BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年2月上旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



マカオ特別行政区 コタイ半島 ~ 人口 67万人、 一人当たり GDP 80,000 USD(マカオ 全体)


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  地元スーパー「来来市場」で、 HKD を使う ~ きっちりレート計算で MOP 釣銭あり
  フェリー・ターミナル から、ギア要塞山(東望洋山)へ 徒歩移動(30分強)
  マカオ最高峰・東望洋山の山頂にある ギア要塞(1622年建造)
  要塞内に併設される ギア教会(1622年建造)と ギア灯台(1865年建造)
  ギア要塞山 と 海岸埋め立て
  松山軍用地下トンネル、高射砲の台座跡、、、、ドラゴンの植木剪定 !?
  偵察用の歩哨所、通信用の基地跡
  【豆知識】ギア要塞 ■■■
  国連大学国際ソフト技術研究所の洋館 と 斜面下の教会墓地(白頭墳場)
  ポルトガル政庁設置の 国境ゲート(關閘)跡



ギア要塞 と ギア灯台

マカオ・フェリーターミナルに到着後、到着ロビー内の観光案内所で地図をもらう。あわせて、観光案内所の若いスタッフにギア要塞の徒歩アクセス方法を質問してみると、遠回りの東側 登山ルートを勧められた。

とりあえず、先に食事を取るべく、巨大カジノ・サンズ(金沙)西隣の住宅地区にある馬済時総督大馬路沿いの地元中華レストランでブランチを食べる。


食後、その道路向かいにある 地元スーパーマーケット「来来市場」でパンを買ったとき、現地通貨 マカオ・パタカ(MOP)がなかったので、クレジットカードで払いたいというと、 100パタカ(MOP)以上買わないとダメだと言われる。
仕方なく、香港ドル紙幣で支払い、釣り銭を香港ドルでくれるように要求すると、マカオ・パタカ 以外で出せないと拒否された。
結局、13 MOP 分の買い物で 20 HKD 札を出して、7 MOP の釣銭を覚悟していたが、 7.6 MOP 戻ってくるではないか!?
レシートをよく見ると、支払った香港ドル紙幣が勝手にマカオ通貨に換算されて、マカオ・パタカ建ての商品を購入し、釣銭がマカオ通貨で出されていたのだった。

数年前に同じ店でトライしたときは、普通に マカオ・パタカ や香港ドル 小銭を混ぜて出してくれたが、今は自動両替式で対応しているようだった。下写真は、そのときのレシート。

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食後に観光案内所のスタッフの助言通り、フェリーターミナルに戻る方角で、東回りで移動しようと思ったが、とりあえず、ギア要塞がある東望洋山(海抜 90 m強)の麓下まで近づいてみようと皇家金堡ホテルあたりまで歩いてみた。

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ちょうど横にあった、中国外交部の 入り口前(上写真の右手の建物)にいたマカオ人警察官に、「ギア要塞の道順は?」と質問する。「Taxi?」と聞くので、「歩きで」と回答すると、やや困惑した様子で西側を指さして道順を教えてくれた。どうやら東西両方に登山ルートがあるらしいと分かった。

この時、先の観光案内所でもらっていた地図を見せると、喜んで地図を使って詳しく教えてくれた。

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この東望洋山へのアクセスは、圧倒的にこの西回りルートが合理的だった。というより、フェリーターミナルからの直接アクセスでも、東回りルートは非合理的に思えた。
ここで発見した、西周りの最短ルートは下記の通り。


まず、フェリーターミナルから長い陸橋を渡って金龍酒店まで移動し、 その馬六甲街沿いの北端にある皇家金堡ホテルまで向かう(徒歩で 10分弱)。
この東望洋山下に通る大通り、羅理基博士大馬路を西進し、左手に 中国外交部(中国入国用のビザ発行などを担当)、中国人民解放軍本部、マカオ理工大学のキャンパスを通過していく。

そして正面に、エスカレーター付の陸橋が見えてくる(下写真左)。ここまでで、フェリーターミナルから、だいたい徒歩 20分弱である。
陸橋に登り、羅理基博士大馬路を渡ると、その正面にはピカピカの駐マカオ中国行政部ビルが立っている(下写真右)。その裏手へ回ると、東望洋山へ登るエレベーターが設置されていた。

マカオ マカオ

ここから一気に 20 m + 30 mの 2段式のエレベーターを登る(下写真右)。

マカオ マカオ

下写真は、1段目エレべーターを登ったあたりから、下に見える羅理基博士大馬路とピカピカの駐マカオ中国行政部ビルを見下ろしたもの。

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エレベーターの乗換フロアーは、高級マンションのエントランスかと見間違うぐらい、きれいなロビーだった(下写真)。

マカオ マカオ

そして、2段目エレベーターを登ると、早くも東望洋山の 6合目に到達した。あと 40 mほど登れば頂上という、ショートカットの登山ル-トだった(5分弱)。

そして、ここから左手へ進むと、登山口とトイレが設置された広場に到着する(下写真左)。
おそらく、タクシーでギア要塞を訪問する場合は、このあたりで下車することになると思われる。

マカオ マカオ

ここの急斜面をさらに登っていくと(上写真右)、ギア要塞がある東望洋山の山頂部に到着する。坂道は急だが、ゴールがすぐそこに見えているので、踏ん張れる。
フェリーターミナルから合計 30分強で、登頂できた。



間もなく 東望洋山 の山頂に到着する。下写真はギア要塞の入り口。
このゲート建物は、マカオの洪水博物館となっており、古くから度々、台風被害にあってきたマカオの歴史が写真入りで解説されていた。

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それにしても、こじんまりとした砲台陣地だった。どちらかというと、軍事施設というより、70%は ギア教会(聖母礼拝堂)、といってもいいぐらいの面積配分だった。

マカオ マカオ
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実際にはギア教会脇に立つ灯台が一番、目立っていた(下写真左)。山麓から見る限り、灯台山と思えなくもない存在感だった。
なお、ギア教会の側面に付設されていた入口階段 2ヵ所が、あまりに近かったのでビックリした(下写真右)。

マカオ マカオ

下写真は、1890年当時のギア要塞、灯台の様子。山は完全に樹木が伐採されていた。

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下絵図は、1775年当時のギア要塞の俯瞰図。
1865年に中国沿岸初の近代的灯台として建てられたギア灯台は、未だ描かれていない。

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下写真は要塞南側に展示されていた 大砲。山麓はかなり埋め立てが進んでいる。

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下古写真は、1927年当時の海岸線。要塞山麓は徐々に埋め立てが進んでいる様子が伺える。
この埋め立て部分が、筆者が往路にブランチを食べた馬済時総督大馬路沿あたりで、宋玉生公園など現代マカオのオフィス街となっている辺りである。

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さて、ひと通り要塞内部を散策後、下へ降りて(下写真左)、東側に広がる松山市政公園を歩いてみることにした。
すると、まさに要塞の東斜面下に 松山軍用トンネル(隧道)の入り口 A があった(下写真右)。これは 1930年代にポルトガル軍により建造されたもので、防空壕 兼 東望洋山(松山)内の各軍施設へ移動する地下通路として設計されていたという。毎週月曜日、休館とのことだった。

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さらに尾根伝いに東へ進んでいると、高射砲の台座跡が残されていた。下写真。

マカオ マカオ

途中、別の登山道の入口に剪定されていた植木が気になった(下写真)。
龍のデザイン、しかも親子バージョン、ここに必要ですか???

マカオ マカオ

さらに 東進し、やや高台に至ると、古い軍事基地の壁面が草木の間から見え隠れする。

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途中で登れる小道があったので登頂してみた。

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そこには、偵察用の歩哨所、通信用の基地らしい遺構が残されていた。
この地下通路も、先ほどの松山軍用トンネルと連結されていることだろう。

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また、周囲には通気口と思わしき突起物がたくさん設置されていた(下写真右)。

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さて、歩哨所遺構の高台から降り、市政公園の散歩道にもどると、その道路脇に防空壕入口が残されていた(下写真)。ここも先の松山軍用トンネルの出口の一つなのだろう。

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このギア要塞山にはポルトガル植民地時代を通じて同軍が駐留し、立入禁止となっていたのだが、1976年に撤退後、公園として一般開放されたという。

そのまま東面の坂を下山し、整備された散策道沿いに南へと歩みを進めるとマラソンやウォーキングなどに勤しむ地元市民らに出くわした。そして、再び進路を東へ取り、往路で登ってきたエレベーター入口を目指した。

この道中、特に目を引いたのが、至る所にある水道蛇口とトイレだった。トイレは最新型というわけではなかったが、清潔に保たれており、先の登山用エレベーターの豪華さなども含めて、マカオの経済的豊かさを見せつけられた次第である。さすが、アジア第 1位の 1人当たり GDP値 を誇る経済特区であった。



 ギア要塞

1622年6月22日、中国 ー 日本 ー 東南アジア貿易を牛耳るポルトガル勢力の駆逐を目指し、オランダがマカオに攻撃をしかけてくる。
この時、明朝に配慮し十分な防衛拠点網を構築しきれていなかったポルトガル側は、小規模な砲台陣地と地形を利用したゲリラ戦で対抗することとなる。

オランダ海軍は マカオ(コタイ)半島の最高峰であった 東望洋山(松山)の占領を第一目標として、軍を二手に分けて攻撃を加える。このとき、ポルトガル守備軍は東望洋山上にも小規模な守備隊を布陣させており(まだ当時、要塞や砲台は設置されていなかった)、それを知らないオランダ側の上陸軍を完封なきまでの迎撃に成功する。この敗走が元となり、オランダ軍は戦意喪失し、そのままマカオ占領を諦めたのだった。こうしてオランダ軍は翌月の 7月11日に澎湖諸島に上陸し、明軍の守備兵を追放し勝手に占領してしまうわけである

こうしたオランダの暴挙に対抗する意味で、同じ敵を有した明朝により、東望洋山(標高 90 m強。中国原住民は松山と通称していた)上での大規模要塞の建造がようやく許可されたのだった。
こうして同年 1622年後半から即座に工事が着手される。この時、先のマカオ防衛戦で捕虜となっていた多くの オランダ軍兵士ら(アジア植民地から徴兵されていた)が労働力として酷使されたという。この 要塞名『ギア』という名も、この要塞工事の捕虜責任者だったオランダ人司令官の名前に由来する、とされる。

間もなく小規模な要塞が完成するも、以後も度々、改修工事が手掛けられ、最終的に 1637年の大規模拡張工事を経て、翌年に完成を見たのだった。東望洋山の山頂に立地したため、東望洋砲台と名付けられる。ギア砲台と通称された。

マカオ

ここは長い間、軍事用地として立ち入り禁止とされていた区域で、1976年にポルトガル軍が撤退すると観光地、市民公園として開放されることとなった。

また、現存する東望洋灯台は 1865年に設置され、近代式灯台として極東で最古のものという。
1874年に台風被害を受け、すぐに修復された後、1910年6月29日から再稼働し、今日に至るという。

なお、要塞内にある ギア教会(聖母礼拝堂)は、要塞建造スタートと同時に真っ先に設置されたという(1622年)。



さて、45分ぐらいギア要塞山を散策後、エレベーター前に到達する。復路は別ルートをトライすべく、歩いて坂道を下ってみた(下写真の左端)。

ちょうど、その脇に風情漂う洋館が建っていた。どうやら、国連大学国際ソフト技術研究所(連合国大学国際軟件技術研究所)が入居する建物らしいが、筆者の訪問時は閉鎖されているようだった(今は マカオ大学キャンパス内へ移転済)。

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また、さらに坂下にはキリスト教式の 古い墓地(Parsee Cemetery、白頭墳場)が広がっていた。

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墓地入口の鉄扉は施錠されており、中に入れなかった。

マカオ マカオ

そして、2段目エレベーターを利用し、再び羅理基博士大馬路まで下りて マカオ理工大学のキャンパス前まで戻ると、ここで地元の 10B路線バスに乗車し(3.2 MOP)、 珠海 国境へ移動した。

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さて、国境前に到着すると、たくさんの中国訪問客らがイミグレ・ビル内へと吸い込まれていく。
そのピカピカの イミグレ・ビル(下写真左の後方の建物)の前に、何やらポルトガル風の建築物がぽつんと立っている。誰も見向きもせず国境ビルへと直行するのだが、筆者は気になったので少し立ち寄ってみた。

この凱旋門型の ゲート(下写真)は、1870年にポルトガルにより建設が始められ、翌年に完成した国境入口という。

マカオ マカオ

最初の境界ゲートは 1584年に明朝によって建設され、一定間隔のスケジュールで開閉が行われていたらしいが、アヘン戦争(1841年)を経て、ポルトガル政庁側が清朝の役人らを追放し、1849年、勝手にマカオ独立を宣言する。そのまま国境線を策定し、市街地まで通じる街道の自主整備を進めた。
最終的に 1874年、ポルトガル政庁は明代からの古いゲートを破却してしまうのだった。


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