BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2019年10月中旬 『大陸西遊記』~


シンガポール共和国 ② ~ 人口 550万人、 一人当たり GDP 55,000 USD


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  ウッドランズ・バス発着所 ~ シンガポール中心部 から ジョホール水道(海峡)へ
  ウッドランズの 丘陵地帯(公共団地と 工場地区)を ドライブする ~ 903番路線バス
  マレーシア国境の イミグレ・ビルと 国境陸路(コーズウェイ・ベイ)を臨む
  ジョホール水道(海峡)沿いを歩く
  草藪に埋もれた戦争遺跡 マーシリング・トンネル(Marsiling Tunnels)
  【豆知識】マーシリング・トンネル(海軍用の石油備蓄地下施設)■■■
  中国川(Sungai China、もしくは Sungei Cine)と 港主制度
  ウッドランズ・ウォーターフロント公園 と 旧海軍基地跡
  マレーの丘 ~ Marsiling(馬西嶺)の 地名の由来とは?
  上空から ジョホール水道(海峡)に浮かぶ、ウビン島を見る



~ ジョホール海峡沿いの ウッドランズ地区を歩く ~

シンガポール中心地区 から地下鉄で Woodlands 駅に向かう(2.6 SGD)。約45分で到着した。
その一つ手前の Admiralty 駅の漢字名が、「海軍部」というのが印象的だった(下写真左)。 これは、今から訪問する ジョホール水道(海峡)沿いに、戦前あった 英国海軍基地(戦後には マレーシア連邦海軍基地、 シンガポール海軍基地へ継承される)に由来している。

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Woodlands 駅では北側に立地する、巨大なバスターミナルを目指すことになる。 ちょうど駅ホームからも見えていた(上写真右の中央に見える、白壁)。

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ホームから下へ改札階まで移動し、東側の方向に進む。ここで、Bus Interchange の看板が見えてくる(上写真左)。そのまま往来する人の流れについていくと(途中、Citibank 前を通過)、いよいよバスターミナルに行き着く(上写真右)。

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この バスターミナル(1980年建設)は巨大で、かつて地下鉄が未整備だった時代、ジョホール・バル から越境してきた人々がまず国境近くのバスターミナルに降り立ち、 ここからシンガポール各地へと移動した名残りを大いに残す場所だった。海岸部のマリーナベイ地区 から、マレーシア国境のウッドランズのイミグレ建物まで、あらゆる方向へのバス路線が運行されていた。

1987年にシンガポールで最初の地下鉄が開業すると、当時の リー・クアンユー(李光耀)首相の主導の下、 次々と路線網が延伸されていき、1996年2月にウッドランズ駅が新設されると、国境客の移動手段が分散化され、混雑の緩和に大いに役立つこととなる。

筆者は、このイミグレ建物へ向かう 903番路線バス に乗車した(休日は 7分間隔で運行され、1F建てバスと 2F建てバスが併用されていた)。上写真。
ちょうど 10分のドライブ後、バス停「医療中心 Medical Centre」で下車する(1.8 SGD)。下写真右。後方の白色の建物が医療センターと 公共団地群(HDB - Housing Development Board Estate)。

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なお、この Woodlands の地名であるが、1823年にイギリス東インド会社の トマス・スタンフォード・ラッフルズが、 ジョホール王国のスルタンからシンガポール島の土地と 主権を強行買収すると、直後より島内の大規模開発が着手される。 これにあわせて、河川沿いに大量のゴムの木が植樹され、瞬く間にプランテーション農園が広がることとなり、以降、 その農園労働者や 養鶏業従事者らの村落がいくつも点在するようになった、ことに由来するという。

しかし、実際の地形は平坦な沿岸エリアというより、凸凹した緩やかな丘陵地帯となっている。
シンガポール独立後の 1972年、政府により 公共団地群(HDB - Housing Development Board Estate)の大量建設が着手されると、長らくシンガポールの裏庭的なベットタウン地区だったが、 近年は不動産開発も進み、都会の喧騒を離れるシンガポール人や国境移動の多い人に人気のエリアとなっているという
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先ほどのバス停「医療中心」は、 公共住宅群が広がる高台エリアの中心に立地しており、そのまま道なりに坂道を下っていくことになった。 すると、正面に鉄条網が厳重に敷かれた国境エリアがあった(上写真)。 その奥には、シンガポール側のイミグレ建物がそびえ建っていた(上写真の左手)。

その後方に見えるビル群が、ジョホール水道(海峡)を挟んで立つ、マレーシア側の中心地区である。
さらに坂を下りていると、ジョホール・バル との 国境陸路(コーズウェイ・ベイ)を正面に見渡せる緑地帯があった(下写真左)。 マレーシア側から購入している太い水道管が見える。

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下り坂の途中で、上下への分かれ道に出くわす(上写真右)。
上へ行くと、ロイヤル・ダッチ・シェル(シンガポール)社が管理する 石油備蓄施設(Oil Depot)に行き着く。下へ行くと、海峡沿いの 散歩道(西アドミラルティ通り)が続いている。

ちょうどこの三差路で、ランニング中の男性に「マーシリング・トンネル(Marsiling Tunnels)はどこですか?」と質問すると、「地下道のこと?知らないな。。。」と言われる。
すると、三差路脇の草藪の中に小道があったので、もしかしたら、この中かも??と思い、足を踏み入れてみた。
何やらホームレスか、地元民かが一時的に休憩するスペースとして草木が刈られていたが、 それらしい遺跡は発見できなかった。と、足元に不規則にコンクリートの突起物が露出しており(下写真左)、もしかしたら、 これが往時の 戦跡遺跡(海軍用の石油貯蔵庫施設)の一部かもしれないと妄想してみた

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坂道を下り切り(上写真右)、 海峡沿いの西アドミラルティ通りをひたすら海軍基地の貯蔵庫遺跡を探しながら歩き続ける。

出会う人たちに、「地下道はどこですか?」と質問するも、皆、知らないらしい。 一人の老人が「地下道ね?今は全部、埋まってしまっているよ」と答えてくれた。「公務員が一部、ツアーをやっているけど、今は全部、埋まってしまった」、とのことだった。

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下写真は、海峡沿いの 西アドミラルティ通り(Admirality Road West)から、国境陸路(コーズウェイ・ベイ。1924年開通)を眺めたもの。 海にはゴムボートも浮かんでおり、国境警察が定期的に出航しては陸橋を監視していた。

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下写真は、ジョホール海峡の東側。
対岸中央に見える白亜の建物は、マレーシアの ベルジャヤ・ウォーターフロント・ホテル(Berjaya Waterfront Hotel)。ちょうど、The Zon Duty Free Ferry Terminal に隣接し、ここのフェリー・ターミナルから セバナ・コーブ・リゾートや インドネシア・バタン島北部のセクパング港への船が運行されている。

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そのまま海峡沿いを前進していると、時折、 意味不明なコンクリート片を目にした(下写真左)。かつての基地遺構だろうか。

また、中国川(Sungai China)の近くまで来ると、鉄筋コンクリート造りの小屋が一軒、木々に埋もれていた(下写真右)。 すぐ上の高台に立地する、ロイヤル・ダッチ・シェル(シンガポール)社の石油備蓄施設が使用した 波止場(Woodlands Jetty / Shell Jetty)が、かつてこの付近にあり、その名残りの建物かと推察される(下コラム内の 1968 年地図を参照)。

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この両者の間に、草むらの中に入れる小道があった。少し入り込んでみると、 けもの道 が一直線に続いていた(下写真)。地図からすると、ここが地下貯蔵庫遺跡の入口につながる通路かと思われる。 しかし、一人だと心細くなるような地形で、途中で断念する。

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ここまでの移動ルートは、だいたい以下の通りである。

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沿岸沿いの道路からでも、 高台の斜面上に石油タンクが複数設置されているのが見えたが、上地図の航空写真だとより鮮明に目視できる。

下写真は他日、ジョホール・バル からシンガポールへ戻った際、バスの車窓から 石油備蓄基地を見たもの。
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ちなみに、下写真は対岸の ジョホール・バル特別市 ストュラン・ロー地区 を訪問した際、ジョホール水道(海峡)一帯を眺めたもの。

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上写真は西方向、下写真は東方向を眺めたもの。かつては、沿岸全体が海軍基地であったが、 現在は東側のみ、シンガポール海軍基地と工場地帯が残る。

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さて、戦前に英国がシンガポールを統治し極東艦隊の拠点としていた時代、ここに大規模な海軍基地が開設されており、これに伴い、 政商財閥であり石油メジャーの Asiatic Petroleum Company(現ロイヤル・ダッチ・シェル)が巨大な石油備蓄基地を併設し、 共存共栄の関係にあったのだった。 その最大貯蔵量は、日本ゼロ式戦闘機 4000 機分もの量をストックできたとされる。



 マーシリング地下道(Marsiling Tunnels)

戦前の英国統治時代、上に言及した航空写真の「けもの道」と記した緑地帯すべてを網羅する規模で、 巨大な石油備蓄基地が設置されていた。

現在ある ロイヤル・ダッチ・シェル(シンガポール)社 ― 当時の社名は Asiatic Petroleum Company(アジアティック石油会社) ― の石油タンクがある高台はもちろんのこと、海峡沿いの低地部分にも備蓄施設関連のインフラが整備されていたと推察される。 日本との戦争が現実味を帯びる中で、 アジアティック石油会社は英国軍と協力し、その備蓄基地施設の地下に、 巨大な貯蔵庫を整備したと考えられる。これが、マーシリング地下施設(Marsiling Tunnels)である。

その事実を示す古地図が現存する。下地図は 1942年当時のもので、Woodlands から東の海軍基地と海峡沿いの船着き場に続く 2本の鉄道線路が付設されていたことが分かる(上辺の赤丸部分)。

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なお、 同年 1月31日にマレー半島から撤収した英国軍はシンガポール島北岸に即席の防衛陣地網を構築し、 日本軍に対抗することとなる。その際、英軍の手により地上の石油備蓄タンクから、 戦略物資である原油が マーシリング地下施設(Marsiling Tunnels)へ移設されたと推察される。

しかし、同日に対岸の ジョホール・バル市街地を占領した 日本軍(先方隊)は、 他の部隊の到着を待ってシンガポール島への上陸作戦を練ることとなる。

2月4日朝より制海権、制空権を抑えた日本軍による海峡沿岸への大規模な爆撃、 砲撃がスタートすると、英国軍も戦闘機を出撃させて応戦するも都度、撃墜され、いよいよ沿岸防衛網は寸断されていく。
この過程で、海峡沿いの石油備蓄施設も被弾し、大規模な爆発を起こして海峡に原油が流出したという。 このとき、海峡の防衛ラインを守備したのは英国連合軍のうち、オーストラリア部隊であった(下写真は、ジョホールバル市街地へ向けて砲撃する オーストラリア兵)。

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こうした砲撃戦の中、英国軍により破壊された国境陸橋 コーズウェイ・ベイの修理を終えた日本軍は、
いよいよ 2月8日夜より大規模な上陸作戦を Woodlands 西のクランジ地区より決行する(下地図)。

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下写真は、翌 2月9日に コーズウェイ・ベイを渡る日本軍部隊。

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ここから一週間、シンガポール島内の各防衛ラインを突破し進軍する日本軍の前に、 英国軍はついに力負けし、15日午後、降伏する。
ちなみに下地図は、1898年当時の ジョホール水道(海峡)。

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この時代、まだ鉄道線路は整備されておらず、 海峡側の海軍基地も建設されていなかった。海峡沿いはマングローブの樹が広がる湿地帯であった。
ここに国境陸橋である コーズウェイ・ベイが開通されるのが、1924年である(下写真)。

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それ以前は、船着き場から船で海峡を往来していた(下写真)。
船着き場の裏手に鉄道駅が建設されており、船で国境間を移動する人々の交通インフラとなっていたという。 バス運行の無かった当時、この鉄道を使って、シンガポール各地へ人々は移動していたのだった。

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なお、この海峡には最近まで波止場が複数、設けられており、 その様子は下の 古地図(1968年)からも読みとれる。
また、中国川の東部に広がる、現在のフォーターフロント公園一帯は当時、マレーシア連邦の海軍基地があった。

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そして、このフォーターフロント公園と コーズウェイ・ベイとの間に、 2本の船着き場が設けられていたことが読み取れる。上地図で Old Ruthenia Oiling Jetty と Woodlands Jetty と記されたもので、 両者ともに戦前から戦後にかけて アジアティック石油会社(現ロイヤル・ダッチ・シェル社)が使用していたことに由来する名称となっている。

そのうちの一つ Woodlands Jetty は戦後の一時期、APC (Shell) Jetty へ改称されていた。
ここは、戦前から アジアティック石油会社(現ロイヤル・ダッチ・シェル社)社が管理する 石油備蓄基地(Woodlands Shell Depot、旧 Woodlands North Depot)に直結されていたが、戦後数年のうちに使用されなくなり、そのまま現在の場所に 2008年まで放置されていたという。一帯の土地管理権は、現在も同社が保持しているものの、 船着き場施設自体は撤去されてしまっている。
下地図は、海峡沿いに掲示された散歩道の地図だが、ここには未だ 桟橋(Shell Jetty)の名が載っていた。実際には、この場所にはもう桟橋はない。

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また、上地図の右端に広がる緑地帯はウォーターフロント公園で、ここの名物桟橋となっている Refurbished Jetty(全面改修された突提、の意)であるが、一時代前にはマレーシア海軍が使用した船着き場で、 さらに戦前期は Ruthenia Oiling Jetty と通称されていた。
これは、燃料補給用の備え付けの 石油運搬船「RFA RUTHENIA 号」がこの場所に常時停泊していたために命名されており、 隣に来て停泊する英国海軍の艦船に都度、燃料を補給するのが使命であった。

そもそも、アジアティック石油会社とは、ロンドンで 1903年6月29日に設立された会社で、 Royal Dutch Petroleum Company(オランダ、60%)と Shell Transportand Trading Company Limited(イギリス、40%)との合弁会社として結成されていた。 帝国主義の全盛期、政商的な役割を担って英国海軍と共存関係にあった同社は、ここに巨大な石油備蓄基地を設け、英国海軍に石油を供給していたのだった。
なお、後に英蘭の両親会社自体も合併し、RoyalDutch Shell Group となり(1907年4月)、今日でも国際石油資本として君臨し続けている。

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さて、このウッドランズの台地に建造された 地下施設(マーシリング地下道)であるが、 他国でも見られる天井部分の角を斜めに削る建築スタイルから(下写真)、地下石油備蓄施設であったという指摘が大勢を占める。 しかし、その全容は明らかになっておらず、さまざまな憶測だけが飛び交うこととなった。

例えば、ジョホール水道を地下で結ぶ施設だったとか、 View Road Hospitalという、かつての 精神病院(今は、医療センターの従業員寮になっている)との間を地下で直結したものだとか、 多様な意見が出されているという。

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ただ、上で見てきた古地図の変遷や、 周囲の地名などから勘案しても、この海峡沿いの地下には、石油備蓄基地が臨時で建造されたと考えるのが妥当であろう。
第二次大戦中、英国軍はウッドランズ地区に大規模な軍事防衛ラインを構築しており、 その一環で地下の軍事基地が設けられた、ということもあり得るが、真上に石油タンクが並ぶロケーションとあり、 重要な戦略物資を戦火から守るべく、その石油を地下倉庫へ移動させた、というわけである。

しかし、2月4~8日に及ぶ日本軍の執拗な砲撃で、国境の防衛陣地網は崩壊し、 その過程で石油基地にも引火されて大規模爆発と 原油流出事故を発生させてしまうのだった。
撤退する英国軍が地下施設を日本軍に転用されるのを防ぐために、重要部分を破壊し、 さらに施設への出入口をレンガや土で封鎖してしまう。そのまま誰からも忘れ去られることとなり、戦後も使用されないまま、今日まで放置されてきたのだった。
大戦終了後、戦前からあった海軍基地や鉄道網、船着き場は、 そのまま英国海軍、後にマレーシア連邦海軍や シンガポール海軍(1997年に撤収)によって利用される。 また、周囲では工場や倉庫群の開発が進む中で、巨大地下施設はそのまま地中に埋もれたままとなる。

大戦時から空白の月日がかなり過ぎており、この地下施設の全容を知る人物や資料が残存しない中、 国による調査も全く進んでいないため、その規模や 歴史背景は全く謎のままとなっている。その入口も、つい数年前にたまたま発見されたばかりという。 シンガポールの貴重な観光資源として、その再利用が期待される戦跡と言えよう


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そして、中国川(Sungai China、もしくは Sungei Cine)の河口部に至る。上写真。

ここは、今回の訪問目的地のもう一つのポイントで、 ジョホール水道沿いに開拓された ゴム・プランテーションと労働者たちの集落が形成された河川群の一つと考えられる。往時には、各河川ごとに土地と流通経済を牛耳る中国人の秘密結社が跋扈し、 上納金をジョホール国王に献上して、各縄張りの保護と追認を得ていたのだった(港主制度)。 その名残がこの河川名に現れている、と筆者は見ている。
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現在、中国川沿いは緑地公園となっており、 その傍らにはなんと、「サルに餌やり禁止」の看板が(上写真左)。本当に猿がいるのだろうか???
隣接する ウッドランズ・ウォーターフロント公園 でトイレを使う(上写真右)。筆者の訪問は日曜日の昼前だったが、ほぼ無人状態だった。

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公園内のトイレ前のアスファルト通路を海峡沿いまで移動してみると、 上写真に見えていた 桟橋(Refurbished Jetty)につながっていた(下写真左)。 かつて海軍基地があった跡地が公園化され、その給油用の桟橋が市民に開放されている。。。 時代の変化をしみじみと感じていると、ここでも「サルに餌やり禁止」の看板が目に飛び込んできた。。。

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そのまま公園を後にし、南に隣接するアドミラルティ公園に入ってみたが、 ここまで歩いて相当に汗をかいていたので、公園内にあった 中国川(Sungai China)の上流を散策することなく(下地図)、帰路に就くことにした。

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アドミラルティ通りを西進していると、バス停「Admiralty Rd - Aft W'Lands Waterfront Park」が目に入った(上写真右)。856番路線バスだけが運行されているようだった。
なお、このバス停はかつて Barrack と通称されており、その昔、ここに海軍兵舎が建ち並んでいた名残りとなっている。
そのままアドミラルティ通りを進んでいると、いくつか側溝を通過したが、 いずれも南から北に水が流れており、シンガポール中心地区とは真逆になっているのが印象的だった。

さて、マーシリング・レーンに至ると南進し、バス停「Marsiling(馬西嶺)」にたどり着けた。 ちょうど、往時に下車した バス停「医療中心」の一つ手前のバス停に相当する。
なお、この Marsiling(馬西嶺)の地名であるが、中国語を翻訳すると「マレーの丘」となり、 かつてプランテーション労働者でマレー人が多く居住した地区だったのか、 もしくは、ジョホール水道を経てマレーシア側を見渡す高台となっていたことに由来する、と推察される。


 ウッドランズ地区にあるヒンドゥー寺院「Shri Arasakesari Sivan Temple
本寺院はもともと Woodlands Road 沿いに立地しており、1930年代にスリランカ出身の事業家 V. Kathirasoo が寄付した土地の一部に建立され、80年以上もの間、同じ場所にあったが、近年の土地開発を受け、 ウッドランズ西部(25 Sungei Kadut Avenue)へ移転されている。
設立当初より、ヒンドゥー教徒たちの互助組織を兼ねる宗教施設であり、 英国植民地時代、世界中から労働者らが集められて プランテーション農園に従事させられた名残りと言える。


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ちなみに、この バス停「Marsiling(馬西嶺)」前には、 工場「OKAMOTO」があった(上写真左)。どうやら、日系の 工作機械メーカー「岡本工作機械製作所」の シンガポール工場らしい。

待つこと 5分ほどで、903路線バスが到着した。今回は 2F建てバスだった(上写真右)。帰路の運賃は 1.5 SGDだった。 10分のドライブで地下鉄ウッドランズ駅に到着し、市中心部まで電車で戻ったが、その運賃は 2.5 SGDだった(約 50分)。
電車、バスともに、往復時の値段が微妙に異なっていたのが気になるが、釣銭、差額なしで気持ちよく支払えた旅だった

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この日午後、すぐにホテルで荷物を回収し、チャンギ空港に向かった。
飛行機では窓側だった。機上から ジョホール水道(海峡)に浮かぶ、ウビン島を見渡せた。

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空港の北隣にある チャンギ・ヴィレッジ内にある船着き場から、 ウビン島行きの船に 乗船(10分、3 SGD)して訪問する、シンガポール市民たちの自然公園となっているらしい。


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