BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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江蘇省 南京市(中心部)鼓楼区 / 玄武区 / 秦淮区 ~ 人口 830万人、一人当たり GDP 140,000 元


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  応天府城(明朝の 王都、清代:江寧府城&江南省城、太平天国王都・天京城)
  南唐朝の 王都・金陵府城(北宋代・江寧府城、南宋代・建康府城、元代・集慶路城)
  三国時代、孫呉の 王都・建業城(西晋時代・建鄴城、東晋時代~建康城)= 六朝古都
  石頭城(金陵邑城、建業県城、秣陵県城、蒋州城、江寧県城、揚州府城)
  越城(范蠡城)
  東府城(孫権により 王城の東面の防衛城塞として 築城されていた)
  丹陽郡城
  秣陵県城(秣陵関)
  江寧県城(臨江県城、帰化県城、金陵県城、白下県城、上元県城、升州府城)
  大報恩寺遺跡公園(もとは 建初寺:江南地方最初の仏教寺院。三国時代に 孫権が帰依)



南京市一帯には、100万年~120万年前にすでに古代人類の存在が確認されており、 35~60万年前には地元で進化を遂げた猿人が南京市エリアで生息していたという。彼らはアフリカ発祥の ホモ・サピエンス(約 10~20万年前)とは異なる種族であったことが確認されている。
約 7000~8000年前、新石器時代の原始村落が出現する。
殷(商)朝末期の時代、姫亶(通称:公亶父)が 涼州(今の 甘粛省 一帯)の諸部族をまとめあげ、辺境にあった周を大国へと台頭させると、殷王朝より西伯侯に封じられる。

この後、殷王朝により呉の地も与えられて、呉国を建国したのが、姫亶(公亶父)の実子、姫泰伯(通称:呉太伯)であった。商王朝は周国の軍事的プレゼンスを蛮族の統治に利用しようと、遠く離れた呉の地を与えたのだった。

以後、呉国王は 姫泰伯(呉太伯)の子孫が継承していき、名君と誉れ高い第 2代目呉王の 姫雍(通称:仲雍、虞仲)などを輩出しながら、この地を統治する。
ちょうどこの時代に、秦淮河の河川沿いに原始的な交易集落が形成され、江東エリアの中核都市としてのスタートが切られたと考えられている。

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そして、中原では姫亶の孫の姫発が紀元前 1046年に殷王朝を滅ぼして、西周王朝を建国し初代皇帝に即位する(周の武王)。周朝王家の分家として、呉国王の地位も格段に上昇することとなった。ちょうど、この時代、第 5代目呉王として 姫章(通称:周章。彼の通称は自身が周王家の分家であることをアピールする意図がった)が統治していた。
しかし、彼には実子がいなかったので、その死後、呉王2代目の仲雍の末裔を探し出し、ひ孫にあたる仲奕が 閻郷(今の江蘇省 蘇州市 滄浪区にある蘇州公園の一帯。かつて存在した路地・言橋下塘エリア=公園路と 五州路の間にあった、最も北側に位置した東西の横巷)にて見つかったので、これに継承させることとなった。以後、呉王はこの地名を冠して閻姓を名乗ることとなる。

春秋時代に入ると、 秦淮河沿いに形成されていた 古代交易都市(今の 南京市秦淮区雨花路沿いの長干里一帯)が城邑として整備される。
またこの時代、呉国の周辺では南に越国、西に楚国が勃興し、両者から圧力を受けて、領土を切り崩されるようになっていた。
紀元前 571年、長江の対岸にまで勢力を伸長させた楚国は、拠点都市の 棠邑城(今の 南京市六合区)を建造すると、棠邑大夫を設置する。これが、史書で確認できる南京市域内における最初の地方行政機関となった。秦代の紀元前 221年、この棠邑城が棠邑県城となり(九江郡に帰属)、以後、県城として長い歴史を刻むこととなる。

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春秋末期、呉王の 夫差(姫夫差。別名、閻夫差)が今の南京市秦淮区朝天宮一帯で新たに城郭を築城する。そして、この地で銅器鋳造業の振興を図ったとされる。
臥薪嘗胆のエピソードにみられる越国との死闘を経て、ついに紀元前 473年、殷代後期から続いた 名門・呉国(王都は 呉城=今の江蘇省 蘇州市)はついに越国に滅ぼされる。

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翌紀元前 472年、越王の句践は大夫の范蠡に命じて、秦淮河の南岸にあった既存の城邑を拡張させ、巨大城郭を建造する。その城壁は丘陵沿いに全長は約 1.2 kmも張り巡らされ、その内部面積は約 0.94 m2にも至ったという。ちょうど、今の南京市秦淮区雨花路沿いの長干里と雨花台公園の一帯に立地していた。
以後、この城は越城もしくは范蠡城と通称されることとなり、南京市街区で本格的に建造された最初の城壁都市とされる。そのまま范蠡が城主として居座ることとなった。ここは西の大国・楚と対峙する重要な軍事拠点として高地に立地しつつ、秦淮河沿いの交易都市を監督する機能も期待されたのだった。
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その越国も紀元前 334年に楚国により滅ぼされると、翌紀元前 333年、 楚王の 熊商(威王)は秦淮河の北岸にあった急峻な 岩山(今の 南京市鼓楼区にある清凉山公園一帯)を切り開き、新城塞を築城する。その岩山にそびえたつ様から、石頭城と命名され、ここに金陵邑が開設される。これが、金陵の名が史上初めて登場した瞬間となった。
こうして秦淮河を南北に挟んで二つの城塞が並び立つこととなるも、当時の城塞は、単に軍事基地を主目的としたため規模は小さく、居住区エリアはわずかしかなかったという。

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その楚国も紀元前 223年、秦国により滅ぼされると、当初はそのまま金陵邑城として一帯の行政業務を担うも、 紀元前 210年に秦の始皇帝が当地を訪問した際、その名称は不遜だということで、秣陵県(「秣」は、家畜の飼料である「まぐさ」のことで、侮蔑の意味を込めさせた)へ改称され、県役所が新設されることとなる(会稽郡に帰属)。
その県役所は、岩山下の平野部の 秣陵関(今の南京市江寧区秣陵街道)に築城され、以後、秦代、漢代を通じ南京市域一帯の行政都市として機能することとなる。同時に、その城下町にあたる 秦淮河沿いの集落地は順調に発展を遂げていった。

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後漢末に天下が乱れ、三国時代に突入すると、212年、長江沿いの古い軍事要塞跡であった石頭城に孫権が大規模修繕を加える。
そして、華北で魏が(220年)、西に蜀が(221年)皇帝を名乗ったため、229年、孫権も 王都・京口(今の 江蘇省鎮江市)で呉皇帝に即位すると、間もなく、王都を 秣陵県城(石頭城)に遷都し、秣陵県城下の平野部に 王都・建業(今の南京図書館と 六朝博物館の下には、共に王城遺跡が発見されているという)を建造したのだった。

これ以降、石頭城(秣陵県城)はこの王都の西の防衛拠点として位置づけられ、南岸の旧越城跡も整備し直して城塞化し、さらに、この秦淮河の 対岸部(今の 南京市秦淮区烏衣巷の一帯)にも城塞を建造し、王宮・建業を東西南北に取り囲むように城塞を張り巡らせる防衛ラインが整えられたのだった。王宮自体は日常生活や政務がとりやすい平野部に開設され、わずかな城壁こそあるものの、それ単体では城塞とは言い難いものだったと推察できる。
当時、これらの東西南北の城塞や王宮を結び付けるようにして、秦淮河沿いに商業エリアや住民らの居住区が広がっており、盛んに交易市場が立っていたという。

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また 247年、西域の高僧である 康僧会(?~280年)が呉の王都・建業に仏教を広めるべく王城を尋ねると、呉王・孫権(47歳)自ら謁見し、そのまま仏教信者となり、南岸沿いの長干里の地に 寺院「建初寺」の建設を許可する。
これが、中国南方地区における史上最初の仏教寺院とされる。この地で、康僧会は仏典の中国語翻訳を進め、その後もこの寺院は江南地区の仏教中心地の一角を担い続けることとなった。

また、この寺院が建設された長干里エリアを取り囲む 丘陵地帯(今の雨花台の丘陵地帯)は、古代より石子崗と通称されており、ちょうど越城の裏山沿いにあたり、墓地が集積していた。今日、革命烈士紀念墓地公園として整備されているが、つまりは、古代からの墓地群の上に建設されているわけである。
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孫権の死後、252年に孫亮が 2代目皇帝に即位すると、翌 253年、朝廷内で権勢を誇っていた太傅の諸葛恪を宴会中に暗殺する。その遺体は筵に巻かれて前術の墓地エリアだった石子崗へ捨てられ、直後に三族もろとも処刑されてしまうのだった。

また時は下って、明代初期の靖難の役でも、2代目皇帝・建文帝(朱允炆)に忠誠を誓った大儒家の孝孺が、3代目皇帝に即位した 朱棣(永楽帝)から、正当な皇位継承者である旨の詔書の執筆命令を受けるも、これを拒否したため、十族すべてが処刑され、それらの遺体がこの石子崗に埋葬されたと伝えられている。

さて、孫呉も建国から 50年近くを経て、ついに 280年、西晋軍の全面攻撃を受け(下地図)、長江沿いの各拠点が撃破されていく中、第 4代目皇帝・孫晧は全面降伏に追い込まれるのだった。このため、孫権の築いた王都・建業を囲む防衛ラインは使用されることなく、すべて西晋朝へ明け渡されることとなる。
呉の王城を占領した西晋朝の武帝は、282年、建業城王宮を建鄴城へ改称させる。

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この 40年後に、華北を追われた西晋朝皇族の生き残り・司馬睿にって江南地区で東晋朝が建国されると、この孫呉の王宮がそのまま王城として利用されることとなった。あわせて、建鄴城は建康城へ改名される。

以後、南北朝時代を形成した 東晋朝、劉宋朝、斉朝、梁朝、陳朝の諸王朝も、引き続き、この王城を継承し続け、南京は 六朝古都(孫呉から数えて)と称えられることとなる。

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六朝の王都時代、建康城は当時、世界でも最大規模の人口都市となっており、その数は 100万人に達し、世界で最初の人口 100万人越えの都市として歴史にその存在を刻みつけている。
五胡十六国の戦乱で荒れ果てた華北地方から逃れてきた文化人や 官吏、士族、農民、商人らが数多く王都・建康やその周辺に流入しており、その経済規模は爆発的に巨大化するとともに、江南地方に中原文化を大いに伝播させることとなった。
王宮の東面を守備する軍事拠点として、呉の孫権により城塞「東府城」が建造されていた エリア(今の 南京市秦淮区烏衣巷の一帯。下絵図)はちょうど高台から山の手にあたり、この時代、都市部が拡張し、この城塞の北面丘陵が開拓されて、華北から流入した 富裕層、文化人、貴族層などが居住する高級住宅街へと大変貌を遂げている。下絵図。

ますます拡大していく秦淮河沿いの市街地には大小 10余りの市場が立つようになり、周辺各地から多彩な商材が持ち込まれ、大いに繁栄を謳歌したのだった。
古来より存在した 越城古城(今の 南京市秦淮区雨花路沿いになる長干里)エリアに居住してきた住民らは、主に船舶での物流業に従事し、大いに潤ったとされる。

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また、華北流民らにより中原の伝統文化が数多く持ち込まれた影響で、六朝の 王都・建康城の王宮は中国古代から継承されてきた王城建築作品の代表作とされる。

中華文明に古代から続く王城発展史上でも重要な位置づけにあり、城内を左右対称に都市設計し、かつ平面上に区画整理する都市デザイン、そして、壮麗で気高い皇宮や宮殿の建築様式は、北朝の 北魏王都「平城(現在の山西省 大同市)」、後世の隋唐時代の 王都「長安城」、そして、東・東南アジア各国にまでも、時間と空間を越えて大いに影響を残したのだった。上絵図。

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しかし、588年、北朝の隋・文帝が南朝の陳王朝を滅ぼすべく、50万を越える大軍を江東に派遣すると、翌 589年、王都・建康城の防衛戦線は崩壊し、壮麗を極めた王宮群も焼け落ちてしまうこととなった。
隋朝による全国統一が成ると、王都は 長安 に開設され、300年もの間、南朝の王都であった建康城は跡形もなく撤去されることとなる。隋朝は中国南方勢力から南朝の記憶をすべて除去すべく、王宮、後宮、楼閣、邸宅建築、城壁など一切を破壊し、その跡地をすべて農地として再開拓してしまったのだった。
そして、石頭城のみ再利用されることとなり、蒋州の州役所が開設され、近郊の丹陽郡などを統括した。隋代後半の 607年には江寧県の県役所も併設される(丹陽郡に帰属)。
秦淮河沿いには交易市場が立つことは許され、引き続き、江南地方にあって屈指の商都として君臨し続けるも、城塞は石頭城のみとされ、徹底した無力化が図られたのだった。

唐代初期の 620年、江寧県城(石頭城)内にさらに揚州大都督府が併設されると、引き続き、江東エリアの行政の中心都市を成すこととなるも、626年、揚州府の役所が 江都郡城(今の江蘇省 揚州市。742年に広陵郡城へ改称)へ移転される。


なお、三国時代に孫権の築城から始まった石頭城であるが、清凉山の西面の天然の絶壁を中心に建造されており、山全体を取り囲む形で、全長 3 km程度の城壁が取り囲んでいた。その岩壁の凹凸が恐ろしい鬼の顔に見えたということで、いつの頃からか鬼顔城とも呼称されるようになったという。

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古代より、長江は清凉山の麓を東へ回りこむように流れており、その波に洗われた岩壁はますます抉られ急峻化する自然環境を生み出していた。北面には長江が、南面には秦淮河の河口部が面し、天然の要害となっていた。
城門は南面に二門、東面に一門、南西に一つの 4門を有した。河川に二方を囲まれ、急峻な山を抱くように設計された城塞は堅固そのものであった。
城内には 石頭庫(石頭倉)と呼ばれる食糧・武器庫が設置され、また城壁の高い部分には狼煙台が設けられて、集落地や周囲の軍事拠点に敵軍の侵入をすぐに知らせる警報体制も整備されていた。
南朝時代を通じて、石頭城は王城を守備する防衛網の 筆頭としての役割が期待され続けた。


唐代の名詩人ら 李白、劉禹錫、杜牧、李商隠たちは共にこの都市に住むか、訪問するなどして、何らかの足跡を残している。彼らは皆、言葉を変え、表現を変えて、南朝時代の栄華を誇った旧王都・建康城の「夢の跡」を詠んでいる。

いよいよ長期政権だった唐王朝も滅亡すると、五大十国時代が始まり、特に華北地方では戦火が途絶えることはなかったが、江東地方を支配した 楊呉朝(902~937年)から 南唐朝(937~975年)にかけての 70年以上もの間、その 王都・金陵府城(南京市)では大規模な戦争に巻き込まれることはなく、秦淮河の両岸エリアを中心に経済活動が活発化していった。商業で人々が栄えると、これに比例して豊かな文化も花開き、詩詞や書画などが一世を風靡したという。

この豊かな財政収入を背景に、南唐朝は 王都・金陵府城(南京市)の城域を大幅に拡張させる。秦淮河の北岸に立地した商業地区をすべて内包し、さらに隋唐代の石頭城にまで至る巨大城郭を出現させたのだった。下絵図。

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北宋代、南宋代、元代にかけて、引き続き、金陵城は南唐朝の王都時代の城壁規模を踏襲した。この時代、城内の南東部分の秦淮河沿いが引き続き、経済活動の中心エリアとなっていた。

特に北宋時代の中期、その地方役所での政策手腕を評価された 王安石(1021~1086年)は、5代目皇帝・英宗より何度も中央政界への出仕を求められていたが固辞し続けるも、 1067年に英宗の死により 6代目皇帝として神宗が即位すると、翰林学士兼侍進として中央政界に召されることとなる。同時に、地方行政官の兼務も許され、この 江寧府(金陵府から改称)の府長官に任命されている。このとき、彼はほとんどの日々を、この江寧府城内に居住し、中央政界での政争に敗れて引退した後も(1076年)、この地に住み続けている。

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王安石の失脚と第 6代目皇帝・神宗の 崩御(1085年)以降、北宋朝の朝廷は大混乱をきたすこととなり、東北部で勃興した金朝により 1127年、王都・開封が占領されて、滅亡することとなった(実質的な北宋朝最後の皇帝は神宗の子で、8代目皇帝の徽宗だった)。

混乱する華北地方を逃れて、江東地方へ落ち延び、1127年中に南宋朝を建国した 高宗(8代目皇帝・徽宗の九男)は、1129年、江寧府を建康府へ改称し、あわせて江南東路の路都と定める。

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1132年に 臨安(今の江蘇省 杭州市)を王都に定めると、その後も政権は不安定で、1138年には一時的に、この建康城にも王都を定めたこともあった。
1130年春、この建康城の攻略を企図し長江を渡河し布陣した金軍に対抗すべく、南宋軍の 名将・岳飛が派遣され、南 15 kmの 丘陵地帯(現在の 南京市雨花台区内の牛首山と 韓府山の一帯)に大陣地を構築する(下地図)。牛首山から採石した赤褐色の石材を積み上げて防塁壁を建造しており、現在でも壁の幅 0.5 m、高さ約 1.5 mぐらいの不規則な石の壁が 200 mほど現存し、地元で岳飛抗金故垒遺跡として保存されている。
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建康城下の包囲陣から攻撃をしかけてきた 金軍(黒色の軍服)を撃退した際、その退却兵に紛れて 南宋軍(赤色の軍服)の決死隊 100名を紛れ込ませる。夜にこの決死隊が金軍の陣営内で無差別攻撃を開始すると、金軍内は大混乱に陥り、陣地内で大規模な同士討ちが始まってしまったというエピソードが伝えられている。最終的にこの戦いで、金軍は長江以北への撤退を余儀なくされたのだった。
清末には、南京城(天京)を本拠地とした太平天国軍と清軍がこの城塞遺跡を利用して、激戦を繰り広げたとされる。

元代、江南東路が集慶路へ改称される。当時、ユーラシア大陸全域との交易が活発化し、元朝は主要な輸出商品であった中国産絹織物の増産を奨励した。これにあわせて、当時からすでに織物業が盛んであった集慶路城内に東織染局と西織染局が新設され、業者らを監督することとされた。元代、専門製造業者らは 6000社以上も登録されており、南京雲錦として元朝皇室の御用品にも指定され愛用されたという。以後も、江南エリアの紡織業の中心都市として君臨することとなった。

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1356年、紅巾軍を率いた朱元璋が集慶路城を占領すると、応天府へ改称させる(上地図)。
1368年に江南地方一帯を統一した朱元璋が明王朝を建国すると、自身の本居地・応天府を 王都(京師)とする。1381年に中華全土を平定した明朝の 王都・南京は 正真正銘の中国全土の政治、経済、文化の中心都市として、その歴史で二度目のピークを迎えることとなった。

明初期の南京の総人口は約 70万人で、元末の戦乱で混乱していた当時の大陸中国にあって、最大の人口都市となっていた。中国全土だけでなく、全世界でも最大都市として記録されている。城域は大幅に拡張され(工事期間 27年!)、応天府城の城壁(全長 33.68 km)は世界一の規模を誇ったという(下地図)。

当時、鶏籠山(今の 南京市江寧区)の山麓にあった国立の最高学府・国子監には学生が万を越える数、在籍し、日本や朝鮮などの国選レベルの留学生らもここで学んでいだ。現在、その敷地は 国立・東南大学(前身は 1921年創立の国立中央大学)のキャンパスになっている。

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北平城(今の 北京市)に駐留した 燕王・朱棣(初代皇帝・朱元璋の四男)が、靖難の役(1399~1402年)を起こし、1402年、文帝から帝位を簒奪すると、この応天府城で 3代目皇帝・永楽帝として即位する。

第 3代目皇帝となった 朱棣(永楽帝)は、自身の実母である碽妃の悲惨な死を弔うべく、南京に全国から 10万余りの大工や匠、人夫を集め、銀貨 250万両、金貨百万を投じて、のべ 19年にも及ぶ大工事を経て、巨大かつ壮麗な 大報恩寺(今の 南京市雨花台区にある雨花路の南側)を建立する。また、境内には高さ 80 mにもなる 9階建ての琉璃宝塔を建てられるなど、その豪勢さは当地を訪問した外国人らの度肝を抜いたことは幾度も歴史書に記されたほどだったが、大変残念なことに、清末の太平天国の戦火で全焼してしまうのだった。
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明朝での皇位継承で正統性を保持するため、朱棣(永楽帝)は正史の中では朱元璋の皇后であった馬皇后を母として記述させているが、上記の寺院造営の力の入れようから、実際の母はここに祀られた 碽妃(初代皇帝・朱元璋の側室で、元はモンゴル人か、高麗出身と考えられている)ではないか、と見る歴史家が多い原因となっている。

朱棣を早産で出産した碽妃は、猜疑心の強い洪武帝から自分との関係以前からの密通を疑われ、女性に対する最高刑とされた鉄裙の刑で処刑されたのだった。それは、薄い鉄片を魚のうろこ状につなぎ合わせたワンピースを女性に着せた上で、そのまま火の竈に放り込んで、焼き殺すという残忍なものだったとされる。

永楽帝は即位後 19年目にして、王都を 北平城(北京)へ遷都すると、応天府城(南京)下には六部などの諸機構が残留され、引き続き、副王都級の扱いを受けることとなった。

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明代中葉に至ると、応天府城下の人口は 120万に達し、引き続き、当時の世界でも最大の人口都市であった。この後も明代を通じ、南京城は常に中国南方、さらには中国全国レベルにおいても政治、経済、文化の中心都市として君臨し続けることとなる。

1644年、農民反乱軍を率いた李自成により 王都・北京が陥落し、崇禎帝(17代目皇帝)が自殺して明朝が滅びると、同年、副王都・応天府城に退避していた皇族や官僚らが、福王・朱由崧(明朝 14代目皇帝・朱翊鈞の孫)を皇帝に即位させ、南明政権を樹立する。しかし、この政権の内部は宦官らに牛耳られ、自堕落な生活を送った皇帝の性格もあり、最初から機能不全に陥っていた。
翌 1645年に清軍が南下攻勢を進めると、応天府城の長江対岸にあった要衝・揚州城が包囲される。名将・史可法が指揮し、100日間の籠城戦を戦い抜くも、ついに南明政権からの援軍はなく、揚州城 は落城し(旧暦 4月25日)、城内では占領軍により 10日の間に 80万人もの市民らが虐殺されたと言われる(楊州十日之屠)。
この残虐非道に恐れおののいた宦官主導の南明政権は、いよいよ清軍が応天府の城下へ迫ると、 5月25日、戦うことなく開城し、皇帝・朱由崧(弘光帝)は頭を剃り、青色の着物を着て(中国では伝統的に青は最下層の着衣色とされた)、扇で顔を隠し低頭して降伏の意を示したとされる。この時、応天府城下の市民は元皇帝に唾を吐き、物を投げてののしったという。弘光帝の身柄はしばらく江寧県署に拘束され、北京へ移送されることとなった。降伏した南明朝の皇族らは 北京 で厚遇されるも、翌 1646年旧暦 4月9日、謀反の疑いをかけられ、一族全員が処刑されてしまうのだった。

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清朝はほぼ無傷で明朝時代の 巨大城郭都市・応天府城を接収すると、副王都から降格させ、江寧府へ変更して江南省の省都に定めた。今の 江蘇省(今の 上海市 を含む)、安徽省、および江西省の三省の軍民政務を司った両江総督の本拠地に選定されたのだった。

しかし、引き続き、経済活動における 江寧府城(南京)の重要性は高く、清朝朝廷が南京城内に江寧織造府を開設し、皇室に収める絹織物品を監督することとされた。

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清末の 1842年、前年からのアヘン戦争で沿岸各地の諸都市に艦砲射撃を加えていた英国艦隊がついにその照準を南京城にあわせると、清朝政府は降伏を決意する。そして、南京城下の関江に浮かぶ英国軍艦 コーンウォリス号(HMS Cornwallis)の船上で降伏文書に調印させられたのだった。これが、近代中国史上、最初の 不平等条約「南京条約」であり、以後、中国の近代史の幕開けと認識されている。
1853年には太平天国軍が南京城を攻略し、太平天国を建国すると、天京と称して王都を開設する。その治世は 11年に及んだ。
1864年1月より天京城を清軍に包囲された太平天国軍は、 3月には備蓄食糧が無くなり、城内は飢餓状態に陥る。リーダーの洪秀全も雑草を食いつなぎ、全軍を鼓舞するも、6月1日についに飢餓が原因で死去してしまう。まだ幼なかった洪天貴福が後を継ぐも、戦況は変わらず、 7月19日についに城門を突破され、清軍が流入すると城内で虐殺の嵐が吹き荒れたのだった(下絵図)。
将軍の李秀成は幼主を連れて脱出するも、混乱の中ではぐれてしまい、李秀成は捕縛されて処刑される(8月7日)。幼主・洪天貴福は無事に 湖州城 へ逃げ延びるも、 11月18日に 南昌城 が陥落した際、つかまって処刑されるのだった。

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辛亥革命が成功し、清朝の命運が風前の灯となると、 1911年12月29日、17省の代表が南京に集って選挙を行い、孫文を臨時大総統に選出する。翌 1912年元旦、中華民国(首都・南京)が成立し、孫文が就任宣言する(清朝最後の皇帝・溥儀は 2月12日、正式に退位を宣言)。
1927年3月24日、国民革命軍が北伐を行い、南京城を陥落させる。 4月18日に南京国民政府が創設され、南京を首都として、南京特別市に選定される。
1930年に 国家直轄市(直轄市)となる。
以後、1927年から 1937年に至る 10年間は、南京の”黄金の十年”と称される通り、この期間、南京市内では大規模な首都建設工事が進められ、現在の近代都市発展の基礎が形造られることとなった。

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日中戦争時代当時の 1937年、人口規模が 100万人以上にも達し、当時、大陸中国の 6大都市の一つとして君臨した南京城を巡って、日中両軍が苛烈な戦闘を繰り広げた(上写真)。


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