BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~


黒竜江省 ハルビン市 賓県 ~ 賓県人口 45万人、 一人当たり GDP 38,000 元 (県平均)


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  賓州府城(賓州直隷庁城、苇子溝)
  慶華古山寨跡
  常安古城
  仁合古城(曲江県城。今の ハルビン市賓県新甸鎮仁和村)
  永寧城跡(甫答迷旧城、不答迷古城駅)
  紅石砬子古城、紅石砬子遺跡、白石砬子漢代古城遺跡、紅旗古城遺跡、老烏河屯遺跡
  札拉奴古城(札不刺城駅。今の ハルビン市賓県永和郷小城子村 ~ 太和堂村辺り)



ハルビン鉄道駅南口に投宿していた 7天ホテルから南進し、地下鉄「博物館駅」まで歩く(1 km弱)。ここから地下鉄 1号線に乗車し、東端の終点駅「ハルビン東駅」で下車する。

この北側に隣接する「ハルビン三棵樹客運バスターミナル」から、賓県行の郊外バスに乗車する。
一日 70便が運航されている(5:50~17:20。約 10~20分に一本が発着)。運賃はバラつきがあり、 9元、9.5元、11元、11.5元と 4種類ある

鉄道でも移動できるが、賓州駅から旧市街地まで距離があるので、都市間バスが最適だった。

賓県の 旧市街地(賓州鎮)に到着後、まず、南西端にある 賓県堂聖斋民俗博物館(今の 賓県賓州鎮勝利街)を訪問してみる。下地図。

賓県

続いて、旧市街地を散策してみるわけだが、すでに城壁や城門などの遺構は存在していない。しかし、路地名や地名には、はっきりと古城時代の記憶が刻み込まれていた。

北城路、北環西路、北環東路、城隍西路、城隍東路、北環橋、賓州東路、廟胡同、糧豊路、迎賓西路、迎賓東路、東風路、東興路、建設橋、南城新区、西城口腔門診部、賓県西城農貿大市場、賓州南路、賓州北路、交通橋、塩業小区 など。


この賓県の旧市街地に城郭都市が築城されたのは、清代末期の 1881年のことであった。

清朝により立入禁止区域に定められていた東北地方では、居住人口も少ないまま、伝統的な 狩猟&放牧、農業生産をメインとする満州族らの牧歌的な生活が継承され、未開発の広大な土地が残されたままであった。この空白の土地に、西から勢力を伸長させてきたロシア帝国が勝手に住民らを入植させ、実効支配を進めるようになると、これに危機感を強めた清朝は、移民奨励による土地開墾と 経済開発、国境防衛力の増強を急ピッチで促進し対抗姿勢を強める。こうして、農地開墾のために流入してきた漢民族らによって各地に屯田集落が開設されるわけだが、そのうちの一つが、現在の賓県の中心部というわけであった。当時、「苇子溝」と呼称されていた(下地図)。

呼蘭区

苇子溝の町が徐々に成長してくると、1879年、当地を管轄していた 吉林将軍衙門(役所)が、役人の王紹元を派遣し、現地調査を進めた結果、苇子溝に 地方役所(官衙)の開設が提起される。翌 1880年、吉林将軍・銘安(1828~1911年)により清朝廷へ上奏され、続く 1881年1月25日、いよいよ賓州庁役所の設置が正式決定されるに至る(阿勒楚喀副都統の行政区に帰属。上地図)。

こうして、ついに同年 8月22日、州衙署(役所)が開設されると、初代・賓州庁理事撫民同知として、先の調査役人だった王紹元がそのまま着任することとなった。彼は赴任早々、城郭都市の整備に着手するとともに、管轄する行政区を、嘉楽社、久安社、阜財社の 3社に分割し、新・統治体制を構築する。以降、今日に至るまで、この旧市街地が賓県エリアの首府として君臨してきたわけである。
なお、この地名であるが、遼王朝時代に既に「賓州」が設置されており、その州都は、今の 吉林省長春市農安県 の北東にある紅石垒に位置していた。この地名が、何らかの理由で当地に転用された、と考えられている。

こうして清代末期から、ようやく行政庁を有する土地柄となったわけであるが、それまでは四方数百キロにわたって、全く集落も存在しない、無人地帯だけの荒野の地であったという。


そもそも明代には、この松花江南岸に蜚克図衛と岳希阿衛の二衛が設置され、周辺エリアの統治拠点を担っていたが(1408年。これより前の 1406年2月、枷板河の流域に嘉河衛が、同年 7月には猞猁河に撒拉児衛が、同年 9月には蜚克図河の流域に肥河衛が新設されていた)、この二衛も、地元の龍興長白族により委託管理されており、明朝廷はあくまでも間接支配に徹するのみであった。この時代、岳希河が阿什河へ改称されている。

呼蘭区

時は下って、1583年、建州女真族の族長 ヌルハチ(1559~1626年)が挙兵すると、明朝の奴児干都司が間接統治していた東北地方各地を奪取していき、最終的に 1616年、後金朝を建国するに至る(上地図。その皇位自体は、モンゴル帝国からハンの称号を授与されることで正当化した。この時、女真族は満洲族へ改称される)。1636年、後金朝から清朝へ改称し、その王都を 盛京(今の 遼寧省瀋陽市)に定める。
1644年、清軍の主力が中原へ進出すると、東北地方の諸部族もこれに随行し、次々と南へ移住することとなり、東北地方の人口が著しく減少する。それは、現在の賓県一帯でも同様で、住民人口の減少により、再び土地は荒廃してしまうのだった。

この 清代前期(1653~1758年)、今の賓県エリアは、寧古塔将軍と烏拉将軍によって分割統治されていた(後に吉林将軍へ統合)。しかし実際には、この蜚克図河の東部一帯は山に囲まれた荒れ地で、南北 100 km以上、東西 150 km余りにわたって、無人地帯の荒野だけが広がっていたという。
1725年、中原へ大移住していた満州民族らを、東北地方へ送り返す政策が施行されると、この帰郷組に東北地方の土地開発と領土防衛の任務を担当させることとなる。現在の賓県一帯へは、満州族三千戸が送り込まれ、各地に屯田集落が誕生すると、以降、一帯は「老八牌」と呼称されることとなった。

1729年、阿什河沿いに 阿勒楚喀協領(1744年には阿勒楚喀副都統へ昇格される)が開設されると、今の賓県エリアもこれに帰属された。上段地図。

呼蘭区

清代後期(1744~1880年)に入ると、東北地方への移民奨励策が本格化され、さらに多くの漢民族が満州地方に流入し、農地開墾と集落形成が進められていく。そんな集落群の中心として、苇子溝の町が台頭してくるわけである。

また当時、清朝が東北地方に駅伝ネットワークを構築する過程で、この苇子溝の町にも駅伝拠点が設けられたこともあり(上地図)、さらに町の成長が加速する要因となった。そして 1862年、この苇子溝の町に、 阿勒楚喀副都統(今の ハルビン市阿城区中心部)から、地方役人(界官)が派遣されることとなり、駐在所を開設して、盗賊や部族集団の反乱取締りを担当するようになる。そして最終的に、冒頭に触れた賓州庁役所の開設へと進展していくわけである(1881年)。下地図。

吉林将軍の 郭貝爾・長順(別名:郭博羅・常順。1893~1904年に吉林将軍を務めていた)は、賓州庁の管轄地で人口がますます増加したことを受け、1902年10月、賓州庁を賓州直隷庁へ昇格させると(翌 1903年1月11日、正式スタート。下地図)、同時に賓州庁の行政区のうち南東部に位置した燒鍋甸巡検の管轄エリアも分離し、長寿県(後に延寿県へ改称。現在の ハルビン市延寿県)を新設する。下地図。

呼蘭区

翌 1904年3月、朱烈が賓州直隷庁長官として着任すると、1909年6月2日、賓州府への昇格を朝廷へ上奏する。また同年 9月、住民人口の増加に伴い、 賓州府管轄区の南西部に阿城県が新設される(現在の ハルビン市阿城区中心部にあった、阿勒楚喀城内に県役所が開設される。なお、この県名は、単に阿勒楚喀城を省略しただけの名称であった)
同時に東側が分離され、方正県が新設される(上地図)。

そして同年末の 12月、ついに賓州府への昇格が朝廷より公認されると、翌 1910年3月5日、府行政がスタートすることとなった。以降、賓州府は長寿県と阿城県の 2県を統括した(方正県は 依蘭庁 に帰属した)。上地図。

中華民国建国の翌 1913年、賓州府が賓県へ改編されると、以降、賓県として今日まで継承されてきたわけである。
1914年6月、賓県は濱江道に統括されるも、1929年2月に吉林省に帰属する。 1932年に満州国が建国されると、当初はそのまま吉林省に統括されていたが、 1934年10月に東北地方が 14省体制へ改編されると、賓県は再び、濱江省に属した。
満州国崩壊後の 1947年8月、賓県は松江省に属する(この時、東北地方は 9省体制へ改編されていた)。
共産党時代の 1954年8月、松江省と黒竜江省が合併されると、賓県は黒竜江省に帰属され、さらに 1958年8月、ハルビン市 に編入されて今日に至るわけである。



古城地区を散策後、タクシーをチャーターし、郊外に点在する古城跡を訪問してみる。
最初は、中央政府指定の史跡「慶華古山寨跡」を手始めに、反時計回りに、常安古城、仁合古城、永寧城跡を巡って、賓県中心部に戻ることにした(もしくはこの途上で、ハルビン市直行の中距離バスがあれば、そのまま乗車したい)。下地図。

帰路は、賓県客運バスターミナル ⇔ ハルビン市内を循環する郊外バスで、ハルビン市中心部へ戻ることができる(運行時間 4:20~17:30)。

賓県



 慶華古山寨遺跡

ハルビン市賓県新立郷慶華村城子屯の北 200 mにある北崗南坡上に立地する、小規模な楕円形型の 城塞集落遺跡(周囲の全長は 650 mほど)である。

1985年8~9月の発掘調査により、建物基礎跡が 2軒分、釜土の洞穴跡、別の穴がそれぞれ 1か所ずつ確認され、さらに陶器類や 銅器、骨器、石器類など、300点以上の遺物が発見されている。

続く 2013年の発掘調査により、雲紋デザインの陶器破片が発見されたことから、この城塞集落が紀元前 5~後 1世紀ごろから使用されていたことが明らかとなる。この雲紋デザインの陶器類は、中原において 殷(商)王朝時代、周王朝時代、戦国時代、前後漢時代に多用された代表的な陶器類で、当時、貴族層らが好んで使用していたという。これと同じものが出土したことから、古代の東北地方に存在したという橐離国の王都か、これに帰属する有力貴族の拠点集落であったとする意見が、学会で提示されるようになっている。その貴重さから、中央政府により史跡指定を受けるに至った(2013年5月)。

賓県 賓県

なお、橐離国とは、槁离国、索離国とも別称され、後に東北地方に長きにわたって君臨することとなる、扶余国(紀元前 2世紀~494年)の 建国者・東明の出身国として知られる。
その国名が最初に言及されたのは、後漢時代初期の 思想家・王充(27~97年)によって編集された『論衡』の中であった。それも、「北夷橐離人によって建国された地域政権」とだけ触れられる程度であったが、現在の黒竜江省内に関する記述で、初めて中原の史書に記録された地方政権名となっている(下地図)。このことから、その建国は 3000年以上前とも指摘される。

ただし、そもそも王充はこの橐離国の描写をしたかったのではなく、この後漢時代当時、遠く東北地方に割拠した 異民族国家「夫余国」が、いかに誕生したのか(下地図)、という逸話を紹介した際、その 建国者・東明の生い立ちに関する小話として言及した程度のものであった。

それは、北夷橐離国の宮殿に入っていた侍女が、突然、懐妊したエピソードから始まる。不貞を疑って大激怒した国王が、彼女の処刑を命じようとうすると、侍女は「ニワトリの卵サイズの巨大な気泡が天より降りてきて、自分の腹の中に入り込んだために、懐妊した」と弁明する。
その後、その妃は東明という名の男児を無事に出産するわけだが、国王から忌み嫌われた男児は、豚小屋で育てられることとなる。しかし、ブタが放出する熱により暖が保たれたことから、すくすく成長していく。その無事を不快に思った国王は、続いて男児を馬小屋へ移動させ、ここで生活させることにするも、やはり馬が放つ熱に助けられて、凍死に至らしめることができなかったという。
ここに至り、国王はこの天より授かったという男児が本当の話だった場合、罰当たりなことをしていると判断し、その侍女の手元に返してやり養育させることとした。

その後、東明は弓の名手として成長すると、国王は彼が王座を簒奪することを危惧し、暗殺を謀る。これを察知した東明は王都を脱出し、南へ逃走して 掩水(今の松花江が東へ枝分かれした支流)まで至るも、河川に進路を阻まれる。この時、東明は川に弓を放つと、川から魚や鱉が浮かび上がってきて即席の橋を作り出す。こうして東明を無事に渡河させた魚と鱉らは、すぐに散り散りに解散してしまうと、追撃の兵らは渡河できず、暗殺作戦は失敗してしまうのだった。こうしてピンチを脱した東明は、さらに南へ進み、松花江中流の 平原地帯(夫余の地)に到達し、ここで地元民の穢族を束ね、新たに夫余国を建国した、というのだった。

時は、だいたい紀元前 2世紀ごろと考えられており、以降、夫余国は東北地方の中央部に勢力圏を確立し(下地図)、494年に南に隣接した高句麗によって滅ぼされるまで、実に 700年以上もの歴史を紡いでいくこととなる。

呼蘭区


 常安古城

ハルビン市賓県常安郷の南西 5 kmにある古城村の、東 500 mに立地する。 1981年に賓県エリアで一斉発掘調査が行われた際、公式に特定された古城遺跡の一つである。 1986年12月17日には、黒竜江省政府により史跡指定を受けた。

金王朝時代に築城された城塞集落で、ほぼ正方形型で設計されていた。粘土を塗り上げて固めた土塁城壁の全長は 1,000~1,300 mほどの規模であり、目下、東面、西面、北面の三面の土類城壁に関し、保存状態が特に良好という。また、馬面 3か所もしっかり残存する(風雨に晒され、今日現在、高さは約 2 mまで縮小している)。さらに、四隅には角楼跡もあり、高さ 3 mほどが残っている。
城外の南西 300 mの地点には、高めの盛り土部分があり(「点将台」と通称される)、その地表面には、目下、特に多くの布紋瓦の破片が散乱しているという。

この城内からは、金代の 銅印「上京路提控印(印面には、楷書の漢字で "1167年4月18日" と刻印あり)」と「経略使司之印」が、また「上京巡院」や「南巡院使」と刻印された銅鏡など、貴重な遺物が複数、出土している。その他、鉄製の矛や 矢尻、鍋、剣、さらに銅製の人形や銅銭、白色陶器片なども発見されているという。

呼蘭区


 仁合古城(金代の曲江県城跡)上地図

ハルビン市賓県新甸鎮仁和村の小城子屯の、南東 500 mに立地する(下地図)。松花江沿いの南岸の、台地上に築城された金王朝時代の城塞遺跡で、前述の常安古城と同じく、1986年12月17日、黒竜江省政府により史跡指定を受けている。
この場所には、元々、遼王朝時代に兵士駐屯基地が開設されており、金王朝時代に入って、曲江県城として転用されたものであった( 王都・上京会寧府 に直轄されていた)。上地図。

長方形型で四方を囲む土塁城壁の全長は 1,200~1,300 mで、周囲の 城塞集落(この半径 14 km圏内には、自然地形を利用した金代の集落遺跡が 10か所ほど確認されている)とほぼ同規模であった。しかし、現存する土塁城壁の底辺部の厚さが約 15 m、頂上部も約 2~5 mという巨大さで、他の城塞とは段違いの防衛力を誇っていたようである。今でも高さ 2~5 mほどの土塁城壁が延々と現存する。

目下、北面城壁と東面城壁の保存状態が特に良好で、その外周には幅約 10 mの外堀跡まで残されている。しかし、西面城壁と南面城壁は大部分が喪失され、ほとんど形状が不明瞭となってしまっている。また城壁面には、馬面が 5か所、角楼が 4か所が残存し、南壁城壁の中央部には甕城門跡も視認できる状態で残る(横幅、約 18 m)。

さらに、城内の中央部には、地表面より 2~5 mほど高く設けられた盛り土の高台があり、ここに規則正しく配置された 5つの建物基台跡が確認されている。その地表面には今でも、布紋瓦や縄紋瓦の破片などの建築資材、以び、陶磁器類の破片などが散乱しており、かつては、銅鏡、銅銭、六耳鉄鍋なども複数、発見されたこともあるという。

1211~1212年、モンゴル軍による侵攻を受けると、他の東北地方の城塞集落と同様に徹底的に破壊されてしまうこととなった。その後、古城は再建されず、完全に歴史的使命が喪失されたという。

賓県


 永寧城跡(甫答迷旧城、不答迷古城駅)下段地図

ハルビン賓県満井郷永寧村の東 30 mの、古城屯に立地する。「黒瞎子溝」の小川を越え、西へと一本だけ続く田舎道を進むと、右手側に古木群が一列に生い茂る箇所があり、その場所がまさに城壁跡というわけだった。1981年に県下で一斉発掘調査が行われた際、他の古城群と共に正式に史跡認定され、10年後の 1999年1月10日、黒竜江省政府により史跡指定を受けている。

付近では、漢代の 集落遺跡「韓城子古城遺跡」なども見つかっており、金代以前から古い集落が既に複数、形成されていたと考えられる。そして金代に至り、この永寧古城が大規模に築城されたのだった。しかし、モンゴル軍の攻撃を受け荒廃すると、続く元代、明代には駅伝ネットワークの一拠点としてのみ転用されるだけとなる(下地図)。この駅伝拠点が「伏答迷駅」と命名されていたことから、佛塔迷古城とも別称される。

現在、古城の南 0.5 kmには「牛家屯」が、東 1.5 kmには「烏河郷」の集落地が広がる。
この後者の「烏河郷」であるが、現在、「烏河」という河川名は存在せず、地元で「黒瞎子溝」と呼ばれる小川がこれに相当する、という意見も出されているが、その住民らでも「烏河」の由来や存在は誰も知らないという。現在、地名としてだけ継承されているわけだが、この「烏河」が松花江と合流する河口部の湾曲した西岸一帯に、城塞集落が複数、設置されていたものの一つと推察される。

賓県

古城内には目下、 70戸余り、約 200人ほどの住民が居住している。ここに人が住み着くようになったのはごく最近のことで、古くから無人地帯として残されてきたという。昔から地元では不可解な現象が続く場所と言い伝えられ、幽霊が巣くう空間として避けられていたとされる。現在、城壁の一部が壊され、この村へと続く村道が一本、整備されている。

史書によると、元代の駅伝拠点時代、この城塞跡地には、多い時で 40戸の住民が居住していたという。当時、一戸あたりの人口は、現在の三家族分に相当したため、だいたい現在の居住人口と同水準であったと言える。相当に広々とした空間が広がっていたことだろう。

また、当時の史書には、城塞近くに渡河用の船着き場も付設されていた、という記述が残されているが、今日では松花江の河岸から数百メートルも離れてしまっており、到底、船着き場が城下にあったとは想像できない状態にある。しかし、どうやら 1950年代ごろまで、松花江の河道は確かにこの城塞前を流れていたようで、その後の自然環境の変化で、河道が北へ 700~800 mほど移動してしまった、ということだった。現在も残る 地名「老烏河(郷)」が、かつてあった船着き場の名残り、と考えられている。

100年ほど前までは、古城内で多くのレンガ片や瓦片が散乱していたというが、満州国崩壊後に付近に建設された食料工場の建設工事のため、その建築資材として多くの遺物がかき集められ転用されてしまった、という。また、城塞内の東部には、周囲の地面よりやや高く盛り土された高台があり、そこに建物基台跡が残されていたというが、今は高低差もなくなり、完全に平地化されてしまっている。
しかし、城内の別の場所には、地表から約 2 mほど隆起した高台箇所が残されており、ここにも建物が建設されていたことが分かっている。その地表面には、布紋瓦や青レンガ片などの建築資材、陶磁器片などが、今も数多く散乱する。その他、城外では 鉄鍋、鉄鼎、銅銭なども出土しているという。

なお、東西 350 m、南北 300 mの正方形型に近い、全長 1,300 mにも及ぶ土塁城壁は、近郊の中では最大級レベルの一つで、現在も、ほぼ完全な状態で残っている。
ただし、西面城壁の中央部は、約 60 mほどが崩されて平地化され、また四隅に配置されていた角楼のうち、南西角にあった角楼部分が撤去され、3.1 mほどの穴が開いてしまっているが、その他の箇所は見事に現存する。その残存城壁の高さは 3~5 mほどで、かつて増築されていた馬面は、いずれも風化してしまい不鮮明になっている。

また、南面城壁の中央部には、幅約 20 mの城門跡が 1か所あり、さらにもう一か所、北面城壁の東端にも、幅 14 mほどの城門跡が残されている。今でもはっきり痕跡が確認できる状態で、その城壁外には、外堀跡と思われる村道も視認できる。これら城門や 外堀跡、分厚い土塁城壁跡には、長期間にわたり多くの古木や野草が生い茂ってきたことから、風雨による 倒壊&流失が防がれて、ある程度、遺跡保存に一役買ってきたことは明らかであった。

賓県

金王朝末期の 1211~1212年、モンゴル軍の攻撃を受けて荒廃した城塞集落であったが、モンゴル軍により元王朝が建国されると、全国に張り巡らされた駅伝ネットワークの 一拠点「甫丹迷(伏答迷)」が開設されることとなる(上地図。遼陽等処行中書省女直水達達路に帰属)。史書によると、この甫丹迷駅には、馬が 40匹、車両が 40 輌、牛が 40匹、常備されていたという。

この東北地方に張り巡らされた駅伝ネットワーク(「東北シルクロード」とも別称される)のうち、「海西」地域と言われた 松花江~アムール川(黒竜江)流域に構築されたルートは「海西西路」と呼称され、西端の 趙州( 肇州。今の黒竜江省綏化市肇東市四駅鎮東八里村に残る 八里城跡)の水路城駅を起点に、東へと続く河川沿いの 陸路&河川交通ルートの二重構造となっていた。途中 50 kmごとに駅伝拠点が開設されており、この 不答迷(伏答迷)駅は西から数えて 3つ目の拠点であった(1293年設置)。ちょうど烏河と松花江との合流地点に位置しており、水陸両方の交通拠点として、常時、公船も 5隻、配備されていたという(馬車は常備されていなかった)。

明代に入っても、引き続き、数百年来の古城内にあって、駅伝ネットワーク拠点として継続利用されることとなる。この時代、伏答迷城駅(甫答迷城駅。下地図)へ改称されていた。史書によると、トナカイ(巨大な鹿)が 80匹、常備されていたと記されている。

一つ西隣の駅伝拠点は「札拉奴(札不刺駅?扎刺奴駅?)古城」で(下地図)、現在のハルビン市賓県永和郷 小城子村~太和堂村辺りに立地していた。明代を通じ、駅伝拠点は各地で増設されており、この時、伏答迷城駅は海西東水陸ネットワークにおいて、第 5番目の駅伝拠点となっていた

なお、この伏答迷城駅であるが、100%、賓県北西の烏河河口西岸にあったとは断定されておらず、一部では、現在の巴彦県にある古城跡であるとか、元代の駅伝拠点の「捻駅」だった、とする意見も提起されている。この「捻」とは満州語で「大雁」を意味しており、この駅伝拠点が水辺の近く立地し、当時、周囲には多くの大雁が生息したことに由来するのは明白で、川辺にあった永寧古城がこれに該当する、と推論されたわけである。

賓県

それから 70年後、東北地方へも明軍の北伐が繰り返されていた明代初期、この伏答迷城駅一帯でも、モンゴル帝国の支援を期待した地元部族団が、明軍と局地戦を展開した記録が残されている。

1388年、今の呼蘭河の流域一帯に割拠した、女真族リーダーの西陽哈が、部族集団を伴って明朝に帰順してくるも、間もなく反旗を翻し、反明で挙兵すると、明朝 初代皇帝・朱元璋(1328~1398年)を大いに激怒させることとなった。こうして 1395年1月、高齢となっていた皇帝は、燕王の 朱棣(朱元璋の四男)に、北平、遼東の兵力を動員させ、騎兵 7,000、步兵 10,000で西陽哈討伐に向かわせる。
この時の遠征軍には、多くの猛将が参加していた。都指揮使の周興を総司令官に、同右軍都督僉事に宋晟、劉真らが配され、さらに 衛庄徳、景誠(景保安)、張玉、盧震衆らの諸将が随行することとなる。

集結した遠征軍が 咸平府(今の 遼寧省鉄嶺市開原市老城鎮)を出発し、同年 6月、いよいよ 忽剌江(今の呼蘭河)に至る。この 黒松林(今の巴彦老黒山。清代以前には「薩哈連阿林」と称されていた)一帯が、西陽哈の支配領域だったことから、周興は軍を水陸に分けて、西陽哈のテリトリーに侵攻する作戦を採った。すなわち、庄徳に水軍部隊を率いて嫩江を下らせ呼蘭河に至らせる一方、自身は 步兵、騎兵を率いて陸路から北進したのだった。
両軍が再合流すると、兵力を三隊に分割し、宋晟の率いる北路軍は渡河後、北方向の錫伯河から阿陽哈寨を攻撃することとされた。劉真が率いる東路軍は、松花江の北岸を移動して少陵河口を封鎖し、蒙古山寨(今の ハルビン市木蘭県にある蒙古兒山古城)に進駐する。景誠(景保安)の率いた中路軍は、依吉密河(今の 黒竜江省伊春市 鉄力市)から侵攻したのだった。四方を包囲しつつ、各方向から大軍勢で攻め寄せた明軍であったが、黒松林のテリトリーにあった部族らは既に逃走した後で、もぬけの空となっていた。
地元民に反乱軍の行き先を問うと、西陽哈は包囲網が形成される前に脱出し、部族集団を率いて先に松花江を西進し、上流方面へ退散してしまったという。

これを聞いた 総司令官・周興は、劉真らに命じて追撃部隊を編成し、松花江南岸の 斡朵里(今の 依蘭県 にある馬大屯)から 甫答迷城(賓県下の永寧古城)の一帯を捜査しつつ、掃討作戦を展開する。しかし、反乱軍リーダーの西陽哈は、松花江をさらに遡り、山林地帯へ逃亡したため、明軍もついに見失ってしまう。折からの大雨が連日連夜続き、晴れ間も見込めない中、劉真は成す術もなく、撤兵を余儀なくされるのだった。
この過程で、賓県を含む松花江沿いで、小規模部隊どうしの局地戦が複数回あったと記録されることとなる。明軍は手当たり次第、地元民らを捕縛し、女真族の 鎮撫官(地元族長ら) 3人、住民 650人、馬 400匹余りを連行することで戦果としたのだった。

そのまま山林地帯に身を潜めていた西陽哈であったが、いよいよモンゴル族の元朝は弱体化し、援軍が期待できないことを悟ると、1403年、西陽哈は自ら明朝に出向き投降を願い出る。明朝 3代目皇帝・朱棣(1377~1402年?)はこれを許し、同年 12月、兀者衛を開設すると(下地図)、その長官に西陽哈を指揮使として任命する。同時に、鎖失哈を指揮同知に、吉里納などの 6人を指揮僉事に任命することで、間接統治体制による地元支配を構築したのだった。

賓県


 紅石砬子古城(賓県・烏河古山城)下地図

前述の 永寧城跡(伏答迷城駅)から、ほど近い場所に立地する山城跡である。左手にある 田舎道(Y003)を東進すると、そのまま紅石砬子古城に行き着くことができる。下地図。

賓県烏河郷大川村の北東部 2kmにある、紅石砬子山(海抜 150 m)の北面斜面上に築城されていたが、その後の地形変化により、現在は山の斜面の岩場と一体化するような状態で残存する。古城の北 200 mには松花江が流れ、これを見渡す位置に築城されていたことが伺える。
もともと金王朝により、松花江沿いの兵士駐屯基地として造営された城塞陣地で、元代、明代もそのまま城塞として使用されていた。賓県下での一斉調査の際(1981年)、周囲の古城遺跡と共にその存在が公的に認定され、1989年に 地元・賓県政府により史跡指定を受けている。

元代の史書に出てくる「捻駅(満州語では、大雁城の意)」が、先の 不答迷城駅(永寧城跡、伏答迷城駅)のことを指す、という意見も提起されているが、史書の中で、両者の地名が同時に記載されていることから、両者は別々の存在だったとする意見が多数派を占める。この永寧城跡と近接距離にあった紅石砬子古城が、その「捻駅」を指すのではないか?とも指摘される背景となっている。この古城には、背面に山、前面に水辺が広がり、まさに大雁が生息し得る自然環境を有していたはず、というのが根拠とされる。下地図。

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四方を囲む土塁城壁の全長はわずか 650 mほどで、小規模な城塞であったが、その形状は半円形型で、非常に特殊な設計となっていた。 地元民はこれを「月牙城」と呼んでおり、マンモスか象の角のような、パワフルなイメージを重ね合わせているという。

現存する城壁の高さは約 1.5 mほどで、風雨により浸食がかなり進んでおり、さらに大きな樹木が生い茂っていることもあり、山城全体を俯瞰することは不可能な状態となっている。しかし、壁面がはがれ落ちた残存城壁を観察すると、粘土で塗り上げられた地層面(各層の厚さは、約 8~12 mm)をはっきり目視でき、訪問者に築城工法に関するインスピレーションを与えてくれる。

この残存城壁のうち、南面城壁の保存状態が最もマシで、頂上部は厚さ約 1m、底辺部は厚さ 4mほどが残り、中には高さ 2~4 mの部分もある。また、この南面城壁の外周部のみ、外堀跡(幅 3~5 m、深さ 1.5 m)が残っている。

また、城壁の北西角は、松花江が増水の際に浸水した形跡があり、約 20 mにわたって平地と化してしまっている。特に、山城の西外には深い沼地が広がっており、この水によっても土塁城壁の多くが流失し、西面城壁に大きなダメージを与えてしまったようである。
1950年代まで、松花江がこの古城遺跡の真下を流れていたといい、現在は河道が北へ移動してしまって、両者はやや離れた位置関係となっている。つまり、この城塞が建造された金王朝時代、ここは山城であっただけでなく、水城でもあったわけで、まさに当時の人々の生活条件に合致した、地の利を得たロケーションだったようである。

城門は、南西側と北西側に、それぞれ一か所ずつ設けられており、門幅は、約 4~6 mであった。北西の城門外には甕城も増築されており、地形にそって設計されたことから、全体的に楕円形型となっており、その城門は西向きに設けられていた。そのサイズは巨大で、縦約 30 m、横 20 m、全長は 100 mもあり、この小規模な城塞にしては、アンバランスな規模の甕城であった。
さらに四方の城壁面には馬面が設置されていたようだが、大部分の馬面はすでに倒壊し存在していない中、西面城壁には 4か所の馬面(直径 1~2 mサイズの円形型)が、それぞれ 70~80 mごとに配置されていた様子が、はっきり残されている。城壁の四隅には角楼があったであろうが、今日現在、その痕跡は確認できない。

なお、もともと山の斜面上に築城されていたことから、城内の土地は北側が高く、南へと下りが続く地形であったが、現在、古城内の大部分の土地が農地として開墾されてしまっており、多くは平坦に加工されている。その城内では、わずかながら布紋瓦の残骸や青レンガ、陶磁器の破片などが今でも散乱しており、人工的に加工された石器類も、あちこちが欠損した状態で、そのまま地表面に放置されたままとなっている。

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この山城跡の西 300 mの地点には、紅石砬子遺跡(東西約 300 m、南北約 200 mの長方形型)が立地する。
古代の石器類や陶器類が発見されていることから、紀元前後に栄えた古代集落跡と考えられている。

その他、周囲には同種の石器時代の集落跡などが複数、点在する。中でも、城塞集落跡としては、烏河郷久慶村后涛家屯にある「白石砬子漢代古城遺跡」などが代表的である。

なお、この烏河郷には、金代の遺跡が 6か所ある。いすれも、川沿い(かつてあった烏河の河畔エリア)や、これに近い丘陵部の斜面沿いなどの地形が選定され、築城されていたようである。上段地図。

 烏河郷久慶村 前涛家屯遺跡
 烏河郷久太村 老烏河屯遺跡
 烏河郷同楽村 劉尚文屯遺跡
 烏河郷大川村 紅旗古城遺跡
 烏河郷永年村 咸家屯遺跡
 烏河郷后鄧家屯村 后鄧家屯遺跡



 【 真珠 と 鷹の名産地だった、松花江の河岸地帯 】

現在、松花江南岸に広がる賓県一帯には、120ヶ所もの史跡が確認されており、そのうち 15ヶ所が金王朝時代の古城遺跡となっている。

この狭い範囲内に、数多くの城塞集落が配置されていた理由は、以下の 2つが挙げられる。


松花江の河岸エリアは、古代より部族勢力や 地方王権(夫余国や渤海国、高句麗など)の境界線を成してきたこともあり、度々、紛争の最前線となってきたエリアであった(下地図)。
このため、元々あった集落や軍事拠点が征服者によって破壊されると、また新たに城塞拠点が再構築され、さらに次の征服者が重ねて新集落を作るなど、何度も文明の上に文明が塗り替えられる、重層的な歴史を紡いできたわけである。こうしたパワーとパワーの境界線上にあって、現在の賓県一帯には数多くの古城遺跡が点在していくこととなった。


契丹族(後に遼王朝を建国)が渤海国を滅ぼし、その遺民らを南部へ強制連行すると、空白地帯を埋めるように北から女真族が南下し、松花江沿いの平原部の住みつくようになる(以降、このエリアに割拠した女真族は、「生女真族」「五国部」と称される)。下地図。
東北地方では山々から雪解け水を吐き出すため、河川が網の目のように流れており、この 河川交通&経済が重要な地理的条件となっていたわけだが、その主流である 松花江~アムール川(黒竜江)沿いをテリトリーとしたことで、女真族は財力とネットワークを構築して台頭し、後に 金王朝、後金王朝、清王朝を建国するまでに、強大化していったわけである。その「五国部」女真族の中でも、最西端に割拠した完顔部族が最も強大化し、他の女真族集団を統率していくこととなる。

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この新参者の女真族が、未だ遼王朝の支配を受けていた頃、遼朝廷の皇室や貴族層の間では、松花江沿いで取れる真珠や鷹がブームとなり、度々、遼朝の 使節団、交易団が往来したことから、河岸地区の経済開発が進んだと考えられている。

ちょうど松花江の中流域に「長春州城(今の 吉林省白城市洮北区徳順郷の南 4 kmにある、城四家子城跡 )」「混同江行宮(韶陽川行在所)」という、遼朝皇帝が毎年春に滞在していた別荘地が複数、開設されており(下地図)、この滞在にあわせて、頻繁に狩りが行われたことから、沿岸部の女真族らは、度々、それに参加を強要されていた。その都度、部族長クラス以外でも、多くの将兵や商人らも随行していたわけで、こうしたヒト、モノの移動が、女真族、中でも最西端に割拠した完顔部族に、大きな経済的、政治的恩恵をもたらせたと考えられる。下地図。

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遼朝との上下関係の屈辱に不満をため込んだ女真族は、ついに反遼朝で団結して挙兵し(1114年10月)、完顔族長の 完顔アグダ(1068~1123年)に率いられ、金王朝を建国することとなるわけである(1115年1月)。
完顔部族をメインとする女真軍が連戦連勝を重ねていく中で、それまで遼朝に搾取されてきた周辺の各部族らもアグダ軍に帰順するようになり、上京会寧城 を本拠地として金王朝を建国すると、それら諸部族は、この王都周辺へ衛星都市として集住させられることとなった。こうして、松花江をメインとして、これに枝葉のように接続される 河川(伊通河、拉林河、阿什河)沿いに、数多くの城塞集落が造営されていくこととなったわけである。

その後、快進撃を続けた金王朝は、遼王朝、北宋朝を立て続けに滅ぼし、 120年もの間、10代の皇帝が継承して、東北地方~中国華北地方の全域を支配するのだった。

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なお、遼王朝時代~金王朝時代にかけて、この松花江沿いは「鷹路」とも別称され、遼朝の皇室や 貴族層、商人らが鷹と真珠を求め、頻繁に往来したエリアでもあった。松花江と烏河との合流地点に位置した、現在の賓県エリアも、この「鷹路」沿いの中継拠点として開発が進められていったわけである。

この松花江沿いからは名馬や イノシシ、ニンジン、マツの実(松の種)、真珠(貝から採取)、狩り用の鷹「海東青」などを産出され、東北地方を併合していた遼朝廷は、度々、地元の女真族にこれら特産品を貢ぎ物として要求していたのだった。遼王朝は使者を派遣してきては、貢ぎ物を摂取しており、また遼朝の貴族らが当地に遊びにきては狩りの手伝いを強要していた。その際、女真族の族長らは接待を強要され、貢ぎ物以外にも、部族の処女らを提供してきたという。

こうした接待を目当てに、遼朝からはますます使者や貴族らが松花江一帯を訪問するようになり、その負担と処女の提供を女真族へ強いたのだった。その溜まりに溜まった鬱憤が、ついに 完顔アグダ(1068~1123年)による挙兵へとつながっていくわけである。

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当時、現在の依蘭県より東部や北部の黒竜江沿いの一帯は、遼代、金代には「海東」と呼称されるエリアで、女真族系の五国部が割拠していたわけだが(上地図)、当地で産出される狩り用の 鷹「海東青」は、体重こそ ハクチョウ(カモ科)の 5分の1にも満たなかったが、ハクチョウを捕獲する能力を有したことから、遼朝の貴族層からはペットとして、もてはやされていた。上絵図。

また、狩り用の鷹が捕獲するハクチョウが常食としていた カワシンジュガイ(川真珠貝)の体内では、多くの真珠が取れたことから、遼朝廷内における狩り用の 鷹「海東青」の需要は激増し、五国部に来ては乱獲して回っていた。こうした風習から、五国部のテリトリーは「鷹路」と称されるようになり、遼朝の皇室や貴族らの要請を受けた女真族の最西端の 部族「完顔部」がメインとなって、毎年、千人余りもの兵士を重用され、海東青の巣を探索し、鷹を捕獲させられていたのだった。

現在の賓県は、当時、この完顔部族のテリトリーに組み込まれており、完顔部と五国部との間にあって、松花江沿いの重要な交通ルート上に位置したわけである。


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