BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省 汕頭市 濠江区 ~ 区内人口 31万人、 一人当たり GDP 35,000 元(汕頭市 全体)


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  達濠古城(招收都城)
  河渡砲台(河渡口砲台、河渡門砲台)




鉄道、高速鉄道が共に乗り入れる汕頭駅前の市バスターミナル から、8番路線バスに乗車する(5元)。
バスは海岸に最も近い橋(沈海高速、国道 15号線沿い)を渡って達濠島に入る。ここの橋上から見る汕頭港の景色も圧巻だった。

濠江区

バス停「汕頭技師学院」で路線バスを下車すると、ここからバイクタクシーでさらに南へ移動し、河渡村まで移動する。ここで、河渡砲台遺跡を訪問した。


河渡砲台(別称:河渡口砲台、河渡門砲台)は、汕頭市達濠区の南に立地する河渡村の西側にある門嘴山(東嶼)上に建造されていた。
清代の 1717年、両広総督に就任したばかりだった楊琳(在職:1716年11月25日~1723年9月9日)が、朝廷に砲台陣地の建造を上奏し、達濠島の港町の守備強化、および沿岸部の防衛網整備の一環として工事が許可される。
砲台は南東向きに設計され、その防塁壁はすべて貝殻や灰を混ぜた土壁で建設され、現在でも、防塁壁やその壁面上の凹凸壁が残っており、さらに壁上の騎道や砲座なども往時の原型をそのまま残す、汕頭市内でも貴重な歴史遺産の一つとなっている。

厚さ 1.8mの防塁壁は地面から凹凸壁まで高さ 3.8mあり、内部に設置された 11段の石階段で壁面上まで上がれる構造だった。壁上の凹凸壁の高さは 1.2m、厚さは 0.5mという。また、砲台陣地の入り口門(高さ 1.9m、幅 1.2m)は花崗岩で補強されていた。
陣地内には高さ 4.1m、縦 9.6m、横 10.6mの狼煙台も設置されていたという。

完成後、河渡砲台陣地は南澳達濠駐屯基地として機能し、兵舎 12室、砲座 6門、守将 1人、兵士 32名が配置され、その岸辺には戦船 2隻、輸送船 1隻、快速伝令船 1隻が配備されていた。



再び、バイクタクシーで先ほどのバス停「汕頭技師学院」まで移動し、同じく 8番路線バスに乗車して、バス停「濠江区政府」で下車する。このまま南へ 10分ほど徒歩移動すると、達濠古城を訪問できる。もしくは、終点の「西園」まで行ってからでもアクセスできる。
帰路は、そのまま同じ 8番路線バスにて汕頭駅へ戻れる。

もしくは、汕頭港の北回りルートで 汕頭市礐石汽車客運バスターミナル前からアクセスする場合、やや離れた位置に設置されたバス停「西堤碼頭」で、37番路線バスに乗車する。北側の橋(礐石大橋)を渡って達濠島に入ると、バスはその北岸の汕頭ふ頭一帯を通過していく。そして、先の 8路線バスと全く同じ南回りで、バス停「汕頭技師学院」や「濠江区政府(終点ポイント)」を通過する。
その他、33B路線バスもあるが、バス停が遠いのでお勧めできない。

濠江区


2010年に広東省政府により歴史遺産指定された達濠古城であるが、全国でも珍しい最も完全な形で残る小型城塞の一つで、その敷地面積は 0.014km2 のみという。
その建造は、清代の 1717年に、両広総督の楊琳が朝廷に上奏し、達濠島の中心集落に招收都城(達濠城)の築城が建議されたことに始まる。海賊や倭寇残党らの襲撃対策と、当時、清朝が進めていた沿岸防衛ライン整備の一環として、直ちに許可される。

しかし、当地は山がちで田畑が少ない土地柄で、7割の住民らは漁業や塩業を主たる生業としており、貧しく不安定な住民が多かった。
当時、この地での城塞建造を指示された地方官の許穎は、こうした住民らに建設費の負担を強いることができないと判断し、労働負担による大動員を課すことに決める。この小規模な城塞建設だけでは到底、人数がさばききれなかったため、同時に、達濠エリアの海岸線沿いに全長 10kmにも及ぶ堤防の建設も進め、その土木工事に多くの人員が割り当てられたという。

濠江区

こうして完成を見た達濠城は、城壁の下半分は石積み城壁で、上半分は砕いた貝殻と灰、土砂を混ぜ合わせた土壁という二重構造で、その高さは 5.3m、厚さ 1.35mであったという。また、城壁上には凹凸型の城堞が設けられていた。
城塞には東門(達善門)と西門(西濠門)の二門が設置され、その高さは 3mで、幅は 4.5m、厚さは 4.3mの石造りの門となっていた。東門から西門の間は全長約 100mほどの一本道が敷設されており、その道幅は 3mほどの細いもので、この小さな城塞内の唯一の街道を成していたという。

また、その城門上には三部屋を有する、やや大きめの楼閣が設けられており、外面は銃口を備えた高めの外壁を有したというが、現存していない。
城の四隅には見張り台が増設され、その中でも南西角の見張り台が最大規模を誇り、その面積は 200m2以上もあったというが、これも現在は残っていないという。



【 濠江区の歴史 】

東晋時代の 397年、漢代からの旧揭陽県域に 義安郡(郡都は海陽県城【今の潮州市湘橋区】)が新設されると、同時に 潮陽県 が新設される。濠江の下流域は、この潮陽県下の奉恩郷の南東部に位置することとなった。
隋代初期の 591年、潮州 が新設されると、濠江河口エリアはこの潮州下の潮陽県に属した。
唐代初期の 650年、潮陽県が廃止され海陽県に吸収合併されるも、後に潮陽県が復活設置される。

時は下って北宋時代の1078年、濠江河口部は潮陽県下の招收都と砂浦都に分かれて統括される。以後、明代、清代を通じて、この両行政区に分割統治されることとなった。

清代初期の 1661年代、鄭氏台湾との抗争に手を焼いた清朝は遷界令を発令し、海岸線から 15km以内の住民を内陸部へ強制移住させ、鄭氏台湾への海上封鎖を強化する。こうして、招收都や砂浦都下の郷村も廃止され、一帯は完全に無人地帯と化してしまう。
1683年に鄭氏台湾が降伏し、遷界令が解除されて再び海岸部に住民らが戻ると、濠江河口部はそのまま清末まで 潮陽県 下の招收都と砂浦都に分かれて帰属された。

濠江区

なお、1717年に達濠古城が建造されると、ここが招收都の行政府となり、都内の政治、軍事、経済の中心地として栄えることとなった。

城内の西側には水師左営守備府(当地の最高軍事司令部)が、東面には招寧司巡検署(警察署に相当)が、また北側には招收塩場(塩務局に相当)の各役所が開設されていた。これらは、東西北に「品」字形で配置されていたという(上地図に各役所機関が地名として記載されている)。
中華民国時代、招寧司巡検署が達濠警察所へ変更される。

1918年以降、達濠古城内に群英小学と盛徳小学が順次、開校され、さらに住民らが数十もの民家を違法に建設して住み着くようになる。その多くは、清代から達濠古城に赴任していた下級官吏らの末裔らだったという。
日中戦争中の 1939年、日本軍が達濠古城も占領すると、軍の駐屯施設に転用すべく、内部の民家はことごとく撤去され住民らも城外へ追い出されたという。


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