BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年 5月下旬 『大陸西遊記』~


浙江省 嘉興市 平湖市 乍浦鎮 ~ 鎮内人口 6万人、一人当たり GDP 100,000 元 (平湖市 全体)


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  平湖市中心部から 乍浦鎮へ ~ タクシー 66元(40分)
  古民家群が残る 旧市街地 ~ 北大街、南大街、東大街、西大街
  旧市街地に網の目のように張り巡らされた 水路と 井戸
  古城西端から西面城壁 と 掘割跡を見る ~ 城壁全長 4.5 kmを誇った広大な城域に感嘆!
  乍浦所城の古地図と 現存する城壁遺跡 ~ 西門頭地区の笆篱坤 と 建港一村小区南
  【豆知識】乍浦所城(乍浦鎮城)の 歴史 ■■■
  【豆知識】江戸時代、日本(長崎)貿易を一手に担った 乍浦鎮の港町 ■■■
  【豆知識】平湖市に残る、その他の倭寇城塞遺跡 ■■■
  バス停「銀杏園」から乍浦鎮バスターミナルへ向かう ~ 三輪自転車タクシー(10元)
  乍浦鎮バスターミナルから、南湾砲台遺跡(山頂部の乍浦砲台と山裾の天妃宮砲台)へ
  日清戦争直前の 1894年に建造された乍浦砲台陣地 と 日本軍の空爆跡
  【豆知識】南湾砲台(乍浦砲台 と 天妃宮砲台)と アヘン戦争 ■■■
  乍浦鎮バスターミナル → 163番路線バス → 高速鉄道「嘉興南駅」→ 嘉興市中心部へ



平湖市中心部 の 汽車北駅(北バスターミナル)付近からタクシーに乗って、 乍浦鎮 を目指した。タクシーは主に 101号省道(乍王路)を直進する形で南下した。

そして、古城地区の 東西メインストリート「雅山中路」に入ると、同じく 南北メインストリート「天妃路」との交差点で下車した(66元)。40分弱のドライブだった。

乍浦鎮

この 東西メインストリート「雅山中路」沿いのバス停留所には、平湖市嘉興市中心部 との間を走る路線バスも停車し、まさに乍浦鎮内の最重要 幹線道路であった(末尾参照)。

下車ポイントの交差点から雅山中路を西へ戻る形で、北大街(南大街)まで移動してみる(上地図)。
ちなみに、平湖市バスターミナルからの路線バスルートは下記の通り(運賃一律 2元)。

乍浦鎮

乍浦鎮

さてさて、南大街であるが、ちょうど新開発されたばかりの歩行者天国ストリートとなっており、興味を惹かれなかったので、北大街の古民家エリアを散策してみた。下写真。

乍浦鎮 乍浦鎮

路地を北上すればするほど、古民家が次々と姿を現す。しかも、普通に住民たちが暮らしている。

乍浦鎮 乍浦鎮
乍浦鎮 乍浦鎮

下は、古民家集落地の東西を貫通する「東大街(下写真左)」「西大街(下写真右)」。

乍浦鎮 乍浦鎮

この古民家エリアには今でも 用水路 が張り巡らされており、古城時代の面影を妄想するのに非常に役立った。

乍浦鎮 乍浦鎮
乍浦鎮

特に、その用水路沿いに敷き詰められた石垣も見応えがあった(下写真左)。
下写真右はかつて、水路に通じる階段か、より細い水路が設けられていた跡だろうか。

乍浦鎮 乍浦鎮

用水路沿いには井戸も現役で稼働しており、近所のおばさんが洗濯していた(下写真)。

乍浦鎮 乍浦鎮

北大街の路地エリアを散策後、再び 東西メインストリート「雅山中路」に戻り、西端まで歩いてみることにした(下地図)。軽い気持ちで、西面の掘割まで行ってみたつもりだが、意外に距離があった。こんな田舎の城郭都市なのに、城内が相当に広かったことに驚かされた。

乍浦鎮

下写真は、ちょうど建港一村小区のあたり。雅山中路から撮影したもの。

乍浦鎮

古くから江南地方屈指の交易都市として栄え、清代後期には最大 6万人もの人口を抱えた大都市を成した乍浦鎮城だが、それにしても城域があまりに広過ぎる。県城にも昇格されたことのない鎮レベルの城郭都市にもかかわらず、不思議に感じたが、この田畑風景を見て合点がいった次第である。

当時、この古城内にはたくさんの田畑が内包されており、倭寇対策で一帯の農村をも取り込んだ大規模な水郷城塞都市が建造されていたのだろう。江南地方の各地に発展した囲田文化の農村土塁 を合体させて、巨大な城域を構成したと推察される。
ちょうど 韓国順天市で見た 農村城塞集落「楽安邑城跡」 のようなイメージが思い至った。大陸中国だけあって、その人口と城域は圧倒的なスケールとなっているだけなのだ。

乍浦鎮

上写真は雅山中路から、西面の 掘割跡(乍浦塘)など、南側を臨んだもの。このまま海へ直結する水運の大動脈となっている。
写真内に見える高層ビル、マンション群が、かつて港町として栄えた港湾エリア。

今回 は撮影できなかったが、この反対の北側には西面城壁の土盛りが 1 m分ほど現存するという。ちょうど、北隣の便民路との 間(西門頭地区の笆篱坤)にある竹林の中にあるらしい。

乍浦鎮

また、地元ではもう一か所、城壁跡が残されているという。
ちょうど建港一村小区の南面にあたる、建設路が南面の掘割を渡る 西側(南城河橋のあたり)で、この外堀と古橋、そして狭く細い路地に囲まれて残る、200 mほど続く背丈の高い竹林内だそうだ。
この竹林と雑草の生い茂る放置された緑地帯にある土盛り自体が城壁跡の一部、ということだった。 まだ、わずかに石材が残り、石積み城壁の箇所も見受けられるという。しかし、この石壁は城壁外面ではなく、住民らによって石材が抜き取られ、他へ転用されてしまった残骸として残された城壁の基礎部分ということだった。

なお地元の言い伝えでは、この地はかつて食品会社の敷地で、当初、会社側が城壁に含まれる土砂が崩落する危険性に対処すべく、特別に石材を積み上げて舗装した、という情報もあり、それが今日に見られる石積みの残骸、という話もあるそうだ。

これらの事実を事前調査できれていれば、上写真にある通り、西面の掘割沿いに設けられた遊歩道を散策したのに。。。と悔やまれるばかりだった。



 乍浦所城(乍浦鎮城)

春秋戦国時代末期の紀元前 223年、秦が楚を滅ぼすと、翌紀元前 222年に会稽郡を新設する。同時に 海塩県(今の 上海市金山区の南東部にある甸山一帯) が開設され、以後、乍浦鎮一帯はこの海塩県下に帰属することとなった。
なお、この乍浦の地はすでに秦代以前から海岸交易都市として発展しており、漢代には故邑城と呼ばれる城塞都市の存在が史書に言及されている。

秦末に発生した大規模な地殻変動により【初代】海塩県城が柘湖の湖底に水没してしまうと、新たに海塩県の県役所が 武原郷城(現在の 嘉興市平湖市当湖街道にある東湖一帯)内に移転される。しかし、再度の地殻変動が発生した後漢時代の 127年、この【二代目】県城もまた当湖に沈んでしまうこととなった。直後に、海塩県役所が故邑城内に開設されるに至る。

この【三代目】海塩県城(故邑城)も津波被害を受けるようになると、東晋時代の 341年に県役所が 馬嗥城(今の 嘉興市海塩県武原鎮の南東部。春秋戦国時代から続く古城集落)へ転出される【四代目】。
最終的に唐代の 717年、やや北へ移転されて、【五代目】海塩県城へとバトンタッチされた場所が、現在の海塩県の中心部となるわけである。


なお、漢代より栄えた城郭都市で、かつて乍浦鎮にあった 故邑城(【三代目】海塩県城)であるが、最終的に明代に海底に沈んだことが記録されている(下地図)。
史書によると、清代の 1647年と 1683年、1728年の 3三回、引き潮で海流が大きく後退した際、乍浦鎮の天妃宮の真下にあった海岸線が 5kmほど沖合に移動することとなる。この時、古代都市「故邑城」遺跡が海面上に表出され、人々の耳目を集めたという。当時、大量の五銖銭や 陶磁器、古鏡、石畳の路地や家屋群、井戸跡などが確認されている。

乍浦鎮

時は下って唐代中期の 789年、塩の専売制で国家財政の立て直しを図った唐朝廷は、乍浦鎮に塩田管理のための下場塩官の役所を開設する。
さらに唐代末期の 844年には乍浦鎮遏使が新設される。これが史上初めて「乍浦」の地名が登場した瞬間となった。

乍浦は杭州湾の入り口に位置したため、宋代、元代を通じて多くの外国商人らが立ち寄り、江南地方南岸の一大交易都市として繁栄することとなる。
南宋時代の 1150年ごろ、貿易事務を司る監鎮税兼烟火公事官の役所が新設される。

時は下って明代初期、1384年より朱元璋から対倭寇の総責任者に任命されていた 湯和(1326~1395年)は、北は山東省から南は浙江省に至る海岸線を徹底的に視察し、その要所要所に防衛陣地を配備していく。
その一環で建造されたのが、1386年築城の乍浦守御千戸所であった。当初は土壁による城塞都市だったが、30年後に大規模改修され、都指揮の谷祥始によって 1414年、石積み城壁の城塞都市が完成される(下地図は1430年当時)。

乍浦鎮

なお、海岸線を視察中に乍浦鎮に立ち寄った湯和は、自ら乍浦鎮城の南にあった九龍山上に登って周囲の地形を調査し、乍浦所城の建造を決定したとされる。
その乍浦所城の築城工事の際、地元の民衆らもこぞって協力し、多くの寄付や人請の提供が行われたという。
乍浦郷の住民らは、筑城を決定した大将軍・湯和の功績をたたえ、1395年に湯和が病死すると、その塑像を作って乍浦所城の守り神の一人として、城隍廟内に祀ることとなった。現在、この城隍廟は 東西メインストリート「雅山中路」沿いにある地元スーパーの裏手にひっそりと残されているという。

なお、築城された乍浦所城の南城門上には、「皇帝命令により、胡大海が監督し、石という石はすべて城壁の石材となった」という文字が石碑文に刻まれていたという。
伝承によると、朱元璋により浙江省平定の指揮を任された 胡大海(約 1325~1362年)が当地を占領した折、早速、乍浦城の築城工事を手掛けており、その際、地元では過酷な石材徴収が行われたということだった。
胡大海とその部下らは工事を急ぐあまり、地元農家の家々を破壊しては石材を抜き取り、城壁資材へと転用していったと言い伝えられているという。

この強引な胡大海による築城工事の反動で、土壁だけでもいいので、突貫で城塞都市を建造してくれた湯和に対する愛着が地元民の間で芽生えたのかもしれない。
この時の土壁工事で用いられた土砂は、城壁外の約 10 mで掘削されたものといい、その跡地が外周の水掘として整備されたという。土製の城壁上に設けられた城楼群はレンガ積みで建設され、防衛力強化が図られていたという。
また、東西南北に四城門が設けられ、外堀上には吊橋が設置されていた。各城門には関所が設けられ、吊橋は夜には引き上げられて、完全に城の内外は分断される仕組みであった。

乍浦城に城壁が建造されて以降、乍浦城の南面は杭州湾に直接、面するようになり、北面は掘割と 乍浦塘河(運河)が連結されて外堀を形成した。これらの水脈は、蘇州など主要経済都市が集積する太湖流域の各地へと直結され、水運ネットワークの要衝を担うこととなった。

最終的に 1414年に石積み城壁へ改修された際、その石材は長さ約 1 m、縦 33cmぐらいの直方体に加工されて組み上げられたという。なお、当地で集められた石材は青石と呼ばれ、灰色か白色の線が入った、やや青色がかった色彩を帯びていたという。今日でも市街地の各所で転用されており、その特徴的な青石を目にすることができるとされる。

しかし、せっかく組み上げた石積み城壁も、1443年、長雨のため崩落してしまう。
直後に修築工事が手掛けられるとともに、当地の重要性を見抜いた侍郎の 焦宏(1397~?)と 参政の俞士悦が朝廷に上奏し、杭州府嘉州府湖州府 の三府による合同守備体制を建議し、受理される。以後、三府から派兵された官兵が乍浦所城に駐留することとなった。

乍浦鎮

明代中期の 1430年、海塩県の北東部が分離され、平湖県 が新設されると、以後、現在に至るまで、乍浦鎮はこの平湖県の行政区に組み込まれる。
1451年、都指揮使の王廉添が乍浦所城の四城門にそれぞれ楼閣を増設するも、後に撤去される。
明代後期の 1550年ごろ、倭寇の襲撃が激化すると、江南地方の水運交易ネットワークは寸断され、乍浦鎮経済も大いにダメージを受けることとなった(上地図)。

1554年、平湖県長官の劉存義が城壁の拡張工事を手掛け、全長 4,502 m、高さ 6.7 m、幅 5 mへと城壁を増強するとともに、壁上に 敵楼(軍事倉庫、見張り台)を 10箇所と 兵舎(兵士の休憩施設)を 27棟、増築する。このとき、4箇所の城門はそのままとされ、さらに北に水門が 1箇所が設けられた。これらを、水深 2.7 m、幅 33.3 m、外周 5,430 mを誇る大規模な掘割が守ったのだった。
明末 の1638年、平湖県 長官の李懐玉により、乍浦鎮城の南東面に水門がさらに 1箇所、増設される。

乍浦鎮

清代初期の 1684年、鄭氏政権の降伏により台湾を接収した清朝 は、いよいよ海禁政策を解除すると、乍浦鎮など杭州湾一帯に住民らが戻り、江南経済は一気に回復を見ることとなった。乍浦鎮は杭州湾エリアのベスト 15港町の一角として君臨し、居住人口も常時 4~5万あり、最大で 6万人を記録した 時(1768年)もあったという。

乍浦鎮

乍浦港には国内外から多くの商船が出入りし、遠くは 日本、沖縄、北ベトナム諸国、 阮朝(南ベトナム)、フィリピン・ルソン王国、ジャワ王国、ボルネオ島原住民らの貿易船が入港していた。
特に鎖国中の日本へは 6隻の商船が 3年に一度、5往復だけできる規定になっており、乍浦港は 日本(長崎)交易において非常に重要な窓口となっていたという。

乍浦鎮

乍浦所城の南面と杭州湾との間に発達した港町をはじめ、乍浦所城内外には数千もの家屋が立ち並び、多くのヒトやモノが行き交った。清代を通じ、アヘン戦争前までの 200年間、江東地方屈指の沿岸交易都市として名を馳せることとなった。

そして、1842年のアヘン戦争時、清朝の主力防衛軍が陣取った乍浦港一帯に対し、英国艦隊が猛攻撃を加え、その防衛網は完膚なきまでに破壊され、乍浦城も一時占領されてしまうのだった。
中華民国時代、乍浦鎮一帯は平湖市乍浦区に改編される。

乍浦鎮

今日の乍浦鎮には、かつて全長 4.5 kmにも及んだ圧巻の城壁群の雄姿はなく、古城遺跡としては見る影もなくなっている。前述のごとく、雑木林内にわずかな城壁基礎が残される程度となっており、非常に残念としか言いようがない。

しかし、城壁の外を囲んだ掘割はそのまま残されており、城域を測る上で非常に重要なヒントを提供してくれている(北城河、南城河、東城河など)。また、古城内の路地には、かつての記憶がしっかり地名として刻みこまれており、大いに参考になる ー 北大街、南大街、東大街、西大街、西門頭など。


 平湖市に残る、その他の 倭寇城塞遺跡

明代を通じ、ますます倭寇の襲来が激化すると、浙江巡撫(浙江省の軍事、兵糧、水利など地方行政全般を統括する 中央朝廷派遣の最高地方幹部職)が復活設置される。当初は 嘉興府城 内に直轄役所が開設される(後に 杭州 へ移転)。
その際、嘉興府下の海防本部は 海塩県城 に、倭寇対策本部が乍浦鎮城内に設置された。

江南地方の主要な交易都市はいずれも沿岸地帯に立地しており、海防上も非常に重要な前衛任務を帯びることが期待されたのだった。
例えば、松江府 下の 青村所城 は、1386年に築城され、全長 3,000 m、高さ 8.3 mもの城壁が集落を取り囲んでおり、4城門上には楼閣と甕城が装備されていたという。
防衛力に関しては、普通の県城よりも高い能力を付与されており、その他、 金山衛城南滙県城澉浦所城、乍浦所城、梁庄寨城、楊舍堡城なども同様であった。

その中でも、澉浦所城は最初から完全に石積み城壁によって建造された城塞で、乍浦所城の防衛装備に比べてもその完璧さは比較にならないレベルだったという。もちろん、乍浦所城も一般的にある防衛設備をひと通りは完備しており、さらにその地理的な重要性から、杭州府嘉州府湖州府 の三府が合同で守備隊を配備するなど、明朝の手の入れような入念なものであった。

乍浦鎮

その他、平湖市 には大小さまざま沿岸防衛陣地の遺跡が残っているという。

平湖市中心部 から南東 20 kmに位置する梁庄城は 1440年4月、巡按の李奎が朝廷に上奏し築城された城塞で、倭寇ら海賊船が入港しやすい浅瀬の入り江部分に建造されていた。高さ 5 mを誇る城壁の全長は 2,667 mで、楼閣付の城門が 2ヵ所と、四角のそれぞれに角楼が増設されていた。
さらに、入り江沿いには長さ 1 kmにも及ぶ長城も設けられ、明朝廷から派遣された官兵が直接、守備を担当していた、という(海寧衛調指揮からも一名が派遣され、常駐した)。
しかし 1554年、倭寇により入り江の長城や梁庄城が突破されると、以後は守備部隊が配置されることはなく、ただ数名の兵を偵察隊として狼煙台付近に駐屯させるだけとなる。

1561年、海塩県 長官の顧廷がこの梁庄城や長城の防衛陣地は、北の 金山衛城 や南の乍浦所城の中間エリアにあって、両者の連携に不可欠なロケーションと考え、乍浦巡検司の司令部をこの地に移転することを朝廷に上奏する。すぐに朝廷から部隊が派遣され駐留兵が配備されるも、国家財政の傾いた明朝廷にこれらを長期間、維持し続ける財政的な余裕はなく、すぐに撤兵されてしまうこととなった。


また、現在の平湖市黄姑鎮海塘村にある独山の東面に残る独山巡検司城遺跡であるが、宋代、元代までは故邑巡検司と通称されていたが、1381年に乍浦鎮巡検司へ改称される。
1386年に乍浦千戸城が築城されると、同じタイミングで巡検の張観音奴が、独山にあった乍浦鎮巡検司の城塞を増強する形で、高さ 5 m、全長 2,200 mの城壁(南面の城壁は杭州湾に面し、東西幅約 1,000 m、北面城壁約 800 m、東西それぞれ 200 mの台形型)の建設と、深さ 1.7 m、幅 5 mの外堀の掘削を進める。城塞が完成するも、後に巡検司役所自体が乍浦所城内へ引っ越ししてしまい、独山巡検司城には一部の駐留部隊のみが残されるだけとなった。

現在、東面と西面の城壁は完全に撤去されており、現存するわずかな城壁遺構も、地元でよく見られる青石で積み上げた城壁の一部(地面に埋もれているため高さ約 2~3 mほど、横幅は約 2 mのみという)だけとなっている。


最後に、平湖市中心部 から南東 26.5 kmに立地し、乍浦所城からは 10 kmの距離にある白沙湾城であるが、乍浦所城の築城と同じ 1386年、巡検の辛得名が担当して築城工事が進められた。城壁の全長は 567 mで、掘割は水深 1.7 m、幅 6.7 mが掘削されていたという。この地は常に海賊らが上陸する最前線に位置し、いつも襲撃のターゲットになってきた。
その他、徐家埭、銭家埭、広陳、新倉、新埭、旧埭(今の陸家埭)などにも小規模な集落地を囲む防衛城壁が建造され、周囲の巨大都市と呼応して、防衛ネットワークを構築していたのだった。

これら以外にも、大小さまざまな狼煙台や防衛陣地などが海岸沿いに配備されていたが、現在は全く残っていない。



再び、雅山中路と北大街の交差点付近まで戻り、バス停「銀杏園」前で三輪バイクタクシーを拾う。

乍浦鎮

この日、嘉興市中心部 まで戻る路線バス情報を全く持ち合わせていなかったので、乍浦鎮バスターミナルへ直接、出向いて運行状況を調べることにした(10元)。

先ほど、筆者は古城地区の西半分を散策しただけだったが、バイク移動中に東半分を見て回ると、同様に広大な面積を有していた。
雅山中路の東端に、乍浦鎮人民政府が立地していた。古城地図を見ると、明代から、この北東部分に役所施設があったわけで、その名残を踏襲しているようだった。
また、東面の堀割はきれいに整備され、噴水も装備するなど、古城公園っぽい印象だった。

そのまま南湾路を南下し、乍浦鎮バスターミナルに到着する(下写真)。

乍浦鎮 乍浦鎮

ここから 40~50分に一本、嘉興行の路線バスがあることを確認できた。筆者の訪問した平日での運行スケジュールで、16:15 と 17:00があった。

17:00発の 163番路線バス乗車することに決める。上のバス停「銀杏園」にあったルート案内の通り、この路線バスは八佰伴バスターミナル行らしく、嘉興市の中心部まで行けるものだった。しかし、嘉興鉄道駅 へ行きたいと乗車券販売員に車内で告げると、嘉興高速鉄道駅 で下車し、別のバスに乗り換えるように指示された(11元)。きっと嘉興中心部まで至るのに、かなり遠回りするルートだったのだろう。

とりあえず、まだバス発車時刻まで時間があるので、南湾砲台遺跡を見学しようと歩いてみたものの、思ったより遠かった(片道 30分)。下地図。

乍浦鎮

南湾砲台遺跡とは山頂部の乍浦砲台陣地と山裾の天妃宮砲台陣地との総称で、それぞれ九龍山公園内と湯山公園内に分かれて立地していた。上地図。

筆者は下調べ不足で、その二重構造に気づかず、とりあえず湯山東路を南下し(下写真左)、九龍山公園の入り口門をくぐり(下写真右)、山の斜面を登って頂上付近にあった乍浦砲台遺跡のみを目指すこととなった。

乍浦鎮 乍浦鎮

公園入口から、ひたすら自動車道路を上ることになる。
下写真左の奥が、公園入口。下写真右は、頂上部にある駐車場。

乍浦鎮 乍浦鎮

この 頂上部の駐車場端に大砲一門と、両脇に倉庫&兵舎を兼ねる土塁が残されていた。この土塁は、土砂とレンガ、石灰などを混ぜ合わせたもので、もともとは大砲 2門と共に配備されていたという。

乍浦鎮 乍浦鎮
乍浦鎮 乍浦鎮

この山頂砲台は、南湾砲台陣地群の中でもかなり後に建造されたもので、日清戦争直前の 1894年という(当時の敷地面積は 207 m2)。配備された 2門の大砲は重量が約 16.7トンあったといい、砲身に「1888年 江南制造総局」という文字が刻まれていた。
この工場は李鴻章が 上海 に創設した会社で、最新鋭のアームストロング砲を製造し、当時、中国各地の沿岸部に配備されていた中で、ここ乍浦鎮にも運び込まれたものだった。

もう 1門の大砲と兵舎 2間は日中戦争時代、日本軍の空爆で破壊されてしまったといい、現存する大砲にもこの時の空襲で損害を受けた痕跡が残されているというが、視認できなかった。下写真。

乍浦鎮

山頂部の駐車場脇には殉国志士たちのために忠魂碑が設けられていた(下写真左)。

また、砲台陣地の前には急斜面の坂が続いていた(下写真右)。真下には海が迫る。
この前面の海上には 杭州湾跨海大橋(沈海高速)があり、その雄姿が見え隠れしていたのだが、木々が邪魔ではっきりと見渡せないのが実に残念だった。

乍浦鎮 乍浦鎮

きっと視界をもっと良くすれば、観光地としても訪問者が増やせるだろうにと思われた。砲台陣地が建造された際は、樹木が伐採され、前面には、多くの船舶が航行する杭州湾の絶景が広がっていたことだろう。



 南湾砲台(乍浦砲台 と 天妃宮砲台)と アヘン戦争

乍浦鎮

乍浦鎮の歴史は長く、秦代、漢代にすでに一定の規模の港湾集落が形成され、城郭都市「故邑城」が設置されていた。
その後も、江南地方南岸の主要交易港として機能し、その重要性から歴代の王朝は度々、九龍山一帯に要塞や狼煙台などを設けたと考えられる。
現在、「湯山公園」と呼ばれる九龍山一帯であるが、これは明初の 1386年に乍浦所城を建造し、倭寇の襲撃から街を防衛する環境整備に尽力した将軍・湯和を称えて命名されている。
特に倭寇の襲撃に苦慮した明代には、山麓の乍浦所城以外にも、山頂部分などに簡易城塞や狼煙台などの外部拠点網を配置していたことは容易に推察されよう。

清代、閩浙総督だった 覚羅満保(1673~1725年)が江南地方の海岸防衛ラインを視察した折(1717年)、苦竹山の山麓に砲台陣地の建造を朝廷へ上奏し、早速、工事が着手される。
これが海沿いの南端に建造された天妃宮砲台陣地で、乍浦鎮に設置された最初の砲台基地であった。

なお、覚羅満保は 1721年、台湾で朱一貴の乱がおこり、台湾全土の支配が揺らぐこととなると、閩浙総督職にあった自ら台湾北部の 淡水 に渡海し、清朝正規軍を指揮して反乱鎮圧にあたっている。

1729年、総督衛の題准が、先の天妃宮砲台陣地を拡張させるとともに、最新の大砲 4基を配備する。あわせて、その山の斜面上に守備兵や隊長らの官舎や廟所など建物が三か所、増築される。しかし 1781年、台風により津波被害を受け多くの建物が被害を被ると、損壊したまま放置されることとなった。

さらに 100年の月日が経った 1840年6月、アヘン戦争が勃発する。
広東省 沿いの各防衛拠点を破壊しつつ北上した英国艦隊は、 福建省 を経て 浙江省 に至り、清朝経済の要であった江南地方の水運物流ネットワークを寸断すべく、河川や港町の封鎖を図る作戦を展開した。
江南地方の最大経済都市であった南京 と、王都・北京 とを結ぶ経済・税源ルートである京杭大運河の断絶を何としても阻止したい清朝は、この英国艦隊との間で揚子江の戦役に突入することとなった。

この英軍襲来に備えるべく、浙江巡撫の劉章員珂が沿海の防衛拠点の強化を図り、乍浦砲台陣地の再整備を上奏するも、整備工事が間に合わないまま、戦端が開かれる。

乍浦鎮

1842年3月、二手に分かれた英国艦隊のうち、クオック司令官率いる一部隊が杭州湾へ侵攻してくると、沿岸の防衛陣地に砲撃を加えながら、清方の戦力を測り、いよいよ重要拠点と目された乍浦沖に英国艦隊が集結することとなる。
1842年5月18日、艦隊を三列に編成した英軍は、乍浦の防衛陣地群へ大量の砲弾を撃ち込む。

このとき、観山の山頂南面に建造されていた 葫芦城(別名:保安城)が清朝軍の本陣となっており、副都統・長喜が官民混成の守備隊を率いて必死に抵抗するも、戦力の性能差は明らかで、一方的敗北を喫することとなった。このとき、長喜自身も殉死している。
この葫芦城遺跡は絶壁の山頂に今も残されており、一面に海が見渡せる最高のロケーションとなっているという。

前線戦力を破壊した英軍は、いよいよ上陸戦を展開し(下絵図)、乍浦鎮城の占領まで一気に強行したのだった。

乍浦鎮

最終的に英軍の損害は死者 9名、負傷者 100余りが記録されたのに対し、清方の死者は正規軍 279人、民間兵 400人、地元民 1,500名余りとされている。負傷者はその数倍にも至ったことであろう。
上絵図には、陸上戦中に英軍中校 トムリンソン(Tomlinson)が首に被弾し、絶命する瞬間を描いたものである。彼はこの戦役で戦死した英軍最高位の軍人だった。

同年7月、長江北岸の 鎮江 が英国艦隊により占領されると、京杭大運河が完全に封鎖されることとなり、いよいよ行き詰った清朝は 8月末に南京条約の締結に追い込まれるのだった。

乍浦鎮

敗戦の翌 1843年、九龍山の海岸線沿いに建造されていた 南湾砲台陣地群(天妃宮砲台など)の再建が進められ、さらに十棟の兵舎が増築されるなど増強工事が施される。しかし、1861年に太平天国軍により江南地方が占領される中で破壊されてしまう。

清代を通じ、江南地方の対外貿易港として大いに栄えた乍浦鎮であったが、このアヘン戦争後の混乱期以降、かつての繁栄を取り戻すことができないまま、寂れた地方都市へと落ちぶれていくこととなる。
それでも経済的、軍事的な要衝であることは変わらず、1874年、浙江巡撫の揚昌浚が清朝に上奏し、砲台基地のさらなる強化工事の許可を取り付けると、兵舎十棟が再建されるとともに、最新の銅製大砲 10門が配備されることとなった。

日清戦争直前の 1894年には、九龍山の山頂部にも砲台陣地が建造され、大砲 2門が配備される。これが先の乍浦砲台遺跡である。
アヘン戦争後、外国勢力の接近がますます激化し対応を迫られた清朝は、この山一帯を砲台陣地として要塞化したわけであるが、最終的に航空戦力が実用化された日中戦争時、日本軍の空襲を受けると、活躍の場を与えられることなく、これら南湾砲台陣地群は破壊・放棄されてしまうのだった。
清末の中国は、常に一周遅れの対応に回り、何の成果も得ることなく、無駄な時間と労力をかけ過ぎていたと言える。



見学後、再び下山する。

濱海大道沿いに戻ると、また徒歩 30分弱かけてバスターミナルに戻るのは苦痛だったので、終点の乍浦鎮バスターミナルまでの一停留所の区間だけだったが、付近のバス停留所で路線バスを待っていると、すぐに来た⑦番路線バスに飛び乗った。運賃を支払おうとすると、不要だという。

現在、全ルート上で路線バスは乗客数を測る試運転中で、無料で乗車させているとのことだった。こんなこともあるものなんだと、ビックリした次第である。

乍浦鎮

そのまま 17:00発の 163番路線バスに乗車する(11元)。 1時間10分のドライブで高速鉄道「嘉興南駅」に到着できた(上写真)。
高速鉄道駅前で下車し、ここのバスターミナルから 93番路線バスで一気にホテル前に帰り着けた(45分)。バス車内で券売係の女性からチケットを買うスタイルだった(2元)。
上写真にある 8番路線バスでも嘉興市街地まで移動できる。

乍浦鎮

なお前述の通り、乍浦鎮内から 163番か 162番路線バス(嘉興北バスターミナル行。これが本当はベストだった)に乗って、嘉興市街地まで戻る際、わざわざ終点の乍浦バスターミナルまで出向かなくても、古城地区の 東西メインストリート「雅山中路」沿いの 各バス停(上路線図。銀杏園、慶元小区【乍浦小学】、鎮政府、工商分局)上でも乗車できるのだったが、発車時刻などが皆目分からないので、初めての訪問者は終点からの乗車がやはり安全なように思われる。


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