BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年 6月上旬 『大陸西遊記』~


上海市 奉賢区 ②(青村鎮 / 奉城鎮) ~ 区内人口 120万人、 一人当たり GDP 66,000 元 (上海市)


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  奉賢区南橋 から 青村老街(青村港の旧市街地)へ バス移動 2元、30分弱
  青村鎮老街(青村港の 旧市街地)散策マップ
  旧市街地が織りなす見事な 水郷集落風景 ~ 青村西街、青村中街、青村東街
  旧市街地のメインストリート「青村西街」と、ここにもあった 教会堂
  旧市街地の 南岸エリア ~ 古来からの庶民の知恵・家庭菜園が 撤去の危機に!
  運河にかかる地元文化財・南虹橋 と 永寿橋(清代初期)
  運河にかかる 地元文化財・三祝橋(明代初期)
  運河南岸の メインストリート「青村南街」
  【豆知識】青村鎮老街(青村港の 旧市街地) ■■
  青村鎮から奉城鎮へバス移動 2元、20分弱 ~ 奉城鎮の都市設計に感動!
  古城地区(奉城村)の メインストリート「奉城南街」と 南側の掘割跡
  奉城北街と 古城地区北に鎮座する 古刹・万佛閣
  古城北郊外の農村地帯と 東西南北に張り巡らされた 運河網
  古城北城門 と 一体化されていた 万佛閣の名残り
  古城内の 旧市街地 ~ 路民集貿市場、奉城東街、奉城西街
  古城西門(甕城)と 城門橋跡、掘割
  豆知識 【二代目】奉賢県城(青村中前所城、奉城鎮城) ■■



奉賢区 では、南北に貫通する環城東路沿いの 7天ホテルに投宿して(109元/泊)、路線バスで南橋バスターミナルまで移動し(1元)、バスターミナル正面の大通り南奉公路沿いで路線バスを待った。東向きに進むバスなら、基本的にいずれも青村、奉城を通過する(下地図)。

奉賢区

待つこと 5分ほどで、閔南線バスが通り過ぎる。すぐに乗り込み、席につくとチケット販売員が運賃を徴収にくる。青村までで 2元だった。

奉賢区 奉賢区

路線バスは南奉公路をひたすら東進し、30分弱で青村に到着する。車内は立ち乗りも発生するほど混雑していた。青村鎮の中心部で下車すると、まずは、北側の浦東運河沿いに目ぼしをつけて旧市街を探すことにした(下地図の緑ルート)。
西の南橋鎮、東の奉城鎮の古城エリアは共に、この浦東運河沿いに発展していたため、青村鎮でも山を張ってみたわけだが、結果的に大外れだった。

奉賢区

最初は、浦東運河の北側「環鎮北路」や鎮北スーパーなどの地名に惑わされて、浦東運河の北岸まで移動し、新開発エリアを散策してしまい(上地図の緑ルート)、時間と体力を浪費してしまった。

北側をぐるりと巡って「南奉公路」に戻ってはきたのだが、何か物足りなかったので、南側も巡ろうと青村鎮人民政府の脇の城郷路を南下すると、数百年もの間、水郷集落として栄えた旧市街地が忽然と姿を現した(下写真)。

奉賢区

ここは、メインの水脈・浦東運河に連なる脇道的な水路沿いに水運交易都市が形成されていたようで、旧市街地の路地には色濃く当時の名残が刻み込まれていた ー 青村港、塩青路(城郷路は旧市街地の南岸から名称が変わる)、青村西街、青村中街、青村東街、青村南街など。

特に気になったのは、旧市街の東西のメインストリートだった青村路のうち、青村西路だけが異様に長く、青村中路(下写真左)と 青村東路(下写真右)は短いスペ-スだけの、非対称的な割合で構成されていた点だった。

奉賢区 奉賢区

とりあえず、まずは最も長い割合を占めた青村西路を散策してみる。

奉賢区 奉賢区
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驚いたことに、青村西街沿いに 青村天守堂(キリスト教会)があった(下写真左)。浙江省、上海市にはどこの街にも教会があり、その布教の浸透度にビックリさせられる。

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青村西街 を行き当たりまで西進し、西端の橋を渡って、運河の南岸に移動してみる。

運河北岸とは全く風景が異なり、この南岸エリアは、自宅前や道路脇に積極的に小規模菜園が造園されていた(下写真左)。かつての水郷集落の住民らも、もろに運河沿いではなく、一つ路地を入ったロケーションで、やや広めの敷地を有した邸宅や屋敷が地元の富豪や名士ら、中間市民層の自宅だったわけで、これらの家々にはいずれも家庭菜園程度の農園が庭先にあったと推察される。

しかし、ここに場違いなぐらい清潔な青色看板が貼られていたことに目を引かれた(下写真右)。そこには、村内の違法菜園を一か月以内に撤去するようにという 2018年4月10日付の警告文だった。筆者が訪問した同年 6月3日の時点ではまだ無事に菜園が現存されていたが。。。。今後どうなることやら。
奉賢区 奉賢区

そして、南岸側を直進し、つきあたりの青村南路を東進して、ぐるりと一周回る形で塩青路の橋を渡って(橋の北半分は城郷路になる)、再び青村西路沿いの旧市街地に戻ってきた。

続いて、青村西路を東進してみると、またまた運河にかかる橋を発見する。この橋は地元奉賢区で指定文化財となっていた 南虹橋(下写真)。
清代初期の 1692年に最初に設置され、1700年代初期に石造りへ改修されたという。

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下写真は、これに連なる永寿橋。同じく、清代に設置されたという。
両者ともに復元されたものだが、その立地場所は全く変わっていない。

奉賢区 奉賢区

特に、橋げたの石積みが特長的だった。
不規則な石材を積み上げた手作り感がいい味を出しており、一番大きな石材が橋げたの土台として用いられ、片面には丸い穴があけられていたので、重い橋を支える役割以外にも、船をつなぎとめる役目までも担わされたものだろうか、と妄想を膨らませてしまった。

さらに東へ 200m進んだ所にも運河をまたぐ橋があり(三祝橋)、同じく区政府から文化財指定を受けていた。下写真右。
明代初期の 15世紀初頭に設置され、その歴史は実に 600年を優に超えるという。
ここから推察するに、青村港の旧市街地はこの周辺から発展をはじめ、西へ西へと延伸されていったのではないだろうか。それ故に、前述の青村西路だけが長大となっている、というわけ。

奉賢区 奉賢区

下写真の奥に見える橋が、三祝橋である(西側から見たもの)。

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この 三祝橋 の南岸は、青村南街という路地街が形成されていた。すべて古民家は現役で住宅として利用されており、生活感があって非常によかった。

奉賢区 奉賢区

さて、青村南街があるということは、北側には青村北街があると想像するのがセオリーだろうが、北岸側を探してみても発見できず、ちょうどその位置には新群路という路地があるだけだった。
旧市街地の住民から見れば、新たに青村港に流入してきた住民らが集中的に住みだしたエリア、という意味で、このように命名されたのではないか。。。と妄想してみた。

そして、この新群路から南奉公路へ出た地点にある、「青村農貿市場」のバス停で、さらに東向きのバスを待つことにした。ちょうど、先述の下車ポイントのバス停「青村」から東へ一つ進んだバス停に相当する。

それにしても、この運河沿いの水郷「青村港」も相当の広範囲にわたって旧市街が形成されており、大陸中国の集落地の巨大さをまざまざを見せつけられた町歩きだった。



 青村鎮老街(青村港の 旧市街地)

現在の青村鎮の大部分は隋末唐初のころに、すでに陸地化が完了されていたという。
実際に人々が居住するようになったのはさらに先のことで、北宋時代初期(11世紀初頭)とされる。
当時、付近を流れる小川を伝って東西交易の中継集落として発展する。周囲は緑豊かな土地柄だったため、このエリアは青溪と通称されるようになったという。

元末明初(14世紀後半)のころ、青溪の集落地はますます発展を遂げ、水運交易都市形成されるようなる。明代後期の 1550年ごろには物流拠点の絶対的地位を確立し、大いに繁栄を謳歌したとされる。
清代中期の 1728年に、青溪鎮が青村港鎮へ改称される。

清代後期の 1800年ごろ、浦東運河沿いにあって、南橋鎮 と奉城鎮という新旧の県城都市の中間拠点として青村鎮は大いに隆盛を極め、奉賢県下の東部エリアにおいて最大交易都市に君臨したという。
清朝が滅亡し、中華民国時代に入ると、青村鎮へ改称される。

中央部に流れる運河両岸の民家群は往時のまま整然と立ち並び、中には、明代の張弼三世司馬宅や財神廟等の建築物、古橋、庭院、吊脚楼、茶館書苑、由緒ある食堂などが修復され今もその姿を残すという。
2004年、青村鎮の旧市街地(青村古鎮)は、上海市により歴史保護区に指定される。



南奉公路 沿いで 5分ほど待つと、奉南線バスが通過する。すぐに飛び乗ると、そのまま南奉公路を東進した(奉城鎮から東側は川南奉公路と名称が変わる)。奉城鎮までの運賃は 2元だった。
20分弱で、奉城のバス停に到着する。比較的たくさんの乗客が下車するのに混じって、筆者もバスを降りる(下写真左)。

奉賢区 奉賢区

この奉城鎮のバス停は、古城地区の南門と直結した繁華街の出入り口にあり(上写真右)、非常に便利な都市設計となっていた。
下地図で確認すると明らかなのだが、東西の主要幹線道路である南奉公路は、ちょうど古城エリアを避けてやや南にそれる形で敷設されており、都市化の波を巧妙に回避させた、非常に理想的な都市設計だと感じ入った。もし、古城地区を貫通していたなら、現在の 南橋鎮城跡金山衛城跡 のように古城風景は壊滅状態になっていたであろう。
メインストリート「南奉公路」沿いに市役所、病院などの近代建造物が広めに設置されており、欧州型の都市計画さがならの様相を呈していた。

奉賢区

さてバス下車後、バス停裏すぐに広がる 奉城南街 を北上する形で、早速、奉賢県城跡(奉城村)エリアに歩みを進めてみた。
古城エリアに入る南門があった場所には、いかめしい門構えの南門吊橋がかかる(下写真左)。この上を、バイク、自転車、自動車、歩行者が雑然と往来していた。
下写真右は古城エリアに入ったばかりの奉城南街。

奉賢区 奉賢区

南側の堀川を撮影する。かつて、南面の城壁が連なっていた場所である。

奉賢区 奉賢区

そのまま奉城南街を北上して 3~5分ほどすると、間もなく古城エリアの中央部に行きあたる。この交差点は、そのまま北へ進めば奉城北街、西は西街、東は東街と、東西南北のメインストリートが合流するポイントにあたる。
まずは、このまま北上を続け、北街沿いに進んでみた(奉城北街、下写真)。

奉賢区 奉賢区

すると奉粮路に行き当たり(下写真左)、さらに直進すると、正面に黄色い巨大な建造物が見えてくる。奉城鎮城の北側に鎮座する万佛閣だった。明代から地元で信仰を集める古刹という。下写真右。

万佛閣の本殿は豪華絢爛で圧倒される規模だったが、最近、修繕工事が施されたようで、由緒正しい風情を堪能することは不可能だった。しかし、境内は丸刈りの女性僧侶や男性僧侶が往来しており、古の仏教寺をイメージするいい現場だった(元来、尼寺で有名らしい)。

奉賢区 奉賢区

上写真左にある万佛閣路を北上する形で、古城エリアを出て、北側の堀川「浦東運河」まで移動してみた。
さすが上海地方南部の東西のメイン運河だけあって、川幅は非常に広く、優に 50m以上はある。

奉賢区

上写真の万佛閣脇にある橋は浦南運河 19号橋だが、通行止めで閉鎖されていた。
万佛閣外の間近から城壁を観察したかったので、万佛閣路の左の農道に入り込み、万佛閣の真後ろまで回ってみることにした。

それにしても、中国の田舎や地方集落は杉並木道を作るのが好きらしい(下写真左)。
城外には農地ばかりが広がる。稲田でななく、すべて野菜農園だった(下写真右)。

奉賢区 奉賢区

浦東運河は北へと延びる水路ルート(奉新港。上写真右)も掘削されており、船で東西南北、自在に移動できる水運ネットワークが形成されていたことがわかる。

下写真は、これにかかる橋(運河口橋)上から万佛閣と古城壁を撮影したもの。周囲が農地エリアで何も高い建物がなかった。明代、清代においても同様に、農村地帯の中に忽然と、長大な城壁を有する城郭都市が目の前にそびえ立っていたはずで、かつての雄姿をタイムスリップして垣間見れた気がした。

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この万佛閣は明代初期の14世紀末に建立されてから、650年以上の歴史を誇る古刹で、奉城鎮城(清代後半は奉賢県城を務めた)北城門の甕城と融合する形で立地されていたという。もともとは北城門の楼閣内に安置された守り神だったのかもれない。
城郭時代にあって、法堂自体も城壁上にあったとされ、そのスタイルは他に例がない特徴という。これほどの古刹でありながら、現在も城壁と一体化して存在し、その独特な威風を周囲に放っていた(上写真)。

再び、浦東運河を渡り、古城北面から城内に入る。下写真左は万佛閣路。このたった1ブロックの道路でさえ、その広大さと突き当りの奉粮路までの距離感を感じ取ってみらえるだろうか。

奉賢区 奉賢区

突き当りの奉粮路であるが、かつて城外の北側エリアから生産された農産物が持ち込まれて庶民の市場が開催されていた名残かと思われる。
現在でも、この奉粮路と奉城東路との間には、庶民の市場(路民集貿市場)が開かれていた(上写真右)。

そして、旧市街地内の東西のメインストリート奉城東街に出る。ここから東側の堀川までつながっており、その城外から奉城老街と名称が変わる。
古城内の路地のうち、この奉城東街だけはきれいに整備された広い舗装道路になっていた。

奉賢区 奉賢区

再び奉城東街を西へ戻って、東西南北の各街道が集結する中央広場に到達する(上写真左)。ここが古城内で一番華やかだったのか、二階建ての古民家が周りを囲んでおり、城内の富豪や商人らが出店を競い合って場所取りを行った当時の名残かと妄想してみた。

そのまま直進して、西街を進む(上写真右)。この街道沿いには商店が一軒もなく、かなり寂れた雰囲気が漂う住宅エリアだった。
所々に売春婦のおばさんたち(いずれも40歳前後か)が立ち、目が合うと合図してくる。夕方の時間に歩いただけで、優に 10人近くとすれ違った。彼女たちの横を同居人の高齢者らが普通に出入りしている日常風景が面白かった。

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そして、西側の掘割に到達する。ここの橋名はそのまま西門橋(上写真)。
下写真左は西側の掘割と城壁跡部分。西門にも甕城が設けられており、その出っ張り部分が視認できる。

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さらに城外まで奉城西街の通りは続いており、そのまま大通りまで直進する(上写真右)。
道路沿いには小規模菜園と運河が設けられており、古城時代の雰囲気を知るいい手がかりとなる。

そして、奉城港橋をわたって(下写真左)、南奉公路まで戻った。
途中、左手には西門港新村があり、その路地名は西門路となっていた(下写真右)。

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先ほど下車したバス停「奉城」の一つ西隣のバス停「奉城医院」で、バスを待つことにした。
間もなく 南橋バスターミナル 方面行のバスが通過し、すぐに乗車する(3元)。だいたい 45分強のドライブで奉賢区の中心部に戻ってこれた。



 奉賢県奉城鎮の歴史

長江と銭塘江(杭州湾)の河口部に形成された巨大な砂州である江東地区にあって、現在の奉賢区奉城鎮の一帯は唐代初期の時点ですでに陸地化が完了されていたという。
古くは青墩や墩明と呼ばれ、海岸エリアの簡易な防衛城塞(墩)が設置されていたことがわかる。その後も、江東エリアの砂州は巨大化が進み、埋め立てられた海岸線は次々に緑地化が進んでいく。こうした過程で、青林と呼称されるようになった。
この時代、海岸線が近かったこともあり、主な産業は漁業や塩業がメインであった。

五代十国時代、呉越国(907~978年)が江東エリアを統治していた 950年、青墩塩場が新設される。周囲の浦東塩場や袁浦塩場などと合わせて、秀州(嘉興府)下の 華亭県(今の上海市松江区) の塩監が統括した。当時、華亭県下の五大塩場の一角を占め、かなり大規模な製塩業が行われていたという(下地図)。

奉賢区

さらに時は下って明代初期の 1368年、建国の功臣で初代皇帝・朱元璋の信任厚かった湯和(信国公 1326年~1395年)は、倭寇襲撃に苦しみ、特に被害にひどかった江東地方の防衛網を強化すべく、各所に城塞を建造する。この一環で築城されたのが、強固な城壁で青林鎮(青村鎮)を取り囲んた守御青村千戸所城であった。
同じ明代中期の 1500年代初頭、守御青村中前千戸所城へ改称される(下地図)。

この時代も引き続き、漁業と塩業が主産業で、明末当時、青村所城(青村鎮城)の管轄下には漁船が 50~60艘も登録されていたといい、遠洋漁業から近海漁業まで幅広く行われていた。

奉賢区

しかし、清代に入ると、海岸線は大規模に開墾され、塩田は水田に代わり、漁業や塩業は徐々に衰退し、経済活動の主軸は農業へと移行する。わずかに継続された漁業と塩業は副業程度へ減少されていく。

清代中期の 1726年、華亭県(今の上海市松江区) の南東部が分離され、奉賢県が新設される。県役所は当初、南橋鎮城 内に開設されるも、5年後の 1731年、青村鎮城(今の奉城鎮)へ移転される。下地図。

奉賢区

清末の 1910年、奉賢県の行政区が七郷に定まる。現在にも継承される郷、社、鎮所などがこのとき確定されたのだった。

中華民国が建国された直後の 1912年、県役所が西側の南橋鎮城へ再移転されると、 南橋鎮城 が奉賢県城となり、以後、奉賢県の中心地区として、近代都市開発の荒波をまともに受けることとなる(2000年に奉賢県が廃止、奉賢区へ改編)。対して、旧県城だった奉城鎮エリアは開発対象から取り残され、今日までその古城時代の姿を残すことにつながったのだった。しかし、かつての県城「奉城鎮」は、現在の奉賢区下の 9鎮内にあって筆頭格であり続けている。

奉賢区

奉城古城は正方形で設計され、城内は東街、南街、西街、北街の十字路で整然と区分けされていた。
現在、古城エリアの北側にある道路「奉粮路」は、かつて細い路地で、奉賢街(後に古游里)と地元で呼ばれていたという。その昔、孔子の弟子である子游が江東地方南部を訪問したことに由来するらしい。

1731年より、奉賢県役所が転入されてくると、これにあわせて、城内では県署(県役所)、都司署、城守署、典史署と監獄などの行政設施が次々と整備され、さらに学署、肇文書院、言子祠、尊経閣などの文化設施、また文廟(聖人殿)、武廟(関帝廟)、城隍廟、鎮海侯廟、元通庵、三官堂などの各種廟祠も順次、新設・移築されていき、同善堂、節孝祠、撫孤局(孤児院のこと)、养済院などの社会慈善設施もこれに付随して新設されていった(上絵図)。

清末の混乱期を乗り越え、中華民国時代中期までこれらの建築物は残っていたが、日中戦争下の 1937年11月、日本軍にる上海攻略戦で戦火に巻き込まれ、県署(県役所)、学署、文廟、武廟、撫孤局など、多くの歴史的建造物が焼失されてしまったという。

現在、城内には県城時代から続く東西南北の路地が健在であるが、多くの建物は建て替えられ、さらに城壁や城門も撤去されて、古城遺跡は何も残されていない。しかし、城壁の外周をめぐっていた掘割はそのままの位置に現存しており、古城時代の巨大さを今に伝える生き証人となっている。その他、古城内の路地名にもかつての記憶が息づく ー 東門村、東門橋、南門吊橋、南門港大橋、城大路、奉城老街、西門路など。



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