BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~

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訪問日:2018年6月上旬 『大陸西遊記』~


上海市 金山区 ~ 区内人口 80万人、 一人当たり GDP 66,000 元 (上海市 全体)


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  奉賢区南橋から 金山衛バスターミナルへ 6元、45分
  金山区にある 金山衛バスターミナル と 石化バスターミナル、その天国と 地獄
  金山博物館に展示されていた 日本関連資料 ~ 倭寇と日中戦争に関する 中国人の記憶
  金山衛城跡の東側の 掘割(衛城河)
  上海市屈指の 古刹・万寿寺 ~ 三国時代、呉の孫権により建立
  万寿寺前の城壁公園 と 掘割、運河
  古城時代の 城内水路の跡地 ~ 城河路 と 古城模型
  金山衛城(【初代】金山県城)が 東西南北の城門に有した 甕城跡
  金山衛城の全盛時代を 俯瞰する
  旧市街地「衛城村」の古民家 と 庶民の青空市場
  古城路の北半分 と 南半分 ~ 市民の生活空間 と 化学工場が織りなす 異空間の共存
  金山衛抗戦遺跡記念公園内に復元された 南城門と 掘割
  日中戦争遺跡 ~ 南城門上の トーチカ跡 と 博物館
  【豆知識】金山区の 歴史 ■■
  前京県城(軍事要塞「金山城」) ~ 水没した 歴史遺産
  金山衛城の周辺に設置されていた 軍事要塞施設群
  昭和の香りがする 石化バスターミナル
  金山嘴海鮮市場 と その沖合に浮かぶ 3離島 ~ 大金山、小金山、鳥亀山と 水没した歴史遺産
  【豆知識】朱涇鎮城(【二代目】金山県城) ■■
  亭林鎮城(金山司)
  胥浦県城(干巷老街)



奉賢区 下のホテル出発後、路線バスで環城南路沿いまで移動する(2元)。
この環城南路沿いなら、だいたいのバス停で金山区行のバスに乗れる。

金山区のバスターミナルは二つあり、金山衛バスターミナルと、石化バスターミナルといい、これらに向かうバスは 南金専線(南衛専線)、奉衛線、南石専線とバス車体上の電光掲示板に表示される(下写真左)。いずれの路線も、20~30分に一本運行されており、とりあえず、バス停で待っていれば、10~15分に一本ぐらいの割合で金山区へ向かうバスに乗れるペースだった。終点までの運賃は 6元で、乗車時間 45分(平日 日中の場合)。

金山区 金山区

筆者は、金山衛バスターミナル行の路線バス(奉衛線:奉賢区南橋バスターミナル ⇔ 金山衛バスターミナル)に乗ってみた(上写真左)。
昨日、柘林鎮 へ行ったルートと全く同じ、環城南路から滬杭公路に入り、そこから一直線で南下するコースだった。

金山衛バスターミナル は、鉄道の 金山衛駅(上写真右)と長距離バスターミナル、そして路線バスターミナルが連結された新設の交通拠点に入居していた。しかし、だだっ広い敷地の割には乗客はおらず、大陸中国らしい都市設計だと感じた。ロケーションがひどかった(下地図)。

金山区

そのまま同じ金山衛バスターミナルにあった地元の路線バス⑧番に乗車し、蒙山路と金山大道との交差点付近にある バス停「金山区人民政府」で下車した(上地図)。

金山区 金山区

ここから杭州湾大道をわたって(上写真左)、博物館を訪問する。それにしても、大陸中国のバス停の設置ポイントは、いつもながら的を得ない。さらに、博物館前の巨大な庭園など無駄に広い敷地面積も非合理的だとつくづく感じた移動ルートだった(上写真右)。



筆者は金山区への往路は金山衛バスターミナル行に乗車したが、復路は石化バスターミナルから奉賢区南橋方面行の路線バスを使った。
結論から言うと、金山衛バスターミナルはどこへ行くにも非効率なので、最初から金山衛古城や市街地への訪問を予定される場合、石化バスターミナルのみを使った方が効率的だと分かった。もちろん、上記の博物館へ訪問する路線バス・ルートも充実している(金山衛バスターミナルはバス本数が少ないので、選択肢が最初から狭められる)。

ちなみに、奉賢区南橋 ⇔ 金山衛バスターミナル、奉賢区南橋 ⇔ 石化バスターミナルともに、運賃は 6元だったので、やはり金山区の中心部に立地する石山バスターミナルまで一気に移動できるバスの方が、費用対効果、時間効率としても合理的といえる。
ちなみに、この両バスターミナルは地元の路線バス ①②④番でつながっている(2元)。下路線図。

金山区



さてさて、金山区博物館であるが、3階まである建物は巨大だが、上階は未来の金山区開発計画スペースになっており、歴史関連は 1階部分にコンパクトにまとめられていた。大き過ぎず、小さ過ぎず、ちょうどいいサイズだった。

金山区 金山区

特に日本関連の展示に興味をひかれた。
江東エリアを含む、中国沿岸部全体を席巻した倭寇の解説とその展示スペースでは、日本刀や鎧が展示されていたが(上写真)、「日本刀(倭刀)」の展示品から、倭寇にかなり中国人らが混ざっていたことが我々日本人には読み取れる。しかし、本館ではその事実は一切触れられていなかった。

金山区

また、日中戦争中の 1937年11月、日本軍は江東地方を長江側と杭州湾側の南北両岸から上陸し戦線を拡大していた(上地図)。杭州湾方面軍は金山区の南西部の海岸線から上陸し、そのまま金山衛を急襲したという。途中の村々も破壊や殺戮を繰り返しながら進んだという(下写真)。

金山区

見学後、再び先のバス停「金山区人民政府」に戻り、路線バス③番で石化バスターミナルへ移動し、ここから路線バス ②番(金山衛バスターミナルを始発とするルート ↓)で古城エリアを目指した(下路線図)。

金山区

②番バス乗車後、だいたい 15分ぐらいで板橋西路に到達する。下写真は「衛城河橋」で、かつての掘割上にかかる橋、という意味である。
この位置から、やや南側にかつて甕城を備えた東門があった。その城門前の堀川にかかる橋が固定式の板敷き城門橋だったので、現在、この東門付近の道路橋を「板橋」と呼称しているのだろうと妄想してみた。

金山区 金山区

下写真は古城東面の 掘割(衛城河)跡と水辺の散策スペース。
下写真右の奥の方に見える黄色の建物は万寿寺で、その脇には休憩スペースと城壁公園が整備されていた。

金山区 金山区

下写真左は 万寿寺 の正門。下写真右はその正門前に整備された城壁公園。

金山区 金山区



 万寿寺

もともとは万寿院という名称で、古城エリアの 北側(金山区海帆路沿いの金衛中学と その後方の査山あたり)に立地していたという。近代都市開発のあおりを受け、 1973年には完全に撤去されてしまうも、金山区市民の度重なる陳情により、1993年に地元政府で再建が可決され、現在の地に新規建立された、というわけである。

現在の上海市域でも屈指の歴史を誇る古刹で、その誕生は三国時代の呉の孫権時代にまでさかのぼるという。
伝説によると、呉県下の名家の出身であった孫権の 母・吴龍珍(呉夫人)は幼いころに両親を亡くし、叔父の家に預けられるも、その妻から冷遇されたため、父方の妹一家を頼って、同じ呉県下の 康城(金山城)まで逃げ出す。ここで高い教育と礼節を学び、孫堅に請われて結婚することとなる。そして、175年に孫策を、182年に孫権を出産する。
呉夫人は 207年に死去するも、229年に孫権が呉皇帝に即位すると、呉夫人は皇太后として皇族入りされることとなった。
これに伴い、母親の実質的な育ての親であった 康城(金山城)の養父らを王都・建業へ招聘しようとするも、本人らはすでに高齢で故郷から離れることを嫌ったため、孫権は地方行政官に指示し、その居宅を仏教寺院として建て替えさせる(儒教全盛の当時、呉夫人は仏教を熱心に信仰していた)。そして、232年についに寺院が完成を見る。
この時、孫権は母の養母を「万寿護国夫人」とたたえ、金文字で「万寿院」と直筆して掲示させ、この寺院内で養母らが不自由なく余生を過ごせるように手配したという。

以後、孫権は度々、自身の親族らを万寿院に訪問させている。護国夫人の死後、万寿院はこのエリアの仏教信徒らの一大聖地となっていく。
孫権の跡を継いで 第 2代目皇帝となっていた孫亮が会稽王へ降格された時代、彼が当寺院を訪問した記録が残る。また、東晋朝の 初代皇帝・司馬睿、南北朝時代には宋朝の 初代皇帝・劉裕や、陳朝の第 4代目皇帝の陳頊、五代十国時代には 呉越国王・銭謬、南宋朝の 初代皇帝・趙構、元末の 呉王・張士誠ら、そうそうたる顔ぶれの訪問を受けた事実が確認されているという。

しかし、これだけの名刹は戦火を免れることも許されず、焼失と再建を幾度も経験する。その度に、護国娘娘廟、万安寺、万寿寺、祝誕道場などと改称されたという。



下写真は万寿寺前の 城壁公園 から南方向の東門跡地側を眺めたもの。奥にかかる橋が先ほどの「板橋西路」。そのさらに後方に、かつて東城門があった。

金山区

下写真は城壁公園内で復元された古城壁と 掘割(城河)。堀割はいくつかの運河により外部と水運ルートでつながっていた(なお、本来はもう少し南側の東門手前だけに接続されていたが、近年の都市開発に伴い、写真の位置に水路が移転されたらしい)。

この辺りは、近年の都市開発前まで寂れた農村地帯が広がるエリアだったという。古い中国の生き証人が都市開発で駆逐されてしまう前に、早く写真に収めていかねばならない!!と強く実感させられた次第である。

金山区 金山区

下写真左は、古城東面の掘割跡。左手側に延々と万寿寺の敷地が続く。
近年、城壁公園や万寿寺を含む敷地に、巨大ショッピングセンター(易家中心)が誕生しており(下写真右)、筆者が訪問した時点では完全オープンには至っていなかったが、ファ―ストフード店 DICOS やスタバなど、所々のテナントが早期開店しているだけだった。

金山区 金山区

上写真右のショッピングモールは、衛城河と板橋西路、城河路に囲まれる一角で開発されていた。
この城河路であるが、古城時代、ここに城内を流れる水路があった名残りである(現在、水路は埋められている)。下写真は古城時代の東門周辺の様子

なお、金山衛城には東西南北一つずつ城門があり、その上部には楼閣、前面には甕城をそれぞれに有し、掘割には釣り橋ではなく、固定型の板敷き橋がかけられていた。

金山区

また現在、古城 内はすべての城門と城壁が撤去されてしまっているが、それぞれ東西南北の城門跡地には今も甕城を有した地形が残っており、その凸型が生々しい。下地図。

金山区

さて、再び先ほどのバス下車ポイントがある板橋西路沿いまで戻り、さらに徒歩で西進し、城内を散策してみることにした。

板橋西路と交差する南北の 道路「城河路」、「学府路」、「古城路」など、古城時代の記憶が感じられる道をいくつか通過して直進した。
下写真左は、筆者が下車した「板橋西路」のバス停の、次のバス停名。相変わらず、大陸中国の直線道路はべらぼうに長い。。。

金山区 金山区

上写真右は、板橋西路を前進し、古城エリア中央を貫通する 南北道路「古城路」との交差点にあった 庶民マーケット「金山衛市場」。古城時代、この中央部分には駐屯軍関連の役所や官僚らの屋敷があったと推察されるが、清朝滅亡を経て、それらの土地は庶民らに占領されていったのだろう。

金山区

この「金山衛市場」から細い路地を南下して、老衛清路まで移動してみることにした。細い路地には庶民の露店市や古民家集落が広がっており、人々の生々しい生活臭であふれかえっていた。

旧市街地というイメージ通り、「衛城村」という地名だった(下写真右)。

金山区 金山区

古民家や狭い路地が入り組む庶民の居住地区を抜けていくと、別の 東西道路「老衛清路」に行き当たる。下写真右。

金山区 金山区

老衛清路と古城路との交差点には、なんと「古城温泉」というサウナ施設があった(下写真左)。もう廃墟感が丸出しだったが。。。夜になってネオンが点灯されると、また違う印象を醸し出してくるのかもしれない。

金山区 金山区

しかし、それよりも驚いたのは、この老衛清路を南北の境界線とし、古城エリアの雰囲気が全く異なる異空間の共存だった。上写真右は、古城路の北半分の様子。

金山区 金山区

上写真左は、古城路の南半分の様子。
これらの街路樹エリアは緑地公園が整備されているのではなく、塗料工場、日用品工場、金属加工工場など、いろんな工場が林立する工業地区となっており、度々、巨大なダンプカーやトレーラーが砂埃をあげて往来する工業道路となっていたのだった。
もちろん、民家などは皆無であり、一瞬、ここが同じ古城内であることを忘れてしまうほどの異空間だった。また、その面積も古城南半分全体を占める広大なものであった。

たぶん、日中戦争時代前から城内開発を進めて、この城内で近代工場や兵器工場を誘致した関係から、その延長線上で現在の工業エリアへと変貌を遂げたのかもしれないと推察した。
もともとは 柘林鎮城乍浦所城 などのように、城内に広大な農地をも取り囲んでいたのかもしれない。
とりあえず、そのまま古城路を南下し続け、南端の 南安路 まで行きつく。ここが古城エリアの最南端となる。下写真左は、古城南面の掘割跡。

金山区 金山区

この南安路沿いに金山衛抗戦遺跡記念公園が整備されていた(上写真右)。
この抗戦とは元末~明代に跋扈した倭寇であり、日中戦争時代の日本軍との戦闘(1937年11月)を指し、要は「敵・日本国に対する中華民族の抵抗」戦争を記念するものとなっていた。
当然のごとく、しっかり愛国教育基地として国家推奨施設に指定されていた(開園時間 9:00~16:30、入場無料)。

下写真は抗戦遺跡記念公園内に 2007年に復元された、金山衛城の南門。古城時代もこの場所に立地していたという。

金山区

この城門内は 日中戦争博物館 となっており、1937年11月5日に急襲してきた日本軍との戦争写真や当時の遺留品などが展示されている。
甕城の城壁上には、中国軍のトーチカなども復元されており、戦争当時、中国側は金山衛城の城壁上に防衛ラインを構築していたことが読み取れる。このため、日本軍の猛攻撃により、城壁は大いに損壊されてしまったわけである。

金山区 金山区

1937年11月5日早朝、日本軍は金山衛のやや南側の 海岸線(白沙湾)あたりから上陸し、江東地方を席巻することとなった。現在、その上陸ポイントは 浙江省嘉興市平湖市 全塘鎮にある独山港鎮人民政府役所の前とされ、記念碑「侵華日軍登陸処碑亭」が設置されているという(1987年)。

南から進軍してきた日本軍は、まずこの金山衛城の南門へ一斉攻撃をしかけ、城内になだれ込んだという(一日もかかわらずに陥落)。その記念碑が下写真左の兵士像である。

金山区 金山区

見学後、南安路をさらに東進し、学府路まで至り、ここから古城南面の 掘割(衛城河:下写真左)を撮影する。下写真右はこれにかかる南門橋と学府路。

金山区 金山区

学府路沿いで何とかタクシーを拾い、石化バスターミナルまで移動した(ワンペーター、12元)。
金山区内のタクシーらはショッピング地区に何台か待ちぼうけしていたが、その他の市街地ではなかなか見当たらなかった。ここはバスを乗りこなす方法を習得しておいた方が、確実に移動できると思う。
地図で見ると、普通に歩ける程度の市街地に見えるが、さすが大陸中国、その 1ブロックの距離がハンパなく巨大で、古城エリアを一周巡るとなると、半日は歩き遠しとなるだろう。



 金山区の歴史

金山区は早くも 6000年以上前には陸地化が完了していたという。
金山区の一帯はその昔、海塩と呼称され、別に 柘湖、康城、前京、苎城、鸚鵡洲、雲間などとも異名を取り、中国でも有名な塩の産地として知られていた。

春秋時代、今の金山区一帯は時に呉国に、また時に越国の領地に組み込まれ、その支配者はめまぐるしく交代した。戦国時代に入っても戦火は絶えず、特に金山区一帯や、現在の 浙江省嘉興市 一帯では苛烈な戦闘が繰り広げられたという。
最終的に紀元前 490年に越が呉を滅ぼし、さらに紀元前 334年には、楚が越を滅ぼすと、江東エリアは完全に楚国に併合されることとなった。

紀元前 223年にその楚国も秦により滅ぼされると、翌紀元前 222年、江東地方の統括のため会稽郡が新設される。その下に複数の県城が配され、その一つに 海塩県 の県役所の開設があった(この県名は、広大な海岸沿いに塩田が広がる風景から命名された)。県役所は 華亭郷(現在の金山区の南東部にあった柘山の麓あたり)に設置される。これが今の上海市区内で最初の県役所の開設となった。(下地図)

金山区

しかし、秦朝末期の動乱の時代に大地震が発生し、県城や住民ごとすべて柘湖(現在の 浙江省嘉興市海塩県 下の南北湖。かつては8倍以上の面積があった)の底に沈んでしまうこととなる。直後に、武原郷(今の 浙江省嘉興市平湖市 あたり)へ県城が移転され新規築城されるも、後漢時代の 130年ごろ、再び暴風雨と地殻変動により 当湖(現在の浙江省嘉興市平湖市内にある東湖。当時はもっと巨大だった)の湖底に沈没してしまうのだった。直後に、水没地点から 18 km東にある斉景郷内に県役所が再建される。
なお、浙江省の舟山諸島 あたりには古くから海賊が勢力を張っており、度々、江東地方の南岸を襲撃していた。三国時代後期の 264年、呉の統治下にあった 海塩県城(斉景郷)も落城、占領された記録が残されている。

最終的に東晋朝の治世時代の 341年、春秋時代の重要な軍塞跡地であった 馬嗥城跡(現在の 浙江省嘉興市海塩鎮武原街道 近くの新橋北路あたり)が改修され、海塩県の県城に定められる。そして唐代初期の 700年代初頭に、馬嗥城跡のすぐ西側にあった 半路亭(現在の 浙江省嘉興市海塩鎮武原街道近くの新橋北路あたり)へ再移転され、新たに県城が建造される。これが今日の 浙江省嘉興市海塩県の中心部 へとつながることとなったわけである。

以後も、江東地方の海岸線は洪水や大雨、地震の影響を受けて、その沿岸ラインは大きく後退、前進を繰り返し、都度、多くの人命を失わせることとなる(下地図)。

金山区

南北朝時代の 梁朝(502~557年)の治世時代の 507年、海塩県の北東部が分離され 前京県(県役所は金山区の沖合に浮かぶ 大金山の北面山麓に開設。当時は地続きだった)が、さらに 534年には 胥浦県(県役所は胥浦里 ー 現在の上海市金山区干巷老街あたり ー に開設)が新設される。

549年には呉郡下の 海塩県(現在の 浙江省嘉興市海塩鎮武原街道 近くの新橋北路あたり)と 胥浦県が分離され、武原郡が新設される。しかし間もなく、胥浦県は廃止され、前京県に吸収合併される。

557年、梁朝から禅譲を受けて陳朝が建国されると、翌 558年、海寧郡が新設される。海塩県と前京県、塩官県はここに帰属された。

金山区

589年、北朝の隋により陳朝が滅ぼされると、中国の再統一が成る(隋王朝の建国)。同年中に海寧郡は廃止され、前京県と海塩県も廃止されて 塩官県(浙江省嘉興市海寧市の海岸沿いの 町・塩官古城)に吸収合併される。

唐代初期の 618年、海塩県(現在の 浙江省嘉興市海塩鎮武原街道 近くの新橋北路あたり)が復活設置されると、今の金山区エリアは再び、この海塩県の管轄区に組み込まれる。
751年、海塩県や嘉興県、昆山県などの一部が分離され、華亭県(今の 上海市松江区) が新設されると(同じく呉郡に帰属)、金山区エリアはここに帰属される。以後、清代まで華亭県の管轄下に置かれた。

五代十国時代下、江東地方を支配した呉越国王の 銭鏐(852~932年)は海岸線の防衛網を強化すべく、先に廃城となっていた旧前京県城跡を改築し、強固な 軍事要塞「金山城」を建造するも(下絵図)、南宋時代の 12世紀後半、海に水没してしまうこととなった。

金山区

その後も金山地区は江東エリア南岸の海防上の重要拠点であり続け、南宋時代に設置されていた金山巡検司は、元代にも継承される。

時は下って、明代初期の1386年、華亭県 下の 筱館鎮(別名:小官鎮)に金山衛所城が築城される。当時、猛威を振るっていた倭寇の襲撃に備える目的であった。海岸の沖合に大金山島と小金山島が向かい合って立地していたことから、金山衛と命名される。城壁の全長が 6 kmを超える、巨大な正方形型の海防要塞が完成を見る。

翌 1387年、東門外 1 kmの場所に演武場と演武庁が、さらに演武庁の四方に 左千戸所役所、右千戸所役所、前千戸所役所、后千戸所役所の各千戸所城を統括する役所機関が配置される。金山衛は当時、周囲 7ヵ所の千戸所城を統括する、エリア本部となっていた。
完成当初から明朝の正規軍も駐屯し、王都・南京 の南の防衛拠点と位置づけられたため、金山衛は大いに社会発展することとなり、その居住人口は近隣エリアでも最大規模を誇るようになる。この都市発展の過程で、兵馬司や師府、察院などの諸施設も増設されていった。

城壁は当初、高さは 9.3 m、全長 6,400 mの土壁で建造され、掘割の幅は 30 mにも及んだが、明代中期の 1417年、倭寇の攻撃で陥落に追い込まれる憂き目をみる。明朝は衛城を奪還後、すぐに城壁の強化工事に着手し、城壁上段にレンガを積み上げ、高さを 1.6 m分加増し、高さ 11 mにもなる長大な城壁が完成することとなった。また同時に掘割もさらに拡張され、その幅は 36 mとなる。
楼閣付きの城門 4ヵ所、水門が1つ、角楼が 4ヵ所という合計 8ヵ所の楼閣が城壁上に設置され、防備が強化されるとともに、凹凸壁は全部で 3678も付設されていた。

金山区

明代中期の 1467年、下段の土壁、上段のレンガ積みの二重構造の城壁から、全面石積み城壁へ大改修工事が着手される。完成後、明朝から増派された兵士らが駐留し、衛役所が城内に開設される。

なお、後期倭寇の襲撃が過熱化した明代、金山衛の周囲にはさらに簡易城塞や小規模な駐屯基地などが設営され、明朝の王都であった 南京 を防備すべく、何重にも防衛線が引かれることとなった(下地図)。

明代初期には 金山墩(現在の 金山嘴 海鮮市場のあたり)や 筱管墩(当初は小館墩と呼称)、横瀝墩、葛蓬墩などが順次、海岸線上に配置され、さらに明代中期の 1446年には 胡家港堡城(清代に胡家廠へ改称され、金山営の軍馬の飼育場となるも、清末に廃止される)が、 1452年には金山営城が、1480年には戚家墩が建造され、防衛ラインの強化が図られていった。

金山区

また明代後期、国内反乱の鎮圧などで活躍した 名将・俞大猷(1503~1579年)が、倭寇対策として 1554年に金山衛城の守将に着任し、江東地方の倭寇討伐に大いに手腕を発揮したという。

最終的に内憂外患にさらされ続けた明王朝は 1644年についに滅亡に追い込まれると、変わって満州民族による清王朝が建国される。明朝の残存勢力は南明王朝を打ち立てて清軍に抵抗するも、徐々に南へ南へと追いつめられていった。

翌 1645年に清軍が江東地方へなだれ込むと、金山衛指揮使知であった候承祖は軍民と共に籠城戦で抵抗するも、大砲で攻め立てる清軍に歯が立たず、降伏勧告を拒否し、守備兵らと共に壮絶な戦死を遂げる。後世、愛国忠臣の士として中国で敬愛される人物の一人となる。

金山区

苛烈な戦闘を経て金山衛城を占領した清軍は、衛城の修築工事に着手するとともに、金山営の役所を衛城内へ移転させ、衛城内の北門あたりに参将署を開設させる。明代から継承された金山営は、そのまま 拓林青村南滙川沙、宝山の 5駐屯軍の統括本部とされた。

1656年に類県が新設されると(松江府城内に華亭県と共に同居された)、今の金山衛一帯はこの行政区に帰属されることとなる。
時は下って清代中期の 1726年、人口増加が激しかった江東エリアにあって、南滙県奉賢県 と共に金山県が新設されると、県役所が衛城内に開設される(そのまま 松江府 に所属)。直後に海防同知署や中軍守備署、軍装局、火薬局なども併設され、さらに明代にあった演武庁が再建される。

清代後期の 1759年、県役所が北側の朱涇鎮城へ移転されるも、直後の 1768年に再び金山衛城へ戻される。そして、最終的に 1796年、再度、朱涇鎮城へ県役所が転出されることとなった。
以後、これまで県の中心都市として栄えた金山衛城は徐々に衰退し、城壁や掘割の修繕も施されないまま自然浸食に任せるだけの状態となったという。

金山区

清末に太平天国の乱が勃発すると、金山衛城も陥落し(上地図)、1860~63年の 3年間、太平天国軍の占領下に置かれる(金珊県と改称)。しかし、清軍と英仏連合軍により鎮圧されると、金珊県は廃止され、再び、金山県に戻される。
以後も、城壁や城門は荒廃するまま放置されたという。

中華民国時代の 1937年11月、日本軍が金山衛城を攻撃すると、もろくもその防衛ラインは突破されてしまうこととなる。このとき、大部分の城壁が倒壊、損壊してしまったという。

つい近年まで、東門外と西門あたりには素朴な農村風景が広がっていたが、近年、大開発が進められ、ショッピングモールが開業し、新たなホットスポットに生まれ変わっている。現在は城門、城壁類はすべて撤去されており、一部の路地に古城時代の面影を残すだけとなっている ― 学府路、衛城村、金衛城河、衛東村、老衛清路など。



石化バスターミナル 内に入ってみると、数多くの商店が閉鎖され、まさにシャッター街の様相を呈していた。かろうじて、待合ロビーのいくつかの商店が生き残っていただけだった(下写真)。何やら、昭和の香りを感じるのは筆者だけだろうか。

金山区 金山区

石南専線バスに乗車し、奉賢区中心部 まで戻った(6元)。金山区の市街地内にある石山バスターミナルからだと、平日夕方の時間帯で、1時間15分かかった。
途中、金山嘴漁村景区という海鮮料理街を通る(下写真)。一帯には海鮮市場や釣り場、汀などが広がる。ちょうど、往路の路線バスで終点だった 金山衛バスターミナルの一つ手前のバス停にあたる。
石化バスターミナルを出発後、路線バスは金山区内のバス停で順次、家族連れの地元民らを乗せていたが、皆、この金山嘴のバス停で下車していった。金山区民たちの憩いのエリアとなっているようだった。

金山区 金山区

上写真の沖合に浮かぶ島はそれぞれ、大金山、小金山、鳥亀山といい、かつては陸続きであった。南宋時代初期の 1180年ごろ、地殻変動により平野部が水没してしまい、以後、現在まで沿岸から遠く離れた離島となってしまっている(いずれも無人島)。
ちょうど、あの大金山と小金山の山裾あたりに、南北朝時代下の 507年、前京県城が建造されており、また五代十国時代下の 860年ごろに呉越国より金山城へと大改修され、巨大城塞が立地していたのだった。

金山区

なお、石山バスターミナルからは 朱涇鎮(老城地区)へ行ける路線バスも発着していた。
朱涇鎮下の老城地区は、清代後期の 1796年より金山県城を担った場所である。域内には他にも安防博物館、楓涇古鎮などがあり、次回の機会で是非、訪問してみたいと思う。
また、さらに西の金山区亭林鎮には、同じく清代、金山司が開設されていた。



 朱涇鎮城

朱涇鎮は唐代からすでに交易集落として形成が始まっていたとされる。
当地には名物の二大寺院があり、一つは唐代の高僧で著名な執筆家だった船子和尚がこの地に居住したことを記念して建てられた法忍寺で、もう一つは元代に皇帝から僧侶の元智が直々に住職に任命され建立したという誉れ高い東林寺という。古くから多くの人々がこの二大寺院を訪問すべく、朱涇鎮に足を運んだという。

この名所旧跡に恵まれた文化資源と共に、水運・陸路の交通の要衝として発展を遂げたことも重なり、地元経済は大いに繁栄し、元朝により 大盈務(貿易管理と徴税業務を司る)の役所が開設されるほどであった。
明代、清代には織物産業が隆盛を極め、松江府 下の紡織産業の中心都市の一角として中国全土にその名を知られるほどであったという。

他方で、経済の重要拠点となった朱涇鎮は上海市南部でも屈指の都市に成長し、当然のごとく、戦火に巻き込まれる度合いも増すこととなった。
元末の戦乱期には二大寺院だった法忍寺と東林寺をはじめ、鎮内の多くの家屋が焼失されており、また復興もままならない中で、明代には倭寇の襲撃にさらされることとなった。

清代後期の 1796年、金山県役所が朱涇鎮城へ転入されて以降、金山県の政治、経済の中心地として大いに発展し、それがさらに戦火を呼び寄せる結果となる。
清末には太平天国の乱に巻き込まれ、また、日中戦争時代の 1937年11月には侵攻した日本軍との戦闘により、鎮全体の70%もの家屋が焼失されてしまったという。

金山区

金山区

なお、清代に栄えた 朱涇鎮城(【二代目】金山県城)の城内であるが、わずかに東西に並行して走るメインストリートが二本あるだけで、その他は細い路地が入り組むシンプルな構造だったという。
そして城内水路が中央部に掘削されており、これを境界線として北側を上塘、南側を下塘といい、上下塘はさらに東市と西市に区分される、という四面型の都市設計になっていた。
北側の上塘には、翰中里、鳳翔里、恵民里、龍渊里、済衆里、帰源里と 程家閣、永昌巷などの路地や下町があり、また南側の下塘には 三元里、広福西里、広福東里、環照里、文明里、南滙、西滙、駁岸、王家村、蟠隠里、文殊浜、顧家湾、太平巷などが広がる、という構図だった。

中華民国時代に入り、近代都市の開発が進むと、多くの路地が統廃合され、新たに 三官弄、蘇家弄、西楊家弄、東楊家弄、戚家(財神)弄、観音弄、道院弄、小弄(口)、大弄(口)や永昌巷などの路地が誕生することとなった。



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