BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月-旬 『大陸西遊記』~


黒竜江省大慶市 肇源県 / 肇州鎮 ~ 肇州鎮人口 3.3万人、 一人当たり GDP 19,000 元 (鎮平均)


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  望海屯古城
  双榆寺
  大慶市肇州県の 歴史 ~ 老城基(老街基)
  大慶市肇源県の 歴史 ~ 城基地
  東北地方最大の河川水系 と 三岔河口の自然美 ~ 三色水線




この日は、最初に 綏化市肇東市四駅鎮にある八里城跡と普済寺を訪問後、省道 S 104沿いから「肇源県」行の都市間バスを拾い、西隣にある大慶市肇源県三駅鎮の「望海屯古城」を訪問してみた。

ハルビン市近郊への中距離バスは、いずれも「ハルビン(哈爾濱)道外客運バスターミナル(ハルビン市道外区承徳街)」から発着していた。ちょうどハルビン鉄道駅の北東部で、ハルビン市のバロック歴史文化地区に立地する。投宿したホテルから徒歩で往復できる距離であった。

ハルビン(哈爾濱)道外客運バスターミナル → 肇源県客運バスターミナル(運賃 45~49 元)
6:00発、7:50発、9:30発、10:00発、11:30発、12:00発、 13:00発、14:30発、15:00発、16:40発


おそらく最初から、この「肇源県」行の都市間バスに乗り込めば、途中下車・乗車の客に対応しながら、このルート上に位置する「四駅鎮」や「三駅鎮」を訪問できる可能性が高い。事前にハルビン道外客運バスターミナルで確認してみたい。とりあえず、「四駅鎮の八里城跡」に行きたい、と。下地図。

肇源県

もしくは、両者は隣接する行政区なので、地元で白タクをチャーターして移動した方が、効率的であろうか。



 望海屯古城

大慶市肇源県三駅鎮宏大村の南 500 mの地点にある、丘陵上に立地する。この丘陵地帯はちょうど松花江北岸にあって、東面、南面、西面の三方向を湿地帯や沼地が取り囲む地形で、周囲の眺望がよいポイントであった。これらの湿原地帯は松花江の旧河道で、今でも常時、水を並々とたたえており、大雨が降った折には、松花江の水が沼地に入り込み、水位が上昇して城塞の真下まで達するという。平時には平城、雨季には水城、に変身する、地の利を得た設計となっていたわけである。

この大雨でも沈まない安全地帯ということで、青銅器文化時代から古代集落地が形成されていたことが分かっており、城塞跡の地下には望海屯集落遺跡が眠る形となっている。
1986年12月17日、古城跡は黒竜江省政府により史跡指定を受け、保護されることとなった。

肇源県

伝説によると、この城塞集落は、金王朝初期の 名将・完顔兀術(斡啜。オジュ。初代皇帝アクダの四男で、常に 北宋・南宋軍と最前線で戦った)の妹が支配した封地の一つで、その高貴な地位から、集落の規模も巨大であったと考えられている。長方形型で周囲を取り囲んでいた土塁城壁の全長は、 2,970 mにも及んでいた(総面積 5.4万 m2)。上写真。

この土塁城壁は、粘土を幾層にも練り上げて強化されたもので、全体的に保存状態も良好であるが、特に西面城壁(長さ 850 m)が最も完全な状態で現存し、その高さ 3 m、厚さは頂上部で 4 m、底辺部で 12 m分が残る。そして、この西面城壁の中央からやや南寄り 11.5 mの地点に、城門跡(門幅 22 m)も残る。その外側 28 m先には、この西門を守備するために増築された甕城跡の遺構も見られる。

上記の西面城壁と対称的に、東面城壁は中央からやや南寄りの場所に窪地が残されており、城門跡と考えられている。ただし、この東面城壁の保存状態は最悪で、ほとんどの土塁が喪失されている。
同様に、南面城壁(長さ 550 m)の中央やや西寄りの地点に、幅 15 mの城門跡と思わしき窪地が残る。

なお、この南面城壁の 100 m東には、小さな方型の 出城(城壁全長は 720 m)も建造されていた。下写真。

肇源県

また、東城門外 300 mの地点には盛り土跡が残されており、地元で「点将台」と呼ばれている。点将台とは、軍事訓練や閲兵式の際、将軍クラスの人物が号令や視察を行った、土を盛り上げた高台部分のことを指す。

城内の中央と西部でも、わずかに土地が起伏した部分が残るものの、全面的に平地化されている。現在は一面が農地に開墾され、東端と北端には農家の倉庫が設置されている。

肇源県

それでも目下、まだまだ地表面には、多くの陶器類の破片が散乱する。それらの多くは、泥質灰陶器と黄褐陶器類で、部分的に鋸歯紋型の装飾も残すものもある。また、紅胎黄釉の陶器片も発見されているという。

こうした出土品を精査した結果、古代の青銅器時代に使用されていた、青銅器類や陶器類の破片なども含まれており、当時の古代集落の存在も確実視されている。その古代集落遺跡の上に建造されたのが、望海屯古城というわけだった。



肇源県

もし、時間があれば、さらに西隣の「二駅鎮蓮花村」の南端にある、双榆寺も駆け足で訪問してみたい(上地図)。
寺の境内には、樹齢千年という古木が雄雌一対のように 2本立ち並んでおり、地元で神木として大切に保護されているという。史書によると、1682年(旧暦)3月26日、清朝 4代目皇帝・康熙帝(1654~1722年)が松花江を船で巡遊中、暴風雨に遭遇すると、すぐに河畔へ上陸し、この古木の下で雨宿りした、と伝えられている。その時に詠んだ歌「風急浪涌、江流有声、断岸頹崖、息生怪樹」が今も残されており、これを記念し、以降、地元では重要例祭日に指定され、参拝客でごった返すという。

帰路は、そのまま肇源県汽運城客運総合バスターミナルへ移動するか、省道 S104沿いから、ハルビン市中心部の道外客運バスターミナルへ向かう都市間バスを拾って直帰することもできる(45~49元)。

(肇源県発スケジュール)
3:00発、3:40発、4:10発、4:40発、5:10発、6:00発、6:10発、 7:00発、7:50発、8:20発、9:00発、9:05発、10:00発、10:50発、 11:30発、12:10発、13:20発、14:10発、14:50発、15:30発、16:10発、17:00発



もしくは、どこかで白タクをチャーターし、「三駅鎮」から直接、大慶市肇州県の 中心地「肇州鎮」も訪問してみたい(この鎮内に博物館はないが)。



 【 大慶市肇州県 の歴史 】

今の大慶市肇州県一帯は、明代~清代後期にかけて、哲里木盟十旗の一つ「郭爾羅斯后旗」の管轄区に組み込まれ(下地図)、主にモンゴル族の居住区に割り当てられていた。実質は、単に家畜の放牧地が広がるだけのエリアだったという。

そもそも、ゴルロス(中国語:郭爾羅斯、英語:Gorlos)部とは、モンゴル系の科爾沁部族の一派で、ツングース語(東北地方に分布した満州諸語)の発音表記である。
その発端は、明朝 3代目皇帝・永楽帝(1360~1424年)が、モンゴル勢力を東北地方から駆逐した後、引き続き東北地方西部に残留し、そのまま明朝に帰順したモンゴル系グループに対し、明朝より与えられた部族名であった。その後、6代目皇帝・正統帝の治世下で土木の変が発生し(1449年)、モンゴル族が勢力を挽回すると、東北地方へモンゴル系住民らが勝手に流入してくることとなった。

そうした残留系、流入系のモンゴル族らを統一したのが、モンゴル帝国の建国者 チンギス・ハン(1162~1227年)の 次弟ジョチ・カサル(1164~1215年)の 16世孫に相当する、ウバシ(烏巴什)であった。彼は 1547年6月、嫩江の 下流両岸(現在の 吉林省松原市 一帯)に割拠したモンゴル諸部族を統一し、「ゴルロス(郭爾羅斯)」部の族長と称する。以降、この「ゴルゴス」の名が広く知られるようになったわけである。下地図。

肇源県

清代に入っても、モンゴル族の集落と放牧地は、清朝により保護されていたが、ロシアの侵略に対抗すべく土地開発が急務となり、移民政策が導入されると、このエリアでもモンゴル族以外に、漢民族やイスラム教徒らが流入し、住民人口が大幅に増加していくこととなった。こうして 1904年、住民管理と治安維持、徴税を司る地方役所として、「北郭爾羅斯荒務行局」が新設される。

翌 1905年には、察布奇爾台(今の 大慶市肇源県二駅鎮)に、別の 地方役所「郭爾羅斯(ゴルロス)后旗巡防局」が開設されると、一帯の屯田エリア「安字十二井子」を統括することとされた。間もなく、役所が別の 集落地「駱駝脖子(今の 肇源県中心部)」へ移転されると、以降、「肇州巡防局勘定」と改名される。本格的に備添官が駐在するようになり、「駱駝脖子」の集落地は「城基地」と通称されるようになっていく。

翌 1906年2月1日、黒竜江将軍により、「肇州巡防局勘定」が肇州庁へ昇格されると(下地図。庁役所は、そのまま「城基地」に開設)、以降、現在の肇州市、肇源県、肇東市の 3地区を統括する行政庁となる。 あわせて、 昌五鎮(現在の 綏化市肇東市五駅鎮)に、地方役所「肇東分防経歴」が新設される

なお、この行政区名の由来であるが、 金王朝時代に設置されていた 肇州府(始興県城が兼務。1130年新設)や、元王朝時代の肇州屯田万戸府に関係している。明代には、行政区の名称から外されるも(このエリアは、奴児干都司下の朶顔衛や撒察河衛に統括された)、引き続き、海西西路下の 駅伝拠点「肇州駅」が開設され、そのまま清代まで継承されていたのだった。現在の 八里城跡(今の 綏化市肇東市四駅鎮の西部にある東八里村)が、その中心集落を担った

肇源県

中華民国時代初期の 1913年、肇州庁が肇州県へ改編される。引き続き、県都は 城基地(今の 大慶市肇源県中心部)が務めた。同時に、 昌五鎮(現在の 綏化市肇東市五駅鎮)に開設されていた、地方役所「肇東分防経歴」が「肇東設治局」へ改編される

翌 1914年、「肇東設治局」が肇東県へ昇格されると、 肇州県は 2県(肇東県と 肇州県)へ分離されることとなった。
この 2県分離は、旧来からの原住民であるモンゴル族と、新移民の漢民族らを分離する意味合いもあり、漢民族が集住した肇州県と、モンゴル系の 郭爾羅斯(ゴルロス)部族の人々が集住した 肇東県(間もなく、郭爾羅斯后旗へ改称される)に分けられたわけである。この体制が、満州国時代初期まで継承される。

満州国支配下の 1934年8月、松花江の河川が氾濫し、肇州県の県都・城基地(今の 大慶市肇源県中心部)が甚大な水害被害を受けると、同年 12月、県役所が現在の肇州県肇州鎮 中心部(以降、「老城基」や「老街基」と称されることとなる)へ移転され、今日まで至ることとなる。下地図。

翌 1935年、肇州県下の 古魯鎮、茂興鎮、新駅鎮、頭台鎮、二駅鎮、三駅鎮などのエリアが、郭爾羅斯后旗の行政区へ移籍されると、モンゴル族・漢民族の分断統治は終わりを迎える。同時に、郭爾羅斯(ゴルロス)后旗の本部が、老爺屯(今の 綏化市肇東市四駅鎮に残る、八里城跡)から、 城基地(今の 大慶市肇源県中心部)へ移転される。

共産党時代の 1956年4月、郭爾羅斯后旗が肇源県へ改編される。
当初、肇源県は 綏化市 に組み込まれるも、1992年12月1日に 大慶市 へ移籍され、大慶市下の 4県の一角を構成することとなった。こうした背景から肇州県下では、今でも複数の「モンゴル族自治区」が存続されている。

肇源県



ここの旧市街地を軽く視察後、肇州県公路客運バスターミナルからハルビン市へ直帰してみたい。
4:00発、4:30発、5:00発、5:30発、5:50発、6:10発、6:40発、7:00発、 7:30発、7:50発、8:10発、8:30発、9:00発、9:40発、10:00発、 10:30発、11:00発、11:30発、12:00発、12:40発、13:30発、 14:00発、14:30発、15:00発、16:00発


翌日に、再び肇源県を訪問するわけだが、その際は、 肇源県中心部にある博物館を訪問した後、西の郊外一帯の史跡群を巡ってみる予定だ


 【 大慶市肇源県 の歴史 】

698年に建国された渤海国は、東北地方の東半分を領有し、 200年以上も存続したわけたが、その北限は松花江までであった。この松花江の北岸と西岸エリアは、契丹族のテリトリーであり、両者はこの国境地帯で度々、紛争を繰り広げたと考えられる。
こうしたことから、松花江沿いの高台や丘陵地帯には、要所要所に渤海国、契丹族それぞれによって築造された、軍事拠点や城塞集落が点在したわけである。

その渤海国も、朝貢していた唐王朝の 崩壊(907年)を受けて弱体化すると、 903年以降、契丹族を率いた耶律 阿保機(872~926年)が北伐を開始し、ついに 926年に滅亡に追い込まれる。以降、東北地方は 契丹国(947年に遼王朝へ改名)の支配下に組み込まれる。

この遼王朝時代初期、皇室と縁故関係を結んで政権の中枢に食い込み、北府宰相となっていた 蕭思温(?~970年)が、このエリアを 封地(この時代、「頭下軍州」と称された制度)として下賜されると(上京道に帰属)、その領内に築城された城塞集落の一つが、他什海古城(今の 大慶市肇源県茂興鎮民意郷)であった。この城塞跡は、蕭思温の孫娘にあたる 菩薩哥(蕭思温の娘・蕭綽の 実弟・蕭隗因の子)の故郷として知られ、後に従兄弟の聖宗と結婚して皇后に選出されるも、子宝に恵まれず、最終的に自害に追い込まれた悲劇の女性となった。
もともと「皇后店」と通称されていた城塞は、この 斉天皇后(仁徳蕭皇后。983~1032年)が追悼され、後世になって「他什海城跡」と呼ばれるようになったという。


肇源県

1114年10月、完顔アグダ(1068~1123年)が挙兵し遼王朝に反旗を翻すと、翌 11月末に 出河店(今の 大慶市肇源県茂興鎮にある勒勒営子古城、莽海古城)の戦いで遼軍の大軍勢を撃破し(上地図)、翌 1115年1月に金王朝を建国する。その後、初代皇帝となった完顔アグダは、この出河店の戦いのため、厳寒と暴風雨の夜中に、決死の覚悟で松花江を渡河した地点に「肇基王績の碑」を建立し、この奇跡的な大勝利を記念したのだった。上地図。

2代目皇帝・太宗(アグダの末弟。1075~1135年)は 1130年、この「肇基王績の碑」の地に、始興県城(今の 綏化市肇東市四駅鎮の西部にある、八里城跡)を築城し、肇州役所も併設させる上京路会寧府 に帰属)。下地図。

6代目皇帝・章宗(1168~1208年)の治世下の 1198年、この肇州城が大規模に軍事拠点化され、水軍基地を併設して武興軍節度使が開設される。その名の由来は、「太祖アグダが神武隆興した地」という意味が込められたという。しかし、間もなく節度使は廃止される。

それから10年後の 1211~12年にかけて、北方で台頭したモンゴル族が東北地方へ侵入してくると、東北地方全土が荒廃する。こうした中、残存した兵力と人民が肇州城に集結することとなり、 1214年、肇州城に東北路招討司が併設されると(泰州城から移転)、当時に武興軍節度使も復活設置される。しかし、モンゴル軍の攻撃は抑えられず、1217年、金軍は全部隊と住民らを華北地方へ退避させ、肇州城と東北地方の放棄に追い込まれるのだった


肇源県

同年、そのまま空白地帯となった東北地方を完全占領したモンゴル帝国初代皇帝の チンギス・カン(1162~1227年)は、次弟 ジョチ・カサル(哈布図哈薩爾。1164~1215年)や、末弟 テムゲ・オッチギン(鉄木哥斡赤斤。1168~1246年)ら、自身の一族に封地として領土を切り取って下賜する。このため、元代の東北地方は、大小さまざまな皇族領が点在する複雑な土地となっていたが、そのほとんどが放牧地として使用されただけであった。これら全域は、遼陽行省下の開元路に統括されていた(下地図)。

1293年7月、経済の復興と住民人口の増加にともない、金王朝時代の 肇州城跡(今の 綏化市肇東市四駅鎮にある八里城古城)に、肇州宣慰司が開設されると、兀速(霧松)、憨哈納思(郭爾羅斯。ゴルロス)、乞里吉思(給石烈)の三部落を統括することとされた。しかし翌 1294年、いったん肇州宣慰司が廃止されると、続く 1295年に肇州屯田万戸府が新設され、松花江の北岸エリアを管轄した。下地図。
1316年には、肇州女真千戸所も併設される。

肇源県

それから 50年後、江南地方で明朝の 朱元璋(1328~1398年)が台頭すると、元王朝は北方への退避を余儀なくされる。その後、明朝 3代目皇帝・永楽帝(1360~1424年。朱元璋の四男)の遠征により、東北地方も明朝の支配下に組み込まれると、各地の部族長に衛所の運営を委ねる間接統治体制が採用される。

しかし、1449年の土木の変以降、モンゴル軍の勢力が増し、明朝の東北支配は間接統治体制だったこともあり、有名無実化していく。以降、モンゴル族が続々と東北地方へ流入し、勝手にその人口を増やしていった。
こうして東北地方の西部を中心に割拠したモンゴル族の中で、 1547年6月、モンゴル帝国時代の ジョチ・カサル(1164?~1213年?)の 16世孫に相当する ウバシ(烏巴什)が、嫩江の 下流域(現在の 吉林省松原市一帯)のモンゴル族を統一し、ゴルロス(郭爾羅斯)部の族長となる(下地図)。

肇源県

そのまま明王朝も弱体化し、東北地方で女真族が台頭すると、後金朝が建国される(1616年)。後金朝は、東北地方各地のモンゴル勢力と友好関係を保ち、最終的に 1644年、中原へ進出して清王朝を建国することとなる。

以降、清王朝の支配下に組み込まれた東北地方は、漢民族の流入が禁止され、もともと定住していた 女真族(満州族)とモンゴル族の専有地として保護されることとなった。
こうして 1648年12月2日、郭爾羅斯(ゴルロス)部の 族長・ブムバ(布木巴。ウバシの子)が、清朝により鎮国公爵に封じられると、郭爾羅斯后旗の 扎薩克(役所長官に相当)に就任し、一帯の支配を委ねられる(上地図)。そのまま伝統的な遊牧生活が継承されていくこととなった。

しかし、北方からロシア帝国の南下が激化し、東北地方の経済開発と人口増加が急務となると、清朝廷により漢民族の移住が奨励されるようになり、郭爾羅斯后旗の行政区でも屯田が進み、住民人口が急増することとなった。
こうして清末の 1906年、肇州庁が新設されると、庁役所が屯田集落地 「城基地(今の 大慶市肇源県中心部)」 に開設される。引き続き、郭爾羅斯(ゴルロス)后旗の方も継続され、モンゴル族と漢民族の分割統治が保持された。下地図。

肇源県

中華民国時代の 1913年、肇州庁が肇州県へ改編されると、引き続き、今の肇源県中心部が県都となる。
同年 7月、肇東分防庁が肇東県へ昇格されると、郭爾羅斯(ゴルロス)后旗の行政区の東部が肇東県に、西部は肇州県が統括することとなり(これら 2県は、漢民族が主たる住民を占めた)、残りの郭爾羅斯后旗エリアは、引き続き、モンゴル族の自治圏が継続されることとなった。

満州国統治下の 1934年8月、松花江による河川氾濫の洪水被害を受けたため、同年 12月、肇州県役所が 城基地(今の 大慶市肇源県中心部)から、老城基(今の 肇州県肇州鎮中心部)へ移転される。また同時に、管轄区の大幅な見直しが行われ、モンゴル族、漢民族の分断統治制度が廃止されることとなった。
翌 1935年、ゴルロス(郭爾羅斯)后旗の 公署(役所)が、 老爺屯(今の 綏化市肇東市四駅鎮)から、洪水被害から復興しつつあった 城基地(今の 大慶市肇源県中心部)へ移転される。満州国崩壊後の 1945年以降も、郭爾羅斯后旗と肇州県の行政区がそのまま踏襲される。

肇源県

共産党時代の 1956年4月11日、郭爾羅斯(ゴルロス)后旗が「肇源県」へ改称されると、以降、この地名が今日まで継続されているわけである。往時のモンゴル族の集落地や放牧地は、現在でも「モンゴル(蒙古)族郷」として、複数の地名に残されている。上地図。

1960年5月26日、安達県が廃止され、安達市が新設される(市役所は、そのまま安達鎮に開設)。しかし 4年後の 1964年6月23日、安達市が廃止され、安達県が復活設置されることとなった(引き続き、対外的には「安達市」を自称し続けた)。1979年12月14日、安達市が大慶市へ改称された後、最終的に 1992年に大慶市の市域が確定し、今日に至るわけである。下地図。

肇源県



下地図の通り、南から流れてくる 栗末水(松花江の上流部分。「第二松花江」とも呼ばれる)と、西(北)から流れてくる 黒水(嫩江)とが交錯するポイントがあり、「三岔河口」もしくは「大口」と称される。古くは、「陰陽界」とも言われてきた場所で、多くの文化人や皇帝らが足を運んで遊覧してきた。

両河川が合流すると、そのまま松花江となって東進&北上し、途中で 黒竜江(アムール川)と合流して日本海へと注ぐ、東北地方最大の河川水系である(下地図)。現在、この 黒竜江(アムール川)が、中国とロシアの国境線となっている。

肇源県

そもそも、なぜ「陰陽界」と称されてきたのだろうか?

興安峰から端を発する嫩江の水質はやや濁っており、他方、長白山から端を発する 栗末水(松花江の上流部分)の水温は生ぬるく、しかし済んだ水質であった。この両者が「三岔河口」で合流するも、水質はなかなか混ざり合わず、数キロかけてゆっくり融合されていくわけである(三色水線)。

このため、合流地点から 白黒(白濁)がはっきり分離された分水線のような河川が、松花江沿いに一本、続いていく現象が見られ、大陸中国でも非常に稀有な自然現象を発生させていた。これは、黄河の上流にあたる渭河でも見られる現象で、古代より「南有涇渭、北有栗黒(南に渭水あり、北に栗末水&黒龍江あり)」として、その珍しい光景が称えられてきたという。

肇源県

特に清代において、三岔河口は、盛京(今の 遼寧省沈陽市) から 愛琿(黒竜江城。今の 黒竜江省黒河市愛輝区愛輝鎮)に至る街道上に位置したことから、人、モノが頻繁に往来することとなり、広く知られる名所となった。多くの文化人もわざわざ足を運んでは、その優美な景色を詩に詠んだという。

1682年3~4月、この地を巡遊した清朝 4代目皇帝・康熙帝(1654~1722年)も、「源分長白波流迅、支合烏江水勢雄」という詩を残している。



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