BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~

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訪問日:2018年11月上旬
海賊王・蔡牽 の栄枯盛衰から見る、中国大海賊時代!






台湾 澎湖県 ⑥ ~ 県内人口 11万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾全体)


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  馬公バスターミナルから、媽宮北環線「台湾好行」バス周遊旅行 スタート(350 TWD)
  中屯島 と 風車公園
  白沙島 と 三十人公廟(1622年、オランダ人による 漢人虐殺慰霊碑)
  通樑古榕樹(ガジュマルの木) ~ 最強の防風林 と 保安宮
  澎湖跨海大橋を渡って 西嶼島へ ~ トーチカがその海峡を 見据えていた
  池東大菓葉玄武岩の 見事な岩壁 と オープンな観覧スペースに感謝!
  西嶼島の最南端に立地する 魚翁島灯台(1778年~)
  【豆知識】西嶼灯台(漁魚島灯台) と 船難義祠 ■■■
  餌砲遺跡 と 最西端の町「外垵村」
  西嶼西砲台陣地(西台古塁)遺跡(1885年建造)
  東台砲台陣地 と 漁村「内垵村」
  観光地化された 二崁伝統集落 ~ 見応えは 二興宮横の二興壁 と 前面の海!
  台湾初の世界遺産登録が 期待される「鯨魚洞」、その圧巻の荒波 と 岩壁美
  防風と暴波浪が日夜襲う 小門村に見た 生活の知恵 ~ 菜宅(畑の石垣)と 石敢當(魔除け)




8:10 に投宿先の 百慶旅店ホテル(馬公市三民路 16号)を出発し、ホテル前の道路を 上り(三民路)、民生路と名前の変わった道路を直進し続けると、5分ほどで 馬公バスターミナル に到着できた。1階テナントにファミリ―マートが入居しており、大繁盛だった。

この馬公バスターミナルは、澎湖諸島全体の路線バスの中央発着所となっており、澎湖諸島内のすべての路線が網羅されていた。

バスターミナル窓口で北環線のバス周遊ツアーを申し込みたいと伝えると、 8:30 に運行バスが来るので、車内でドライバーに直接、支払うように言われた。

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本来ならネットで事前予約と座席指定が必要で、特に夏季は旅行客も多いだろうし、オンライン手続が必須だろう。
http://phshuttlebus.penghu.gov.tw/ja/home/#ticket-modal-7570

座席指定ページ
http://huttlebus.penghu.gov.tw/Reserve/Index




8:28、時間通りにバスが到着。下写真左。
観光バス並みに巨体かと思えば、なんと マイクロバス(16名乗りぐらい)だった。黄色い車体で「台湾好行」のロゴが異様に目立っていた(下写真左)。

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今回の乗客は、一人参加の筆者を含めて 9名で、他の乗客は皆、ペアだった。ドライバーに 350 TWD 支払ってチケットをもらう(上写真右)。

バスは馬公市街地の 4か所を巡った後、馬公空港まで移動する。
車内アナウンスは 北京語、日本語、英語の順で、すべての停車地、観光地の通過ポイントごとに案内放送が流されていた。
午前 9:00過ぎに馬公空港に到着する。ドライバーに申し出て、急いでトイレのため降車した。

空港出発後、そのまま市道 13号線を北上し空港を反時計回りに越えて国道 203号に入ると、すぐに北の 離島「中屯」への海峡橋を通過する。島内には風車が 8機ほど立ち並び、一機あたり 600キロワットを発電しているという案内アナウンスが車内に流された。台湾全体でも第三の規模を誇る風力発電所という。
土曜日早朝だというのに、自家用車でわざわざ風車観海公園の散策に来ている現地の人たちが何組もいた。

さらに 北に隣接する白沙島に上陸すると、バスは国道 203号をはずれ、海岸線沿いに瓦硐村を進む。
ちょうど、海岸線と反対側に三十人公廟があった(下写真。後寮村と 瓦硐村の中間地点)。

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1622年にオランダ軍が澎湖諸島へ再上陸を果たし本格的な実効支配を強行すると、これに反発する虎井島の住民ら 36人の有志が集結して小舟でオランダ方に攻撃を加える。

しかし、全員が捕縛され、見せしめとして断頭処刑されると、遺体はそのまま海中に投棄される。当時、南風の季節で 36名の頭部が海流に乗って後寮海岸にまで流れ着き、白沙島の住民らにより手厚く供養されたという
。このとき、東墓 6名、西墓 30名と分かれて埋葬され、後世に至り「南埔廟」として合祀される。
この南埔廟内に安置された木製の 札(対聯)に、「三軍用命殉邦国」と「十世尊神建廟堂」との文言が左右に記されており、その頭文字「三」「十」をとって「三十人公廟」と通称されるようになったという。
犠牲となった村の有志らの人数ではないことに注意したい。

これほどの由緒ある場所だったので、バスを下車したかったが、マイナーな当地の由来について知る外来の 観光客ら(皆、台湾本島人)がいるはずもなく、そのまま通り過ぎざるを得なかった(上写真はバス車内から撮影したもの)。

そして、白沙島の西端にある 通樑古榕樹(ガジュマルの木)で、20分の下車休憩が与えられる。最初のトイレ休憩だった。

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別の植物や岩などに巻きつきながら成長する「絞め殺しの木」ガジュマルらしく、天井の柵伝いにどんどん枝葉を拡大しているようだった。
目下、自動車道路上にまで屋根をつけて、最終的にガジュマルの枝で道路全体を覆ってしまおう、という地元の野心が見え見えの構図だった。すでに一部の天井が枝葉で覆われつつある道路を、路線バスや自家用車が通過していた(上写真左)。

もともとは明代から生息し、現在の老木も樹齢 100年を超えるという(澎湖諸島 最古)。年中、激しい海風が吹きつける澎湖諸島にあって貴重な防風林として機能し、奥に鎮座する通樑保安宮を 100年以上も保護する神木として地元民によって大切に守られてきたという(上写真右)。
なお、この保安宮自体も明末清初に建立され、1796年に当地へ移築されたもの。地元の守り神として手厚い信仰を受けていた。

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通樑古榕樹のすぐ前面には海が広がっていた(上写真の左端)。
現在は護岸整備されているが、往時は海辺のすぐ近くに保安宮やガジュマルが立地していたことになる。
なお、ここの海水はとてもきれいで透き通っていた。水深 3~4 mぐらいまで普通に見通せた。

ちなみに、この白沙島の東端に鎮海村があり、1624年にオランダ軍を駆逐すべく、明朝の水軍部隊が最初に上陸して前線基地を構築したスポットでもある。明軍は澎湖諸島の本島攻撃前に、まず北の島嶼部に橋頭保を確保したのだった
うっすむらと彼方に、馬公市の旧市街地 の遠景が見えたのが印象的だった。

ここから全長 2,494 m の澎湖跨海大橋を渡って、西嶼島へ移動する(下写真左)。

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澎湖跨海大橋(1996年完成)の西側には、旧海峡橋(1965年完成。当時、一車線道路のみ)の橋げたがポツンポツンと残されており、最初はなんの建造物か全く想像がつかなった(上写真右)。
海水と暴風で傷んだ旧大橋を撤去する際、海鳥の巣が見つかったということで、橋げたのみ、そのまま残された結果という。

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白沙島側の 橋入り口(北岸)は、通樑古榕樹の観光地区と隣接し、土産物屋や民家が多く立ち並び、橋観光の名所の名残を大いに醸し出していたが、その対岸の 西嶼島側(南岸)は全く商店もなく、無人のドライブスルーとして、だだっ広い駐車場と 休憩スペース(遊客服務中心)だけが設けられていた。

実際、筆者が澎湖跨海大橋の写真撮影でバスを降ろされたのも西嶼島側で、ここにはトイレや自販機はあるものの、民家やショップは全く存在していなかった。
唯一、見応えがあったのは、軍のトーチカ遺構だった(上写真右。大橋南岸の西側付け根)。内部はゴミ箱に変わり果てていたが。。。

バスはそのまま西嶼島内をぶっ飛ばす。途中、竹湾地区にある玄武岩の 壁面「池東大菓葉玄武岩」を訪問した(20分停車)。下写真。

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見事な岩壁の真下まで行き、手で触れられる輪場感がすごい。
変に「接近禁止」みたいな気をまわしていない分、その高さ約 20 m の迫力を間近に体感できて、実に良かった。台湾の観光地は立ち入り禁止が極力ないので、本物をそのまま実体感できるメリットがある。

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下写真右の壁面では、石積みが湾曲しており、地質の圧力があったのかなと妄想してみた。
ここは日本軍が軍港建設の際、石材調達で掘削しているときに、小道脇の石材から芋づる式に発見された石壁という。

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再び、バスに乗車すると、そのまま西嶼島の最南端にある 魚翁島灯台 を目指して直進した。
朝 10:30には最南端に到着できた。ここでも 20分の自由時間が与えられる。

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この島は、明代までは「西瀛」と呼称されてきたが、明末の 1622年にオランダ人らが 澎湖諸島一帯を実効支配した際、「漁師の島」と命名したことから、以後、漁翁島と通称されるようになったという。清代に西嶼島の名称が確定されて今日に至っている。

そんなオランダ時代の地名に由来する「魚翁島灯台」であるが、入り口前に軍関連施設があり、写真撮影禁止の看板が大きく掲げられていた。
海風が激しいのだろう、その施設の鉄製部位の各所も錆が激しかった。

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上写真は、灯台奥から入り口、軍関連施設などを見渡したもの。

灯台設置自体は清代の 1778年といい、現在のように西洋式に代わったのは、1875年という。

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灯台中庭には濃霧を晴らす目的という大砲が 3座あった(上写真左)。

また、トイレ前には貯水庫も(上写真右)。
地盤が 100%岩盤でできていたので、表面をえぐって水を貯めていたようだ。こんな岬部分の先端では井戸も掘れまい。。。

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灯台の真下には全面に海だけが広がる。強風と荒波が吹き付ける海峡は、かつて危険な航路だったに違いない。



 西嶼灯台(漁魚島灯台)

澎湖諸島の海域は、東アジア航路で必ず通過しなければならないロケーションにあるものの、その海流は激しく、古代より度々、船舶の事故が起きていた。
清代の 1665~1892年の間に記録されたものだけでも 99件の沈没事故が確認されており、さらに事件化されなかった事例も加えると、その数は膨大となると推定される。

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このため 1777年、台湾府長官の 蒋元櫃(1738~1781年。江蘇省蘇州市常熟市 出身。 1759年に科挙合格後、福建省下の 仙遊県、恵安県、崇安県、建陽県、晋江県 などの長官職を 務め、廈門同知を経て、台湾府長官として赴任していた)と、 澎湖通判(澎湖諸島の行政官トップ)の 謝維琪らが寄付を募り、 翌1778年、西嶼島の南端に七階建ての石塔「船難義祠」と、 その前に 天后宮(現存せず)を建立する(上絵図)。この両者を総称して、西嶼塔院と通称されるようになる。現存する石製の貯水池は、当時の名残りという。

そして、付近を往来する船の道しるべとして機能するべく、毎晩、その祠内に長明灯を灯させたという。これが当地の灯台の発祥とされ、清末の 1875年8月、英国人技師 David M. Henderson の設計によって、西洋式の灯台へと建て替えられることとなるのだった。




ここから車で 1分ほど離れた場所に、餌砲遺跡 があった。
中国語の文字が意味をそのまま代弁してくれており、よく練られた名称だと思う。餌魚、餌食、餌薬などの熟語の発想なのだろう。

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第二次大戦中、日本軍の海軍基地が設けられていた澎湖諸島は、米軍の散発的な空爆にさらされていた
その攻撃目標の「エサ」として、目立つ高台上にこの餌砲が設置されたという。現在、周囲の土盛りが高くなり埋没している印象だが、往時はかなり目立つように配置されていたことだろう。

周囲には、きれいに整備された往時の塹壕跡も確認できた。あまりに白いコンクリート敷すぎて用水路にしか見えなかったが。。。
見学時間も5分程度だった。

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ちなみに、上写真後方に見える台地の先っぽに、次の訪問予定地である西嶼西砲台陣地が立地する。

この真下には外垵村の集落地があり、立派な漁港が整備されていた。遠目で上から見る限りでは、真っ青な海に映える地中海沿いの欧州の街並みにも見えなくもない。
こういう離島の集落地ごとに国民小学校は必ず配置されているが、中学校、高校はより数が減らされ、西嶼島内では池東村にしか無いそうだ。生徒たちは皆、バス通学という。

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上写真の後方の台地上に、餌砲遺跡があった(右端に観覧台が見える)。
下写真は、西嶼西砲台陣地より餌砲が立地した台地とその下の外垵村を眺めたもの。

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バスは続いて、西嶼西砲台陣地(西台古塁)遺跡へ移動する。滞在時間は 30分という。
ここだけは入場料金がかかり、30 TWD だった(週末料金。平日料金は 25 TWD)。

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1885年3月末の清仏戦争時、いとも簡単に澎湖諸島を占領された清朝は、その反省から列島各所に砲台陣地を建造する(同時に、媽宮城 も築城される)。その一環で、当地最大基地として建設されたのが、この西嶼西砲台陣地という。
現在の陣地遺跡は、戦後に国民党軍により増強された後のもので、どちらかというと台湾軍の軍事施設遺跡を見せられている印象だった。

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兵舎や倉庫群の遺構が生々しく残されていた。すべて完全オープンで、どこでも探索できるようになっていた。

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この西砲台と 東台砲台陣地 の間には、漁港集落地の内垵村があった(下写真)。

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上写真の右手の岬上に 東砲台陣地(東台古塁)遺跡があるのだが、どの乗客も興味がないのだろう、誰も声をあげず、内垵村がスルーされていく(下写真。もちろん、周遊バスの訪問予定地にも入ってないんだが。。)あのポイントに気づいているのは筆者だけだろうな。。。

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そして、続いて 二崁伝統聚落(Erkan 歴史村)へ連れていかれる(下写真)。
ここで、なぜか 45分もの自由時間を与えられる。近年、政府肝いりで 修繕・復元され、完全に観光客向けにアレンジされた古民家集落で、あまり面白みを見いだせなかった。

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強いていえば、二興宮とその廟口広場の外側に村人が共同して建造したという 防風壁(二興壁)の存在ぐらいか。下写真。

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当地では相当に時間が余ってしまったので、余力に任せて海沿いまで歩いてみた(下写真左)。
ここからは真っ青な海が一望でき、その対岸には 馬公市の旧市街地 が見渡せた。当地で一番、満足した瞬間となってしまった。。。。

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海沿いの集落端は放置されたままの廃墟がいくつかあった(上写真右)。

それにしても、あまりに時間が余ってしまい、苦しいだけの訪問地だった。ちょうど昼時になっており(11:30~12:15)、一部のバス乗客は集落内の食堂でランチしている人もいた。とりあえず、観光客目当てのショップや 土産物屋などに改造された古民家が、筆者にはむなしく映ってしまった。
下写真右は、集落内で見つけた 魔除け神「石敢當」。

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ようやくバスは出発し、最後の 訪問地(鯨魚洞、小門地質館)を訪問する。台湾で初の世界遺産登録が期待されるポイントという。
登録されてしまえば、地元集落(小門村)は大規模開発され、こんなノスタルジーあふれる庶民の町は消滅してしまうかもしれない。
また、博物館や海岸エリアにも入場料がかかってくるだろう。
今のままの寂れた漁村と、古い展示館、無料の海岸見学ルートがあるだけで、十分なのに。

ここではランチも含め、1時間が与えられた(12:20~13:20)。

さすがに筆者も空腹だったので、先に地元料理店を目指した。といっても、開店しているのは向かって立地する二店舗だけで、一つ(阿挺的店)は大繁盛、もう一つ(小管先生)は閑散としており、滞在時間が 60分しかない筆者は閑散としている、どうみても衛生的に安全か不安になる 店(小管先生)の方に入った。飯や揚げ物はなく、ただ麺料理しかないという。どうやらコックを兼ねる奥さんが外出しているため、旦那さんと従業員らが麺だけ出しているらしかった。
飲み物で CCレモンも追加し、120 TWDだった。
まあ、おいしく食べられたと思う。スープとタレが別に出てきた。都度、スプーンでタレをすくって、箸で取り出した麺につけて食べるスタイルで、日本の「そうめん」のようだった。

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食事後、早速、小門地質館に入ってみる。この館内は日本の昭和時代の地方にあった地元博物館みたいな古さで、何か懐かしい雰囲気に包まれていた。基本的には絵と解説文だけのパネル展示で、デジタル展示は一切なかった。入場無料だった。
ここから上へあがり、いよいよ鯨魚洞を目指す。波打ち際は、外海からの荒波が次々と岸壁に打ち付けられていた。こんな海に落ちたら、おおかた助からないと確信できる大波である。

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何やら殺人事件ものドラマで見たことがあるような風景の中、舗装道路沿いを進む。常に、波の水しぶきを浴びながらの行軍となった。

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ここで、台湾の観光地のオープンさに感動する。なんと、鯨魚洞の上に自由に登れるのだ!!
その表面は玄武岩の岩だらけなのだが、なにやら火星に降り立った感覚にとらわれる(下写真)。まさに岩と海だけの世界が広がていた。緑なんという自然はここには何一つ存在しえない。

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と、あまり感動に浸っていられないので、集合場所のバスを目指し、そそくさと帰路につく。
岩肌には波で削られた、生々しい傷跡が印象的だった(下写真左)。

なお、この集落地に入る直前の岩壁も(下写真右)、かつては鯨魚洞のように空洞になっていたが、それが崩落して今の道路になっているという。

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この 集落地(小門村)の後方には、風よけ用の石垣を設けて開墾した 畑(菜宅)や、一階建ての古民家群が現役で使用されていた。ちょうど鯨魚洞から地質館へ戻る道中に見える風景なのだが(下写真)、毎日、こんなに突風が吹きつける僻地にも、わずかな窪地部分に集落を形成しようとした、先代の移民たちの苦労を思うと、身震いするものがある。
集落内には 石の魔除け神を祀った「石敢當」も複数、点在していた。

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ここからバスは 1時間ぶっ飛ばして、馬公市街地 まで戻ってきた。
予定よりも 1時間も早い 14:15に旧市街地到着、解散となる。途中、寝過ごした筆者は シェラトンホテルあたりで下車して、そのまま徒歩でホテルまで戻った。


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