BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~


黒竜江省 大慶市 肇源県 ② ~ 県内人口 33万人、 一人当たり GDP 28,000 元 (肇源県)


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  勒勒営子古城(珠克都噶珊) ← 出河店の古戦場 と 遼軍本陣跡
  老楽営子古城(今の肇源県茂興鎮漁場村) ← 出河店の合戦時、遼軍部隊の陣所跡
  吐什吐古城(今の 肇源県超等モンゴル族郷維新村の吐什吐屯) ← 遼軍部隊の陣所跡
  莽海古城(今の 肇源県茂興鎮民意郷自主村の莽海屯) ← 遼軍部隊の陣所跡
  他什海古城(春蒐城。皇后店。今の 肇源県民意郷他什海村)
  古城村古城(混同江行宮跡。韶陽川行在所跡。今の 肇源県古城村にある 龍虎台旅游区)
  西南得根古城(西南底根古城。今の 肇源県永勝村西南得根屯)
  仁和堡古城(今の 肇源県仁和堡村にある 仁和堡大橋近く)
  衍福寺 と 双塔(今の 肇源県民意郷大廟村)
  白金宝古代文化遺跡(黒水先民族の古代集落遺跡。今の 肇源県順義郷白金宝屯)
  青龍山古城(今の 大慶市大同区青龍山屯)



前日は、綏化市肇東市四駅鎮にある 八里城跡を訪問後大慶市肇源県三駅鎮の望海屯古城遺跡や 肇州県(旧名:老城基)を訪問してみた。今回は、肇源県中心部(下地図。旧名:城基地。清末の 1906年、肇州庁が開設されるも、ついに城郭都市は造営されなかった)へ直行し、さらに西郊外の史跡群を見て回ることにした。

ハルビン市 の北部近郊への都市間バスは、いずれも「ハルビン(哈爾濱)道外客運 バスターミナル(ハルビン市道外区承徳街)」から発着していた。ちょうどハルビン鉄道駅の北東部で、ハルビン市のバロック歴史文化地区に立地する。投宿した駅前ホテルから徒歩で往復できる距離だった。

ハルビン(哈爾濱)道外客運バスターミナル → 肇源県客運バスターミナル(運賃 45~49 元)
6:00発、7:50発、9:30発、10:00発、11:30発、12:00発、 13:00発、14:30発、15:00発、16:40発


肇源県

肇源県中心部に到着後、まずは 肇源博物館(肇源県中央大街と 建設路との交差点)を訪問してみた。上地図。
この 博物館(1999年7月18日開館)では、古代生物(すでに絶滅した大型マンモスやサイなど。下写真左)の化石を含む、自然、歴史、芸術作品などを幅広く展示しており、特に歴史コーナで、中央政府指定の青銅器時代の集落遺跡「白金宝遺跡」を筆頭に、小拉哈遺跡(新石器時代の集落遺跡)や、望海屯古城(今の 大慶市肇源県三駅鎮)、大青山古戦場(日中戦争中の 1942年に発生した古戦場)、衍福寺双塔(今の 肇源県茂興大廟村に残る、ウイグル仏教&モンゴル族&漢民族文化が融合した、高さ 15 mの塔)などがピックアップされて、時系列的に郷土史が解説されている。また、県内に残る 遼王朝&金王朝時代の古城遺跡や、遼王朝後期に皇帝が毎年春を過ごした 長春州城(今の 吉林省白城市洮北区徳順モンゴル族郷に残る城四家子城跡)近郊の様子(漁業や狩り現場 = 春捺鉢遺跡群)、出河店の古戦場、明代&清代の駅伝ネットワークなどの、個別トピック解説も見どころとなっている。

肇源県 肇源県

目下、肇源県下には、中央政府指定の史跡が 1か所、黒竜江省政府指定のものが 4か所、市県レベルの指定史跡が 100ヵ所も点在する。古城遺跡だけでも大小あわせて 11か所あり(大慶市全域では、約 20現存する)、下地図の通り、かなり広範囲に散らばっているので、白タクをチャーターし、できるだけ効率的に巡ってみたい。

勒勒営子古城跡(出河店の戦い時の、遼軍の本陣跡。今の 大慶市肇源県茂興鎮民意郷)→ 衍福寺の 双塔(今の 肇源県茂興鎮民意郷大廟村)→ 他什海古城(今の 肇源県建民村他什海屯)→ 古城村古城(今の 肇源県古城村にある、龍虎台旅游区)→ 西南得根古城(今の 肇源県永勝村西南得根屯)→ 仁和堡古城(今の 肇源県仁和堡村にある、仁和堡大橋近く)→ 肇源県へ戻ってみた。下地図。

肇源県

早速、本日のメインである、出河店の古戦場跡を訪問してみる。

遼王朝&金王朝時代に「出河店(別名:作珠赫店)」と呼ばれた場所は、その地形を見れば納得がいくものであった。すなわち、嫩江の河岸に張り出すように形成された丘陵地帯で(今の 大慶市肇源県茂興鎮民意郷)、西隣には茂興湖という沼地を有しており、まさに「河川の水辺に突き出るような地(店=小規模な集落地の意)」だったわけである。水路&陸路のポイントを抑えた地の利は、圧倒的な存在感を有していた、と考えられる。下地図。

当時、この要害の高台上には、既に遼王朝が建造していた 駐屯基地(珠克都噶珊、勒勒営子城、昂拉勒城【モンゴル語】などと称されていた)が立地しており、1114年11月、10万の大軍で進軍した際、遼皇帝自らが滞在し本陣を構えた場所であった。そして、この周囲に点在した高めの土地に、雨天による暴風雨を避けるように、配下の大部隊が各々陣所を設営していた、と考えられる。つまり、本陣と各部隊は、沼地と雨天の泥水に分断される形で配置されていたため、この暴風雨の深夜に夜襲をかけてきた女真族の部隊が、易々と 10万もの大軍勢に守られていたはずの遼軍本陣を突くことができたのだった。 まさに織田信長による、桶狭間の今川義元本陣急襲に似た構図であった

肇源県

深夜の大雨の中、突如現れた女真族軍を前に、遼軍は右往左往の大混乱に陥り、甲冑や武器、食料を放棄して潰走してしまったわけであるが、実際に戦死した者の多くは、増水し荒れ狂っていた嫩江を渡河しようとして、溺死してしまったケースが圧倒的だったと推察される。また、東北地方の 11月末は、すでにマイナス 10度にもなる酷寒で、凍死者の方が多かったと思われる。

なお、当時の遼軍がこの 珠克都噶珊(勒勒営子城、昂拉勒城)の駐屯基地を本陣とし、周辺に各部隊の陣所を展開したことから、出河店の古戦場に絡む遺跡として、付近に点在する城跡 ー 吐什吐古城(今の 肇源県超等モンゴル族郷維新村の吐什吐屯)、莽海古城(今の 肇源県茂興鎮民意郷自主村の莽海屯)、老楽営子古城(今の 肇源県茂興鎮漁場村)など ― も含まれていた、と考えられる。実際に、現在もこれらの古城遺跡が残っているかは不明であるが、直接、地元に出向いて村人に確認して回りたい。上地図。



 出河店の古戦場

遼王朝&金王朝時代に「出河店」と呼称された地は、今の黒龍江省の南西端に位置し、嫩江の下流と松花江とが合流する北岸一帯を指していた(下段地図)。
嫩江と 栗末水(松花江の上流部分)との 合流地点「三岔河口(大口)」からやや西側に、海抜 160 mほどの小高い 青山頭(大青山)という、南北に長い(600 m)丘陵地帯が立地していた。さらに西隣には、茂興湖の巨大な沼地が広がり、まさに三方向を水に囲まれた天然の要害であった。この山頂からは、今でも四方を広々と見渡すことができ、観光スポットとなっている。下写真。

肇源県

この地で、三国時代の 赤壁の戦い(208年)や、東晋朝の 淝水の戦い(383年)にも並ぶとされる、歴史的大戦が行われたのは、遼王朝時代末期の 1114年11月末の深夜のことであった。圧倒的な小部隊が、大軍勢に勝利するという、類まれな戦例の筆頭となっている合戦である。

その事の発端は、 遼朝最後の 皇帝・天祚帝(9代目皇帝。1075~1128年)が、春期の別荘地だった 長春州城(混同江城。今の 吉林省松原市前郭爾羅斯モンゴル族自治県八郎鎮に残る、塔虎城古城) に滞在中の 1112年2月、例年のごとく、混同江行宮で魚釣り行事を催行し、皇帝が今年初めて釣り上げた魚を調理して祝う、「頭魚宴」の席上で発生する。

当時、混同江行宮は「韶陽川行在所」とも別称され、今の古城村古城を指していた。現在の松花江は、かつて「鴨子河」と呼ばれていたが、遼朝 6代目皇帝・聖宗(972~1031年)の治世下の 1024年、「混同江」へ改称されていた。

この「頭魚宴」の開催時、東北地方の千里(500 km)圏内に割拠する各地の部族長らは、強制的に参加する習わしとなっており、遼皇帝の悪趣味から、集った各族長らは順番に歌や舞いを強要されていた。そして、女真完顔部族長の 完顔アクダ(1068~1123年)の順番が来た時、彼は席を立たずにその即興を断る。天祚帝は何度も催促するも、アグダは頑なに拒否したため、皇帝は側近で 枢密使(宰相に相当)だった 粛奉先(?~1122年)に「これほど興冷めなことは無い、アグダを処刑する口実にしてやろうか」とこぼすも、粛奉先が「完顔アグダは野蛮人で、礼儀知らずなだけです。こんな理由で処刑していては、東北地方の人心を失うことになります」と諫められ、「このような弱小国が万が一にも反旗を翻しても、何ができましょうか?」と付け加えて、その場をなんとか取り繕ったのだった。

無事に難を逃れた完顔アクダは、すぐに自領へ帰還すると、遼朝からの報復に備えるべく、領内の城塞を強化し、兵馬や武器、兵糧の準備に取り掛かることとなる。

肇源県

当時、完顔アクダを含む女真族の各部族や、東北地方一帯の他部族らは、遼朝廷から過酷かつ屈辱的な政策に鬱憤を募らせていたが、北宋朝からの毎年の献金などで財力、軍事力を強大化させていた遼軍には対抗することができなかった。しかし、わずか 1000~2500ほどの自領の部族兵だけで決起した完顔アクダは、1114年10月、まず近隣の 寧江州城(守備兵 800。今の吉林省松原市扶余市の北部に残る、伯都納古城)、寥晦城を一挙に攻略してしまう。東北路統軍使の粛撻は抵抗らしい抵抗もせずに、逃走してしまったという。

これに対し、枢密使(宰相に相当)だった粛奉先は、実弟・粛嗣先に討伐軍の総大将を命じると、早速、重要な軍事拠点だった出河店に着陣することとなる。しかし、混同江を渡河してきた完顔アグダの夜襲を受け、兵士らは離散し大敗を喫してしまうのだった。粛奉先は、実弟・粛嗣先が敗戦の責任を負わされ処刑になることを恐れて、「軍の大敗は兵士らが勝手に逃走してしまったため」と進言し、「ここで粛嗣先を処刑すると、以降、帝国配下の諸隊は離反し、帝国が瓦解してしまう」と皇帝を説得し、粛嗣先は不問に伏されることとなる。これ以降、私縁がまかり通った朝廷内部を反映するかのように軍紀はますます乱れ、以降、遼軍の連戦連敗のきっかけを作ってしまうのだった。

翌 11月、2年前の酒宴での私怨もあったことから、皇帝・天祚帝(1075~1128年)が自ら 10万もの大軍勢を率いて出陣し、完顔アグダの反乱鎮圧戦に臨むこととなった。

なお、この時代、先述のごとく、皇帝・天祚帝の政治は迷走し、帝国はすでに瓦解しつつあるタイミングで、動員された各部隊の戦意と忠誠心は低迷していた。特に、天祚帝は、寵愛した 側室・粛貴哥の言うがままに、実兄の 粛奉先(?~1122年)を大臣職につけ、さらに 枢密使(宰相に相当)にまで引き上げるなど、依怙贔屓な人事により、人心を失っていた。その粛奉先の私縁により、実弟の粛嗣先の遠征大敗までももみ消されたことから、遼軍の軍紀は地に落ちた状態であった(最終的に 1121年、天祚帝を夹山へ逃亡させた後、粛奉先父子は金側へ寝返ろうと北へ逃走を図る中、遼軍兵士によって捉えられ、天祚帝が処刑を命じることとなる。その 4年後の 1125年、遼王朝は滅亡に至る)。

肇源県

こうして同月 11月末にも、遼軍 10万は 青山頭(大青山)を本陣として、嫩江~松花江沿いの各地に陣所を展開していたわけだが、その大部隊が着陣したばかりだった、月末のある日の深夜、完顔アクダは結集した 3,700名の部隊を率いて、暴風雨と酷寒の中、松花江を北へ渡河し、一気に西進して、遼軍の本陣を急襲したのだった。遼軍は武器や食料などを放棄し、一気に濁流の嫩江、松花江の南岸へ渡ろうと殺到したため、多くの溺死者と凍死者を出すこととなった。こうして完顔アグダは、一夜にして大量の軍事物資と捕虜を獲得する、大勝利を収めたわけである。

この遼軍大破の報を聞いた東北地方の諸部族も、そろって完顔アグダに帰順することとなり、一気に東北地方の西半分を勢力下に収めて、翌 1115年1月、金王朝を建国するに至る。下地図。

肇源県

青山頭(大青山)上にあった遼軍駐屯基地跡は、金王朝によって「降州城」へ改称され、引き続き、重要軍事拠点として活用されることとなった。この時に行われた改修工事により、現在、遼王朝時代の本陣跡は全く残されていないわけだが、この兵力差無視の大逆転劇だった歴史的大戦から、すでに 900年近い月日が過ぎた今でも、大青山一帯では兵士らの白骨がたくさん出土し、また土の焼けた地層や武器の残骸なども目にすることができるという。

現在、出河店の古戦場跡と目されているエリアは、この 青山頭(大青山)を西端として、東へ 1.5 kmに至る範囲内で、その一帯では古代の陶器破片などが多数、発見されている。特に、周囲よりやや高台となっている地形部分で、多く出土しているという。しかし、これら当時の遼軍陣所跡地だったエリアは、現在、一面が農地に開墾されてしまっており、地形も大いに加工が加えられている。

なお、この大青山の古城跡&古戦場は、原始時代より古代集落が形成されていた地でもあり、白金宝遺跡と同時代の青銅時代の古代集落遺跡「出河店遺跡」も確認されている。その地の利は現代にも通用するものがあり、1942年には日中両軍の軍事衝突が当地で発生している(大青山古戦場)。また、周囲には烽火台遺跡も残っているという。



続いて、西隣の衍福寺を訪問してみる。下絵図。
ここは大慶市肇源県下でも屈指の観光地で、肇源県民意郷大廟村の西端に位置し、特に境内に残る 歴史遺産「双塔」と「影壁」が、必見のものとなっている(下絵図の赤〇)。


肇源県

衍福寺は、南を嫩江に面しつつ、さらに、西隣には真っ青で風光明媚な 新新湖(面積約 333万 m2)を有するという、川と湖に囲まれる形で水辺に突出するような台地上に立地する。また、周囲にはニレの木がたくさん生い茂り、衍福寺双塔と影壁の白色デザインと重なって、緑と青に映える色彩のコントラストが訪問者を魅了する。下写真。

もともと衍福寺自体は、清代の 1684年、郭爾羅斯(ゴルゴス)后旗の管轄区内で最高位の仏教施設として建立されたものだった。後方に 山(丘)、前方に水辺を有する、典型的な中華式建築スタイルの寺院であったが、 1948年12月25日の大火で全焼してしまう。この時、境内にあった双塔と照壁だけが焼け残る形で残存し、そのデザインの特殊性もあって、目下、黒龍江省政府により史跡指定を受けているわけである。

大火災後に再建された衍福寺は、引き続き、肇源県下で重要な仏教施設として現役で使用されている。この宗教的効用か否かは定かではないが、大廟村では発病率と死亡率が異様に低く、現在、村では 80歳以上の老人約 50名ほどが存命中という。
肇源県

さて、史跡指定を受けている双塔であるが、中国建築文化とモンゴル風ウイグル仏教スタイルが融合された仏塔で、ちょうど、 内モンゴル自治区フフホト市 玉泉区大南街にある延寿寺内の漢白玉石塔、 河北省承徳市 双橋区獅子園路の外八廟景区にあるの 珐琅塔、 北京市 文津街 1号にある北海公園内の白塔など、と同種のデザインとなっている。この三文化が一体化された塔は、青レンガを積み上げた覆鉢式で設計され、東西に 2つ並立されている(距離は 32 m。上写真)。

南向きの塔自体の高さは 15 mで、塔基、塔身、塔刹の三部構成となっていた。
塔基は、さらに基台と基座に分かれ、基台部分は 1辺の長さが 8 m、高さは 3 mあり、東塔は円形型で、西塔は方形型で設計されていた。また、その表面は、仏教で吉祥を表す文言が刻み込まれている。その基台の上に基座があり、方形直立デザイン(須弥式)で設計され、四角部分には方形の角柱で補強されていた。その外壁には、獅子、聚宝盆、宝珠などの鮮やかな図柄が彫刻されている。そして、高さ 2 mの階段状の台座の後、その上に高さ約 4 mの覆鉢デザインの白色塔身があり、表面に 8匹のユニコーンが描かれている(南面のみ、仏像が配されていた)。その上部に高さ 5 mほどの 塔刹(白色の円錐形型)が置かれ、その上に 13段の相輪が連なる。

そして、その東西の 2塔の中央前面 27 mの地点に、寺廟照壁が 1つ残る構図となっている(上写真)。これは、もともと山門の一部で、壁の長さは 16 m、高さは 5 m、厚さは約 1 mで、すべて青レンガを積み上げ出て設計されていた。壁の底部はコルセット風に窪みがあるデザインで、その上に壁身が乗っかる形となっている。



なお、衍福寺のすぐ西隣には、3000年以上前にあった黒水先民族の古代集落遺跡「白金宝古代文化遺跡」が立地する(今の 肇源県順義郷白金宝屯)。とりあえず、中央政府指定の歴史遺産みたいだし、訪問してみることにした。

この大廟村~白金宝屯が連なる新新湖一帯は、黒竜江省政府指定の観光エリア「大廟風景名勝区」となっており、東横の出河店の古戦場や三岔河などと合わせて、一大観光スポットを構成していた(下写真)。この観光地までなら、白タクをチャーターしなくても、肇源県中心部から簡単にバス移動できるかもしれない。そして、この現場で改めて白タクをチャーターすればよいかも(寺院観光などで外で待ってもらう手間も省ける)。

ここから、さらに北へ嫩江を遡っていくと、道宗帝の墓所遺跡、遼朝皇帝の行宮、榆林公園などが集積する「龍虎台旅游区」という、別の観光地が広がっている。

肇源県

その嫩江を北進する道中にあった、他什海古城(今の 肇源県茂興鎮民意郷)を先に訪問してみることにした。



 他什海古城

他什海古城遺跡は、大慶市肇源県民意郷にある他什海村の西部に位置する。

遼王朝時代 初期(2代目・太宗、3代目・世宗、4代目・穆宗、5代目・景宗の 4皇帝時代)の朝廷を支え、最終的に北府宰相にまで上り詰めた、元老・蕭思温(?~970年)の 封地(この時代、「頭下軍州」と称される私領が各地に設けられていた)の一つで、彼自らが築城させた居城とされる。皇帝が行春で捺鉢礼を行うため、毎年春に 混同江行宮(韶陽川行在所)に滞在し、狩りや釣りを行いつつ、東北地方の部族長らと謁見していた際、これに随行した元老・蕭思温も、自らの滞在用の居館を行宮の南側に建設させ、家族の一部を住まわせていたと考えられる。こうして、毎年春の期間だけ城主が帰郷したことから、「春蒐城」と通称されていたという。下地図。

肇源県

この蕭思温の 三女・蕭綽(蕭燕燕。953~1009年)が、969年、16歳で第 5代目皇帝・景宗(948~982年)の 皇后(睿智蕭皇后)に選抜されると、聖宗など多くの子を出産する。元々、病弱だった景宗に代わって深く政務に携わるようになり、いよいよ 982年10月13日に景宗が死去すると(享年 34)、翌日、その子を第 6代目皇帝・聖宗(12歳。972~1031年)として即位させる一方で、 29歳となった自らは摂政として遼朝廷を切り盛りし、権勢を振るうこととなった。彼女の治世下で遼朝は大いに勢力を増長させ、1004年には自ら出陣して北宋軍と対峙し、澶渊の盟を結ぶと、北宋朝から毎年、白銀十万両、絹二十万匹を上納させることとなり(北宋を兄、契丹族を弟とし、北宋朝のメンツを保ってあげた代償)、遼朝の財政を潤沢にして聖宗への政権移譲を成功させたのだった。下家系図。

その聖宗により、蕭思温の孫娘にあたる 菩薩哥(蕭思温の娘・蕭綽の 実弟・蕭隗因の子)が皇后に選ばれ、従兄妹結婚して 斉天皇后(仁徳蕭皇后。983~1032年)となるも、出産した子らはいずれも夭逝してしまい、最終的に子宝に恵まれた 側室・蕭耨斤(?~1057年)の子が、7代目皇帝・興宗(1016~1055年)として即位すると(1031年。16歳)、間もなく斉天皇后は謀反に連座した罪を着せられて朝廷から追放され、 上京臨潢府(今の 内モンゴル自治区赤峰市巴林左旗林東鎮)に幽閉されてしまう。

その後、故郷の「春蒐城」へ送り返され、引き続き、謹慎生活を強制されていたが、翌 1032年3月、興宗が春の行幸で 混同江行宮(韶陽川行在所)に滞在していた折、その 母・蕭耨斤(欽哀皇后となっていた)にそそのかされて、自害を命じられることとなった(享年 50)。自害を伝える役人が訪問した折、「私は全くの無実である。それは天下の人々も知っているはずです。死罪の命がある以上、これに従いますが、まずは身を清めるため入浴後に死にます。よろしいですか?」という最後の言葉が伝えられている。

肇源県

こうした宮廷内でのパワーバランスを知る由もなかった地元民らは、太子が 7代目皇帝・興宗として即位した後、邪魔者となった前皇后の蕭菩薩哥を殺害したと誤認し、その非業の死を憐れみ、「春蒐城」を「他什耨斡麽海(太子が皇后を害した地)」と俗称するようになる(契丹語か、満州語か、その発音は不明という)。その後、長い時間が過ぎる中で、「他什海」へ省略され、今日、他什海古城と呼称されているわけである。

しかし、二人の皇后を輩出した地として、「春蒐城」は当初から「皇后店」とも俗称されていたことが分かっている。この事件以降も、蕭氏一族は遼王朝時代を通じて、朝廷の中枢に君臨し続けることとなり、蕭氏の 私領(頭下軍州)であった春蒐城は、東北地方における駅伝ネットワーク網にも組み込まれ、以降、「皇后店駅」と称されたという。

なお、斉天皇后を自害にまで追いやり、皇太后にまで登りつめた蕭耨斤であったが、自身の子・興宗が先に死去するも(1055年)、全く悲しむ様子を見せなかったという。興宗の 2番目の妻だった 蕭撻里(?~1076年)が嘆き悲しむ中、「あなたはまだ若いわね、何を悲しむことがあるの?」と言い放ったエピソードが残されている。欽哀皇后となっていた蕭耨斤も、 1057年12月に死去すると、最終的に ライバル・蕭菩薩哥(斉天皇后)と共に、 慶陵(聖宗、興宗、道宗の 三皇帝の共同陵墓。今の ウチモンゴル自治区赤峰市巴林右旗に現存) に同時埋葬されることとなった。



もう少し嫩江沿いを北進し、古城村古城と西南得根古城を訪問してみる(下地図)。
今の肇源県新駅鎮古城村~永勝村西南得根屯に広がる、「龍虎台旅游区」内の遼王朝&金王朝時代の城塞遺跡である。

肇源県



 龍虎台旅游区(古城村古城)と 西南得根古城

龍虎台とは、遼王朝時代に開設されていた 混同江行宮(韶陽川行在所)のことで、重要な副王都の一つであった。王朝中期ごろから、毎年春、歴代の皇帝は必ず当地に滞在し、「春捺鉢」を行う習わしとなっていた。春捺鉢では、每回、皇帝が最初に釣り上げた魚と、最初に射落とした ハクチョウ(白鳥)を祝う行事として、それぞれ「頭魚宴」と「頭鵝宴」の酒宴会が開催され、これに 周囲千里(500 km四方)圏の東北地方に割拠する各部族長らも招集され、意見交換と歓談交流する年中行事が持たれていた。

この行幸時にそのまま当地で崩御した、遼朝 8代皇帝・道宗(1032~1101年。前出の 7代目皇帝・興宗の長男。母親は、前出の二番目の妻・蕭撻里)の墓所も現存する。
道宗の治世は 47年にも及んだが、皇帝自身が仏教と狩りに没頭して、帝国財政を大きく傾ける浪費を繰り返す一方で、 1063年の重元の乱鎮定に功績のあった 耶律乙辛(?~1083年)を 20年もの間、北院枢密使(宰相に相当)に在職させ、賄賂政治と 皇族粛清(皇太子・耶律浚の処刑など)を容認したことから、朝廷は乱れ、遼王朝衰退を決定づけてしまう時代となった。
治世の残りの 20年間は、自ら親政を行うも、もはや政治に興味を失っており、ついに 1101年1月、巡遊先の行宮にて崩御し(70歳)、そのまま当地に葬られたわけである。その直後、先に処刑されていた皇太子・耶律浚の 子・耶律延禧(1075~1128年)が、天祚帝として 9代目皇帝に即位する。

この天祚帝が、同じく春捺鉢の行事のため、当行宮に滞在していた 1112年2月、完顔アクダ(1068~1123年)との酒宴の確執を発生させ、2年後の出河店の戦いでの大敗(1114年11月末)、翌 1115年1月、金王朝建国へとつながっていくわけである。最終的に 1125年、遼王朝は滅亡に追い込まれる。

肇源県

この遼王朝時代の重要な 副王都「龍虎台」跡地は、地元で「古城村古城」と呼ばれ、宮殿を守備した城壁や、道宗皇帝の陵墓跡が残されている(上写真)。また現在、その 30 km圏内全域が遼王朝&金王朝時代の重要な歴史地区と認定されており(先の「大廟風景名勝区」も含む)、エリア内の主な道路は、かつての軍用道路や街道がそのまま使用されているという。

その北端は、肇源県永勝村にある 西南得根屯(西南底根村)で、地元では、小米(粟あわ)、榛子(ハシバミの果実)、忘憂草(ワスレグサ)など、皇帝へ献上していた農産物が今でも生産されており、その産地として保護されている。
さらに、この西南得根村の南東約 1 kmの地点に、西南得根古城が現存する。地元では「土城子」と呼ばれる場所で、1957年7月の発掘調査により、正式に遼王朝&金王朝時代の城塞跡と認定されたという。
当時から嫩江沿いに築城され、長方形型(南面 105 m、北面 101 m、東面 152 m、西面 155 m)の設計であった。長年の風雨に晒され、現在は、高さ約 1.5 mの城壁基台部分のみが残るだけの状態である。城内からは、白瓷片、灰色篦紋陶片、褐色釉缸片など陶器類の破片が多数、発見されており、今でも地表面には、レンガや屋根瓦などの残骸が散見される。

その他、富強郷内にある、嫩江の河川内に形成された 三角州「鰉魚島」では、まだまだ原始的な自然生態が残されたままで、往時の原風景を楽しめるという。
この龍虎台旅游区内は緑豊かで、春夏秋冬の四季それぞれに応じ、訪問者に見せる風景が全く異なる。まさに山水画のような自然美を楽しめる地としても有名で、特におススメは夏季~秋季らしい。 

肇源県

なお、この 地名「(肇源県)新駅鎮」の由来であるが、清代に構築されていた駅伝ネットワーク上の 駅伝拠点「ウラン・ノール (烏蘭諾爾) 駅」が開設されていたことに端を発する。上地図。

この駅伝ルートは、 チチハル呼蘭 の間に整備されていたもので、全 20駅が配置されていた。この ウラン・ノール(烏蘭諾爾)駅は、チチハルから 6番目の駅伝拠点として、最後の最後に設置されたため、「新駅」と呼ばれたという。
その開設は 1727年で、黒竜江将軍となっていた 瓜爾佳 傅爾丹(フルダン。1680?~1752年)の命令の下、博爾斉哈駅(茂興蘇蘇駅。茂興駅)と古魯駅の中間地点に設置されたものであった(これらの地名は、いずれもモンゴル語、もしくは満州語の発音を中国語表記している)。上地図。

そもそも「烏蘭諾爾駅」の地名であるが、この駅伝拠点の西側に小さな湖があり、モンゴル語でウラン・ノール泡(泡=湖のこと)と呼ばれていたことに由来する。「ウラン・ノール(烏蘭諾爾)泡」とは、モンゴル語の古語で「紅色泡子(雪溶け水で形成された、小さな赤い湖)」という意味の単語であった。

最終的に 2014年11月9日、それまで 大慶市肇源県「烏蘭諾爾鎮」と呼称されていた地名が、大慶市肇源県「新駅鎮新駅村」へ変更されたわけである。

なお、この「ウラン・ノール (烏蘭諾爾) 駅」の一つ前、チチハルから 5番目の 駅伝拠点「茂興驛駅」であるが、 元々の地名は「茂興蘇蘇」といい、モンゴル語で「この地の水はマズい」という意味であったとされる。別説では、「蘇蘇」が満州語の「驛駅」を意味し、清朝によって開設された駅伝拠点だったことから、この地名は最初から満州語名であった、という意見も提示されている。

清代において、現在の大慶市一帯には 8か所もの 駅伝拠点(驛駅。下写真)が開設されていた。すなわち、茂興駅、古龍駅、新駅、二駅、三駅、頭台駅などである。これらの駅伝拠点はそもそも、主に軍事情報の伝達のため、早馬係の役人らが道中に 飲食、投宿、馬の交換を行う施設であり、各拠点内には 駅丁(駅人)という役人も常駐されていた。これらの駅伝ネットワークは「遼金古道」とも別称される通り、清代以前から構築されていた街道網を、代々受け継ぐ形で維持整備されてきたものだった。

肇源県 肇源県

また、この 駅伝拠点(驛駅)内の 駅丁(駅人)や、早馬の伝達役人らは、特殊な方言を使用していたことで知られる。

これは、清代初期、 雲南省 貴州省 一帯を支配した、平西王・呉三桂(1612~1678年)の藩国下で形成された言葉で、南方の地方言語と、中原から進出してきた呉三桂ら支配層らの言語が融合され、独自の進化を遂げた北方系の言葉であった。最終的に三藩の乱を起こし自滅した呉三桂の勢力圏を吸収した清朝廷は、この特殊な言語を「暗号」的に活用すべく、雲南省&貴州省地方で採用した役人らを、全国の駅伝拠点に 駅丁(駅人)として配置し、この駅伝ネットワーク内での共通語としたわけである。特に、北西部の辺境地区や、雲南省&貴州省、山東省やモンゴル地方での駅伝拠点で、多用されていたという。

こうして、ここ黒竜江省の驛駅に配属された雲南&貴州出身の役人らにより、新たな言語文化や生活習慣が東北地方にも伝播されることとなり、地元民族文化との融合が進んで、独特な駅伝文化、駅人文化を誕生させることとなった。

こうした背景から、現在の茂興鎮内でも、多くの 達翰爾語(モンゴル系)、モンゴル語、満州語、ロシア語、および、この南方少数民族の言語が混用されており、独特なセンスを有する地名が継承されているわけである。例えば、現在、東北地方の方言では「喀」が頻繁に使用されているが、元々、「喀」とは「行く」という意味が原義であったが、多くの場合、言葉の語尾に付随されるだけの助詞として使用され、特に意味を持たない語句となっている。

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この茂興鎮から北へ向かうと、阿木塔モンゴル長生風情島という、別の観光地がある(上写真。開園時間 8:00~18:00、入園料 9元)。大慶市杜爾伯特モンゴル族自治県胡吉吐莫鎮の北 30 kmに位置し、一帯は明代中期からモンゴル族のテリトリーとなり、清代、中華民国時代を通じて、そのままモンゴル族の生活圏として保護されてきた地区であった。

今でも、大慶市下の 県、郷(鎮)、村(屯)、農林牧漁場、草原、山丘、河川、農林牧漁生産農園、観光地、保護区、鉄道駅、遺跡などの名称で、モンゴル語の要素を持つ地名が 2,000も残る。

その代表例が「杜爾伯特モンゴル自治県」であった。下写真。
この「杜爾伯特」とは、モンゴル語の口語で、「杜爾伯徳」=「数字の四」を意味する。元々は集落名として使用されていたことから、「杜爾伯特部」とは「四兄弟たちの集落地」を指していた。古くは、1240年に編集された『モンゴル秘史』で言及されており、実に 800年前から続く単語であったことが分かっている。

また、「西伯」という単語も、今日、あちこちの地名で使用されている。
モンゴル語で「西伯」とは、柳の木、もしくはその他の木材を組み合わせて周囲を囲った木柵のことで、この中で牛や羊を放牧したことから、それらは「柵欄」とか「営子(駐屯キャンプ地)」と中国語訳されてきた。こうした遊牧民族の生活スタイルから派生した地名は、他にもたくさん現存する。
例えば、現在の敖林西伯郷は「高い丘陵上にある 営子(駐屯キャンプ地)」の意であり、烏年西伯は「乳牛の営子」、巴嘎西伯は「小営子尾(小さな駐屯キャンプ地)」、高林西伯は「河川沿いの営子」、桑恩西伯は「旗寺の牧畜飼育拠点」、英田西伯は「碾子がある営子」、蒙根西伯は「旗寺の馬の飼育拠点」、額勒森西伯は「土砂丘陵上の営子」、哈塔西伯は「哈塔河の川辺にある放牧拠点」、公恩西伯は「公爺の営子」を意味していた。

これらの地名や単語は、長い遊牧民族の生活の中で培われた、風俗習慣、地域特性が混ぜ合わされたもので、数百年単位で形成されてきたものである。他にも、郭爾羅斯(「河川」の意)、巴彦(「富裕、豊饒」の意)、古恰(「靠江河に囲まれた集落地」の意)、薄荷台(「鹿が生息する」の意)などの地名が継承されている。

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そして清代に入ると、清王朝を建国した満州族の言語に由来する地名が多用されるようになってくる。その痕跡は、今でも東北地方各地に残されているが、そのうちの一つが、駅伝拠点「茂興駅」のかつての地名「茂興蘇蘇」や、「貝子府(下地図。伝説によると、当時、杜爾伯特旗王爺府の所在地であったためとか、固山貝子草原を取り囲んだ湖があったためとか、固山貝子の封地があったためとか、複数の由来が指摘されている)」や「固山貝子大草原」であった。

「貝子府」の地名に関しては、 内モンゴル自治区赤峰市 にも現存する(敖漢旗旗の南東にある「貝子府鎮」)。元王朝以降、長い間かけてモンゴル族の支配と影響を受けたことから、満州語の中には多くのモンゴル語系の単語も流用されていたことが伺える。
なお、史書によると、「固山貝子」は「貝子」とも略され、満州語の「貝勒」の複数形という。その意味は、「生まれながらの貴族、皇族出身の諸王、諸大臣」であった。清代初期の 1636年、新皇族爵位制度が制定されると、第四等の皇族爵位が「固山貝子」と総称されていた。

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また、清末の 1908年に制作された杜爾伯特旗モンゴル地区に関する地図では(上地図)、満州語、モンゴル語の地名が混用されていた事実が確認できる。特に、複数の漁村名に「拉哈」という文字が含まれており(「达拉哈図」など)、これは、モンゴル語で「麦穗魚(コイ科モツゴ、という淡水魚)」、満州語で「胖頭魚(コイ科コクレン、という淡水魚)」を意味する単語であったという。

その他、「他拉哈古驛駅」の元の地名は「他拉哈亜格」といい、満州語では「匠人の住む地方」、モンゴル語では「矮草甸子(放牧用の草地)」を意味する言葉であった。さらに、東北地方で今でも多く存在する「屯」という地名は、満州語で「集落」を意味する地名の語尾という。こうした両言語の同時混在の事実は、当時から、両民族が共存し合って生活していた様子を、今に伝えていると言えよう。



最後に、東へ戻るルート上にある、仁和堡古城(今の 肇源県仁和堡村の仁和堡大橋)を訪問してみた。
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 仁和堡古城遺跡

大慶市肇源県頭台鎮仁和堡村の南東 200 mにある、丘陵地帯の南斜面上に立地する(肇源県中心部から北西へ 40 kmの地点)。古城の南西 0.5 kmには 碱泡子(湖)があり、東には省道林肇公路が隣接している。

遼王朝時代に築城された城塞集落で、混同江行宮(大慶市肇源県新駅鎮古城村)から、 五国頭城(今の 黒竜江省ハルビン市依蘭県)へと通じる街道上の、重要な中継拠点の一つであった。

城域は台形で設計され、周囲の城壁全長は 1,600 mで、すべてが土塁構造であった。現在、この土塁城壁上には雑草と古いニレの木が生い茂っているが、四角形の形状ははっきり視認できるレベルに残る。特に、西面城壁の保存状態は良好で、南面城壁はやや倒壊するも、全体的に高さ 0.5~1.3 mの土塁壁が一通り、残存している。
なお、この土塁城壁上には多くの小さな洞穴が開いており、奥はかなり深い。これらは キツネやタヌキ、ダウリアハタリス(巨大ネズミ)などの巣で、越冬時にはたくさんの食料を巣穴に溜め込んでいるという。

また、城壁沿いには北門などの城門跡もはっきりと残っている上、外周部には外堀跡も視認できる状態にある。現在、外堀は完全に干し上がっているが、かつては並々と水をたたえていたわけである。

特に、遼王朝&金王朝時代において、城塞は背後に山を、前面に水辺を有する地形が選定されて築城されるのが一般的で、兵舎や軍馬のための飲料水の確保は非常に重要な要素であった。当地も決して例外ではなく、付近には必ず河川が流れていたはずであるが、現在はだいぶん地形も変わってしまい、全く内陸の乾燥地帯となってしまっている。以前は、松花江へ注ぎ込む小川がこの付近を流れ、水が豊富な土地であったに違いない。

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現在、城内は全面が耕地として開墾されてしまっており、その多くはトウモロコシとタバコが栽培されている(上地図)。また、地表面には、今でも多くの陶器類の破片が散乱しており、上面が精巧に鋸歯紋のデザインが施された遺物なども目視できるレベルで、生々しい状態で放置されているという。

現在、古城跡は黒竜江省政府により史跡指定を受けているが、仁和堡村の住民らは未だに古城跡から土砂を掘削するなど、日常的な私的流用と破壊が横行しており、かつ、それらに混じる陶器片など無数の歴史的遺物も無造作に消失されていっているという。



この後、肇源県 へそのまま戻るか、 肇州県 へ移動してみて、ここからハルビン市へ直帰したい。いずれかの旧市街地を視察後、都市間バスに乗車する。

肇州県公路客運バスターミナル → ハルビン市へ
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