BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~


黒竜江省 ハルビン市 呼蘭区 ~ 区内人口 78万人、 一人当たり GDP 75,000 元 (区平均)


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  呼蘭城(呼蘭府城、呼蘭庁城、呼蘭副都統城)
  関岳廟(元・関帝廟。文廟)、龍王廟、真清寺、キリスト教会、城隍廟
  蕭紅故居(中華民国時代の 左翼女性作家・蕭紅の生家)
  西岡公園 と 樹齢 230年越えの サボテン(仙人掌)
  大堡古城(呼蘭区腰堡鎮大堡村)
  穆儿昆城(穆昆城、木儿昆城。今の呼蘭区方台鎮)
  金上京会寧府 ~ 胡里改路城(五国頭城)水陸の 3街道ルート ー 松花江 北岸、南岸、河道




現在の呼蘭区中心部はまだまだ新しい開発都市で、旧市街地はさらに北側の、呼蘭河を渡った呼蘭鎮に立地している。 ハルビン市中心部 からだと、北へ約 25 kmの距離であった。清末には呼蘭府にまで昇格された地方行政府の首都であったが、現在は ハルビン市 に組み込まれ、その一つの区を構成している。域内を流れる「呼蘭河」から命名されたという。

路線バスでは、551番路線バス( ハルビン鉄道駅 ⇔ 呼蘭鎮の中心部)か、 552番路線バス(哈薬路臨時首末駅 ⇔ 呼蘭鎮の中心部)を利用すると、一本で旧市街地まで訪問できる(5元。下地図)。毎日、始発は 6:00、最終便は 20:40と、運行時間も本数も十分あるから安心だ。

呼蘭区

呼蘭河北岸の呼蘭鎮(旧市街地)に入ると、一つ目のバス停「大江広厦」で下車する。
博物館の開館時間もあるので、午前中に「蕭紅故居(呼蘭区城文化路 29号)」を訪問してみる。バス停「大江広厦」から、東へ 450 mほど直進すると到着できる(下地図参照)。

ここは、呼蘭区中心部で必見の観光名所となっている場所で、中国の著名な左翼系作家・蕭紅の生家という。彼女はその作品の中で、度々、故郷・呼蘭や東北地方の生活、風習、風土などに言及しており、特にその代表作の長編小説『呼蘭河伝』で、広く世界に「呼蘭」のことを伝えた功績もあり、現在、その生家は黒竜江省政府によって保護され、史跡指定を受けている。下写真。

呼蘭区

この屋敷自体は、蕭紅(1911~1942年)が生まれる前の、 1908年に建設されたもので、敷地面積が 7,125 m2もある大邸宅であった。東西に 2つの屋敷が立地し、両方あわせて 30部屋も有していた(東側の屋敷は 8部屋、西側は 22部屋)。さらに東側屋敷の裏手には、 2,000 m2 近い菜園まで設けられていたという。

この旧家は、蕭紅の成長期の生活環境を知る手がかりとなる場所であると同時に、1930年代の東北地方に暮らす人々の生活スタイルや風俗習慣を学ぶ上でも、非常に有益な歴史的遺産となっている。その建築技法は、青レンガと青瓦、そして土壁と木材で組み立てられた質素な構造で、清末の典型的な満州民族風「八旗式」建築様式が採用されている。


蕭紅(1911~1942年)はハルビン市双城区出身で、その人生は短くも波瀾万丈そのものであった。
1935年、 上海 の文学界第一人者となっていた魯迅(1881~1936年)の推薦の下、名作『生死場』を発表し、翌 1936年には日本へ留学し、散文『孤独的生活』、長篇詩『砂粒』などを執筆する。

呼蘭区

1938年4月、小説家・端木蕻良(本名:曹漢文。1912~1996年)と 武漢 で結婚するも、日中戦争が激化する中、1940年に夫婦共に 香港 へ移住する。

香港滞在中に、中編小説『馬伯楽』『小城三月』、長編小説『呼蘭河伝』などを発表しつつ、日中戦争批判や女性問題、文芸事情に関する講演活動を積極的に行う。しかし、極貧生活の中で肺病を患ってしまい、闘病生活を余儀なくされる。間もなく、日本軍による香港攻撃が開始されると、九龍半島から香港島の女子中学校(下写真)に開設された野戦病院へ転院するも、まったく治療が受けられない中、1942年1月22日、31歳で死去するのだった(香港陥落は 前年12月25日)。
呼蘭区



さて、「蕭紅故居」見学後、もし、この観光名所の入り口にタクシーが待機していたら、早速、郊外の古城跡を巡る交渉をしたい。

タクシーが見当たらない場合、ここから南二道街沿いを北へ直進し、呼蘭公路客運バスターミナルまで散歩してから、郊外巡りのため、タクシーか郷村バスの移動手段を検討したい(直線距離 1.1 km)。この道中で、旧・呼蘭府城の域内に突入するわけである。通河路(建設路)あたりが、南面城壁跡かと推察される。下地図。

呼蘭区

今から約 300年前に呼蘭城が開設された古城エリアでは、すでに城門や城壁は撤去されてしまっており、城郭遺構を堪能することは不可能であるが、路地名や古寺、古廟などから、往時の様子を妄想することができた。
蘭河大街(西面外堀跡)、順記胡同、西環商城、沿河小区、南大街、北大街、南二道街、東方紅小学校、東府路、二百胡同、北二道街、楽水街(城内水路跡)、蕭郷街道東門社区、通河路(南面外堀跡)など。

呼蘭公路客運バスターミナルに到着する前に、前後左右の観光名所も巡ってみる。

現在の呼蘭関岳廟(下写真左)は、呼蘭城が開設された 1735年からの歴史を有する古廟で、中華民国時代の 1913年までは、関帝廟と称されていた。
また、旧市街地には城隍廟も残る(下写真右)。

呼蘭区 呼蘭区

この他、1752年創建という龍王廟も大切に保存されている。幾度も荒廃しては修復が繰り返されてきた古廟で、この境内には時空を超える静寂さが漂っているという。

旧市街地の東側には、キリスト教会(天主堂)が残る。ここは、1908年にフランス人宣教師の Dazi(戴治逵)が設計したもので、 パリのノートルダム大聖堂 を模したゴシック様式の教会デザインとなっている。下絵図。

呼蘭区

鎮中心部の南面と西面は、湾曲する呼蘭河に面する。双曲拱橋から渡河してくると、西側に大きな西岡公園があり、市民のための憩いの緑地広場となっている。下地図左上。

なお、この西岡公園内では、寒冷地ながら巨大なサボテン(仙人掌)が見られるという。これは、清末に生きた呼蘭旧市街地の地元民が、個人的趣味により床暖房(火炕)上で栽培していたもので(1896年~)、その後、ますます巨大化し当地へ移植されたという。実に 130年近くも生き抜いており、地元で大切に保護されているそうだ。

呼蘭区


「呼蘭」の地名は、近くを流れる呼蘭河から命名されたわけだが、そもそも満州語で「煙囱(煙突。Jintung)」を意味する単語という。また別説では、女真族語でこの地方を呼称した「忽剌温(Hilun)」の発音の変異形だった、との指摘もある。
明代に初めて地名として史書に言及されており、呼蘭山衛という行政庁が開設されていたという。

清代初期、現在の呼蘭区一帯は、盛京内務府や寧古塔将軍に、1683年以降は黒竜江将軍に統括されていた。この時代、呼蘭河流域には偵察基地(満州語で「卡倫」と呼ばれた。数人から数十人の兵士が配置され、地方武官の佐領、もしくは、参領が指揮した)が 8か所設置されており、そのうちの一つが、呼蘭河口部に近い現在の旧市街地にも開設されていたのだった。

以降、この駐屯兵団基地の周りには集落が形成されるようになり、 1734年12月27日には、清朝廷によって呼蘭城守尉の地方役所が開設されるまでに成長する。当時、北より迫るロシア帝国(下地図)に対抗すべく設置された、東北地方の防衛拠点「黒竜江駐防八旗」の一機関として、黒竜江将軍下の チチハル副都統 が統括した。
この呼蘭城守尉(長官)として一名が任命され、その配下に左右翼副総管が各 1名ずつ、さらに佐領と驍騎校が各 8名ずつが配属され、八旗に配属された満洲族部隊、ツングース系エヴェンキ族、モンゴル系ダウール族、満州族八大氏族の一派・瓜爾佳氏、漢民族から構成される合計 500名の駐屯兵士、そして、水軍部隊の部隊長(領催)及び、配下の水兵ら合計 40名を率いたわけである。

こうして呼蘭史上、初めて中央政府より役人が派遣されることとなり、初代・呼蘭城守尉として博羅那が着任してくるわけである(1734~1738年)。しかし当初は、城壁も城門もない、伝統的な満州族の集落でしかなかったため、博羅那はゼロから城郭都市の設計を行い、城守尉衙門や城守尉府第などの役所施設の建設に着手するのだった。
また他方、配属された部下や新移民らを動員し、各地に屯田村を作らせて、農地開墾と道路整備にも尽力する。特に、身一つで移住してきた貧しい農民からの徴税は銀ではなく、収穫された農産物で物納することを許可し、庶民の負担軽減に心を砕いた。このため、年貢輸送係(旗丁)を新設し、各地の交通と徴税システムをゼロから構築したのだった。こうして、呼蘭地区に広大に残されていた未開地の、発展の基礎が準備されていったわけである。

博羅那はその後、 フルンボイル(今のモンゴル自治区呼倫貝爾市)総管 へ昇格&転任されるも、その家族や自宅はそのまま呼蘭に残すこととなった。その姓「博」は「包」の音に近かったため、後世になって子孫は「包」姓を名乗るようになり、今日まで継承されているという。呼蘭城内でかつて有名だった包家墓所とは、すなわち、この彼の子孫一族を指した、というわけだった。

呼蘭区

1806年4月、索倫(地元の呼蘭出身の漢民族系役人であった。 1796年から 吉林府役所 の秘書官としてキャリアをスタートし、黒竜江水軍船の建造責任者としての手腕を買われての抜擢であった)が呼蘭城総管に着任すると、呼蘭城守尉となる。以降、呼蘭城守尉を務めた 20年間を通じ、彼はこの地方に多くの業績を残すこととなった。
特に、松花江や呼蘭河が大洪水となった際、呼蘭城も浸水の危機に瀕すると、索倫は城内の全住民を鼓舞して堤防の補強工事を進め、呼蘭城の水没を防ぐことに成功する。そのまま索倫はこの地で 70歳で死去している。

1862年、呼蘭庁が開設されると、呼蘭城内に併設されるも、1864年には、庁役所が呼蘭城から巴彦蘇蘇城(今のハルビン市巴彦県)へ一時移転される。

1875年、成慶(チチハル市出身の漢民族系役人)が、呼蘭城守尉に着任する。
同年 5月、孔広才の率いる鉱山労働者らの反乱軍が松花江を渡河し、木蘭達(今のハルビン市木蘭県)にあった大小の集落地を襲撃して、巴彦蘇蘇城をも占領してしまう事件が発生する。西集エリアを席巻した反乱軍は、大軍勢で呼蘭城外まで迫ってくると、城内は大混乱に陥ることとなった。
成慶は官兵を率いて城外へ出撃すると、そのまま羅家窝堡で反乱軍と激突する。この戦闘中、反乱軍が保有していた火薬が大爆発を起こしたこともあり、多くの死傷者を出して、孔広才らは撤退を余儀なくされると、成慶率いる清朝正規軍はそのまま追撃戦を展開し、木蘭、巴彦、西集の各地の平定に成功する。乱の鎮圧後、清朝廷から功績を称えられた成慶は、 チチハル副都統 へ昇格されることとなった。その呼蘭城守尉の後任として、同年 8月に恵安が着任してくるわけである。

なお、この反乱鎮圧戦の際、成慶の父親(チチハル城の地方駐屯部隊の司令官・佐領を務めた)が息子宛てに送ったという、気骨あふれる文面が現存する。そこには、「お前と呼蘭城は一心同体である。呼蘭を失陥すれば、お前は我が子ではない」と叱咤激励するメッセージが綴られていたという。

その後、成慶は 1880年の 1年間だけ呼蘭副都統として当地へ再赴任するも、翌 1881年には 璦琿副都統(本部は、現在の黒竜江省チチハル市) へ転任されることとなった。

呼蘭区

さて反乱鎮圧後の 1875年8月から、成慶の後任として呼蘭城守尉に着任した恵安であるが、 北京 生まれの満州族系役人で、1865年より呼蘭庁に役人として勤務していた中で、成慶に見い出されて大出世を遂げた人物であった。彼は、盗賊グループの討伐や、飢餓に苦しむ被災民の救済など、善政を敷いたことから、住民より厚い信頼を得ることとなった。

しかし、驍騎校(地方駐屯部隊の最高司令官)の額勒和布(1826~1900年)が、当地に駐屯する部隊長(佐領)代理を兼任していたタイミングで、額勒和布が商人らへの高圧的な要求を強めたことから、地元民らの苦情を受けた恵安が、額勒和布の武官代理職を罷免する事件が起きる。
この罷免決定に大いに不満を持った額勒和布は、恵安に関する噓をでっち上げ、黒竜江将軍の豊紳(?~1898年)に恵安を告発する。ちょうど同時期、恵安はキリスト教勢力との間でトラブル処理に対応していた最中で、部下がその信徒の顔面を殴打し負傷させたことから、怒った外国人宣教師が黒竜江将軍に圧力かけると、恵安は降格処分に処せられるのだった。
恵安はこうした叱責と嫌がらせを受け、その屈辱と不満感から、同年 10月に呼蘭河へ投身自殺してしまう。

その後、地元民や役人らから直訴を受けた清朝廷は、吉林将軍の銘安(1828~1911年)と、中央朝廷内の刑部侍郎・馮誉驥(1822~1884年)に命じて、これらのキリスト教徒殴打問題と恵安に関する嘘の密告を調査させると、恵安の無実が証明される。これを受けて、密告の首謀者だった額勒和布は辺境の地へ左遷され、黒竜江将軍の豊紳も三階級降格を命じられることとなった。
翌 1876年春に呼蘭河の凍結が解除されると、間もなく恵安の遺体が発見され、その子によって 王都・北京 まで移送され丁重に葬られたという。
呼蘭区

なお、この時、左遷させられた額勒和布(1826~1900年。上写真)であるが、父の薩隆阿は 凉州副都統(今の甘粛省武威市凉州区)を務めるなど、もともとが満州族系の高官一族の出身であった。

彼は、1852年に科挙試験に合格後、官僚養成機関「翰林院」で研修を積み、地方でのキャリアをスタートさせる。1865年当時、盛京戸部侍郎兼管奉天府府尹の任にあり、直隷総督の劉長佑(1818~1887年)を補佐し、奉天の反乱鎮圧のための兵站部門を任され、各地の部隊や物資を総合的に調整する立場を担っていた。その過程で、この呼蘭庁内でも派兵する兵士や軍事物資の調達のため、民間の商人へ何らかの要求、制限を加えていたと考えられる。こうして、商人層からの苦情を受けた恵安と、対立することとなったわけである。

恵安により呼蘭庁内の武官職(佐領)を罷免された額勒和布は、これを逆恨みして恵安を自殺に追い込んだわけだが、他方で奉天省での反乱鎮圧の功績もあったことから、同 1875年、清帝国の北の果てであった外モンゴルの最高軍事司令官・烏里雅蘇臺(ウリヤスタイ)将軍職へ昇格する形で、遠方追放されることとなる。ちょうど、現在のモンゴルにある都市ザブハン県に位置し、短く暑い夏と長く乾いた極寒の冬が続く、辺境の地であった。

その後、1883年に 満州・盛京(今の遼寧省瀋陽市)へ復帰すると、理藩院尚書、戸部尚書を経て、雲南省方面へ異動し、清仏戦争でも強硬派を担うこととなった。これら地方での業績を評価され中央政界へ召喚されると、1884年に体仁閣大学士、1885年には武英殿大学士となり、さらに内務府大臣、軍機大臣などを歴任する。 1894年に退任した後、しばらく皇帝の近侍として出仕し、1900年に引退すると、そのまま同年中に、自宅で老衰死し天寿を全うしたという。

呼蘭区

1879年8月、呼蘭城守尉が呼蘭副都統へ改編&昇格されると、呼蘭城がそのまま副都統の首府となる。 チチハル副都統 の南部が分離され、新設された行政区であった(上地図)。
以降、副都統が一名任命され(初代・副都統として、依克唐阿が着任した。1879~1880年のみ。二代目副都統として、先述の成慶が就任したのだった)、その下に協領 1名、佐領 12名、驍騎校 12名、防御 4名、領催 48名、馬甲 452名が配される。なお、佐領と驍騎校は、地方武官の最高司令官職に相当していた。
さらに副都統衙門(役所)内では、秘書官、倉庫管理官、倉庫管理秘書官、管官屯七品官、及び官屯領催などの役人らが勤務した。

1900年、呼蘭副都統の倭克津泰(任期:1882年9月~1901年4月)は、ロシアや日本などの外国勢力の侵入に対抗すべく、呼蘭城の外堀と土塁の強化工事に着手する。この時、掘削された外堀の幅は 2.6 m、土塁の高さは 3 mで、この土塁と外堀で城郭都市の三面を完全に囲うこととなった(その全長は 3.75 kmにも及んでいた)。南面のみ呼蘭河に直接、面していたため、堤防が城壁として兼用されたわけである。

1905年1月、呼蘭副都統が呼蘭府へ昇格される(下地図)。同時に、呼蘭府城内は、南区と北区に分割管理されることとなった。
この時、呼蘭府の管轄域は、東西 600 km、南北 210 kmにも及ぶ広大なものであったが、引き続き、配下の州役所 1つと県役所 2つで監督していた。すでに肥沃な土地の大部分は開墾し尽くされ、一大食料生産地帯としての地位を確立しつつある頃であった。

1911年、呼蘭府長官の王順存が呼蘭府城下の整備を進め、西大街を新たに敷設すると、城内の中央部に十文字で東西、南北の大通りが交差されることとなった(この時、全長 2.75 kmの南北大街、2.65 kmの東西大街が完成する)。

呼蘭区

中華民国が建国された翌 1913年、呼蘭府が呼蘭県へ改編される(そのまま呼蘭城が使用される)。引き続き、黒竜江省に帰属した。

1932年に満洲国が建国されると、引き続き、黒竜江省に属した(1934年に濱江省へ移籍)。 1936年にはハルビン特別市へ編入されるも、1937年にハルビン特別市が廃止されると、そのまま濱江省に直轄される。

1945年10月に満州国が崩壊すると、ソ連軍が進駐してくる。その後、中華民国へ行政権が移譲されると、翌 1946年4月、松江省が新設され、呼蘭県は濱江省から松江省へ移籍される。共産党時代の 1954年8月、松江省と黒竜江省が合併され、新・黒竜江省が誕生すると、これに属する。そして 1958年、ついに呼蘭鎮が ハルビン市 に編入されて、今日に至るわけである(2004年2月4日に呼蘭県から呼蘭区へ改編される)。



できれば、この西岡公園は、最後の最後に訪問したいと思っている。
先に、古城地区の中央部に位置する呼蘭公路客運バスターミナルから、タクシーをチャーターし、郊外を巡った後、その帰路に「西岡公園」を指定すれば、一石二鳥と考える。

呼蘭区

さて、郊外地区であるが、この呼蘭河沿いには、新石器時代から古代人類が生息していたようで、この時代の集落遺跡が、風光明媚な団山子に残っているというが、これはスルーする。

遼王朝&金王朝時代にあって、この松花江沿いは経済、政治の重要ルートを成したことから、沿岸には人口が集中し、土地開発が大いに進むこととなった。この中の一つとして築造されたのが、城塞集落跡の大堡古城(呼蘭区腰堡鎮大堡村)や、穆儿昆城(呼蘭区方台鎮)である(上地図)。これらが史書に記録が残る、呼蘭区最古の集落地「胡剌温屯」だったと考えられている。

またその他、同時代の遺跡としては、石人城古墓石人などもある(上地図)。



 大堡古城

大堡古城は、呼蘭区腰堡鎮大堡村の南側に位置し、松花江の北岸から 3.5 km 離れた台地上に立地していた(上地図)。松花江の北岸に整備された街道沿いの、城塞集落の一つだったと考えられている。

史書によると、土塁城壁の東西の長さは約 400 m、南北は約 500 mという規模で、やや大きめのサイズで設計され、東面、西面、北面の三面に外堀が掘削されていたという。現在、南向きの甕城門が 1か所と、馬面が 9か所、四隅に配されていた角楼のうちの 1か所のみが残存するだけとなっている。

また城外の南西端には、盛り土された高台(面積 1,000 m2サイズ)が残っており、地元では「点将台」と呼称されている。しかし、この盛り土は、長い時間かけて、村民らによって掘削され、土砂が別へ転用されてしまったため、かなり目減りしてしまっているという。それでも、目下、地表面にはまだまだレンガや屋根瓦などの残片が散らばって放置されたままとなっている。一部の学者からは、この盛り土部分は、祭祀用の祭壇だったとする意見も出されている。

なお、城内でも、多くの青レンガ、布紋瓦、定白陶磁器、仿定瓷などの破片が散らばったまま残存し、さらに、石臼、銅銭、鉄製の槍の頭部、鉄農具などが出土しているという。いずれも金代のものと確認されている。

呼蘭区


 穆儿昆城(穆昆城、木儿昆城)跡

ハルビン市呼蘭区方台鎮の南西端にある、金山種畜場内に立地する(上地図)。清代の史書『呼蘭府志』によると、この金代の古城遺跡は、宮家溝(今の公家溝)の西岸 10 kmの地点にあった、との記録が残されている。

金王朝 五代目皇帝・世宗(完顔雍【1123~1189年】。1161年に即位)の治世下、南宋朝と一時休戦協定を結んだ金王朝は、久しぶりの長期平和を謳歌し、その国力を充実させ最盛期を迎えることとなる。ちょうど、そんなタイミングで築造されたのが、この城塞集落であった。この時代、松花江の北岸は、「胡里改部」の部族長ら(当時、猛安謀克や明安穆昆と称されていた。中原王朝の千戸長、百戸長に相当。地方武官。)によって分割統治されていた(下地図)。このエリアは、胡刺渾水(今の呼蘭河の支流)の水流によって土壌も豊かで、非常に農業に適した肥沃な土地柄であったという。このため、長期平和が実現されると、帝国全土で急増した人口を賄う食料供給基地の一つとして機能したとされる。

また当時、 東北地方の中核都市&旧王都の上京会寧府城(今のハルビン市阿城区白城村)から、四方へ向けて街道が整備されていた。このうち、北東方向にあった 胡里改路城(五国頭城。今のハルビン市依蘭県。下地図)へ向かうルートとして、水陸あわせて 3街道が敷設されていたという。これらの街道沿いには、大小さまざまな城塞集落が配置されており、そのうちの一つとして築造されたのが、この穆儿昆城(穆昆城、木儿昆城)というわけであった。「穆昆」とは女真族語で「とても長い」という意味の単語で、南北に 533 mもの長大な土塁城壁を有したことに由来する、と考えられている。

現在、古城跡は、黒竜江省政府から史跡指定を受け保護されているわけだが、既にほとんどの遺構は消失されてしまっている(南面城壁沿いに城門跡が一か所、残存するのみ)。

呼蘭区

この金王朝時代、 金上京会寧府(今のハルビン市阿城区白城村)胡里改路城(五国頭城。今のハルビン市依蘭県)に構築された、水陸の 3街道ルート(駅伝ネットワーク)とは、以下のものであった。上地図。

 松花江南岸 陸路ルート
上京会寧府を出発 → 東 30 kmにある 阿城区・蜚克図半拉子古城賓県・慶華古堡寨賓県・常安古城 → 方正県・門古城 → 胡里改城(五国頭城)へ至る 260 kmルート。

 松花江北岸 陸路ルート
上京会寧府を出発 → 虎水(今の阿什河)を下る → 香坊区・莫力古城 → 道外区・黄山古城 → 松花江北岸へ渡河 → 呼蘭区・腰堡古城 → 呼蘭区方台鎮・公家古城(すなわち、穆昆城)→ 漂河を渡河し、呼蘭区・巴彦県へ至る → 巴彦県・少陵河古城 → 五岳河畔の小城古城 → 木蘭県・白楊木河子山古城 → 通河県・三站郷太平屯古城 → 胡里改城へ至る 305 km。

 水路ルート
上京会寧府から出発し、虎水から乗船して川を下り、松花江を経由し、水流に乗って胡里改城まで至る。下地図。

呼蘭区

なお、この 胡里改城(五国頭城。今のハルビン市依蘭県中心部)であるが、東北地方を統括した、 金王朝の初代王都・上京会寧府城(今のハルビン市阿城区白城村)下の 4行政区(上京路、胡里改路、恤品路、曷懶路)のうち、胡里改路の首府を務めた重要都市であった。この胡里改城(五国頭城)に、万夫長(万戸府のこと)の行政庁が開設されていたわけである(現在の牡丹江は、当時、「胡里改江」と呼ばれていた。この河川名がそのまま地名へ転用されていた)。

そもそも五国頭城の「五国」とは、遼王朝時代に支配されていた女真族の主要部族集団 5つを指していた。すなわち、剖阿里部、盆奴里部、越里篤部、奥里米部、越里吉部の 5部族である。特に、越里吉部は五国部の中でも西端に位置し、かつ五国聯盟部の中で筆頭格の存在であったことから、その居城が五国頭城と称されたのだった。女真族の完顔部族が挙兵し、遼王朝を打倒して金王朝を建国すると、これら五国部も帰参し、引き続き、松花江の下流域の支配を追認されていた。
1127年に北宋朝を滅ぼすと、金軍は北宋皇帝の徽帝と欽帝の二人を東北地方へ連行し、1130年からこの五国頭城に監禁することとなる。そのまま両名は当地で死去している

呼蘭区

こうした政治的、経済的な重要都市であり、交通の重要ハブとして君臨した 胡里改路城(五国頭城)と、 上京城会寧府 との間は、当然のごとく、官民に渡って多くの人やモノが往来していた。金朝皇帝や貴族、高官らの巡遊や公務移動(地方行政を司った路役所の万夫長らが政事報告のための移動など)、軍隊や兵糧の移送、庶民や商人らの私取引のための往来など、が頻繁に行われていたわけである。また、これらの街道沿いには、行商らが仮設で市場を建てては商売を行っていたという。

前述の大堡古城や穆昆城跡は、この上京会寧府城から胡里改路城へ至る、松花江の北岸ルート上に開設された城塞集落跡であった。その街道沿いにあって、公務のための駅伝ネットワーク上の宿場町を兼ね、また地元で暮らす庶民の生活空間でもあり、そして、軍用兵站基地であり、屯田開拓村をも兼ねた存在だったわけである。

当時、整備された松花江の北岸と南岸の駅伝ルートであるが、現在の主要幹線道路網と非常に似通った設計となっており(北岸ルートと今日の省道 S101哈肇公路、南岸ルートと今日の国家高速道 G15同三高速公路)、現代でも通じる地理感覚を、当時の女真族らは兼ね備えていたことが窺い知れる。この街道から枝分かれした小道なども、現在の交通網に通じるものがあった。

呼蘭区

中国では、戦国時代より中原各国で駅伝制度がスタートし、秦代、前後漢王朝時代で全国規模に発展し、隋代&唐代でさらに細部化されていった。そもそも「駅伝」とは、駅=馬、伝=車を意味し、馬と馬車を乗り継ぐ中継拠点を意味する単語であった。これらは、広大な領土を効率的に統治するシステムとして確立されたもので、中央集権体制の浸透と維持に大いに寄与する。各駅伝拠点には、人、馬、車などが常備され、主に街道ルートに近接する集落地に開設されることが多かったという。

特に金王朝時代、この東北地方では、狩猟、漁業、牧畜、農業技術などが大きく発展した時代で、人、モノの往来がかつてないスケールに増大していく。
女真族の風習として、どの家庭でも馬が飼育されており、貧しい家庭でも十匹余り、富裕な家庭では数十、百匹以上もの飼育が行われていたという。こうした馬の存在が大前提として成立していた東北社会にあって、街道沿いの集落や駅伝拠点も、人馬や馬車が一日で移動できる距離ごとに配置されていったわけである(当時、夜間の移動は危険視され、避けられていたため、滞在先で朝食を終えた後、まる一日を移動し、夕方の頃合いで次の集落地や駅伝拠点に到着できる距離感が目安となっていた)。こうして、点と点をつなぐような形で街道が整備され、さらにその街道沿いに新たな集落地や駅伝拠点が誕生する、という好循環な社会発展が進んでいくこととなった。



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