」と称されるようになる)。

1692年、この「三姓城」の集落地に、三姓協領の衙門(役所)が開設されると、いよいよ三姓城の四方を取り囲む城壁建造が進められることとなった。

依蘭県

その後、三姓協領衙門(役所)は、地元の赫哲族(伊彻満洲族)を効率的に統括すべく、舒氏、葛氏、盧氏、胡氏の四氏一族の家長を、それぞれ正黄、正白、正紅、正藍の四旗佐領(地方司令官)に任命し、以降、世襲的にその職務を継承することを追認する(1714年)。

間もなく、少数派に成り下がってしまった胡氏の残党が、牡丹江を遡って、寧古塔(今の黒竜江省牡丹江市海林市長汀鎮古城村)の行政区へ移住してしまうと(下地図)、本当に、盧氏、葛氏、舒氏の三氏(三姓)のみが当地に残されるだけとなり、以降、満州語で「依蘭哈喇(短縮され「依蘭」とも呼ばれた)」と称されたのだった。依蘭が「三」、哈喇が「姓」を意味する通り、単に「三氏(三姓 = 舒氏、葛氏、盧氏)の住む土地」と表現した名称である。以降、そのまま中国語でも「三姓」へ翻訳され、依蘭 = 三姓という地名が定着していくわけである。

その後、胡氏の末裔や儂英阿(和氏)らが依蘭中心部へ移住してくるようになり、氏姓構成は幾分変化するも、依蘭=三姓という地名はそのまま継承されていく。

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1732年、「三姓協領」が「三姓副都統」へ昇格されると(寧古塔将軍に帰属。1752年に寧古塔将軍が吉林将軍へ改編されると、引き続き、これに属した)、以降、黒竜江の下流域、松花江の下流域、樺太島(中国名:庫頁島)、今のロシアのオホーツク海の海域などの広大な土地を軍事統括することとなる(満州地方における「副都統」は、中原エリアでの総督や巡撫クラスと並ぶ、地位の高い役職に相当していた)。その中心都市となった依蘭県中心部は、ますます人口流入と経済発展が進み、早くも城郭都市が手狭となって、郊外へと集落が拡張していくようになる。

以降の新移民らは、もともとの地元「三姓赫哲族」とは異なる人々ということで、「佛満洲(陣満州)人」と総称された。主に、関氏系の三氏、趙氏系の二氏、郎氏系の一氏がメインであったが、その他、愛新覚羅氏(中国語訳では、金氏、羅氏、徳氏、艾氏となった)、瓜爾佳氏(中国語化されると、関氏、白氏、汪氏、鮑氏)、依爾根覚羅氏(中国語化されると、趙氏)、鈕鈷禄氏(以下同様、郎氏),斉佳氏(斉氏),富察氏(富氏、傅氏),馬佳氏(麻、馬)、盛佳氏(沈)、兀扎喇氏(呉、烏)、委赫(石)、寧古塔氏(寧、劉)、赫叶勒氏(何、赫)、尼瑪察氏(楊)、良嘉氏(粱)、完顔(汪、王、完)及び、閻氏、駱氏などの氏族が挙げられる。

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清代中期以降は、満州地方の囲い込み政策が方針転換され、他の異民族の移住も許可&奨励されると、漢民族、回族(韓氏、田氏など)、費雅喀族、鄂倫春族、奇勒爾族、庫頁族、恰喀喇族などが流入するようになる(なお、当地のイスラム寺院は、1655年に最初に建立されたことが分かっており、少数のイスラム教徒らは早くも流入していたようである)。以降、彼らのエスニックな宗教、生活文化も持ち込まれ、依蘭県中心部には、伊彻満洲(新満洲)族、佛満洲族、漢民族、イスラム系らの宗教文化が融合した、独特な生活空間が形成されていくこととなった。
この過程で、素朴だった伊彻満洲(新満洲)族の住宅スタイルも影響を受け、中国スタイルの美観、防犯、保温が兼備された、青レンガ積みの「三合院」や「四合院」様式の邸宅が市街地に広がっていくのだった。

1905年、吉林将軍が朝廷へ上奏し、「三姓副都統の一帯は、吉林省、黒竜江省方面の入り口部分にあたり、また、松花江と牡丹江との合流ポイントという重要な交通の要衝で、一帯の土地は肥え、人口も急増している」ことから、府役所の開設が提起されると、翌 1906年2月、朝廷からの許可の下、依蘭府が新設される(濱江関道に帰属。1907年、東北地方が三省体制へ改編されると、吉林省に帰属。下地図)。

1909年6月、依蘭府城に東北路兵備道の役所が併設されると、依蘭、密山、臨江(今の同江)一帯の政治、および軍事、経済拠点を兼ねることとなった。あわせて、三姓副都統が廃止される。

中華民国時代の 1913年3月、依蘭府が依蘭県へ改編される。翌 1914年6月、東北路道が依蘭道へ改編されると、依蘭県はそのまま依蘭道の道都を兼務した。 1929年2月に依蘭道が廃止されると、吉林省 に直轄される。

1932年、満州国が建国されると、当初はそのまま吉林省に帰属するも、 1934年12月に三江省が新設されると(省都は黒竜江省ジャムス市)、これに属する。 1945年9月に満州国が崩壊すると、三江省は廃止されることとなり、依蘭県は合江省に統括された。

共産党支配下の 1949年5月、合江省が廃止されると、依蘭県は松江省に帰属する。 1954年8月、松江省と黒竜江省が合併し、新・黒竜江省 が成立すると、依蘭県はこれに属した。
1985年1月、一時的に 佳木斯(ジャムス)市 に併合された後、1991年4月、ハルビン市 に組み込まれ、今日に至る。



続いて、タクシーをチャーターし、北東 15 km郊外にある対ロシアとの戦場となった、「靖辺営」跡と「巴彦通砲台陣地」跡を訪問してみる。下地図。

これら巴彦通抗俄要塞群は、三方を巴彦哈達(モンゴル語で「岩山が多い」の意。「巴彦」は、モンゴル語、満州語で「豊か、多い」を意味する)群山に囲まれ、一方のみが松花江南岸に面する(ちょうど正面に、松花江の中州「巴彦通島」が立地する)、「コ」の字型の地形上に造営されていた(依蘭県峪興村)。この三方の丘陵上に、それぞれの要塞拠点が配置されたわけである。下地図。

ここは 1900年、清朝正規軍と義和団の群衆が団結してロシア帝国に対抗すべく、松花江に石を沈めて河に鉄鎖を張り巡らせ、ロシアの輸送船二隻を大破させた古戦場でもある。合計 3度の交戦後、要塞群はロシア軍によって占領され、そのまま破壊されることとなった。しかし、その軍民らの殉国精神と歴史的戦果が高く評価され、黒竜江省政府により史跡指定を受けている(1981年)。

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 巴彦通抗俄要塞群

松花江の河道を抑える戦略的要地に、兵士駐屯基地 5か所(「靖辺営」と総称される)、砲台陣地「巴彦通砲台基地」1か所、兵営所(小営盤)1か所、見張り台 4か所から成る、四種類の防衛施設群が建造されていた。この一連の要塞群は相互作用を期待され、清末の 1880年から順次、4年の年月を費やして建設されたものであった。

その発端は、呉大澂(1835~1902年。江蘇省蘇州市出身。33歳で科挙に合格)が高級官僚(三品卿銜)として、1880年4月、吉林将軍・銘安(1828~1911年)の側近補佐官に着任し、吉林省へ派遣されてきたことから始まる。

6月に吉林入りした彼は、寧古塔、三姓、琿春などの吉林省東端の対ロシア国境行政、防衛政策事務を担当することとなり(下地図)、各地を視察するとともに、吉林将軍・銘安の指揮下で、吉林省独自の国境防衛軍創設を進める。この防衛軍は、元々あった八旗兵を改編したもので、古い世襲制を廃止し、完全公募制に切り替えて一新したのだった。当初の防衛軍は、騎兵、步兵あわせて 13営、5,000人から編成されるも、 1882年に再増強されて 9,000人体制となり、同時に、吉林省下の国境防衛部隊は「靖辺軍」と総称されることとなるわけである。

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これらの軍隊再編とあわせ、琿春に東砲台と西砲台基地の建造を進めたり、ロシア軍が図們江や松花江を遡ってくることを防ぐために水軍部隊を配置させたり、また、各地で農地開墾を奨励すべく琿春招墾局などを新設し移民奨励を促進させたのだった。その他、寧古塔(今の黒竜江省牡丹江市海林市長汀鎮古城村)~ 吉林省都に至る、 300 kmの街道整備のため 100余りの橋を架設し、多くの駅伝拠点を設けるなど、幅広い分野にわたって、吉林省のインフラ整備と防衛体制強化に手腕を発揮する。

この一環で手掛けられたのが、吉林省下の国境防衛部隊「綏字軍(後に「靖辺軍」へ改称される)」の駐屯基地「靖辺営」の造営であった(1880年)。吉林省東部国境エリア各地に造営されていくわけだが、松花江を通じて外界と接する依蘭県下でも、川沿いに建造されることとなった。当地の防衛施設は、合計 5か所の陣地群から構成され、いずれも峪興村の西側に連なる山脈の斜面中腹部に配置され、西から北方向に弓形型で 5つが並列されていた(上段地図)。それぞれの陣地は正方形型で設計され、すべて外堀まで装備されていたという。
そのうち、最北端の基地は「前営」、最南端は「後営」と命名され、総計で騎馬隊 500名が配属されていた。中間の 3陣地は、北側が「左営」、中央部が「中営」、南側が「右営」といい、それぞれに騎馬隊と歩兵隊の混成部隊 500名ずつが配地される。こうして 5陣地あわせて、2,000名余りの歩兵・騎兵部隊が守備を司ったわけである。

翌 1881年、呉大澂は自ら綏字軍(国境警備部隊)の駐屯基地群と松花江河畔を視察し、さらなる地形調査を進めて砲台陣地の追加建造も決定する。地形調査から、松花江の南岸にある丘陵地帯北面の麓辺りが重要ポイントと目途をつけ、ちょうど綏字軍(1883年以降、「靖辺軍」へ改称される)の駐屯基地群から北東に出っ張る形で、松花江沿いに建設されることとなった。
こうして「巴彦通砲台」建設工事が進められ(1883年着工、翌 1884年完成)、東西 48 m、南北 25 mのサイズ(防塁壁の全長 495 m、高さ 7 m)で完成する。この時、石灰砂岩を練り固めた防塁壁上に、大砲 5門が配備されたのだった。
現在、この砲台陣地内には掩体弾薬庫や兵舎跡が残る。下写真。

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この砲台建造にあわせて、正面を流れる松花江へ鉄鎖をつなげた石を沈め、複数の鉄鎖を組み合わせて河川封鎖も行ってしまうのだった。
同時に、南岸の台地上に河川通行を監督する役所施設(小営盤)も増設される。この施設も正方形型で設計され、周囲の土塁全長は 480 mほどであった。現在は、わずかに長さ 10 mほどの外壁が残るのみとなっているが、発掘調査により、跡地から槍、砲弾頭、火薬壺、河川封鎖の鉄鎖、封鎖時に川底に沈めた石、ロシア軍指揮官の軍刀などが出土している。

これらの増築のタイミングで、吉林省国境防衛部隊=「綏字軍」が「靖辺軍」へ改称されることとなり、これらの守備隊駐屯基地も「靖辺后路営」へ変更される。以降、地元で「靖辺営」と通称されるようになったわけである。
しかし、1884年から本格化した清仏戦争への増援として、5か所(守備兵 2,000名)の駐屯基地から、綏字軍 1,250名余りが南方へ派遣されると、残り 750名のみが残留することとなってしまうのだった。

他方、「靖辺后路営」の東面、南面、西面の 3面に連なった 2つの山の山頂に 4か所の見張り台(哨所)が増築され(現在、そのうちの 2か所の保存状態が比較的良好)、また駐屯基地の周りには集落が形成されたことから、乗馬場、税関施設、洋館、断魂橋、刑場、鬼王廟などの建物も順次、建設されていくこととなった。
現在、東嶺峡の谷間に平地化されている場所があり(「跑馬溝子」と称される)、かつて靖辺営の練兵場があった地という。清代の鉛弾、鉛丸などが大量に発見されている。

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呉大澂(1835~1902年。上写真)は、その後も活発に国境行政のために働き、 1883年には南方で不穏な動きを見せるフランスに対し、清朝廷から東北地方沿岸の防備強化も命じられ、さらに防衛体制の整備にまい進するのだった。

翌 1884年末には左副都御使となり朝鮮半島へ派遣されると、甲申政変(1884年12月4日に発生した、朝鮮王朝内での改革派によるクーデター。3日後に清朝の軍事介入で鎮圧された)の事後処理を担当する。この時、明治日本の朝鮮半島浸出の実態を目の当たりにし、日本に対する国境防衛の必要性を強く認識するようになっていく。以降、呉大澂は寧古塔副都統の容山(1836~1893年)、琿春副都統の依克唐阿(1834~1899年)らと協力し、ますます東部国境の防衛を重視するようになる。

英仏連合軍と交戦した第二次アヘン戦争(アロー戦争。1856~1860年)後、ますます欧米列強から外圧を受けるようになっていた清朝は、ロシアからも度重なる国境侵犯を受け続け、この外交交渉を呉大澂が担当することとなった。長年の交渉を経て、1886年、ついに合意を取り付けると、図們江が日本海へと至る河口部の清ロ共同管理案は獲得できなかったが、中国船が自由にこの河道から日本海へ出る権利を保証し、ロシア側はこれを制限できない、ということで妥協を引き出すことに成功する。
その後、呉大澂はロシア側交渉官と直談判し、黒頂子山地区(今の吉林省琿春市敬信鎮)の返還を迫り、これを同意させている(同年 10月)。この時の国境交渉時に建立された「土字碑(高さ 1.44 m、横 0.5 m、厚さ 0.22 mの花崗岩)」が、今も 吉林省延辺朝鮮族自治州 の琿春市南東部にある敬信郷防川村の、中ロ国境線上に現存する。

こうして 1888年4月22日(新暦 5月25日)、清ロ北京条約が締結され国境範囲が明文化されることとなった(下地図の右半分「縦しま」模様のエリアが、ロシアへ割譲された)。

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その後、呉大澂は豊富な外交経験を買われて広東巡撫に大抜擢されると(1887年)、 マカオを占領していたポルトガルがさらに勢力拡張を目論み、香山七村へ侵略戦争をしかけた件の事後処理に対応していくこととなる。しかし、同年 8月に鄭州で黄河の河道がふさがってしまい水害と水運交通の断絶が発生すると、翌 1888年5月、河南山東河道総督に抜擢されて広東省を後にするのだった。同年 8月に着任するや否や作業に着手し、 12月中での正常化を成功させる。この時、史上初めて、黄河にコンクリートを使った護岸工事が施されたのだった。

そのまま河道総督として任務を委ねられるも、1894年に日清戦争が勃発すると、湖南巡撫に任じられる。もともと対日本への警戒感が強かった呉大澂は、進んで湖南省から義勇兵派遣を申し出る。こうして 1895年1月、自ら地元兵を率いて出陣するも、3月上旬、遼寧省沿岸での海戦で清軍は大敗を喫し、その責任を取らされて罷免されることとなった。その後、上海龍門書院(上海最古の師範学校)長に就任し(1898年)、政界から引退して、68歳でこの世を去る(1902年)。

この間も東北地方では、帝国ロシアが東清鉄道の延伸とその鉄道付属地の半植民地化を推し進めており、多くの満州住民らが反ロシア感情を強めていた。そうした中、華北地方で義和団の乱が勃発すると(1900年)、この排外主義運動は瞬く間に東北地方にも伝播し、現地のロシア租借地や居留民への立ち退き要求が強まり、同年 7月11日、義和団群衆とこれに加勢した清朝正規軍が ハルビンのロシア人居留区 を包囲し、東清鉄道とロシア駐留軍の撤退を求める、大規模な反ロシア運動が展開する事態が発生するのだった。下地図。

多勢に無勢の中、ハルビンに停泊していたロシア海軍の輸送船オデッサ号は、軍人や居留民らを乗せて、ハバロフスクへ退避することに同意する(上地図の赤色ルート)。この船団が三姓エリアを通過した際、巴彦通要塞の守備軍と義和団の襲撃を受け、大破されることとなる。
同様に、ロシア軍人の残存部隊と鉄道守備隊の兵士らを乗船させた輸送船ジービス号もハルビンを発ち、同月 20日に巴彦通要塞前を通過した際、同じく清軍の攻撃を受けることとなった。この時、輸送船ジービス号も大破する。

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これらはいずれも、ロシア側が通過検査を拒否したことが原因で、清軍は砲台から射撃をしかけつつ、さらに守備隊と義和団部隊が肉弾戦をしかけたものであった。この時、一帯は一気に激しい戦場と化し、ロシア軍上校運輸官ウェン・ニコフが戦死している。

この報復として、同月下旬、サハロフ将軍率いるロシア艦隊が松花江を遡り、三姓エリアに出現すると、同乗していた陸上部隊を上陸させ、四方から砲台基地を包囲し攻撃する。巴彦通砲台を守った 200名の守備隊は最後まで死闘を演じるも、同月25日、ついに陥落する。そのまま周囲の靖辺営などの駐屯基地も陥落し、ロシア軍によってことごとく破壊されてしまうのだった。

この三姓での局地戦は痛み分けで終わった清露両軍であったが、ロシア軍はこの時、東清鉄道保護の名目で、国境線だったアムール川(黒竜江)を越えて大部隊を南進させており、東北地方全域が戦場と化していた。軍事力に勝るロシア海軍により、三姓城下の市街地まで艦砲攻撃を受けるなど、清側は各地で大きな被害を出しており、そのまま東北地方の主要部を占領されてしまうのだった。

最終的に同年 11月、清朝はロシアと「第二次露清密約(満洲に関する露清協定)」を締結し、満州へのロシア軍駐留権や要塞設置、ロシア居留民の保護義務、地方政府に対する監督権など、東清鉄道の付属地だけでなく、東北地方全域にわたる軍事、行政面への介入を強められることとなる。こうしたロシアの動きが、朝鮮半島を支配下においた日本軍を刺激することとなり、ロシアの南下に危機感を募らせた英国と利害を一致させて、日英同盟、日露戦争開戦へとつながっていくわけである。
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こうしてロシア軍により徹底破壊された巴彦通抗俄要塞群であるが、特に 5か所に分かれていた駐屯基地「靖辺后路営(靖辺営)」は、ほとんど原型をとどめていない。

それでも現在、黄土を含む粘土を塗り上げて造営された、頑丈な防塁壁の遺構だけは残存しており、全長 480~594 mほどの正方形型の外枠がはっきり視認できるくらいである。いずれも高さは 1.5~4 mほどで、中には、200 mもの長さの防塁壁が残る箇所もある(頂上部の厚さは 2 m)。途中、門幅 2 m程度の入り口門跡も見受けられる。
また壁内には、兵舎跡や井戸、盛り土(縦×横約 3 m、高さ 1 mほどで、「司令台」と称される)なども残っている。

他方、最前線に位置した「巴彦通砲台陣地」であるが(上写真)、石灰砂岩で築造された防塁壁は、底辺部の厚さが 6 mあり、南面は高さ 2 mほどでしか残存していないが、北面は斜面も含めると、約 10 mもの高度を有する急峻なものであった。また、この南面土塁の中央部には、幅 9 mの門跡が見られる。さらに内部の西側には、大小の火薬庫 6棟、兵舎 10棟分の建物基礎が残存する。



もし、時間があれば、依蘭県中心部の南郊外の土城子村(北 500 m)にある、土城子古城(土城子遺跡)も訪問してみたい(下地図)。形状は不規則であるが、周囲の全長は 3,345 mという巨大さで、黒竜江省政府により史跡指定を受けている。遼王朝&金王朝時代を通じ、牡丹江中流域の中心集落だったと考えられている。

現在でも、高さ 4 mほどの土塁城壁や外堀、甕城跡などが残存し、周囲からは大小さまざまな遺物が出土しているらしい。

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