BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年 6月上旬 『大陸西遊記』~


上海市 奉賢区 ①(南橋鎮 / 柘林鎮)~ 区内人口 120万人、 一人当たり GDP 66,000 元 (上海市)


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  上海市松江区から 南の奉賢区へ バス移動 7元、1時間半
  【初代】奉賢県城(南橋鎮城)跡地を 歩く ~ 古華園 と 南橋塘、横経橋、南橋城郷路
  古城エリアの中核部 ~ 人民北路 と シャッター街
  華洋折衷ぶりがすばらしいと 南橋キリスト教会堂 と 卜羅徳祠堂
  【豆知識】奉賢区の中心部は、なぜ「南橋」と俗称されるのか? ~ 奉賢区の 歴史 ■■
  南橋バスターミナル前の文教エリア と テレビ塔
  南橋(奉賢区中央)バスターミナルから 柘林鎮へ バス移動 3元、30分弱
  柘林鎮バス停から、柘林鎮城跡への アクセス・ルート ~ 聯業路 と 西門頭の旧市街地
  古城西側の掘割(城河)
  柘林鎮城跡の 中心部「柘林村」と 周囲に広がる広大な農園
  古城南側 と 東側の掘割(城河)
  古城地区の 北半分 ~ 広大な水田エリア と 北側の掘割
  古城の西城外 ~ 西門頭の 旧市街地(華亭村船浜)
  【豆知識】柘林鎮 と 古城史 ■■



松江東バス・ターミナル(上海市松江区) から、路線バスで奉賢区へ移動してみた(南松専線)。バス乗車後に車内でチケット販売員に運賃を支払う。奉賢区の南橋バスターミナルまで 7元だった。

バスは最初、松滙東路を東進し、その後、車亭公路を南下し続ける直線ルートをたどり、だいたい 1時間半で奉賢区内のメインストリートである環城東路沿いの 購物広場(別名、環城東路南奉公路 = 環城東路と南奉公路との交差点地点という意味)というバス停で下車できた。ここから 2つ先が終点「南橋バスターミナル」である。

筆者はこの環城東路のやや北にある 7天酒店に 2泊した(109元/日)。上海市内にあって、同じホテルチェーンの 7天ホテルもここまで値段が違うものかと驚く(松江区では 180元)。
しかし、部屋のネット環境が悪く、初日はネット利用に苦労させられたので、二日目には部屋を移動してもらった。

なお、ホテルのロケーションは最高で、そのまま環城東路沿いを北へ進むと、開発されたばかりの巨大ショッピングモール「五象広場」があり、飲食や買い物には不自由しない十分すぎる環境がそろう。
逆に南へ進むべく路線バスに乗車すると(1~3元)、終点の「南橋バスターミナル」へ移動できる(バス停は 4つ先)。すなわち、「奉賢区(中央)バス・ターミナル」である。最初は「南橋」と「奉賢区(中央)」とが結びつかず混乱するが、これは新旧の行政区の地名が混在していることに起因する。ちょうど、日本の 九州「福岡」と「博多」が同じ都市を指し、混用されているのと同じわけである。

翌日、筆者はホテルを出発し、徒歩で環境東路沿いを南下してみた(下写真左)。
浦南運河にかかる橋を渡り(下写真右)、最初の交差点で右折し、新建中路を西進する。

奉賢区 奉賢区

すると、左手にきれいに整備された中国式庭園「古華園」が姿を現す。入園無料で、水の豊富な公園だった(下写真)。きっと古城時代の一部を成したのだろうと推察してみるも、周囲は早くから宅地開発が進み、古城遺構はおろか、旧来の名残を残す地名すらも発見できなかった。

奉賢区 奉賢区

この新建中路沿いの用水路「南橋塘」は、かつての古城時代の掘割か、城内水路であった可能性が高い。今でも、住宅街を蛇行しながら流れている(下写真)。

奉賢区 奉賢区
奉賢区 奉賢区

上写真右は、古城エリアの中心部にかかる橋「横経橋」。
ここはちょうど用水路「南橋塘」の三差路にあたり、北側の浦南運河につながっていた(南横涇)。下写真左は、南横涇の脇道である南橋城郷路。

引き続き、さらに新建中路を西進すると、人民北路 との交差点に到達する(下写真右)。

奉賢区 奉賢区

ここまでの経路を地図上でたどってみると、下記の通りである。

奉賢区

この人民北路沿いが、古城地区の中心地を成したというが、今ではもう見る影もない。わずかな名残としては、寂れた商店通りとなっており、かつての繁華街の雄姿をとどめる程度だった(すでに多くの商店が閉鎖し、シャッター通りだった)。
とりあえず、人民北路を北上し道路のつきあたりまで行ってみた。この浦南運河沿いの端っこ部分には古民家がわずかながら存続していた(下写真左)。
これ以外はコンクリート製の古い公共住宅っぽい建物ばかりだった(下写真右)。

奉賢区 奉賢区

なお、この人民北路と新建中路の交差点に、いかにも由緒ありそうな立派な教会建物があった。その建築スタイルが特徴的で、竜頭蛇尾ならぬ、洋頭華尾といった感じの、正面は西洋スタイルの教会建築で、後方は中国の伝統的な建築様式となっており、その合体版があまりに不思議な姿をしており、思わず写真撮影してしまった。

奉賢区 奉賢区

すると、教会事務所から人が出てきて、教会に用があるのか?キリスト教徒か?どこの人だ?などと聞いてきた。この華洋折衷ぶりがすばらしいと答えると、ここの特徴ですと回答していた。とりあえず、そそくさと退出することにした。

奉賢区 奉賢区

教会の本堂は、長さ 26m、横幅 12m、高さ 15mとなっており、2000年に奉賢区政府により文化遺跡に指定されている。

そもそも、この敷地は清末、地元富豪の邸宅だったという。 1862年5月17日、太平天国軍が立て籠る南橋鎮城に、英仏連合艦隊が艦砲射撃をしかける中、天国軍が放った砲弾がフランス海軍少将 Auguste Léopold Protet(1808~1862年)に命中し絶命する。地元の豪商はその殉死を痛み、自身の邸宅の一角に墓所「卜羅徳祠堂」を設ける(1865年)。以後、清朝政府役人も交えて、定期的に供養が施されたという。しかし、当地に祀られた Protet 少将がキリスト教徒であったため、供養方法が異なるという指摘を受け、当地にキリスト教会の開設が許可されたのだった。
後に日中戦争時代、この敷地は抗日第八集団軍司令部に接収されるも、戦後、再び教会団体に戻される。この敷地には付属の 学校「耀蝉中小学」(今の 奉賢中学の前身)が設置され、下写真右の広い中庭はその校庭跡という。

奉賢区 奉賢区

さて、新建中路をさらに西進すると、南橋路との交差点に出た(下写真左)。この南橋路沿いから路線バス ③番に乗って、南橋バスターミナルを目指す(2元)。
ちなみに下写真右は、先の旧市街地の人民北路が南側の解放中路と交差するあたり。人民北路は人民南路と名前が変わっていた。

奉賢区 奉賢区

それにしても、そもそも奉賢区の市街地の至るところで見る「南橋」という地名は、いったい何なのか?到着時からずっと疑問に思っていた。
その疑問も、当地の歴史を調べることで読み解けた。そもそも奉賢という地名自体が後発で(清代中期)、本来は南橋鎮という地名が正式だったらしい。



  奉賢区の歴史 ~ ここが「南橋」と通称されるわけ

長江と銭塘江(杭州湾)との間で陸地が形成されていた江東エリアにあって、中国史が始まった 4000年前の夏王朝時代より、すでに現在の奉賢区内の西部エリアは陸地化が完了し、人類の生活圏が形成されていたという。
中原が戦乱に乱れ、全国規模で春秋戦国時代に突入すると、江東地区は当初は呉国の版図下に組み込まれるも、その後、呉を滅ぼした越国、さらに越国を滅ぼした楚国の領土と、目まぐるしく支配者の変遷を見ることとなる。 その楚国も紀元前 223年、秦国により滅ぼされると、最終的に秦領に併合される。

奉賢区

秦の始皇帝はその占領地に郡県制を導入し中央集権化を図ると、現在の奉賢区エリア地は、会稽郡下の 海塩県(今の 浙江省平湖市。紀元前 222年開設時の県城は秦末に地盤沈下で柘湖に沈んでしまい、すぐに県役所が武原郷へ移転される)に属した(上地図)。

前漢時代もこの海塩県が継承されるも、王莽の新王朝時代に海塩県が展武県へ改称される。しかし、間もなく後漢朝が再建されると、再び海塩県へ戻される。後漢時代、最初はそのまま会稽郡に属されるも、後に新規分離された呉郡の管轄区となる(後漢時代の 130年ごろ、再び地殻変動により県城が当湖に沈んでしまい、南の斉景郷山の麓へ再移転される)。
後漢末から三国時代にかけては孫呉の支配下に組み込まれ、また、続く南北朝時代中期までそのまま呉郡下の海塩県に属した。

そして、南北朝時代後期の梁朝の統治下の 507年、海塩県(東晋朝の治世時代の 341年、斉景郷山の麓から、春秋時代の要塞跡地であった馬嗥城跡へ移転される)の北東部が分離され、 前京県(県城の築城工事は翌 508年に着工され、今の上海市金山区大の沖合にある大金山島の北側山麓に位置した)が新設されると、奉賢区エリアはこの前京県の管轄下に移籍される。なお、この前京県の名称は、近くを流れた 京浦(今の張涇河)に由来し、その管轄圏域も今の張涇河の東部一帯となっていたという。

奉賢区

北朝の隋が南朝の陳を滅ぼすと(589年)、前京県 も廃止され、その県域は 常熟県(今の 江蘇省常熟市虞山鎮方塔街のあたり)に吸収合併される。
598年、常熟県の南東部が分離され、昆山県が新設されると、今の奉賢区一帯はこの行政区に移籍される。
隋末唐初の戦乱期、農民軍を率いた沈法興、李子通、輔公祏らが江東地方に割拠し、一帯は戦乱で荒廃する。

唐代初期の 711年、海塩県 が復活設置されると、県役所が再び旧馬嗥城跡地(今の浙江省嘉興市海塩県武原街道 の南東部)内に開設される。そのまま蘇州下の呉郡に属した。
751年、海塩県の北東部と、嘉興県の東部、および昆山県の南部が分離され、 華亭県(今の 上海市松江区)が新設される。以後、清代中期の 1726年まで、現在の奉賢区エリアはこの華亭県の管轄下に置かれた(下地図)。

奉賢区

倭寇の襲来が激化した元代末期ごろ、江東地方の各都市も武装するようになり、南橋鎮にも運河にへばりつくような半円形状に城壁が建造される(今の人民北路あたり)。以後 600年以上もの間、城壁都市として君臨することとなった。
この時代、城内に貿易管理を司った南橋務と南橋税課局の両役所が開設される(明初の 1387年に廃止され、代わって警察機能のみを司る戚木巡検司が開設される。後に南橋巡検司へ改称)。

さらに時は下って、清代中期の 1724年、両江総督の 查弼納(1683~1731年)が蘇松道下の複数の県役所がその広大な管轄区の統制に苦慮していたため、新たに数か所の県役所の開設を朝廷に上奏する。
翌 1725年、上海県下の長人郷が 南滙県 へ、華亭県下の白沙郷と雲云間郷が奉賢県として、県役所の新設が朝廷で許可される。
これらの新行政区は翌 1726年から稼働し、奉賢県の県役所は最初、この南橋鎮城内の西真道院に開設されたが、4年後の 1731年に 青村所城(今の 奉賢区奉城鎮)内に移転されてしまう。南橋鎮城には、明代からの検巡司(警察組織)役所だけがそのまま残された。

この時、新設された 県名「奉賢県」の由来であるが、伝説によると、春秋時代に孔丘の弟子で、呉出身の 言偃(子游)がこの地に足を運んだことにちなみ、「かつての賢人を奉じた地」の意から地元で採用されたという。
清末の 1911年に辛亥革命が勃発すると、翌 1912年元旦に中華民国が成立する。同年、県役所が奉城鎮から元の南橋鎮へ再移転されると、上海エリア南部の中核都市として都市開発のあおりを大いに受けることとなる。

以後、南橋鎮エリアは完全に古城時代の面影を失い、宅地開発地区に埋もれてしまうこととなったのだった。一方で、長らく奉賢県城を務めた 奉城鎮(旧青村所城)は開発の波を受けずに旧来の風景が残されることとなった。
現在、南橋鎮の旧市街地エリアでは、わずかな地名や店名に古城時代の名残を残すのみとなっている ー 老南橋老湯麺、環城東路、環城西路、環城南路など。



路線バスで南橋バスターミナルに到着する(下写真左)。路線バスの下車ポイントが、バス駐車入口という異様な場所で、一帯は道路を渡る人、下車する人などで大混雑だった。
ちなみに、この南橋バスターミナル内部は左右に大きな待合スペースがあり、左手側は奉賢区から北 / 南 / 西 の三方面ルートを走行する路線バスを網羅し、右手側は東方面ルートのみの路線バス専用口となっていた。

このバスターミナルから徒歩 6~7分の場所に、巨大なテレビ塔が立っており(下写真右)、その向かいに歴史博物館や図書館、文化センター施設、各種教育機関などが集う文教エリアが広がっていた。その中の歴史博物館への訪問を期したが、筆者が出向いた 2018年5月現在は改装工事中につき、見学できなかった。。。

奉賢区 奉賢区

そして再び、南橋バスターミナル に戻り、左手の待合スペースから柘林鎮行きのバスに乗車することにした(乗車後、バス車内でチケット係に運賃 3元を支払う)。
筆者は浦衛専線バスに乗車したが、南衛専線、莘海専線(上海市街区の地下鉄・莘庄駅と直結)、石南専線など、多くの路線バスがこの柘林鎮を通過することが後でわかった。

奉賢区

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【 柘林鎮城跡 】

バスは環城南路からひたすら沪杭公路(滬杭道路)を南下するだけの直線ルートだった。江東地方の農村風景を間近に見学するには最高のルートだと思う。
乗車から 30分弱で沪杭公路と新柘東路との交差点エリアで下車した(下地図参照)。
ここが「柘林鎮」の中心部ということらしい。

同じ沪杭公路沿いにある、帰り方向のバス停を確認し、ついでに裏側にあったトイレを使用する。
ここのトイレは驚くほど新装で清潔だったが、沪杭公路のやや北側にあったもう一つの公衆便所は、大陸中国式のニーハオ・トイレが広がっていた。

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5分ほど、沪杭公路を戻る形で北上すると、運河にかかる橋を渡る(上写真左)。この道路脇に樹齢 600年弱の銀杏の樹が存在する(上写真右)。明代からの生き証人である。この運河沿いが、そもそもの柘林鎮の旧市街地(西門頭。下地図)なのだが、その事実は帰り際になってようやく気付くことになった。

奉賢区 奉賢区

さらに直進すると、東側に巨大な舗装道路が忽然と姿を現す。柘林鎮城跡を東西にぶち抜く聯業路である(上写真右)。
古城エリアにはここからアクセスするのが無難だと思われる(下地図の緑色ライン)。
帰りは、古城エリア西外の運河沿いに路地を進み(西門頭の旧市街地)、新柘東路まで出て、ここからバス停まで向かった(下地図の赤色ライン)。

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さて、この巨大道路の聯業路であるが、大通りの脇にもぜいたいくな歩道スペースが用意されており、バイクと歩行者が悠々と通行できるようになっていた。

ここで気になったのは、道路沿いの一定間隔ごとに設置されていたハエ捕縛用のしかけだった。底に汚物を入れてハエをおびき寄せ、中からは出られない「ゴキブリほいほい」のような設置型虫かごになっており、なかなか感心させられた。
この古城エリアには現在、広大な農村地帯が広がり、そのはずれに巨大な新興住宅地が忽然と開発されていたのだが、新住民たちは農村地帯で培養されたハエの大群が自宅を襲うことに抗議して、鎮政府がこの虫かごを設置した、といういきさつが目に見えた。農村と新興住宅地の両者共存のための苦肉の策として生み出されたハエ取りしかけだったが、実際に、かご内には多くが捕獲されており、一定の成果を上げている様子だった

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そんなことを妄想しながら聯業路を直進していると、二つ目の橋をわたる(上写真左)。
ここが、西側の掘割(城河)に相当する(上写真右)。ここまでで、バス下車ポイントから徒歩 15~20分ほど。

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ここから古城エリア。。。。のはずだが、周辺は 90%田畑だらけで本当に鎮城跡地かと最初は疑念を持ってしまったが、先に 浙江省嘉興市平湖市乍浦の古城エリア を訪問していたので、運河沿いに発達した水運交易都市と周囲の農村地帯をまるごと囲んだ城塞集落であったのだろうと推察できた。

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聯業路沿い南側に 柘林村 の集落地へ入る道があったので、ここから集落地へ向かう(下写真左)。

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集落内では家々の小さな庭にも野菜が栽培されており、古城時代の風景がよみがえる。かつて、庶民らは 自家菜園(サトウキビなどの各種野菜類)も積極的に行っており、城内は緑豊かだったわけだ(上写真右)。

集落内には竹林もあれば、古民家から新築の家まで、いろいろ混在していた。
村の東端に典型的な豪農の家があった(下写真右)。門は納屋を兼ねる古い門が前面に残るも、その後ろの母屋は 3階建てのモダンな家屋に建てかえられており、資産を蓄えた農家の成功の象徴、という印象を受ける。

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ここを抜けると一面、畑が広がる。
下写真左の前方に広がる新興住宅地は、ちょうど東側の掘割沿いに林立している。古城エリア中央から東面の掘割を臨んだものなので、東西にはさらに 2倍の距離があった。柘林城跡の巨大さが伝わってもらえただろうか。
下写真右は東端へ接近したもの。植林されている部分が掘割だ。

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土地は乾燥し、畑に適しているようだった。ここに巻く肥料が大量のハエを呼び込むのだろう。

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なお、この柘林鎮城跡であるが、地図でみると 関帝廟 という地区名が表示されていたが、先ほど通過した集落地内の路地や家の表札でも確認できず、ただ柘林村とだけ案内されていた。かつては城内に関帝廟が本当に存在したのだろうが、今はその名称だけが地元で生き残っているのだろう。

その他、古城時代の記憶は、柘南村、西護城河橋、東護城河橋、護城河 1~3号橋(下写真左)、などの地名にも確かに息づいていた。
下写真は古城の南面の掘割。

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農園エリアは基本は土の農道なのだが、聯業路につながる、古城エリアの東端に通る道路だけは舗装されていた。筆者はここを歩いていたのだが、周囲の住民たちの通行路となっているようで、度々、バイクや自転車、たまに自動車が通り過ぎていった。

下写真は東面の掘割。すぐ外に新興住宅地が広がる。

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上写真は、城内にある自家農園での畑作業のために水汲みしていたおばさん。
確かに、古城エリアの周囲には掘割はあっても、農園エリアを通る用水路は皆無で、ここの水やりは掘割から汲んでこないとダメなわけで、かなり非効率だろうな。。。と同情してしまった。

後で発見することだが、北面の農地には用水路が張り巡らされ、水田が広がっていた。城内の南北で全く農園環境が違い、作っている作物も異なる不思議な構図になっていた。もし、これが古城時代からの知恵で、万が一の籠城の際、水田と畑から別々に生産された食料を 城内(現在の集落内)で共有するためだった、という理由で継続されているのなら、地元住民たちに脈々と息づく古の知恵に敬意を表したいと思った。

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上写真は聯業路まで北上し、古城東面の掘割を眺めたもの。中央にみえる堀沿いの階段は、上写真でおばさんが水汲みしていたポイント。
下写真左は、この掘割にかけられた聯業路上の橋「東護城河橋」。

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上写真右 は、この東面の掘割の北側を撮影したもの。
一帯は、南側の高層マンション群とは全く異なり、ニュータウンと表現できる低層階の新興マンションや庭付き戸建て住宅が整然と立ち並んでいた。
下写真は、この北面のニュータウンエリアを西側から眺めたもの(下写真右の奥に見える高層マンション群は古城東面エリア)。

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そう、この古城跡地の北半分には用水路が張り巡らされ、豊かな水田地帯が広がっていたのだった。

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上写真は聯業路から古城エリア北半分の水田地帯に入る道路。網目のように、しかし巨大な面積を誇る水田がいくつも続いていた(上写真)。奥手に見える樹木のラインが北面の掘割である。

下写真は、北面の掘割沿い。土手ギリギリまで野菜が栽培されており、近づけそうになかった。

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そして、沪杭公路 沿いのバス停へ戻るべく、再び聯業路に戻り、西へと歩みを進める。
最後に、集落地内の地名としてある「関帝廟」を見定めたかったので、再び、南へと進路を変え、「柘林村」集落地の路地に入り込む。やはり見つけられず、そのまま集落内を西へ進み、古城エリア外に出た(下写真)。

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西の城外には、古城の南面の掘割が西へと続いており(上写真左)、この運河沿いに集落地が並んでいた(上写真右)。
かなり寂れた住宅街(清末の太平天国の乱以降に開拓された西門頭の旧市街地。現在の地名は華亭村船浜)だったが、運河沿いで釣りをする人など(下写真左)、のどかな風景を愛でながらバス停まで歩くことができた。

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往路でたどった味気ない大通り「聯業路」とは違い、地元臭あふれる水郷風景を楽しめた。時折、通過するバイクや人の流れを追っていくと、だんだんと繁華街に近づいている確信が持てた。
そして、新柘東路に出るとさらに西へ進み、バスを下車した交差点に到着した。なんか不思議な散歩ルートだった。
バス路線の案内板を確認し、沪杭公路沿いを通過するバスなら、いずれも奉賢区中心部へ行きつくことを確認し、とりあえず、来たバスに乗車した。乗車後、車内のチケット販売員に「環城東路」と伝え、運賃 3元を支払う。 30分弱で市街地に戻れた。

この奉賢区南橋バスターミナルを中心に、その南側ルートや東西ルートを走るバス路線の運転手は、すべて腕にワッペンをはめて運転手マークとしていた。今回の乗車したバスの運転手は黒サングラスに頭髪を固めた、いかつい感じの御兄さんだったが、きちんとワッペンを付けているギャップが面白かったので記念撮影しておいた(上写真右)。



  柘林鎮と古城史

古くは、付近で丘陵地帯を成した柘山の一角に立地する高台エリアを形成しており、現在の上海市奉賢区内でも最も早くに陸地化された土地柄と考えられている。一帯には 柘樹(ハリグワの木)が密集して生い茂っていたため、柘林と呼ばれるようになったという。
春秋戦国時代の紀元前 514~496年ごろから海岸エリアで塩田開発がスタートし、秦代には一面、塩田地帯となっていたと記録される。

奉賢区

唐代後期にはすでに集落地が形成されていたと考えれており(上地図は 751年当時のもの)、北宋時代初期、袁部場という製塩業を管理する役所機関がこの集落地内に開設された記録が残る。
現在の上海市奉賢区内で最も早くに都市化していたとされる。

舟山諸島 を含め、江東地区の海岸沿いは、いずれも 1~2日の航海で移動できる商圏を形成しており、一帯の交易都市として発展を遂げることとなった。また海外沿いには塩田が作られ、製塩業も盛んになったと考えられる。
特に、南宋時代には華北からの人口流入により江東地方は爆発的に住民が増えたこともあり、その経済発展は飛ぶ鳥を射落とす勢いを見せる。

しかし、元末以降、倭寇の襲撃が活発化し、江東地方の各都市は略奪や破壊にさらされ、海岸沿いの物流網は大ダメージを受けることとなる(下地図は倭寇の侵入経路)。交易ネットワークは寸断され、海岸線に位置した柘林鎮の港町も度重なる襲撃にさらされ、寂れていくこととなった。

奉賢区

この倭寇対策として、明代後期の 1557年、巡按御史の尚維持の指揮の下、初めて柘林鎮に城壁が建造される。一帯の住民らと明朝が協力して、高さ 3~4 mの城壁を建設したという。四方には外堀もめぐらし、東西南の三面に城門が設けられる。南門上の楼閣内には北誕宮が安置され、軍民一同の背水の陣の覚悟が天下に示されたとされる。

城内には見張り台を兼ねた鎮海楼が建造され、一般にも開放されて自由に上ることができたという。てっぺん部分には大太鼓が設置され、瞬時に軍民らに緊急を告げることができた。
城内に農園も取り囲む巨大な城域を誇ったわけであるが、周囲の村々から避難してきた多くの住民らも流入し、城外にまで住宅があふれ出すこととなったという。
住民らの上奏により、明朝の直轄兵も城内に駐留することとなった。当時、城内には縦横 2本ずつの街メインストリートが設けられ、その最高の立地条件を有した北宋代の袁部場役所の跡地に、明朝の軍司令部が開設されたのだった。

下絵図は明代後期の対倭寇防衛ラインと上海市近郊の行政区の様子。
長江と 銭塘江(杭州湾)の河口部に形成された巨大砂州の上海市域であるが、近代に入って整地されるまで、網の目のように水脈が通り、大きな小島や三角州が寄せ集まっているようなイメージの土地柄であったことがうかがえる。

奉賢区

時は下って、清代中期の1726年、華亭県(今の 上海市松江区)の南東部に位置した雲間郷と白沙郷が分離され 奉賢県(今の 上海市奉賢区南橋鎮、後に同じ奉賢区奉城鎮へ移転)が新設されると、奉賢県下の柘林鎮として存続されることとなるも、かつての水運交易都市の隆盛を取り戻すことはできなかった。下地図。

奉賢区

清末の 1860年、江東エリアに侵攻し全土を占領した太平天国軍であったが、上海占領に刺激された欧米列強の介入を受けることとなり、双方の敵対が決定的となる。ついに 1862年、柘林鎮城に籠城する太平天国軍に対し、英仏連合軍の上陸部隊が砲撃をしかけると、柘林鎮城は大いに損壊し、がれきの山を築くこととなった。

生き残った住民らは古城を捨て、城外西 500 mあたりの地点から運河沿いに新たな集落地を形成するようになる(東西幅は約 460 m)。そのまま柘林村という地名を使い続けることとなった(西門鎮とも別称された)。今に残る西門頭の旧市街地の誕生である。
これが現在の柘林鎮の発展の基礎となり、現在も城外西方面の 沪杭公路(滬杭道路)沿いに開けた都市形成を見ることができる。

太平天国戦後の 1875年から城壁の再建工事が着手されるも、日中戦争の戦火により再び城壁は大きく損壊され、戦後に人民解放軍が入城すると、そのまま城門、城壁は撤去されることとなった。
現在、四方を取り囲んだ掘割が残るのみとなっており、古城内は平和な農園地帯に変わり果て、かつての海洋交易に覇を唱えた時代の栄華は想像しようもない。
現在、村の居住人口は 3,800人が登録されているという(一人当たりの GDPは 15,000元)。

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柘林鎮城と倭寇との長きにわたる戦いが続いていた明代、この地で 何良俊(1506~1573年)が誕生する。当時は華亭県下の柘林鎮城内に生活し多くの書物に触れ、書籍収集家、および文筆家として歩み始めるも、倭寇の兵火により蔵書はすべて焼失してったという。しかし、その博識な知識により、明代を代表する文化人や学者らの言説や人物伝を解説した『何氏語林』を世に残すこととなる。



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