BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2019年7月下旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省 潮州市(中心部)湘橋区 ② ~ 区内人口 57万人、一人当たり GDP 50,000 元(湘橋区)


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  潮州府城(旧市街地)観光の 起点「南橋市場」~ 南城門、潮州衛校、英国教会系 病院跡
  圧巻の東面城壁 今昔
  下水門前に見る 甕城跡 と 城内水路跡
  メイン・ストリート「太平路」を経て 文化公園へ ~ 石牌坊 から 国民栄誉賞を考える
  潮州府城 マップ
  潮州府城の 中枢エリア ~ 府役所、県学宮、海陽県役所、城隍廟、武官邸宅の 今昔
  北宋時代からの 屋敷地が残る「許珏の邸宅跡」と 皇女を下嫁された 数奇な人生
  【豆知識】北宋朝第 5代皇帝・英宗の皇女 と 許珏 との子孫らは 大繁栄していた! ■■■
  北馬街から 北城門、北面城壁跡へ
  金山に建立された 北閣佛灯、観瀾亭、古井戸
  【豆知識】「潮州大殺戮事件(1653年9月11~13日)」と 金山の悲劇 ■■■
  【豆知識】金山を中心に 旧県城部分を中核とした「子城」と 城下町の外周城壁 ■■■
  【豆知識】外周城壁の 全面石積み化 と 最終完成形マップ ■■■
  韓江沿いの堤防壁が 東面城壁へと転用された 経緯に思いを馳せる
  唯一、甕城構造が残る 上水門
  ライトアップされた 東面城壁を歩く ~ 上水門、竹林門、東門、下水門
  【豆知識】ちょっと郊外の旅「八角楼古寨」 ~ 客家の 城塞集落遺跡 ■■■



この 潮州府跡(義安県城、海陽県城、義安郡城)であるが、地方の府城レベルの都市としては、珍しく長大な城壁が河岸上に現存する。往時には、広東省内で 広州城 に次いで巨大規模を誇った城壁は、今でも壮観であった。下地図の赤ラインが、往時の城壁。その全長は 5,870 m!

潮州市

投宿先の 7天ホテルの最寄りバス停である「易初蓮花(ト蜂蓮花)」だと、東向きへ進むどの路線バスでも「南橋市場」へ移動できた(下写真)。

湘橋区

新旧市街地の接点であり、また潮州市中心部の交通の 要衝「南橋市場」が立地する 環城南路(下写真左)であるが、ここはかつて南城門や南面城壁が連なった場所で、現在、その道路沿いには城南小学校が立派な門を構えている。
バス下車後、ちょうど目の前にあった Dicsでバーガ・セットを注文し胃袋を満たした。

湘橋区 湘橋区

上写真右は、環城南路と韓江との間に整備されていた緑地公園で撮影したもの。かつて 潮州衛校(後に潮安衛校、汕頭衛校へ分離される)が立地したことを示す石碑が置かれていた。元々は 西門周辺の潮州市中心医院の場所 にあったが、1970年代に当地へ転入し、代わりに当地にあった病院と教会が西門へ移動したわけである。

ここにあった病院は、キリスト教系の西欧流病院で 1896年3月に英国人宣教師によって設立されていた(下絵図)。当時、潮州人は外国人のことを「番仔」、英国人のことを「紅毛」と呼んだことから、病院は地元民から「番仔楼」や「紅毛楼」と呼称され、絶大な支持を得ていたという

湘橋区

上絵図は、清代末期の潮州城 南半分の様子。

さて、バス停「南橋市場」から北へと続く太平路は歩行者天国で、一帯はずらりと商店街が連なっているが、それではおもしろくないので古樹廟街を右折し、東面城壁(2,132 m)沿いをひたすら北上することにした(下写真)。

湘橋区

上写真のうち、左側(ヘェンス下)は城内の東下城脚、右側は城外にある広い道路の環城東路。
遠くの城壁上には、東城門が見える(広済楼。上写真の中央あたり、赤茶色の屋根と城壁との間のやや上)。東面城壁全体の 4割ぐらいの距離が、あの位置である。 この城壁の長大さが伝わってくるだろうか?

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なお、上の古城マップを見ると、四方の城壁内側にさらに細い水路が掘削されていたことが分かる。これは城壁を突破されても、易々とは城内に入れない工夫。。。というより、高温多湿な南国にあって、大雨の度に氾濫する韓江からの増水を城内に進入させないための工夫、排水(下水)機能を整備したものであった。。。堤防が装備されていても、城門の隙間から水が城内に入り込んでいたため、城門の隙間は木材で埋め合わされていたが、清代に入って石材で補強されるようになる。

下写真は下水門。城門の後方には(内側)甕城を構成した内面城壁の一部が残されていた(下写真の右緑地)。かつては二重構造の城門となっていたらしい。増水時、城門を越え漏れてくる水は、この甕城下の城内水路へと流れ込む構造であった。この現在の道幅が、かつての水路跡にほぼ合致する。

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ここの下水門上の楼閣は入館禁止で閉鎖されていた(下写真左)。
下写真右は、この下水門から 東城門(広経門)へと至る城壁を遠望したもの。この城壁の真下に、城内水路が延々と続いていたわけである。

湘橋区 湘橋区

東面城壁の 4割分まで歩いて感じたのは、6年前に訪問したときよりも、清潔になっていたことだった。当時は、城壁上はまだまだ未整備で、地元住民らの屋外トイレといった感じだった。フェンスもなく石畳と雑草道、そしてアンモニア臭が充満していた気がする。。。。

さて 下水門から城壁を下り、すぐ下の開元路を東進して繁華街「太平路」に至る。ここは石牌坊が 39ヵ所設置された歩行者天国ストリートで(牌坊街。下写真左)、地元で善政を評価された潮州府長官や、その中から唐代、宋代に中央政界で宰相にまで出世した人物(楊嗣復、李徳裕、趙鼎、呉潜ら 10名)などが顕彰されていた。中には、郊外の龍湖出身の進士合格者までも紹介されており、地元民らの勤勉、実直、道徳、忠義を奨励&賞賛する、歴代王朝の儒教推進政策の一環だった名残りである。北宋時代に誕生し、元代、明代で全国に広がった風習という。現存する石牌坊群は明代、清代に設置されたものである。そう考えると日本でも国民栄誉賞というものがあるが、ある意味、現政権・社会体制護持の一助にもなっているとも解釈できる。

湘橋区 湘橋区

この太平路を北上し、潮州府役所などが立地した中枢エリアの見学を試みる。
学宮跡があるというので、開元寺の裏手にある 湯平路(途中から 西馬路 へ改称。上写真右)沿いを西進し、義安路を北上してみる。すると、昌黎路(ちなみに、「昌黎」とは当地の 英雄・韓愈の号)との交差点に到達する。
正面には駐車場と文化公園が立地していた(下地図の青ライン)。
湘橋区

下の古地図に見える通り、かつての 潮州府署(衛署)役所の敷地である。中華民国時代に入り、そのまま潮州市政府、湘橋区政府が入居したが、転出後、空き地となっていた場所が公園化されたという。

この西隣に 海陽県儒学宮(学宮、紅学、潮州孔廟)が立地する。宋代に開設され、明代初期に再建されて以降、幾度もの修繕工事を経て今日まで継承されてきたもので、現在も巨大な大成殿、大成門、欞星門などが現存し、その敷地面積は 4,000 m2にも及ぶ。1989年に広東省政府により歴史遺産に指定された(下絵図)。

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なお、この 潮州府署(衛署)前には、かつて巨大な楼閣を備えた正門が立地していた。鎮海楼と命名されていた壮麗な正門は(下写真左)、明代の 1370年に外周城壁が再建された際、東城門の楼閣として建造されたものを移築していたという。
下写真右は、鎮海門が撤去され土台だけが残された、中華民国時代の湘橋区政府の様子。

湘橋区 湘橋区

再び、太平路へ戻り、北上を続けた。
このエリアは 潮州劇(地元の無形文化遺産に指定されている、潮州語による中国オペラ、京劇)の劇場や劇団施設が散見されたが、いずれも静まり返っていた。そして、カラフルな建物の潮州市綿徳幼稚園を過ぎた後に、広い駐車場スペースを発見する(下写真左)。
ここがかつて府城隍廟と、海陽県役所が立地していた場所だ。文化大革命時代にこれらの建築物は完全に破壊されたらしいが、駐車場奥の方に古い建物が複数、残されていた(写真奥の白壁群)。

この駐車場敷地を東から北へ回っていると、中山路へと名前を変えた北面沿いに、文革時代か、共産党の人民公社全盛時代に設置されたと思わしき門が残っていた(下写真右)。

湘橋区 湘橋区

そのまま中山路を西進する。この中山路の北側一帯も、かつて 潮州府署(役所)だったわけである。下地図。(水色ラインは、文化公園前からの移動ルートを示す)

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今日、中山路沿いはおしゃれなカフェやデザイナーズ・ショップが集まるモダン地区に生まれ変わっていた(下写真左)。古い民家や騎楼群を転用し、古今融合が図られたストリートだった。

湘橋区 湘橋区

途中、北馬路との交差点に卓府があった(上写真右)。
1862年に潮州総鎮、虎門水師副提督の 卓興(1829~1879年)が当地に邸宅を構えた場所といい、清代の上級官僚の邸宅跡が現存するとして、1987年に潮州市によって史跡指定を受けたものである。その門や建物に残る彫刻造形が高く評価されているという。なお、この卓興であるが、潮州府揭陽県下の 霖田都棉湖(今の揭西県)出身で、武勇に優れ、太平天国の乱や潮州農民反乱などの鎮圧戦で先鋒を務めるなどして活躍し、皇帝から直々に賞賛され建威大将軍に封じられるなど、厚遇された武人であった。

上の古地図でも、この正面の路地は真武街と記され、その脇に真武廟があったことも付記されており、彼の栄光は潮州城内の住民らに大いに称えられていたことが伺える

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その西側の 路地裏(葡萄巷東府埕)には、許駙馬珏の邸宅跡があった(上写真)。
右手に鉄骨で補強されて立つ土壁は北宋時代からのもので、黄土、石灰、土砂、小石を煉り合わせて造られており、赤糖や糠汁、稲草などを練り込んで固めたものという。1000年近く風雨に耐えて現存する貴重な歴史の生き証人であった!


この許駙馬珏とは本名を許珏といい、皇帝の皇女を娶ったことから 許「駙馬」珏(駙馬 = 皇帝の娘を娶った男子の意)と尊称された人物である。
もともとは中原から 福建省 を経て、潮州市エリアへ移住してきた許昌の末裔で、潮州府下の韓山にある 山前郷(今の 饒平県 山前郷)に集落を形成した(客家)一族の五代目に相当した。 曽祖父は潮州八賢人の一人・許申(陳堯佐の弟子)で全国に学者として有名を馳せたことから、その子・許因(許珏の祖父に相当)は朝廷に出仕し、官太子中舍として皇太子の 趙曙(後の第 5代目皇帝・英宗)の家庭教師を務めた人物であった。その子・許聞誨(許珏の父)も官衛尉寺丞通議大夫を務めるなど、政府高官一家として成功していた。

生まれながらに左足底に赤く大きな腫物があったという許珏自身も、少年時代から才能に恵まれた人物で、第 4代目皇帝・仁宗の近衛武官として宮廷に出仕後、左班殿直という地位まで出世したタイミングで、祖父が家庭教師を務めていた 皇太子・趙曙(1032~1067年)の長女を娶ることとなったわけである。ちょうど北宋朝の第 2代目皇帝・太宗のひ孫にあたる姫君であった。
結婚後、許珏はますます武官として出世し、賓州(今の広西省 南寧市 賓陽県)観察使、広南西路大総統兵馬都監兼西路節制、武功大夫、大理寺正卿などを歴任していくこととなる。
なお、この第 4代目・仁宗はその死去(54歳)の 1063年まで、 41年間も皇帝として在位したため、その子であった趙曙が即位したは 31歳のときであり(英宗)、それからわずか 4年で病没してしまう(35歳)。その子・趙頊が 20歳で第 6代目皇帝・神宗に即位すると(在位:1067~1085年)、許珏は皇帝の実姉の夫となり、ますます栄転を重ねていくこととなる。この時代、王安石(1021~1086年)が副宰相となって政治改革を断行したタイミングでもあった(1069~1075年)。

時を同じくして 1075年10月、北ベトナムの 李朝(王都・昇龍城。今のハノイ市)が勢力を北上させ北宋領を侵犯してくると、宋越熙寧戦争が勃発する。この時、未だ防衛戦線が未整備であった宋側は年末までに 邕州(今の 広西省南寧市)欽州(今の 広西省欽州市)廉州(今の 広西省北海市) を占領され、住民らの大虐殺と集落の大破壊を受け莫大な被害を被ってしまう。翌 1076年2月、郭逵を 安南行営馬步軍都総管(安南招討使)、趙禼を副将、許珏を都監として 10万の兵士と 20万の人夫を大動員し南征軍が派遣されると、7月には 桂林 を経由して、8~9月にかけて失地であった 欽州、廉州、邕州などを順次、奪還していく。12月には国境を越えて北ベトナム領へ侵攻し、富良江(今の紅河、ホン川。ベトナム首都・ハノイ近郊を流れる大河)でベトナム軍と対峙することとなる(下地図)。数か月に及ぶ屋外での対陣で疫病に悩まされた両軍は和平を結び、宋軍は撤退することとなった。

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戦後も皇室の姻戚として栄華を極めた許珏一家であったが、わずか 38歳で神宗が死去すると(1085年)、その子・趙煦が 8歳で第 7代目皇帝・哲宗に即位するも、朝廷内は政治改革派と守旧派の対立で迷走するだけとなり、許珏もこれに巻きこまれて、1091年、儋州(今の 海南省儋州市中和鎮にある儋州故城) へ左遷されることとなる。この不遇時代に妻が亡くなる。当時、儋州に赴任していたのは許珏だけで、その妻や子は潮州城内の邸宅で生活していたようである。
この時、すでに 90歳を越えていたとされ、同じく中央政界の政争に巻き込まれて 恵州(今の 広東省恵州市) から 琼州 別駕(州長官の補佐官)として左遷されていた 蘇軾(蘇東坡。1037~1101年)と知り合い(蘇軾の赴任期間、1097~1100年)、度々、易経などの談議に花を咲かせたという。先に蘇軾が中央政界へ復帰する際、許珏に茶盂を贈呈しており、「無以為清風明月之贈、茶盂聊見意耳」の詩を書き添えたという。

彼の死後、先に亡くなっていた 妻(55歳)と合葬され、海陽県城(潮州府城)の東、韓江沿いにある洗馬橋の脇に埋葬されたという。二人の間には許仲礼と許仲進という子がいた。
特に、その長男の許仲礼は、1105年に軍人の選抜試験である武挙に合格し、武節郎(軍人の役職。従七品に相当)に任じられ、中国南東部の警備を担当することとなる。子には許堯民と許舜民がおり、許家を継承していくのだった。

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なお、この皇室から下嫁した妻であるが、北宋朝の第 4代皇帝・仁宗の治世下、その皇太子であった 趙曙(1032~1067年)の 長女(その生母は不明)として生まれ、家庭教師・許因の孫に下嫁したわけであるが、1063年に父が第 5代皇帝・英宗として即位すると、徳安県(今の 江西省九江市徳安県)主に封じられる(結納金・化粧代として領地を分与された)。以降、徳安公主と通称されるも、1100年3月の母の死によりその称号・舒国公主を継承することとなる。この時、舒国(安徽省合肥市廬江県の南西 20 kmにある 古舒城一帯)の領主の地位を引き継いだのだった。

こうして義父・趙曙の第 5代皇帝即位にあわせて、武官の許珏は「駙馬(皇帝の娘を娶った男子)」として出世し、このタイミング(1064年)で故郷の潮州城内に建設された二人のための屋敷が、「許駙馬珏の邸宅跡」というわけだった。横 42 m、縦 47 mの方形の邸宅で建物面積は 1,800 m2強(敷地面積全体では 2,450 m2)と小ぶりなものだったが、以後、二人は主にこの邸宅で過ごすこととなった。

皇室出身の女性を娶った英雄ということで、地元・潮州城下の誇りとして大切に保存され、駙馬府として今日まで継承されてきた邸宅は、中国全土でも 900年前の北宋代の歴史遺産自体が少ない中、貴重な遺跡として評価され、1996年に中央政府により史跡指定を受けている。 なお、邸宅は何度も建て替えが行われているが、現在の屋敷設計は往時のものが継承されている。 部屋は大小あわせて 55室、四方を部屋に囲まれた「天井」と呼ばれる小さな中庭が 11ヵ所、井戸が 4ヵ所残っているという。特に、現存する竹で編んだ土壁、石畳、そして S字型に流れる屋敷内の用水路は、 北宋代の屋敷の原型を留めたものとして特に評価される。今日、敷地内では潮州民族文化や許氏の家系図などが展示されている。
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許珏はその後も広西省や北京へ赴任するなど、潮州城内の屋敷不在の時代が長く、特に中央政界の権力闘争に巻き込まれて 儋州(海南島)に左遷された際には潮州城内にあった 妻(55歳)の死に目にも会えなかった。後に死去した許珏も合葬された二人の墓石も、今日まで地元で大切に継承されている(上写真)。

その後、宋代を通じて許氏の一族は大きく繁栄し、後に広東省東部の各地にちらばって住むようになり、明代に入って、その家系の一派が南へ下り韓江が海へと出る港町で一大集落「許村」を形成したのが、溝南許地文化創意旅游村(汕頭市金平区 月浦街道 湖興路 54号)である。現在、敷地内では古民家や祖先廟などが観光地として整備されているという。この地で 5世代を経た後、許拜庭という人物が広州へ出て塩商人となって大成功をおさめ、広州城 内の高級ストリート「高第街」に邸宅を構えたという。

この高第街の許氏は近代以降でも活躍し、清代末期から中華民国時代にかけての混乱期、許様光(対英戦争に向けて清朝に軍艦を寄贈し、また広州城下で民衆を率いて英国の上陸軍に抵抗した人物)、許応睽、許崇智、許崇清、許広平(作家・魯迅の夫人)などの有名人を輩出している。現在でも、その子孫は国内、海外に多く点在しているという。



そのまま中山路を西進すると 西湖公園の西門 に至るわけだが、ここで 北馬街 を北上してみる(下写真左)。北馬街沿いは古民家も多く、地元民の青空市など、古くからの生活空間が至る所に息づいていた。南側の観光地化されたエリアとは全く趣が異なる、ローカル世界だった。

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すると環城北路との三差路に行き着く。この交差点がかつての北門跡地である(下写真)。

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ここから環城北路を東進してみる。かつて北面城壁が連なっていた場所で、北東端で小高い峠の斜面を上り下りすることとなる(下写真)。

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北閣佛灯 のコーナーを回って、環城東路に至る(下写真左)。東面城壁が連なった直線である。

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なお、この北閣佛灯が建つ 小山(金山)であるが、入場料 10元という(上写真右)。山頂には明代に建造された古城壁も保存されている。南宋時代から、この 金山(下写真)に灯りをともす習わしがスタートし明代に定着したわけだが、韓江を航行する船や旅人の目印となってきたという。 山頂の玄天閣前に設置されていた石燈篭のかがり火が夜間に四方を照らす灯台代わりとなっており、それが仏の神秘さにたとえられて、北閣佛灯と通称されたという。遠くは南の 龍湖古塞 や、また北は 饒平県 下の山々からでも見えたという。

現在、この頂上部には観瀾亭が立っており、旧市街地や韓江を一望できる。古城時代、城下で最も美しい景色を堪能できる場所だったといい、潮州外八景の詩に詠み込まれている。すなわち、 湘橋春漲韓祠橡木、金山古松(または 馬丘松翠)、 鳳凰時雨、龍湫宝塔(鳳凰塔と両岸で対を成していた)鱷渡秋風(韓江の旧名)、西湖魚筏(潮州城の西にある 西湖と葫芦山)、北閣佛灯、である。当時、韓江の両岸に立地した地元名所を称えた詩歌であった。

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 「潮州大殺戮事件」と 金山の悲劇

金山の頂上に立つ観瀾亭の脇に、直系 3.8 m、周囲 12 m、深さ 18 mもの巨大な古井戸「金山古井」が残されている。これは 1652年に反清で挙兵した潮州総兵の郝尚久が、この金山の山頂に強固な城塞を建造した際、掘削した井戸という。

当時、城塞内には十分な食料も備蓄され、井戸も整備して長期籠城の構えであったが、 1653年8月、清軍 10万を率いた靖南王の 耿継茂(?~1671年。1649年に初代・靖南王となっていた耿仲明の長男で、自害した父の跡を継いで靖南王に就任し福建省を統治していた)が潮州城を包囲すると、1ヵ月後の 9月11日夜、配下の武将・王安邦が清軍に内通して城門を開放したため清兵らの突入を許してしまい、郝尚久ら残存兵は瞬く間に金山の城塞に追い込まれる。郝尚久とその子・郝堯は清兵で充満する潮州城下を眺めながら、同志らと共にこの井戸に身を投じたのだった。この戦いで、潮州城下では 3日間にわたり 10万人近い住民らが無差別虐殺されたという(潮州之屠)。

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 金山を中心に旧県城部分を中核とした「子城」と 城下町の 外周城壁(土壁スタイル)

なお、郝尚久らが最期を迎えた金山であるが、韓江を眼下に見る独立丘陵を成し、潮州府城内で最も標高の高い場所であった地の利は絶対的で、この丘陵部に最初の県城が建造されたと推察される(東晋時代の 331年)。以後、南へ西へと城下町は拡大され、城壁が延伸されていったというわけである。

中原や長江エリアでの戦乱が激化し、多くの流民が 広東省、福建省へ流入すると、その統括のため 413年、東官郡の東部が分離され義安郡が新設される。この海陽県城が義安郡都を兼務することとなり、以後、潮汕地区の県城群を統括する政治、経済、軍事の中心都市としての役割をスタ―トさせる。
589年に隋王朝により南北朝が統一されると、義安郡と海陽県は廃止され、義安県へ再編される。翌 590年、この義安県城内に 潮州府(潮の州、潮水が往来する土地、の意)が新設される。この時、義安県(後に海陽県へ再変更)、緩安県、海寧県、潮陽県、義招県、程郷県(今の広東省 梅州市 平遠県大柘鎮東片村)の 6県を統括する地域中枢都市となり、その城域も拡大の一途をたどることとなった。

続く 唐代(下地図)、五代十国時代を経る中で、潮州城は金山を中心とする旧県城部分を子城として強固な城壁を設ける一方、子城の北西~南西にかけての一帯に広がっていた城下町に対しては、東面の韓江沿いの堤防につなげた、低い土壁スタイルの外周城壁で取り囲んだ程度であった。

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土壁スタイルの外周城壁が長年の風雨により痛みが激しかったため、北宋時代(上地図)中期の 1053年10月、潮州 知軍州事(知州とも。州長官に相当)の鄭伸により大規模な修繕工事が着手される。地元の農民らを徴用したため農繁忙期は作業を続行できず、3年目の正月にようやく完成を見ることとなる。実質的な作業日数は賞味 8ヵ月程度だったという。以後も継続して、外周土壁は定期的な補修が繰り返されていった。

1127年に北宋朝が滅亡し南宋朝が建国されると、多くの流民らが華北地方から華南地方へ流入する。潮州城下でも例外にもれず住民人口が激増したため、1139年、潮州 知軍州事の徐渥筹が新たに城壁の建造を計画する。しかし、その城壁建設予定地に住む住民らとの間で騒動が勃発し、最終的に頓挫してしまうのだった。
1144年、次代の 潮州 知軍州事・李文広も城域の拡張を企図し、新城壁の建設を試みる。このとき、郊外の 4地区の住民らを動員し、旧城壁の解体と石積みによる新城壁の建造を分担させるも、やはり潮州城下の旧住民らと城壁の土地補償問題が発生し作業が滞ってしまう。激怒した李文広は工事を中止する。

1171年、潮州 知軍州事の曾汪が潮州城の東に 湘子橋(広済橋)を架橋すると、潮州城下における交通と防衛網が大きく変化することとなった。これ以降、東面城壁を兼ねていた河川堤防が本格的に西半分の外周城壁と接続され、同化されていくことになる。
1175年、堤防と外周城壁の接続が成り、その間に南城門である揭陽門が完成する。これは、潮州が秦代、漢代に揭陽県に帰属したため、その懐古の意味を込めて命名されたものという。20年後の 1197年、潮州 知軍州事の林山票が 南城門(揭陽門)を改修した際、三陽門へ改名する。この三陽とは海陽県、潮陽県揭陽県 を指した(下地図)。

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 外周城壁の 全面石積み化

堤防と連結された外周城壁であったが、その実態は土壁スタイルのままだったため、風雨による痛みが激しかったという。これを全面石積みスタイルへ大改修すべく、潮州 知軍州事の王元応と許応龍の 治世下(1230年ごろ)、もともとの土塁を基礎として石材を上貼りする工事が進められる。こうして、潮州城の城壁は初めて子城と外城の両者が石積みスタイルとなる最終完成形へ大きく前進することとなった。
この時、最初に西半分の工事が着手され、南城門(三陽門)から北の金山へ伸びる全長 3,170 m 分が完成される。西半分には貢英門、湖平門、鳳嘯門、和福門の 4城門が新設された。

続いて 1235年ごろ、潮州 知軍州事・葉観が東半分の 外周城壁(河川堤防を兼務)も石積みスタイルへ改修する計画を策定すると、潮州判官の趙汝禹と海陽県丞の趙必魁に工事の指揮を委ねる。
この時、東半分の石積み化は全長 1,834 m、高さ 6.7 mの城壁となって実現し、4つの城門が設けられる。こうして西半分の城壁とあわせると合計 11城門が配置されることとなった。すなわち、三陽門、小南門、下水門、浮橋門、竹木門、上水門、州学門、鳳嘯門、和福門、湖平門と貢門である(下絵図)。総延長 全長 4 kmにも登る城壁上には、凹凸壁が東西あわせて合計 4,000ヵ所も設置されていた。

湘橋区

しかし、わずか 50年後の 1284年3月、元朝支配下で広東道宣慰使となっていた 也的迷失(月的迷失とも。チンギス・カン配下でモンゴル帝国建国の功臣・朵儿伯朵黒失の息子)の命令により、潮州城が誇った巨大な外周城壁が撤去されることとなる。 モンゴル政権に対する漢民族らの反乱に備えての処置であった。こうして南宋時代に完成形を見た古城壁は、半世紀余りでいったん消滅することとなった。
1297年に至ると、潮州総管の大中恰里が主導し、東面城壁、すなわち韓江の堤防部分のみが再建される。

元代末期に発生した社会混乱の中で、地元住民らによって自衛のため土壁スタイルの外周城壁が築造される。1370年に明朝の支配下に組み込まれると、潮州衛指揮の兪良輔により翌 1371年からその外周城壁を基礎として石積み城壁の建造が着手される。その一方で、兪良輔は広東省東部に残存する反明勢力の掃討戦も進めていった。
その築造作業は未曽有の大工事となり、南宋時代よりも分厚い土塁が盛り上げられ、その上に石材が組み上げられて行った。また、南宋時代に設置されていた 11城門は 7城門へ減少される。すなわち、広済門(東門)、竹木門、上水門、下水門、安定門(西門)、南門、北門の 7城門で、ともに上階には城楼が、また城門前には半円形の 月城(甕城)が増設された。さらに城壁上には 44の角楼と、67の 兵舎(休憩スペース、武器庫)が設置されていた。当時、南宋時代の城壁跡は完全に消滅していたため、潮州城は完全に一新された形で生まれ変わったのだった(現代に至り、南宋時代の城壁遺構が下水門の基礎部分で発見されている)。

いよいよ外周城壁が完成となった 1377年、次代の潮州指揮に就任した曹貴が 南門を鎮南門、北門を望京門、西門を安定門と命名し、その他の各城門はそのまま旧名が継承されることとなる。
1495年、韓江の増水により、東面城壁が 667 m 余り倒壊したので、潮州知府の車份により 535 m強の城壁が修築される。
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清代初期、湖南省や広東省、浙江省一帯で鄭成功や李定国、孫可望らの反清勢力を駆逐した鎮海将軍の 王国光(?~1670年。清朝建国の功臣の一人である王一屏の子)が両広総督となって広東省を統括すると、1661年に導入された沿岸部の強制移住政策により、生活を破壊された困窮住民らを糾合して発生した 碣石衛総兵官・蘇利の反乱を平定する(1664年) など、数々の武功を挙げていく。彼が潮州城に立ち寄った 1666年、城内の住民らの意見を汲み上げ、韓江の洪水時に水が城内へ漏れ込んでくることを防ぐべく、川沿いの 4城門(竹木門、上水門、広済門、下水門)の左右両側に堅い石板のはめ込み工事を指示し、それまでの木板と交換させている。

1673年11月に呉三桂が雲南省で挙兵し三藩の乱が勃発すると、翌 1674年3月に潮州鎮台の劉進忠もこれに呼応して挙兵し潮州城に立てこもる。これに対し同年 7月、清朝廷は 平南王(広東省)の尚可喜に命じて討伐軍を出兵させると、尚可喜は次男の 尚之孝(1639~1696年)、そして配下の王国棟や厳自明らを派遣し潮州城を完全包囲する。この時、清軍は大砲により外周城壁の破壊を試みたという。 334 m以上にも渡って城壁が大破されるも、城内に立てこもった 劉進忠、陳寵、呉世徳、楊奕らはひたすら防戦に徹し、軍民を挙げて城壁の復旧工事を進めて対抗した。その修復工事が突貫工事だったことから、以後、城壁の凹凸面が不整備となり、その部分だけ後世、崩城と通称されることとなる。その場所は、現在の金山の東北面あたり(今の 潮州市水文局付近)という。
この時の籠城戦は、台湾の鄭経らの支援もあり清軍を撃退することに成功するも、次第に追い込まれた反清連合軍は個別撃破され、1677年6月に劉進忠も清朝に降伏する。その後、劉進忠は北京で処刑されることとなるのだった(1682年)


時は下って 1817年、堤防を兼ねる外周城壁の東面を強化すべく、潮州総兵(軍長官)の方耀采は地元名士の楊淞と朱以鍔の建議を受け入れ、大規模な補強工事を実施する。このとき、東面城壁の内部土塁を抉り出し、代わりに熱した石灰と泥を混ぜ合わせた 強化材(コンクリートに似たもの)を流し込み、同時に大量の石材も詰め込んで重量化が図られることとなった。この作業は全長 2,600 m にも及んだという。

日中戦争時代、潮州城を巡って日中両軍は激しく交戦し、外周城壁は大いに損壊してしまう。最終的に 1939年6月28日に潮州城を占領した日本軍は当地に軍政を敷くと、すぐに西面城壁を撤去し、その土砂で外堀を埋め立てる。ここに生み出された敷地を 昭和路(後に城基路、現在の環城西路)として整備したのだった。この「昭和路」と刻まれた石碑は現在、潮州博物館 にて保存されているという。


このまま 東面城壁 をずっと南下してみたわけだが、なぜこの東面城壁だけが今日も撤去を免れて維持されているのか、個人的に考えを廻らせてみた。

古城時代の古めかしさは全くなく、鉄筋コンクリートで再整備された、しらじらしい城壁面ではあったが、その位置自体は数百年、変わらないことは評価できる。また内部の土塁や石詰め素材も往時のままがキープされていることだろう。古城エリア以外だと韓江沿いに巨大な堤防が築かれていたが、現在、旧市街地沿いはこの古城壁のみが堤防として機能するしかない状態であった。往時の外周城壁時代から、そのままの役割が今日も継承されているわけである。

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もともと潮州城自体は海陽県や義安郡城時代、この金山上に築城され、韓江や河畔の湿地帯を天然の堀としたわけで、その堤防として建造されたものが城壁を兼ねるようになり、河川交易の隆盛と共に韓江沿いに南へと拡大され、今日にみられるような長大な城壁を成すこととなったわけである。つまり、韓江沿いの堤防機能に言及することなくして、この潮州府城の巨大城壁の成り立ちを説明することは不可能と言える。

ちょうど一昨日に訪問していた 龍湖古塞 にも、脇に長大な堤防が築かれており、かつての古城もこの堤防壁が城壁として転用され集落を取り囲んで城塞化されていったと妄想していたので、これと同じ発想に至ったわけである。その同じ経緯、および地理上の 類似性(韓江沿い、前面に巨大な中州、周囲の湿地帯など)から、一歩間違えば龍湖古塞が 大都市「潮州城」となっていたかもしれないロケーションの近さなのだが、その決定的な相違点は潮州府城には金山があり、また周囲には小山がいくつも点在するという、凹凸に恵まれた地の利だったのだろう。対して、龍湖古塞 の四方は平地のみで、湿地帯のど真ん中に形成されただけの水郷集落がその起源であった

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そんな妄想で一人興奮していると、前面に上水門が出現する(上写真左は外面)。現在、潮州城跡の城門の中で、甕城構造がはっきりと残るのはこの上水門だけであった(上写真右)。

上の古絵図と照合してみると、この上水門の内側にも城内水路が掘削されていたことから、甕城は二重設計だったと推察できる。つまり、城門は三重構造でその間に甕城空間が二つ設けられていたのではないだろうか。

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そのまま東面城壁上を歩いて南下していると、ちょうど 18:40ごろからライトアップが始まった。
下写真左は上水門、下写真右は竹水門を遠望したもの。古絵図によると、両者の間には兵舎や角楼など 4つの建造物が城壁上に増設されていたようである。

かつては、この城壁の 内側(フェンス側)を通る道路が水路だった(下写真)。

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そして、東城門 に至る(下写真)。その奥には、下水門 が見える。
韓江を渡河する広済橋 を前面に有する、潮州市最大の観光スポットだけあって、ライトアップも一番、華麗であった。多くの観光客や地元民らが城壁上を散策し、思い思いに写真撮影していた。

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先ほどの下水門といい、この 東城門 といい、城壁面上に楼閣が建てられており、その内側に甕城空間が設けられていたようである。また、外側には半円形の月城も増設されていた。

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なお、この東城門は潮州内八景の詩句にも詠み込まれており、古くから潮州城下の名所筆頭に数えられていた。すなわち、東楼観潮、西園賞菊、古刹梵唱、府衙鐘声、蓮花午照、七星步月、奎閣晨暉、蘆荻晚眺の詩である。都市開発が進む中で、今日、これら八景の多くは消失されているという。

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この日は真夏の散策となり、相当に歩き疲れた。この東城門下から三輪自転車タクシーで 市汽車(総合)バスターミナルへ戻り(15元)、続いて 108番路線バスでホテル前のバス停「易初蓮花(ト蜂蓮花)」まで移動することにした(2元)。


さて潮州滞在の最終日、掲陽市榕城区 を訪問した帰りに、掲陽市の旧市街地にある市総合バスターミナルから潮州行バスに乗車すると(14:20発)、同市の馬牙バスターミナルを経由し、15:25にホテル近くのバス停「楓渓広場」で下車できた。
そのままホテルで荷物をピックアップし、ホテル裏の楓春路にある速 8酒店向かいの バス停「楓渓広場東」で、高速鉄道「潮汕駅」行の K1か、K2バスを待つ。だいたい 10分弱で K2路線バスが到着した(6元。下路線図)。約 40分ほどのドライブだった。
なお、この K2バスであるが、運賃が細かく決められており、旧市街地のハブであるバス停「南橋市場」から乗車すると、高速鉄道駅まで 8元という。
高速鉄道駅 に到着後、チケット・カウンターで乗車券を購入し、慌ただしく乗車する。深圳 北駅まで 2時間の快適な列車だった。

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 ちょっと郊外へ 八角楼古寨 ~ 客家の城塞集落遺跡

潮州市中心部(湘橋区)のバス停「南橋市場」や、投宿先の 7天酒店近くのバス停「卜蜂蓮花」から、108番路線バスに乗車する。そのまま終点「陶瓷学院」まで移動して、省道 S 335線を東進すること 1 km弱で、潮安運総鉄鋪バスターミナルに到着する。ここで地元バスに乗り換えて、八角楼村まで約 5 kmほど。

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八角楼古寨は八角楼型の古い城塞集落で、潮州市湘橋区鉄鋪鎮八角楼村に立地する。

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南向きに設計された楕円型に近い八角形の城塞集落で、全 27部屋から構成されている。現在も居住する住民らの伝承によると、清代の 1800年ごろに建造されたという。要塞内には、1877年に設置された住民らの生活ルールを定めた碑文が今も残されている。



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