BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~

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訪問日:2018年11月上旬
海賊王・蔡牽 の栄枯盛衰から見る、中国大海賊時代!






台湾 澎湖県 ⑤ ~ 県内人口 11万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾全体)


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  媽宮城(澎湖城)の 東面城壁跡 ~ 三民路 と 民福路
  媽宮城の 守り神「城隍廟」と 古城地区 メインストリート「中正路」、朝食路地「文康商圏」
  媽宮城の北面城壁 と 北城門跡 ~ 民生路 と 馬公バスターミナル
  清仏戦争直後に当地で死去した フランス極東艦隊司令官クールベ 慰霊碑
  観音亭親水公園 と 境内に安置される 澎湖庁総鎮衛署の石獅子
  媽宮城の 西面城壁 ~ 介台路
  媽宮城で唯一現存する 城門「順承門」
  西面城壁上に登ってみる ~ 確かにそこに残る騎馬道 と 木造古民家群
  【豆知識】媽宮城の 歴史 ■■■
  初代総統・蒋介石が 常套した「毋忘在莒」のスローガン と 旧日本軍の兵舎跡地
  清末に建造された 金亀頭砲台陣地遺跡
  媽宮半島先端部から 対岸の風櫃尾(蛇頭山)と 馬公湾を一望する
  【豆知識】旧市街地に残る 天后宮(媽祖廟)と その深淵なる歴史 ■■■
  馬公市街地での おもしろ発見 と 物価のお得さ!




澎湖諸島の滞在 3泊は、旧市街地内に立地する 百慶旅店ホテル(馬公市三民路 16号)に投宿した。

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ホテル前の三民路は坂道となっており(下写真左)、この先のセブンイレブンの交差点へ向けて丘陵地帯の斜面を形成していた。ちょうど、ここに東面城壁が連なっていたわけである。上地図。

このまま東面城壁は民福路沿いに海へと下っていく(下写真右)。

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そのまま下りながら、古城の東面沿いを少し歩き、光明路沿いにある 城隍廟(上地図。1779年創建。現廟は 1933年に再建されたもの)を訪問する。下写真左。

さらに、光明路を西進すると、次の交差点で中正路に至る。すぐ脇にマクドナルドがあった。いつもながら立地重視のビジネスを展開する同店らしく、古城地区のメインストリート中央にでんっと出店していた(下写真右)。

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最大繁華街エリアの中正路を北上して民生路に出る。かつて北面城壁が連なっていた通りだ(上写真右は民生路側から 中正路を見たもの。このまま直進すると、海岸へ至る)。

民生路のやや東側に文康商圏の交差点がある(下写真)。旧市街地の地元民らの朝食ポイントという。南北の路地を散策してみたが、料理屋は南側にわずかに残るだけで、あとは シャッター街、織物屋、50年以上前の開業と思わしき映画館など、寂しいながらも、ノスタルジー溢れる空間となっていた。

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再び、民生路を西進すると、馬公バスターミナル(下写真右端にある ファミリーマートが入居する建物)に到着する。

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この バス発着所(1961年開業)の敷地に、かつて 北門(拱辰門)が 1939年まで立地していた(下写真は 日本統治時代の北門。内側から撮影)。

そして、城門外には墓地が点在していたという。清仏戦争時にこの澎湖諸島で死去した フランス極東艦隊司令官クールベとその副官 2名の慰霊碑もこの 墓地山(当時、火焼坪や鬼仔山 と通称されていた)に設けられていたのだった。上写真内の左端の花壇に、クールベ提督墓地の紀念碑がある。

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下古地図を見ると、北面城壁の外側には空堀が掘削されていたことが分かる。ちょうど現在の民生路に相当する。

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この民生路はそのまま西の海岸線まで通じており、道沿いにバスターミナルの西隣には 古城壁公園(下写真左)が、その西側に観音亭親水公園が広がる。
観音亭親水公園内にはその名の通り、観音亭があり(下写真右)、境内には清代の澎湖庁総鎮衛署前にあった石獅子が保存されているという。

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下の古写真は、その澎湖庁総鎮衛署と石獅子を撮影したもの。

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さて、いよいよ古城壁巡りをスタートする。
城壁公園内には、高さ 4 m以上はありそうな城壁が連なっていた。凹凸壁もそのまま残る。近代兵器が常識となっていた清末の建造とあって、凹凸壁もよく見られる細切れではなく、火砲が配備しやすい広いスペース幅で配置されていた。下写真。

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このまま西面城壁沿いに外周をめぐってみた(介台路)。
時折、表層がはがれた壁面などは非常に見応えがある。下写真。

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なお、壁の内側は台湾軍の澎湖諸島司令部が入居しており、城壁途中にある軍関係者の通用門が、かつての大西門跡というわけだが(下古地図)、写真撮影できなかった。

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なお、上古地図の左上に「観音亭」が描かれており、当時から古城地区北西の海岸部に立地していたことが分かる。

さらに西側城壁を南下すると、今度は古民家地区に入り込んだ。城壁脇にあった家屋は再建工事中で、ちょうど城壁がばっちり見渡せてよかった(下写真左)。
下写真右は、城壁上から同じ場所を見下ろしたもの。凹凸城壁の内部には小さな石材が詰め込まれていたことが分かる。

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そのまま、城壁沿いを前進すると順承門が忽然と姿を現した(下写真)。城門上にまで登れる。
大陸中国とは違い、城門楼閣部分が立小便用地代わりになっておらず、かなり清潔に保持されていた。

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下写真は、日本統治時代のもの。城門上の城壁は丸みを帯びていたことが分かる。

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そのまま城門楼閣の北側の通路を登ると、西面城壁上に到達できた。下写真

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城壁沿いには、道幅 3 m以上はある騎馬道が連なっていた。下写真。

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下の古写真は、清末のころ。

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往時は城壁内に住居を持てることがステータスでもあったが、現在は住宅地が郊外へどんどん拡張され、城内の古民家は放棄され打ち捨てられていた。古城地区の最南西端にあって、都市開発の波にすら乗れなかった僻地の慣れの果てが眼前に広がっていた。下写真。

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しかし、木造の古民家が荒れるがままに放置されている様は非常に見応えがあり、古城時代の最後の一区画だけが残る、貴重な歴史保存地区を現出していた。間もなく、城壁外で修復中の古民家エリアのようにしらじらしい観光地へ変わり果ててしまうことになるのだろうか。

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上の古写真は、南面城壁と 即敍門(小南門)、迎薰門(南門)の遠景。唯一現存する順承門の、楼閣上から撮影したものと推察される。南面城壁のすぐ外側には船着き場が広がっていたようである。

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 媽宮城(澎湖城)

もともと明代後期、この半島上には媽祖宮が建立され、海の安全を祈願する場所となっていた。周囲には簡単な集落地も形成されていたという。
1604年に台風を避けて澎湖諸島に避難してきたオランダ商船団を保護した際、彼らの投宿先となったのも、媽祖宮の境内であったとされる。

元代から中心集落地として君臨してきた 文澳地区 も、清代に至ると、前面の海岸線が土砂堆積のため船舶の停泊が困難となる。以降、清朝の水軍基地や交易市場が、この半島部の媽祖宮エリアに開設されるようになる。

そんな最中の 1885年、清朝は前年から勃発していた対仏戦争に際し台湾本島 北部(基隆)での戦線寧波沖(鎮海防衛線) の戦いでダメージを与えたにもかかわらず、満身創痍状態のフランス極東艦隊に、いとも簡単に澎湖諸島を占領されるという苦い経験を強いられてしまう。和議成立後の翌 1886年、この戦功から 台湾巡撫に昇格されたばかりの 劉銘伝(1836~1896年)と、閩浙總督の 楊昌濬(1825~1897年。現在の 湖南省婁底市 婁星区出身)が討議し、澎湖諸島を含む、台湾地区の防衛網の強化策が決定される。

澎湖総兵の呉宏洛による陣頭指揮の下、1887年に媽宮城の築城工事が着手され、 2年後の 1889年に完成を見る。以後、澎湖庁の役所が転入され、文字通り、澎湖諸島全体の中枢都市として機能していくこととなった。
当初は媽宮城と通称され、後に 澎湖城、光緒城などとも呼称されるようになる。台湾エリアにおいて最も遅くに建造された城塞となった(ちなみに、台北古城は 1882年着工、1884年完成)。

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新築された媽宮城には 6ヵ所の城門が設けられ、それぞれ 朝陽門(東門)、即敍門(小南門)、迎薰門(南門)、拱辰門(北門)と、今日わずかに現存する 大西門(今の中興門)と 順承門で構成されていた。このわずかに現存する二城門とこれに連なる西面城壁をもって、媽宮城遺跡と指定されている(台湾一級史跡)。

しかし、日清戦争末期の 1895年3月に日本軍が澎湖諸島に上陸してくると、媽宮城は一日と持たずに陥落してしまう。占領後、日本軍はすぐに現地の統治政策に着手すべく、城内に澎湖支庁を開設することとなる。

下写真は 半島先端部(現在の 金亀頭砲台陣地遺跡)から古城地区を眺めたもの。高さ 4 mもの城壁が延々と連なっていたわけである。両者は同時期の 1889年に完成しており、この遠景も相当に壮観だっただろうと推察できる。

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下写真は、観音亭親水公園から見た古城地区。海岸線に向けて、急斜面の岩壁や岩場があり、要所要所に見張り台や兵士らの駐留基地なども設置されていたと思われる。

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1921年、日本政府により媽宮地区が馬公へ改名される。つまり、現在の 地名「馬公市」は日本人によって命名された、ということになる。
1945年に中華民国に返還されると、1950年に馬公鎮へ改編された後、1982年に馬公市が成立する。引き続き、この古城エリアが中枢部として機能していくこととなった。




さて、「最後の秘境」となっていた古城エリア南西端を後にする。
城壁途中に設けられた住民用の通用口から城壁外に出て、再び介台路まで戻り、岬先端部に立地する金亀頭砲台陣地遺跡を目指した。

途中、蒋介石が常套句としたという「毋忘在莒」運動の 四字熟語(春秋戦国時代、斉国は北の燕に領土の大部分を占領され滅亡の危機に瀕するも、最後に残った莒県城に立てこもり、ここから一気に全領土を奪還した逸話を由来としており、大陸反攻の国是の象徴として、繰り返し使用した)を刻印した巨大な石碑と、日本式の古民家が現れる(下写真左)。
蒋介石は 1951年12月末に最前線基地となっていた金門島を訪問後、1952年正月に澎湖諸島にも立ち寄っている。

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この裏手に広がる、古民家群はカフェや芸術文化施設などのおしゃれな若者空間に生まれ変わりつつあり、路地内では結婚式の写真撮影までやっていた。かつての日本軍兵士らの宿舎エリアだったという。上写真左の日本家屋も司令官の官舎ということだ。

さてさて、岬の最先端部に配置された 金亀頭砲台陣地遺跡だが(上写真右)、清仏戦争時にその戦功を認められて台湾巡撫に就任した劉銘伝が直後に整備した防衛強化策の一角を成すもので、1886年正月、澎湖鎮総兵・呉宏洛に命じて 媽宮城の築城などと共に複数の砲台陣地を建造させたときのものである。同時期、当砲台の他に、西嶼東砲台西嶼西砲台、大城北砲台(拱北砲台。 1624年にオランダ城塞が建造された澎湖本島で 最も標高が高い丘 ー 紅毛城跡地 ー に建設)の 4陣地が建造されている。

日本統治時代には日本軍の駐留施設の一部となるも、もはや砲台陣地の機能は失われ、中華民国に接収されて以降は通信基地となり、新たに南側の海岸下にまで通じる地下道が整備されたという。
この地下道は、現在の目玉観光ツアーとなっており、毎日 3回、人数限定の見学会が催行されている(30 TWD)。

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現在残る砲台陣地は 90%以上が国民党軍時代のもので、あまり見応えがなかった(下写真)。
上の施設地図中で、茶色で案内された 4箇所のみが、清代からの遺構という。

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この砲台遺跡訪問の唯一のメリットは、昨日、サイクリングで出向いた 風櫃尾(蛇頭山)の オランダ城塞跡地 との距離を目視できたことぐらいだ。
他に四角嶼と 鶏籠嶼などの小島も一望できる(下写真)。

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下写真は、馬公湾全体の遠景。
1622年にオランダ軍が列島を実行支配した当時、この湾内の 3箇所に城塞拠点を設けていた

また鄭氏政権と 清朝との最後の 決戦時(1683年)、この湾内には 200隻以上の兵船が停泊していたわけである。さぞかし圧巻だったことだろう。

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ちなみに、この砲台陣地遺跡は入場無料だった。これほど隅々まで整備が行き届いていたにも関わらず、信じられない厚遇ぶりだった。

下写真は古城地区の西海岸にある観音亭親水公園から、砲台陣地と対岸の蛇頭山一帯を眺めたもの。

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再び、古城壁沿いに順承門まで戻り、旧市街地に残る 天后宮(媽祖廟)を訪問した(下写真左)。
古城時代の名残が感じられる路地網が張り巡らされたエリアで(下写真右)、中央老街と呼ばれる地区の西端に立地する。

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 天后宮(媽祖廟)

この廟所に祀られる天上聖母は、媽祖や媽祖婆とも呼ばれ、台湾の民間で広く信仰される神仏の一つである。それ故に、祭殿は天后宮や 媽祖廟、媽宮と通称されてきた。

かつて、福建省や広東省から渡河して台湾へ移民した人々は荒れ狂う海峡を突破する危険な航海を経験しており、その海の安全を祈願すべく、古くから媽祖信仰が根付いてきたという。
当地の廟所は明末の建立から 400年以上の歴史を誇り、かつて澎湖県馬公市一帯は その廟所の名前のまま「媽宮」地区と呼ばれてきた。

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一説によると、1281年、元朝が日本への遠征軍を発した 際(弘安の役)、最終的に台風で作戦が失敗し、多くの南宋兵らが犠牲になるも、その一部の兵士や兵船が暴風雨の中、沖縄や台湾、澎湖諸島に流れついたと考えられている。命を取り留めた兵士らはその奇跡に感謝し、海神を信仰するようになり、南洋諸島の各地に天妃を封じて 天妃宮(媽祖宮とも別称された)を建立したとされる。
そして、澎湖諸島にあっては、 元朝が 暗澳地区(現在の文澳エリア)に開設していた 澎湖巡検司 の西側の半島部に、廟所が建設されたと指摘される。この他にも、朝鮮半島から東南アジアのマレーシアに至るまで媽祖信仰が根付いており、この元寇以降に急速に広まったと考えられている。

時は下って、明代後期の 1565年、俞大猷(1503~1579年)が、倭寇の巣窟となっていた澎湖諸島を占領すると、荒廃していた天妃宮を再建し、娘媽宮と改名する。
明遠征軍の撤退後、再び倭寇が列島を占拠し本拠地とすると、1592年、明軍は再上陸し掃討作戦を成功させる。直後に、再び宮廟が再建され、媽娘宮と改称される。そして、1604年に 沈有容(1557~1628年)がオランダ商船団を軍事的圧力を伴いながら、説得により退去させた際に石碑を奉納すると、娘宮へ改名されたのだった

明末、鄭成功が澎湖諸島を経て台湾本島へ侵攻を開始すると、媽祖神に祈願して出陣し、無事に台湾島の接収を成就させたとされる。間もなく鄭氏政権により、現在の文澳地区に澎湖安撫司の役所が設置され、本格的な統治が開始される
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そんな鄭氏政権を屈服させるべく、1683年、清朝は施琅を総司令官に任じて、大艦隊を派遣し鄭氏政権が籠る台湾への攻撃を開始すると、まず前線基地の澎湖諸島が重要経由地としてターゲットにされることとなった。
清方の船団は当初、八罩島に上陸し、本陣を開設するも、飲料水が不足することとなった。しかし、不思議なことに、清軍は引き潮後に砂浜に形成された水たまりが淡水に近いことを発見し、長期戦に対応する道を得ることとなったという。

また、初戦で手痛いダメージを受けていた 施琅(左目に銃撃をかすめる)は、本陣で療養中に夢を見たと伝えられている。枕元に媽祖が現れ、曰く「二十一日内に必ず澎湖諸島の占領が成り、七月には台湾本島も接収できる」というお告げを授けられたという。そして、いよいよ鄭軍との最終決戦当日、施琅は再び媽祖の夢を見て戦勝を確信したという(上絵図)


この理由から施琅は媽祖の尽力で清軍を勝利に導けたと感謝し、翌 1684年、朝廷へ報告して、もともと媽祖の神だった「天上聖母(妃)」を「護国庇民妙霊昭応仁慈天后」へと昇格させ、皇帝・康熙帝自らも多くの寄進を行ったとされる。また同時に、全国の府県下にある天妃宮も、すべて 天后宮(媽宮)へと改称されたという。

さてさて、当地の天后宮であるが、清代を通じて幾度もの修築工事が手掛けられ、 1845年の修繕時には天上聖母も同時に安置されることとなった。
日本統治時代の 1919年の修築時には、祭壇の下から「沈有容諭退紅毛番韋麻郎等」の石碑が発見されている
翌 1920年、日本植民地政府により馬公へ改名される。

しかし、天后宮の周囲の壁が大きく傾き、崩落の危険性があったため、1922年に改めて大規模な修築工事が施されることとなり、現在の形状につながったという。全国の天后宮と同じく、正門(前殿)側を低くして、後者の正殿部を傾斜の高い方に立地させる工法が取り入れられている。

1945年に日本軍が撤退すると、中華民国下の台湾で最古の媽祖宮となり、 1979年に国家一級史跡に指定される。




なお、この路地街であるが、非常に古い情緒漂うローカル空間だったが、観光客用に整備されている感が否めず、何やら落ち着かない。
とりあえず、四眼井を見学する(下写真左。明代中期の掘削と考えられており、すでに 400年の歴史がある)。この小さな路地の一角も、観光客で埋め尽くされていた。

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そのまま路地を抜けて、ホテルへ帰る途中の仁愛路沿いで、台湾銀行澎湖支店と ハローキチィのパクリを看板化した遊技場を発見した(上写真右)。

そのまま旧市街地を抜けて、ホテルに戻る途中、三民路沿いにあったテイクアウト専門の ファーストフード・ショップで、フライドチキンのセットを頼む。
20分ぐらいかかるそうなので、ホテル部屋までの配達を頼んだ(無料)。 215 TWD のセット ④番でチキンが 3つ、ポテト 1セット、手羽先 3つと、この前代未聞のコストパフォーマンスぶりに圧倒されてしまった!!澎湖諸島べりーぐっと!


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