BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2019年7月下旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省 潮州市 潮安区 ~ 区内人口 101万人、 一人当たり GDP 41,000 元(区全体)


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  潮州市中心部(湘橋区)から 龍湖寨へ ~ 204番路線バス、近郊バス(30分、6元)
  龍湖寨の北門 と 周囲の池(かつての外堀跡)、古民家
  龍湖寨の 古絵図
  阿婆祠 と 龍湖寨の古城模型(北門からの遠景)
  龍湖寨の メインストリート(直街)を歩く
  直街の南端に鎮座していた 天后宮 と ガジュマルの巨大樹
  龍湖書院(今の 龍湖第三中学校)と 龍湖出身の科挙合格者たち
  龍湖寨の南門 と 船着き場跡
  龍湖寨の 古城模型(南門からの遠景)~ 全長 1.5kmの直街を踏破して
  韓江沿いの 土手を歩く ~ 阿娘宮(杏苑善堂)の裏手に 明代古城壁があるらしい
  龍湖寨 マップ
  龍湖寨の上東門 と 下東門跡
  韓江に浮かぶ 中州(緑韓洲、韓龍州)と 巨大中州(潮安区江東鎮)
  【豆知識】龍湖寨の 誕生 ~ 古郷の 英雄・劉子興の活躍 ■■■
  【豆知識】龍湖寨の隆盛 と 対倭寇戦 ~ 古郷の 大富豪・黄作雨の活躍 ■■■
  【豆知識】龍湖寨の危機 ~ 黄作雨の 長男・黄衍参の活躍 ■■■
  【豆知識】潮安区の 歴史 ■■■
  【豆知識】象埔寨 と 孚中寨(武状元府邸 が有名)
  【豆知識】万里橋 と 丁宦大宗祠 ■■■



潮州市 中心部(湘橋区)内で路線バスの大動脈となっている バス停「南橋市場」から、 204番路線バスに乗車し、龍湖寨への訪問にトライする。
環城南路の北側車線に設置されているバス路線掲示板を確認すると、各路線バスの現在地を電光掲示板で点灯させるシステムが採用されていた(下写真)。非常に分かりやすく、ありがたい。

龍湖鎮

しかし、204番路線バスはちょうど 5分ほど前に通り過ぎてしまった後のようだった(上写真の下段)。このため、 バス停脇に止まっていた客待ち中の白タク(バイク)に、 204番路線バスに追いつきたいので バス停「市交通局」まで先回りして行ってほしいと依頼すると、10元という。
そして、すぐに飛び乗る。

移動途中、どこへ行くのか??と聞いてくるので、龍湖古塞を訪問するつもり、と答えると、自分がこのまま「30元で行ってやる」というので、それは是非とも!、とそのままドライブをお願いすることにした。

韓江沿いの土手下の 道路(南堤路 ー 護堤路)をひたすら直進するルートだった(下写真)。その土手は高さが 10 m近くもあり、延々と続く長大なスケールに圧倒された。 2か所ほど、道路整備で直線道路が途切れており、やや渋滞があったが、そのまま 30分間、走りっぱなしで到着できた。

龍湖鎮 龍湖鎮

そして、そのまま帰りも待ってやろうか?と言われたが、どれぐらいの時間、当地を見学するか分からないので、やんわりと断っておいた。予想以上の距離を走ってくれたので、チップ含め 40元を渡しておいた。律儀にお釣りを返そうとするので、チップだよと言ってあげておいた。

彼の往復 1時間を個人的に占有したことになるし、ガソリン代を考えると、申し訳ない気がしたぐらいの距離だった。中国人はチップの習慣がない分、皆、律儀にお釣りを渡そうとしてくれる姿勢に率直に感動させられるのは変だろうか。。。

龍湖鎮

さてさて、北門広場前は駐車場となっており、自家用車で来た人、旅行会社の手配したであろう団体を乗せたワゴン車で訪問する人たちなどが不定期に見受けられた。

全く無人に放置されたバス停を見るにつけ(上写真。その奥に龍湖塞の北城門が見える)、ここを通過する 204番路線バスが 1時間に一本程度しか運行されておらず(8元)、バス移動では予定が立てづらい、かなりの僻地であることを物語っていた。
しかし、この路線バスとは別に 1時間に一本、汕頭潮州 間(西堤ルート)を往来する大型バスでも当地訪問が可能であることが後で分かった(6元)。

龍湖鎮 龍湖鎮

さて、駐車場に面して設置されていた 北城門(上写真左。上写真右は城門上から駐車場スペースを見下ろしたもの。右奥に緑色のバス停が見える)は、コンクリートと石材できれいに再建されたもので、しらじらしい雰囲気だったが、その西脇にある石積みの 家屋片(下写真左)や、池(下写真右)は往時のままを彷彿とさせていた。

かつては城壁を持つ城塞集落であったが、清代、中華民国時代などを通じて城壁資材は民家へ転用され、また周囲の沼や池、外堀などの埋め立てに使われて、集落地の拡大に加担されていったものと推察される。このため、現在の北城門や南城門は、決して往時のものであるはずも無かった。

龍湖鎮 龍湖鎮

本来、護堤路沿いの巨大な堤防は存在していなかったはずで、巨大河川である韓江沿いには度々の増水や蛇行により、広範囲にわたって沼や池、小川などの湿地帯が広がっていたと考えられる。

その湿地帯に堤防を巡らし集落を守るようにして形成されたのが龍湖塞であり、 潮州府城 の南 20km弱に立地する 河川・陸路交通の中継都市として栄えることとなったわけである。明代に至ると、倭寇襲撃などの社会混乱が続き、住民らによって堤防が城壁へと改造され、自衛の城塞集落が誕生したのだった。

龍湖鎮

最終的に、西面の巨大池の地理的制約からか、河川や街道沿いに交易地面積を増やす目的からかは不明だが、かなり南北に細長い集落となったようである。
南北に徒歩移動してみると 30分かかった。概算で 2 km弱はあることになる。対して東西幅はすぐに両端が見通せる距離で、中央街道から半径 100 ~ 300 m程度であった印象である。

龍湖鎮 龍湖鎮

上写真左は、北城門上から古城内を眺めたもの。
上写真右は、北城門下から南北の メインストリート(直街)を見通したもの。 上写真右の右手に見える赤壁の 廟所(阿婆祠)に入ってみると、本殿に展示されていた手作り感満載の古城模型はなかなか見応えがあった(下写真。ちょうど北門側から古城地区を見渡したもの)。

龍湖鎮

なお、この阿婆祠であるが、清代中期の 1700年ごろに龍湖塞随一の大富豪であった黄作雨がその 母・周氏を偲んで建てた廟所で、当地に残る女性を祀った唯一の祠堂という。東向きに設計され、南北幅 16.7 m、東西幅 31.48 m、敷地面積 670 m2にもなる巨大な境内を有していた。
入口門から 本殿(下写真左)に至るまで、すべて木造で、その彫刻や装飾も見応えがあった。現在、本殿内は空洞でガランとしていたが、きれいに掃除され管理が行き届いている様子が見てとれた。

龍湖鎮 龍湖鎮

さらに、メインストリート(直街)を南下してみる(上写真右)。
奥へ行けば行くほどに訪問客がいなくなっていく。全体の 5分の 1ぐらいで、皆、同じような古民家群に飽きてしまうのか、歩き疲れるのか、観光ツアーの集合時間の制約なのか、次々に引き返していく(下写真左)。なお、石畳の街道は、石灰石(青石板)を並べたものという。

龍湖鎮 龍湖鎮

間もなく、筆者一人だけの「貸し切り」ストリートと化した。。。(上写真右)
南方向にはまだまだ続く市街地だが、東西方向はすぐに両端が見えていた。下写真。

龍湖鎮 龍湖鎮

上写真左は、直街からみた 東方向(横巷)。奥の緑部分は土手の緑地だ。かつては、こうした細い路地の出入口にも簡易な城門が設けられていた。
上写真右は、直街からみた 西方向(横巷)。直線路地ばかりの龍湖塞にあっては珍しい、奥の民家を折れ曲がるL字路タイプ。

龍湖鎮 龍湖鎮

上写真は広めの 路地(横巷)で、東方面を見たもの。土手緑地が見える。

龍湖鎮 龍湖鎮

メインストリート(直街)は引き続き、筆者一人だけだったが、時折、地元民らが自転車やバイクで横を通り過ぎて行った。上写真。

下写真は、直街から 西側路地(横巷)を眺めたもの。珍しく、端が見通せない。

龍湖鎮

直街沿いに、進士第が 3か所 あり、当地から輩出した科挙合格者 53名のうち、誰かを祀ったものであろう。この地元の誇りである龍湖鎮出身の偉人たちについて、たくさんの解説が掲示されていた。

龍湖鎮 龍湖鎮

直街も南端まで至ると、派手な旗がはためくようになる(上写真左)。その最後に天后廟が設置されていた(上写真右)。
正門前のスペースに大切に保護されていたガジュマルの巨大樹が印象的だった(下写真)。

龍湖鎮

もう、うんざりするほどに歩いた後、ようやっと南門前に到達する(下写真)。
その裏に、文化大革命時代を彷彿とさせる旧型の学校校舎があった。かつて、潮安区内でも最古の学問所の一つであった、龍湖書院が開設された場所で、今は龍湖第三中学校となっている。

往時には、10近い私塾や学問所が開設されており、明代、清代を通じ、その卒業生の中から龍湖塞全体で 53名もの科挙合格者を輩出してきた。その中には、姚宏中(約 1181~1209年。1208年に科挙に合格し進士となり、静江府【今の 広西省桂林市】の教授に任命されるも、 翌年、29歳の若さで死去する)、 許洪宥(1501年に科挙に合格すると、広西臨桂県【今の 広西省桂林市】の教授、山東道監察御史などを歴任)、成子学(1537年に科挙に合格し、1544年に進士となると、江西峡江県長官に就任し、両淮監察御史、苑馬寺卿などを歴任)、 劉子興(1540年に科挙に合格し、翌 1541年に進士となり、浙江省臨海県長官を皮切りに、各地の要職を歴任し、最終的に広西左布政使に就任した。 1582年に 10年の隠居生活を経て、故郷・龍湖塞の自宅で死去)、夏学らの著名人らも含まれる。

龍湖鎮

下写真左は、河川土手に登って、中学校正面を臨んだもの。左手に見える小屋と自動車あたりに、かつて南城門と連なる城壁があったわけである。

下写真右は、南城門を外側から見たもの。ここも観光客らの訪問があるらしく門前には広めの駐車スペースがあり、訪問者用に便宜が提供されているようだった(実際には、龍湖第三中学校の関係者らの駐車場かも)。また、地元出身の偉人や観光名所が解説されたパネルが掲示され、大変に参考になった。

しかし、この南門周辺は全く商店街がないためか、もしくは城門上に楼閣がなく見栄えがしないためか、皆、北城門エリアだけを観光して帰るだけになっているようだった。

龍湖鎮 龍湖鎮

下写真左は、南城門の脇にあった土手上から、南門(左端に見える)周辺を臨んだもの。
下写真右はこの土手下にあった、かつての船着き場跡を示す石碑。 往時には、ここから韓江の対岸に形成された 集落地(現在の 潮安区江東鎮)へ渡し船が往来していたのだった。

龍湖鎮 龍湖鎮

下写真は、南門側から古城模型を見渡したもの。南門上にも楼閣があり、また城壁が設けられていたことが伺える。そして土手の河川沿いに、船着き場の建物が見える。

龍湖鎮

南門まで 30分も歩いた後、再び同じ直街を通って北門まで引き返すのも癪なので、復路は韓江沿いの土手上を散策してみることにした。下写真

龍湖鎮 龍湖鎮

上写真左の奥に見える、大きな木々が茂るポイントが、先ほどの船着き場跡。
そのまま土手沿いを北上していくと、五通宮、阿娘宮(杏苑善堂)が建立されている寺院境内が見えてくる(上写真右の赤色バルーンが上っているところ)。

そのモダンなコンクリート寺院の阿娘宮の脇に、明代の古城壁が残っていると資料にあったが(下地図の中央部)、土手上からは見えなかった。木々と草が生い茂り過ぎて、目視はおそろか、近くに接近することすら不可能な状態だった

龍湖鎮

引き続き、筆者だけが通行する無人の土手が続きつつ、その眼下には護堤路と龍湖塞の古民家群が連なっていた。

龍湖鎮 龍湖鎮
龍湖鎮 龍湖鎮

下の古城模型によると、路地の東端にも簡易な城門が設けられていたことが分かる。

龍湖鎮

土手の正面に見える、韓江に浮かぶ対岸の緑地帯は小さな 中州(緑韓洲、韓龍州)で無人エリアであるが(下写真)、そのさらに後方にある 巨大中州(面積 38.6 km²)は 潮安区江東鎮で、人口 10万人が住む集落地となっている。
ちょうど、イメージとしては 愛知県、岐阜県、三重県に広がる濃尾平野を流れる 木曽川、長良川の河口部に形成された 三重県桑名市長島町(面積 31.73 km²、人口 16,000) のような感じであろうか。しかし、その面積と人口規模は、さすが大陸中国スケールだった。

龍湖鎮

下写真左は、土手の南側を眺めたもの。延々と歩いてきた道のりだ。
下写真右は、北側(進行方向)を眺めたもの。韓江の先に高速鉄道の陸橋が見える。

龍湖鎮 龍湖鎮

この対岸の 無人中州(緑韓洲、韓龍州)も終わるころ、土手上を夕涼みで散歩する地元民の子連れや、川辺で釣りに勤しむ人々がちらほら現れる。また、土手下には龍首廟という地元の守り神が祀られていた。
西側の龍湖塞では、ちょうど北門脇に到達していた(下写真左)。

龍湖鎮 龍湖鎮

ここに至り、北門の脇にも土手を上り下りできる階段が設けられていることに気づいた。住民らがひっきりなしに土手に上がっては、釣り人らを眺めていた。

その階段で土手下まで下り、その脇にあったバス停あたりで待っていると、 5分ほどで 汕頭潮州(西堤ルート)の大型バスが通過した。手を挙げると、停車してくれた。
30分程度のドライブの後、最初の 湘橋区の バス停「南橋市場」に帰着できた(6元)。


韓江の中流から下流に至る西岸の湿地帯エリアに、集落地が形成され出したのは、南宋時代初期の 1132年ごろと推定されている。当初は、東に韓江、西南北に池や沼地などの湿地帯が取り囲んだことから、塘湖村と通称されていたという。附近にある彩塘鎮や驪塘三村の地名は、この塘湖にちなんでの命名となっている。

塘湖村の四方に広がっていた湿地帯は広大な平原エリアでもあり、肥沃な土地柄だったため、淡水生物の養殖や農業生産も活発で、集落内の人口を支えることができたのだった。また、集落地の南北を貫いた街道はまさに潮州府城から南下する重要な陸路街道そのもので、陸路で南から 潮州府城 に至る際、必ずこの 集落内(南北 1.5 km)を通過しなければならない構造だったわけである。こうした主要街道沿いにあって陸路の宿場町として栄える一方、河川沿いの船着き場では、多くの船舶が往来し、昼夜問わず活況を呈したという。

明代後期の 1557年、倭寇集団が潮州府城や掲陽県城を襲撃した際、掲陽県城 が落城するなど、一帯の村落は大きな被害を受けており、塘湖村(海陽県隆津都の管轄下にあった)も防衛力の強化が急務となる。
こうした中、たまたま親族の喪中のため故郷の龍湖寨に戻っていた 劉子興(下写真左。?~1582年。1540年に科挙に合格し、翌 1541年に進士となると、浙江省臨海県長官、兵部主事、車駕郎中兼職方事、福建参議、四川建川兵備道、広西参政、福建按察使 などを歴任し、最終的に広西布政使に就任)は、当時、福建参議の職にあったが、倭寇の脅威から故郷を守るべく、住民らとともに防衛戦を戦うことを決意する。

劉子興自らが主導して民兵を組織し、見張り台、防衛柵などの防衛拠点網の建造に着手すると共に、付近の村落からも民兵を募集し、厳しい訓練を施す。
翌 1558年にも倭寇が大挙して押し寄せ、大井、浦、蓬洲、庵頭などの地が蹂躙され、塘湖村にも危機が迫ると、さらに防衛力強化のために、住民らから寄付を募って城塞集落の建造に着手し、塘湖村要塞が完成されたのだった。見張り台も増設し、昼夜交代で民兵が警備を担当することとなる。

周囲で大損害を受けた集落地が多かった中で、この塘湖村要塞は大規模な襲撃を受けることがなく、無傷でやり過ごせたのだった。この頃、多くの官兵が倭寇追討で派遣され各地を転戦しており、龍湖寨の通行を命令してくると、福建参議の劉子興は自ら出向いて、彼らの通行を拒否し、住民らの安寧を守ったという。こうして彼は故郷とその住民らの恩人として称えられ、現在の北城門の脇に安置されている「塘湖劉公御倭保障碑記」という石碑が建てられたのだった(下写真右)。
彼は官職を引退後、この 故郷・塘湖村要塞で執筆活動をつづけながら、晩年の 10年を送っている。

龍湖鎮 龍湖鎮

こうして劉子興の指揮の下、縦長の集落地の城塞化が完成し、また城塞内部の都市整備も進められて、三街六巷スタイルが完成される。九宮八卦図(古代からの地理天文学)を基に都市設計されたと考えられている。この三街六巷とは、新街、上東門街、下東門街 の三街と、五宮巷、龍慶里巷、復興里巷、獅子里巷、鐘平里巷、博功里巷 の六巷で構成されていた。

城塞集落の中央を走る南北の 街道(直街、全長 1.5 km)は、まさに龍の背骨のように一直線に集落地を貫いていたので、人々はいつの頃からか、 塘湖村要塞 を 龍湖塞 と呼称するようになっていく
北に立地する巨大城郭の 潮州府城 も南北に縦長だったことから、似通った形状、経済活動の場、という意味で「小潮州城(潮州小鎮)」とも別称され、潮汕経済の重要拠点の一角として隆盛を誇ったのだった。

龍湖鎮

しかし、そんな龍湖寨もついに 1660年、姜世英の率いる海賊団の攻撃により陥落し、集落は焦土と化す。当時、龍湖寨随一の大富豪として成功していた 黄作雨(下写真左。もともと大豪商一家の出身で、1579年に澄海県生員の資格者となり、後に国子監監生まで至るも、科挙の受験資格は得ることなく、家業を継ぐ)は巨額の私財を投じて民兵を募り、防衛戦を戦うも多勢に無勢の中、落城してしまったのだった。何とか難を逃れた黄作雨らはすぐに自費で集落の復興を支援し、同時に城壁の再整備に着手する。

こうした中、1661年、清朝朝廷が鄭成功に対抗すべく、福建省、広東省沿岸部の全住民を内陸へ強制移住させ、すべての県城も放棄する 大号令「遷界令」を発する。この適用は順次、各地に施行されていき、翌 1662年の段階で、広東省では東は大城所から西は欽州防城までの区域が指定される。この時、まだ龍湖寨を含む隆津都は退去区域に含まれていなかったが、清朝はさらなる法適用の徹底を図るべく検査官を派遣し、いよいよ隆津都も退去区域に指定されることとなる。
これに動揺した黄作雨とその長男の 黄衍参(下写真右。1636~1712年)は、再建途上の龍湖寨にやってきた朝廷の検査官に大金を献上し、隆津都の住民らの移住決定を取り下げてもらうことに成功する。

これに不満を持った近隣住民らが翌 1663年、黄海如をリーダーに民衆反乱を起こし龍湖寨を襲撃すると、黄衍参をリーダーとして民兵を組織し防衛戦の末、集落を守り抜くことに成功したのだった。

また 1666年、丘輝をリーダーとする海賊集団 4,000人が数十隻の船団に分乗し龍湖寨に攻め寄せると、住民らは大いに動揺するも、黄作雨と黄衍参は抵抗せずに自らの邸宅に丘輝を招き入れ、酒宴を開いて接待する。そして、忍ばせていた民兵を使って丘輝を斬首し、城外に待機していた海賊集団につき返すと、慌てて逃げ帰らせたという。

龍湖鎮 龍湖鎮

さらに 1674年3月、靖南王(福建省)・耿精忠が雲南省の呉三桂に 呼応して反清で挙兵すると(三藩の乱)、潮州鎮守の劉進忠も 参戦して広東省一帯の制圧に乗り出す。その際、まず潮州城のすぐ南に 立地した龍湖寨がターゲットにされることとなった。黄衍参(上写真右)は自らの危険を顧みず、その制圧軍を門前で迎えると、交渉の結果、米 300石(現在価値で、約 20万元。当時の県長官クラスの年収が 90石 = 現在価値で約 6万元)を上納することで戦火を免れることに成功する。その上納金は分割で支払う取り決めとなり、未だ半分も納めない中で清軍によって潮州府城が平定される。最終的に、一滴の血も流すことなく、このピンチを乗り切ったのだった。

後に、黄衍参は父と同じく 例貢(国子監監生)の資格を授与され、広東和平県の 県訓導(県役所の教育局長に相当)職を下賜される。彼は自身の故郷である龍湖寨内の教育環境の向上も目指したが、その志を果たすことなく死去する。その後、その子孫らが多くの寄付を行い、龍湖書院などの開設に貢献したという。

度々の戦火をくぐり抜けつつも、総じて明代、清代を通じ、龍湖寨は大いに交易集落として栄華を極め、潮汕地区の河川ネットワークの交易拠点として君臨したわけだが、清代後期の 1861年、欧米列強の圧力により 汕頭港 が開港されると、海沿いの汕頭港と 樟林港 が台頭するようになり、潮州府城を中心とした内陸河川交通ネットワークは衰退していく。こうした時代の潮流に逆らえず、龍湖経済も凋落したのだった。

近代に至るころには龍湖古寨の経済は見る影もなくなり、さらに河川交通から 鉄道&自動車へと交通ネットワークが変化し、旧市街地は都市開発から完全に取り残されてしまう。こうした背景により、古民家や廟所などの古い建築物が今日まで残されることとなったわけである。集落内の古民家は 100軒以上も現存し、まさに「潮汕地方の伝統的建築物の展示場」と評される所以となっている。
特に著名な建築物は、この村にあって 最大規模(780m2)を誇る許氏宗祠で、1680年ごろに建立され、以後、度々修復が加えられてきたという。その他、現存する 宗族祠堂、役所機関や役人の屋敷、地元富豪や名士の邸宅など 100年クラスの歴史を刻むものばかりで(清末から中華民国時代初期の建設)、往時の生活の記憶をしっかり刻みつける生き証人となっている。

また、龍湖寨出身者で科挙に合格し 進士、挙人になった人物は 53名に達し、彼らを祀る 題祠、書法、碑記なども当地に数多く残り、今でも地元の誇りとして積極的に奉じられていた。往時は、龍湖書院を筆頭に、江夏家塾(黄氏一族)、高陽家塾(許氏一族)、肖氏書斋(肖氏一族)などの各宗族専用の学問所から、科挙合格者の名前を冠した私塾 ー 梨花吟館、読我書屋、抱経舍、雨花精廬、怡香書室 など ー も開設されており、そこではほぼマンツーマンのレッスンが行われていたという。



 潮安区の歴史

秦代、漢代には、南海郡下揭陽県に属した。
東晋時代の 331年に 海陽県城(今の 潮州市湘橋区)が新設されると、以後、現在の潮安区一帯はこの管轄域となる。
東官郡の東部が分離され、東晋時代の 413年に義安郡が新設されると、その郡役所はこの海陽県城内に併設される。隋朝により南北朝時代が統一された翌 591年、義安郡は潮州へ改称される。以後、隋代、唐代を通じて、潮州は義安郡、潮陽郡などへ変更されるも、そのままの行政区が踏襲される。

北宋代以降、海陽県の県域は徐々に縮小されていく。
まず、北宋時代の 1121年に、永寧郷、祟義郷、延徳郷の三郷が分離され、揭陽県 が新設される。
また、明代の 1477年、光徳郷下の 弦歌都、清遠都、汫洲都の三都、および、太平郷下の宣化都と信寧都の二都、そして、懐徳郷下の 隆眼城都、秋溪都、蘇湾都の三都の、合計 8都が分離され、𩜙平県 が新設される。
さらに時は下って 1563年、海陽県下の 下外莆都、中外莆都、上外都の莆三都と、揭陽県下の 蓬州都、鮀江都、鰐浦都、𩜙平県下の蘇湾都の 7都が分離され、澄海県 が新設される。

龍湖鎮

清代の 1738年、さらに海陽県下の豊政都と揭陽県下の藍田都、大埔県下の清遠都、嘉応県下の万安都が分離され、豊順県(今の 広東省梅州市豊順県)が新設される。
この間も一貫して、現在の潮安区エリアは 海陽県(今の 潮州市湘橋区)に帰属し続けた。
1914年1月、山東省下の海陽県と同名で重なったため、潮安県へ改称される。

1991年12月、潮州市が新設されると、潮州市中心部を除く東部、南部エリアのみが潮安県のままとなる(中心部は市の直轄域とされる)。このとき、その県中心都市が庵埠鎮に定められる。2013年8月に潮州市下で区制が採用されると、市中心部に湘橋区が新設され、潮安県は潮安区へ改編される。このとき、磷溪鎮、官塘鎮、鉄鋪鎮は未だ組み込まれていなかったが、現在の潮安区域がほぼ定まる。

地元の名所旧跡としては、龍湖寨の他、下記が有名という。



 象埔寨 と 孚中寨(武状元府邸 が有名)

潮州市中心部(湘橋区)の バス停「南橋市場」から、108番路線バスに乗車する。もしくは、投宿した 7天酒店の最寄り バス停「卜蜂蓮花」からでも乗車できる。終点の古巷鎮政府まで移動し、ここから徒歩で楓溜公路を西へ進むと象埔寨へ、北へ進むと孚中寨へそれぞれ徒歩訪問できる。

もしくは 2倍の遠回りルートだが、バス停「南橋市場」か、もしくは 7天酒店前の バス停「楓溪広場東」から、⑬番路線バスに乗車してもアクセスできる。潮州鉄道駅前を経由する南回りで、終点の バス停「明鴻庄園」で下車し、ここから楓溜公路を戻る形で、楓江を渡って東へ移動し、川沿いの道路に沿って北上すると、象埔寨を訪問できる。
象埔寨からバイクタクシーをチャーターし、3 km東にある古巷鎮孚中村へも移動できる。

象埔寨

この象埔寨は潮州市中心部から東へ約 8 kmにある潮安県古巷鎮古一村に位置し、楓江沿いに建造され、南西向きに設計された 正方形型(横 162.4 m、縦 154.4 m、総面積 25,074.56 m2)の城塞集落である。南面と北面には外堀が掘削され、東面は山を背にしており、三方面を水に囲まれる要害のロケーションにあった。
下写真は、東面にある山頂から俯瞰したもの。

象埔寨

南宋時代末期の 1262年に集落が形成され出し、楓江沿いの港町として発展する。明代、清代には特に栄華を極めるも、近代の都市開発と交通革命の中心からはずれて取り残される形となり、今日にまで往時の古民家群の姿を伝える城塞集落となったわけである。
1987年12月に潮州市により、また 2009年12月には広東省により歴史遺産に指定された。

厚さは 0.88 m、高さ 5.57 mの外面城壁に囲まれており、東面に巨大な正門を有し、その上には楼閣が増設されていた。要塞内部の古民家群はシンプルな設計のわりに、この正門とその上の楼閣だけは突出して立派なものであった。ここに石板の額縁で「象埔寨」と記され、その脇に「壬戌之秋、穎川郡立」と刻印されている。これは本要塞集落を作り上げた陳氏の祖先が中原の河南省一帯から南下して来た経緯に由来するという。
要塞内の建物群は、何世紀にも渡って修繕工事が手掛けられているため、宋、明、清各年代の建築手法や 装飾、デザイン、壁画、屋根瓦などが混ざっているという。

象埔寨 象埔寨

陳氏一族だけが居住する単一宗族の集落地である 象埔古寨(72の家屋で構成)全体を俯瞰すると、寨内には三街六巷の路地が碁盤の目のように敷設され、北京王城風の都市設計となっているという。 要塞正門から中へ入ると、一本の中央路地で直接、一番中央の奥にある 陳氏家宗廟(孝思堂)へ通じる様は、まさに北京城の皇宮に相当する構図であった。この大宗祠の屋根に見られる建築様式は典型的な明代スタイルという。 また、大宗祠の左側には 1904年に建立された 西湖公祠(二房祠)が、右側には 1764年に建てられた 松軒公祠(房祖祠)が配されている。

さらに、北京王城と同様、奥側(西面)から 前面(東面)にかけて緩やかな傾斜を成しており、排水システムとして都合のいい角度で設計されていた。飲料水には井戸をくみ上げており、裏路地ごとに井戸が掘削されていたという。寨内の四角にも井戸がそれぞれ設けられ、共同使用されていた。

象埔寨は多くの偉人らを輩出しており、進士 1名、貢生 1名、挙人 18名らが記録され、要塞内には進士第が 1つ、大夫第が 7つ、現存する。
象埔寨

また東側の、潮安区古巷鎮孚中村に残る 要塞集落「孚中寨」であるが、ここで特に有名なものが、広東省から 5名しか輩出していない 武状元(科挙が文官の国家資格に対し、武挙は軍人のための国家試験で、3年に一度実施されていた。その全国トップが武状元で、合格者は全国からその栄誉を称えられた)となった黄仁勇の故郷であるということ、そして彼の邸宅跡や一族を祀る宗廟が現存する、という点である。

もともと、この内陸に立地した孚中村は東江から韓江間を陸路で移動する際の街道沿いにあり、南宋時代から発展した集落地であったという。当初は、河川沿いに発展した象埔寨の東部に立地したことから埔東村と通称されていたが、明代に孚中村へ改称される。
当初は、中原から移住してきた多くの一族らが同居し集落を形成していたが、明代に黄氏八世の祖先である黄璧山が晚年に一族郎党を連れて当地に入居すると、以後、黄一族の人口が増え、今では全集落地が黄氏一族のみとなっているという。
その黄氏集落化の過程だった 1550年ごろに、城塞集落が建造されたと考えられている。城寨は正門を東に有し(下写真左)、東西 107 m、南北 113 mの台形型で設計され、有総面積は 12,091 m2 にも至ったという。

また、一帯の土壌は肥沃で、気候も温暖湿潤であったことから、村民らはサトウキビなどの果物類を栽培し、糖を採取して県下で売りさばき集落を潤したという。その技術は高く評価され、周囲の四郷に知られる代表商品として流通したらしい。

龍湖鎮 龍湖鎮

特に、当地の目玉となっているのが、黄仁勇の 邸宅跡「状元第(総面積 408m2)」で、清代中期の 1796年に武状元に合格した黄仁勇が自らのために建設した屋敷であった。清朝廷により直々に任命された地元役人が現場監督を担当し工事が進められたという。上写真右。

なお、普通の 農村家庭(父・黄廷毅)に生まれた黄仁勇 (1762~1817年。字は良越)は家が貧しく、12歳になるとようやく郷の私塾に就学させてもらうことができたという。以後、彼は一生懸命に文武に励み、重い石をバーベル代わりにして肉体改造に勤しんだという。何度かの試験で失敗した後、妻方の父のツテでコーチにも恵まれ、ようやく 34歳で武状元に合格すると、朝廷から福建金門鎮中軍遊撃隊長に任命される。金門鎮で 15年間、職務に従事するも、特に戦争を体験することなく平穏な日々を過ごし、最終的に 1811年に農業への転職を願い出て、故郷周辺の土木工事などでその怪力を発揮したという。
この帰郷した後に建てたものが、自身の豪華な 邸宅「状元宅第」というわけであった。最終的に、1817年に病となり、そのまま故郷の自宅で 55歳で死去する。
現在、孚中寨の入口には、黄仁勇が鍛錬で使ったという 2つの 練武石(重量 155 kgと 100 kg)が公開されている。

また、孚中村の中心にある黄氏大宗祠であるが、孚中寨の中央線上に位置し、今でも内部を彩る精緻なデザインの彫刻や絵画は圧巻という。
この黄氏大宗祠は黄仁勇の名誉により、清朝廷から「黄氏家廟」と称することを許可された由緒正しい宗廟で、当時、官位の極めて高い一族の宗祠だけが「家廟」の通称を許されたことから、黄氏一族のプライドの象徴となってきたのだった。武状元を輩出した孚中村黄氏の名声は全国に知れ渡り、当時、絶頂期を迎えたという。
その祠内には 石鏡、石麒麟、欽点状元匾、诰封四世将軍匾、進士匾 などの珍しい歴史文物が大切に保存されており、その他、古寨内に残る 神廟、公庁、大宅、将軍第、状元石獅 などの保存状態も良好で、全国ブランドとなった黄氏一族のプライドをかけた祖先崇拝の賜物となっている。 これらは、かつての陸路街道上にあって繁栄した集落地の貴重な文化遺産の品々として、高い評価を受けている。



 万里橋(潮州市潮安区鳯塘鎮東龍村)
北宋時代以前には橋がかけられておらず、人々は渡河の度に非常に難儀したという。
そして、南宋時代初期の 1138年、渡河口の附近で翁元という地元の名士が自費で橋を設置する。橋桁 2本で全体を支える構図だったという。南岸の海陽県側の李畔村と北岸の揭陽県鳯浦村の村名からそれぞれ一文字ずつをとって、李浦橋と命名される。
後年、洪水のため河岸部自体が倒壊し、河川の形状が変わってしまうと、鳯浦村の林万里という地元の富豪が自費で李浦橋を再建する。以後、彼の名を冠して万里橋と呼ばれるようになり、今日まで継承されているという。
主に 潮州府城揭陽県城 とを往来する役人専用道路として使用されていたらしい。

 丁宦大宗祠(潮安区磷溪鎮仙田郷)
仙田郷に住む丁氏一族が、この潮州エリアに移り住んだ祖先である丁公允元を祀ったお堂で、占有面積は約 650 m2と広大なものとなっている(南東向き)。
祠堂が最初に建立されたのは明代だったが、現在のものは 1980年代初期に丁氏の末裔らが自費で再建したものという。宗祠前には明末に礼部尚書となった黄錦公が寄贈したという石板が現存する。

なお、この 祖先・丁公允元であるが、もともと江蘇省常州市の出身で、北宋時代の 1187年に塩鉄税について減免を朝廷に進言し、朝廷から疎まれたことで、太常寺少卿(朝廷内の祭事を監督した役人)職から潮州知軍州事へと左遷されていたのだった。
その在任中、管轄する潮州域内にあった偉人を祀る廟所やお堂、各地の橋などを修理するなど善政を行い、また地元の子弟教育にも力を入れて教育予算を増額させたりと、伝説に残る為政者として言い伝えられていくこととなる。以後、その子孫らは海陽県下に定住し、仙田郷の丁氏一族の祖先として崇められるようになったわけである。
なお、祖先・丁公允元の業績はその後も高く評価され続け、清代中期の 1758年に潮州府長官の周碩勛によって丁公配享韓廟が建設されるほどであった。



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