BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~


黒竜江省 綏化市 肇東市 ~ 市内人口 67万人、 一人当たり GDP 30,000 元(肇東市 全体)


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  八里城跡(肇州城、始興県城、肇州屯田万戸府城、ゴルロス【郭爾羅斯】后旗)
  八里城遺跡 博物館(閉館中)
  普済寺(最篤寿寺)
  扎薩克府(旗公府)



この日は、綏化市肇東市の四駅鎮にある「八里城跡」と、 大慶市肇源県の三駅鎮にある「望海屯古城遺跡」を訪問してみた。地図上でも地名上でも隣接する両村であるが、市の行政区が異なるため、苦労の多い移動となった。

通常は、 ハルビン市中心部 から肇東市中心部へ移動し(ハルビン鉄道駅北口から C901番路線バスで 15元。もしくは、 列車【哈斉城際鉄路】で移動)、ここからローカル線の郷村バスに乗り換えて、同じ市内の四駅鎮を目指すのが王道であるが、かなりの遠回りとなってしまうので(下地図)、何とか、ハルビン市中心部からの直行ルートを探ってみた。

確かに、ハルビン市中心部 → 四駅鎮客運バスターミナルへの直行バスは運行されているものの、毎日 2便(13:30発と 14:30発)のみであった(運賃 16.5元、全行程 52 km)。
これだと帰路が心配だったので、できるだけ早朝訪問する方法を考えていると、ハルビン市中心部 → 五駅鎮客運バスターミナル(綏化市肇東市五駅鎮)への直行バスは、たくさん運行されていた(国道 G301沿いを北進するのみ)。下地図。

肇東市

この四駅鎮行、五駅鎮行の都市間バスは、共に ハルビン(哈爾濱)道外客運 バスターミナル(ハルビン市道外区承徳街)から発着されていた。ちょうどハルビン鉄道駅の北東部で、ハルビン市のバロック歴史文化地区に立地する。投宿したホテルから徒歩で往復できる距離だった。

ハルビン(哈爾濱)道外客運バスターミナル → 五駅鎮客運バスターミナル(運賃 7.5 元、41 km)
7:00発、7:30発、8:00発、8:50発、9:30発、10:00発、10:30発、11:30発、12:00発、 12:30発、13:30発、14:30発、15:00発、15:30発、16:00発、16:30発、17:00発



なお、この五駅鎮への途上に位置する「万宝鎮」までは(上地図)、ハルビン市中心部 から路線バスが頻繁に運行されている(80番、346番路線バスなど)。

この万宝鎮のやや 南側郊外(ハルビン市松北区万宝鎮后城村)には、金王朝時代、上京会寧府城(今の ハルビン市阿城区白城村)を支える、屯田集落(軍粮城)が開設されていたといい、その名残りから「后城屯」「前城子」「后城村」などの地名が今も残る。この后城村まで、346番路線バス一本でアクセスも可能だ(5元)。下地図。

この屯田集落跡を視察後、再び、346番路線バスで「万宝鎮」中心部まで戻り、ここから「五駅鎮」行か、 「肇源県」行バスに乗り換えてもいいだろう。最悪、白タクで八里城跡まで直行する手もある。

肇東市



そして、この五駅鎮客運バスターミナルから四駅鎮へは、省道 S 104沿いをまっすぐ西進するだけだったので(10 km強。下地図)、この区間のみ白タクをチャーターするか、五駅鎮客運バスターミナルから西進する郷村バスがあれば、それでアクセスを試みることにした(後述するが、おそらく「肇源県」行の都市間バスが、途中下車・乗車の客に対応しながら、このルート上を往来している可能性が高い。事前にハルビン道外客運バスターミナルで確認してみたい。「八里城跡」に行きたい、と)。下地図。

ハルビン(哈爾濱)道外客運バスターミナル → 肇源県客運バスターミナル(運賃 45~49 元)
6:00発、7:50発、9:30発、10:00発、11:30発、12:00発、 13:00発、14:30発、15:00発、16:40発


肇東市

ようやく、四駅鎮客運バスターミナルに到着後、さらにタクシーで 5分ほど行くと、八里城跡に到着することができた。下地図。

肇東市

なお、村名「四駅鎮」の由来であるが、清代、松花江北岸沿いの駅伝ネットワーク上の、第四番目の駅伝拠点が開設されたことから、一帯は「四駅」と呼称されるようになったという。清末の 1900年ごろに 四駅千総(地方レベルの 兵士駐屯基地)が開設されると、 1910年には 地方役所「区公所」が設置され、地域行政を司っていくこととなった。以降、現在に至るまで、綏化市肇東市の南西郊外における中心集落として、君臨してきたわけである(住民人口 3万人)。


肇東市


 八里城跡

この古城跡は、綏化市肇東市四駅鎮の西部にある、東八里村の北西 300 mの地点に立地し、四駅鎮中心部から 3.5 kmほど離れている(上地図)。5 km南を流れる松花江沿いに形成された、弓型の台地上に築城されていた。

この松花江北岸一帯は、 遼王朝時代には「出河店(下地図)」と呼ばれたエリアで、嫩江(松花江の上流)に突き出る形で形成されていた丘陵上に、兵士駐屯基地「勒勒営子(昂喇勒古城。今の 大慶市肇源県茂興鎮の南部)」が開設されており、周囲には広大な湿地帯が広がっていた

1114年11月下旬、遼王朝 10代目皇帝・天祚帝(1075~1128年)が自ら 10万もの大軍勢を率いて、この高台の駐屯基地に入り、周囲の丘陵地帯や城塞集落に各部隊の陣所を展開させる。これに対し、11月末の深夜、完顔アクダ(1068~1123年)は自ら 3,700騎余りを率いて、暴風雨と酷寒の中、松花江を渡河し、この遼軍陣営を急襲したのだった。不意をつかれた遼軍は総崩れとなり、大量の武器や食料、捕虜らを残したまま潰走し、皇帝らはいったん 長春州城(今の 吉林省松原市前郭爾羅斯蒙古族自治県八郎鎮北上台子屯に残る、塔虎城跡。下地図)へ撤退し、そのまま 王都・上京臨潢府(現在の 内モンゴル自治区赤峰市バイリン左旗南波羅城)へ帰還してしまうのだった。

なお当時、完顔アクダは、今のハルビン市南部をテリトリーとする、女真族の一派・完顔部族の族長を務めており(下地図)、遼王朝からの圧政にしびれを切らし、自らの部族集団だけを率いて挙兵し(兵力 2,500)、そのまま同年 10月、 寧江州城(今の 吉林省松原市寧江区。下地図。守備兵 800のみ)を攻略して気勢を上げたばかりであった。そして翌月に遼帝国の大軍に大勝利すると、それまで様子見だった周囲の女真族らも、続々とアグダの軍門に帰参することとなり、翌 1115年正月の金王朝建国へと一気に突き進んだわけである。
この歴史上でも類稀な大勝利は、その後のアグダの運命を大きく変えたことから、彼はこの渡河ポイントに「肇基王績の紀念碑」を設置して、運命の大勝利を祝ったのだった。

肇東市

その後、2代目皇帝として即位した 太宗(呉乞買。初代皇帝・アグダの末弟。1075~1135年)により、 1130年、この記念碑の地(金王朝勃興の象徴)に 始興県城(今の八里城)が築城されることとなり、そのまま肇州役所が併設されると、肇州城と呼ばれるようになったわけである。下地図。

3代目皇帝・熙宗(完顔合剌。初代皇帝・完顔アグダの孫。1119~1150年)の治世下、肇州は 上京会寧府(今の ハルビン市阿城区白城村。下地図) に直轄されることとなり、王都近郊の主要都市として、その地位はさらに上昇する。

6代目皇帝・章宗(1168~1208年)の治世下の 1198年には、「太祖神武隆興の地」を紀念し、肇州城に武興軍節度使が併設され、1200年には 漕運司(水軍基地)も開設される。こうして一大軍事拠点化された 肇州城(始興県城)であったが、間もなく、節度使は廃止されることとなった。

8代皇帝・宣宗(1163~1224年)が即位した直後の 1211~12年にかけて、モンゴル軍による侵攻を受け、東北地方全域は壊滅的被害を被る。この戦火の中、落城した 泰州城(今の 吉林省松原市前郭爾羅斯蒙古族自治県八郎鎮北上台子屯に残る、塔虎城跡を指し、遼王朝時代の 旧・長春州城に相当する。1150年に長春県へ降格後、しばらく肇州に統括されるも、1198年に泰州城として再出発していた遼王朝時代の泰州城は、今の吉林省白城市洮北区徳順郷胡里営子村に残る城四家子城跡で、この時、金安県城へ改称されていた)から、多くの住民らが肇州城へ避難してくることとなり、城内は大混乱に陥る。あわせて、泰州城内に開設されていた東北路招討司の 役所(下地図)や、その地方武官の 猛安(ミンガン。千戸長に相当)、謀克(ムケ、モウムケ。百戸長に相当)らの残存部隊とその家族らも移設され、ますます混迷を極めることとなった。

この緊迫の情况下、肇州防御史の 烏古論徳升(?~1218年)は朝廷へ上奏し、肇州を再び節度使へ昇格させ、避難中の東北路招討使にこの節度使長官を兼務させることを提起する。すぐに朝廷から許可が下りると、1214年、肇州城に再び武興軍節度使が復活設置され、東北路招討司も正式に同時併設されることとなった。この時、招討副使として 2人が任命され、周囲の旧・泰州城と、 宜春県城(今の 黒竜江省ハルビン市双城区永勝郷古城村にある、永勝古城) へ駐在させることで、防衛体制の立て直しが図られたのだった(下地図)。

肇東市

これ以降、肇州城は、東北地方における最重要軍事拠点として機能することとなるも、引き続き、モンゴル軍の侵入と破壊が繰り返され、東北地方全域は荒廃し、金朝廷内からも肇州城への赴任を希望する役人が皆無となってしまうのだった。

間もなく、肇州防御史だった烏古論徳升も中央朝廷へ召喚される。
彼は翌 1215年、皇帝・宣宗の遷都に随行して 南京(今の 河南省開封市。下地図)へ移住し、中央朝廷内で 翰林侍読学士、権参知政事などを務めた後、太原府事として最前線の 太原府城(今の 山西省太原市。下地図)へ派遣されることとなる。この時、モンゴル族の一派 4,000名余りが降伏してきたので、そのまま国境警備に配置するも、間もなくの 1217年、モンゴル帝国軍の一部隊が太原府城を攻撃してくると、自ら兵を率いて野戦を挑み、撃退に成功する。翌 1218年、その戦功により左監軍元帥に任じられるも、さらに増援を得て戻ってきたモンゴル軍の大軍に太原府城を包囲され、その攻撃に耐えきれず、落城と共に自ら首を吊って果てている。

ますますモンゴル帝国軍の圧力が増した 1217年、東北地方を統括した上京行省下の全役所が、すべて 臨時王都・南京(今の 河南省開封市。下地図)へ転出されてしまうと、肇州城を守備、監督していた駐留部隊や役人らも退去してしまい、金王朝は自ら 肇州城(八里城)を放棄することとなった。これを開城したことは、すなわち、東北地方の支配権の完全放棄を意味したのだった。

肇東市

上地図の通り、その後も何度も金領を蹂躙したモンゴル軍は、ついに 1234年、金王朝を滅ぼすと、肇州城を含む東北地方の北西部が、チンギス=ハン(1162~1227年)の 末弟 テムゲ・オッチギン(鉄木哥 斡赤斤。1168~1246年)に下賜されることとなる。その後、東北地方全域に駅伝ネットワークが再構築されると、肇州城(八里城)跡に 駅伝拠点「肇州駅」が開設される。徐々に東北地方の経済と人口が回復してきた 1293年、肇州が復活設置され、1295年には肇州屯田万戸府が開設されることとなった。下地図。

明代に入ると肇州が廃止され、1409年に奴児干都司が設置されると、その管轄下で構築された 4つの駅伝ネットワークのうち、海西西陸路の 駅伝ネットワーク(肇州~兀良河)上の起点駅に定められ、引き続き、東北地方の重要拠点を担うこととなった。

清代には、ゴルロス(郭爾羅斯)后旗の役所が、老爺屯(今の 綏化市肇東市四駅鎮の八里城跡)に開設される。以降、1935年に役所が 城基地(今の 大慶市肇源県中心部)へ移転されるまで、松花江北岸の中心都市として君臨した。

肇東市

なお、肇州城は、この東北地方の歴史上、重要な地位を占めるものの、学会では、その正確な位置に関し、未だに結論が出ていない。

目下、有力視されているものは、

   ① 綏化市肇東市四駅鎮にある、八里城跡説
   ② 黒竜江省大慶市肇源県茂興鎮漁場村にある、老楽営子古城説
   ③ 黒竜江省大慶市肇源県三駅鎮にある、望海屯古城説
   ④ 黒竜江省大慶市肇源県茂興鎮の南にある、勒勒営子古城(珠克都噶珊。出河店の戦い時、遼軍本陣跡)説
     清末の官僚&モンゴル歴史家・屠寄(1856~1921年)が最初に提唱
   ⑤ 吉林省松原市前郭爾羅斯蒙古族自治県八郎郷にある、塔虎城説
という。

また、近年に入り、 青龍山古城(今の 黒竜江省大慶市大同区青龍山屯で発見された、遼王朝&金王朝時代の古城遺跡) という説も提起されている。その築城時期や位置関係からも、特に有力視され出しているという。

肇東市

ところで、旧・肇州城の有力候補とみられている八里城遺跡であるが、その名前の由来は、外周城壁の全長が八里(4 km)近くあったためという。ただし、正確な長さは 3,761 mであった(東面城壁 922 m、西面城壁 943 m、北面城壁 911 m、南面城壁 985 mで、だいたい正方形型で設計されていた)。当時としては、屈指の規模を誇る大城郭都市であった。

東西南北の四面には、それぞれ城門が一つずつ配され、いずれも甕城を有し補強されていた。なお、北門と東門の甕城門の入り口は中央部に配置されていたが、西門と南門は左手側から出入りする設計であった。また、城壁面には 馬面(別称:土堞)が 56ヵ所、増築されており、それぞれの間隔は 44~67 mとバラバラであった。さらに、城壁の四隅には角楼が一つずつ設置されていた。
なお、この城壁は、10~15 mmごとに粘土が何重にも塗り重ねられた土塁構造で、現存する高さは 4~5 mほどである。しかし、その底辺部の分厚さは 12 mもあり、相当に重厚な城壁であったようだ。

そして、土塁城壁の外周 10 mの地点には、外堀が一周分、掘削されていた。南面外堀が最も深く(約 7 m)、堀幅は上辺 23.5 m、底辺約 5~6 m程度という、これまた巨大なものであった。他方、西面外堀が最も浅く、4 m前後という。
この外堀のさらに外周には、高さは 1~1.5 mの土塁が一周分、整備されており、その上は 道路(道幅 12 m前後)となっていた。

現在、外堀や城壁部分は、柳やニレの木、そして雑草が延々と生い茂り、每年、春から秋にかけて青々と繁茂する。城内の敷地は、すでに農地として大規模に開墾されてしまっており、ちょうど南門から北門を貫通する形で農道が整備されている。
また、東門と南門部分を除き、土塁城壁や甕城、馬面などの土砂や粘土層は、住民らによって掘削され別に転用されてしまっているものの、大体の城壁基礎は保存されており、黒竜江省内で発見されている古城遺跡の中でも、城域全体がほぼ完全な姿で残存する数少ない史跡の一つとなっている。こうしたことが評価され、現在、中央政府により史跡指定を受け保護されている。

肇東市

また、この八里城跡からは、多くの遺物が出土しており、大小合わせると千点近くに達するという。その内訳は、以下の通り。

① 石器類 30 点ほど(石斧、石臼、建物の礎石、など)
② 骨器類 21 点(スプーンのかけら、鹿角を研いだ武器、など)
③ 銅器類 90 点ほど(装飾品、銅製の仏像、唐代~北宋代、金代に流通した大定通宝、正隆通宝などの銅銭類)
④ 陶器類 150 点ほど(長レンガ、花紋デザインのレンガ、鬼瓦、壺、コップなどの破片)
⑤ 瓷器類 20 点ほど(黒塗りの小壺、円形のお椀、底部が亀形の壺、ブタの頭部がデザインされた笛などの破片)
⑥ 鉄器類 700 点ほど(兵器【刀、矛など】、刑具【両足用の鎖など】、馬具【鐙あぶみ、吊り具など】、
      手工業工具【シャベル、鋸のこぎり、斧など】、農具【牛引き鋤、鋤すき】、
      生活用具【食材用包丁、ハサミ、鉄製の鎖など】)


 普済寺(最篤寿寺)

普済寺は、この八里城遺跡の北門外に立地し、四駅鎮の歴史と共に歩んできた、仏教寺院である。

もともとは清代中期の 1831年、当時あった 東興村(今の四駅鎮のこと。清代まで、地元民は「老爺屯」とも呼称していた)の集落地に建立された唯一の寺院で、最篤寿寺と命名されていた。その境内は、 100人程度が入れる規模であったという。しかし、1880年に出火が原因で全焼してしまうと、老爺屯の南西 500 mの地点に、廟寺が再建されることとなる。この時に再建された最篤寿寺の本殿が、老爺屯の村から南郊外に位置していたことから、「南廟」と称されるようになった。
その後、中華民国時代、満州国時代、共産党時代と継承され、1956年には本寺院の 住職・孟和が、肇東県役所の重役を務めるなど、寺勢が伸長するも、孟和の死と共に寺院の宗教活動もまた断絶してしまい、最篤寿寺自体も廃寺となってしまうのだった。

その後も、地元・四駅鎮の一部の信徒らの間では、細々と宗教活動が継承されてきたが、1989年以降、地元役所の宗教管理局へ仏教活動のための施設再建の請願が出されるようになると、ついに 1992年5月、四駅鎮役所から仏教施設の再登録許可を得る。以降、地元では仏教信者が増加していくも、元々の本堂が小さいままだったため、1993年4月に寺院の拡張工事が着手され、翌 1994年に完成を見ることとなった。これが敷地面積 9,9878.40 m2、建物面積 3,750 m2を誇る、現在の普済寺というわけである(下写真)。

肇東市

ちょうどその南隣 200 m先には、中央政府指定の史跡・八里城跡が立地していたこともあり、以降、城跡に立ち寄った訪問客が、あわせて参拝していく寺院として、共存共栄していくこととなった。
その後、全国各地から高僧などを住職として招聘するも、なかなか定着せず、度々、住職の交代を繰り返すも、今日では住職を含む僧侶 20名、教職員 22名、門徒 2,000人余りが登録されており、毎年の法会には万近い人々が参加するという。



八里城跡と普済寺を見学後、そのまま省道 S104沿いで「肇源県」行の中距離バスを待ってみる。この省道 S104をまっすぐ西進すれば、隣町から大慶市域となり、そこが次なる 目的地「肇源県下の三駅鎮」であった。
ここに、望海屯城跡が立地する
。下地図。

肇東市

帰路は、そのまま肇源県汽運城客運総合バスターミナルから、ハルビン市中心部の道外客運バスターミナルへ直帰することにした(45~49元)。
3:00発、3:40発、4:10発、4:40発、5:10発、6:00発、6:10発、 7:00発、7:50発、8:20発、9:00発、9:05発、10:00発、10:50発、 11:30発、12:10発、13:20発、14:10発、14:50発、15:30発、16:10発、17:00発


肇東市

この日は、わずか 2ヵ所の古城訪問となったが、いずれも中央政府指定の史跡だけあり、内容自体は濃かったと思う。
なお、この綏化市肇東市内には、100余りの史跡が点在しており、中央政府指定の八里城跡を筆頭に、普済寺、清真寺などの省政府レベルの指定史跡 4つ、市レベルの指定史跡 15ヵ所、県レベルが 47ヵ所ある。今回の肇東市訪問は、八里城跡のみとなってしまったが。。。

この肇東市は「三肇(肇源県、肇州鎮、肇東市)」の一角を成す土地で、金王朝時代、元王朝時代に開設されていた「肇州」に由来している。また、この松花江沿いには「営子」という村名が多く、かつて清代後期に形成された屯田集落の名残りという。


 【 綏化市西部(肇東市)の 近現代史 ~ 郭爾羅斯后旗~ 】

明代に開設されていた郭爾羅斯部が改編される形で、清代初期の 1648年、郭爾羅斯后旗が新設されると、その本部が今の綏化市肇東市五駅鎮あたりに開設される(下地図)。

肇東市

1883年、地方役所の扎薩克府(旗公府)が、公営子(今の 黒竜江省大慶市肇源県茂興鎮民意郷。下地図)から、老爺屯(旧名:東興村。今の 肇東市四駅鎮に残る、八里城跡)へ移転される。
1908年、肇州直隷庁が、昌五城の 集落地(今の 肇東市昌五鎮)に地方役所「肇東分防」を開設する。
中華民国初年の 1912年11月5日、肇東分防が肇東設治局へ改編される(1914年には、肇東県へ昇格)。同時に、郭爾羅斯后旗の本部が、老爺屯(旧名:東興村。今の 肇東市四駅鎮に残る、八里城跡)へ移転される。

満州国時代の 1935年9月、県域の 南西部一帯(今の 四駅鎮、西八里鎮、澇洲鎮、徳昌郷、五里明鎮一帯)が、郭爾羅斯后旗の管轄下に組み込まれる。また同時に、郭爾羅斯后旗の本部が、老爺屯から今の大慶市肇源県中心部へ移転される
1945年に満州国が崩壊するも、中華民国支配下で、引き続き、この状態が継承された後、共産党時代の 1956年、郭爾羅斯后旗が 肇源県へ改編され、今日に至るわけである。下地図。

肇東市

他方、1937年12月3日、肇東県役所が、昌五城から 満溝街(今の 肇東市中心部)へ移転される。 1940年5月1日には、県名と 地名(満溝街)が統一され、肇東街へ改称される(後に肇東鎮となる)。満州国が崩壊した 1945年12月以降も、引き続き、肇東県役所はそのまま肇東鎮に立地し続ける。

1946年4月、郭爾羅斯后旗下の 八里村、四興村(今の四駅鎮)、向陽村、三星村、同仁村と、呼蘭県 下の楽安村、安居村、長発村、万宝村が分離され、新設された楽安県に編入される。そして 3か月後の同年 7月、楽安県が廃止されると、そのまま肇東県下に組み込まれる。

共産党時代の 1986年9月8日、肇東県は肇東市へ改編される。1999年には、ハルビン市下の綏化地区が、綏化市として分離・独立すると、肇東市もこれに組み込まれて、今日に至るわけである。


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