BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~

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訪問日:2018年 5月下旬 『大陸西遊記』~


浙江省 嘉興市 嘉善県 ~ 県内人口 41万人、 一人当たり GDP 100,000 元 (嘉興市 全体)


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  嘉興鉄道駅 から(深緑色)普通列車で 嘉善駅へ 8元(15分)
  嘉善古城の南城門と 甕城跡地、南面の掘割跡を見る
  呉鎮紀念館(嘉善県歴史博物館)~ 元代の四大画家・呉鎮の生家兼墓所
  古城地図から見る 呉鎮紀念館(通称:梅花庵)と 嘉善県役所、城隍廟、文教 エリア
  古城時代の東西メイン水路「魏塘市河」沿いの 橋から妄想する ~ 花園路橋と 亭橋
  嘉善市 一 中学 ~ かつての城隍廟の跡地
  「魏塘市河」沿いに移築・復元された東城門(1927年設置の新東門に相当)
  かつての東面城壁の跡地「健康路」と 東城門内外に広がる 商業エリア(願家埭など)
  中山東路の今昔 ~ 中華民国時代に台頭した新興商業地区、実際には 掘立て小屋の路地街
  東城門(1927年閉鎖前)の古写真と 小東門の遺構(健康路と解放北路との交差点)
  古樹を温かく見守る 老県府路と 魏塘街道 「老干部」福祉施設
  碩士街小洋楼と 由緒ある「碩士街」界隈 ~ 古民家が連なる路地裏
  古城地区の南北メイン水路「売魚橋岸」と 絲綢路(シルクロード)
  北面の掘割跡「北城河」にかかる 新元橋 を経て 嘉善鉄道駅へ
  樹齢 500年という 大イチョウ ~ 中山西路沿いにあった 嘉善県の役所跡地
  【豆知識】嘉善県城(魏塘鎮城)の 歴史 ■■■



嘉興鉄道駅 から北隣である「嘉善駅」まで移動した(8元)。15分。

車両が深緑色の普通列車だったが、いちおう全席指定だった。中国人乗客たちはざっくばらんに声を掛け合い、皆テンポ良く乗車していた(下写真左)。ピリピリしていたのは車掌などの職員らで、駅が近づくと駅名を大声で連呼、さらに荷物を荷物棚に乗せるように大声で連呼など、家畜を追う牧場主みたいな印象を受けた(下写真右)。
なお、こんな普通列車の中でも、弁当売りや果物、御菓子類の車内販売サービスがあった。電車は寝台車、食堂車など、すべてが連結された、動くホテルの状態だった。

嘉善県 嘉善県

アッと言う間に、嘉善駅に到着する(上写真右)。
ホームは数百メートル規模あり、広々としているのに、出口は端っこに一つだけという、非効率な構造はやはり大陸中国スタイルだった。

駅舎から出るときに、再度、切符確認を受ける。
駅を出ると客引きの三輪自転車タクシーやバイクタクシーなどが声をかけてくる。
筆者はまずは古城エリアの視察と博物館訪問を兼ねて、三輪自転車タクシーに 嘉善県博物館(呉鎮紀念館)へ連れて行ってもらうことにした(10元)。

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やや遠回りしてもらい、駅前通り「亭橋北路」を南下して、古城エリアの最南端である南城河まで行ってもらった(上地図)。東龍橋を越えると城外にあたる。
ちょうど、この南城河沿いにやや隆起した地形が残されており(上地図の赤丸)、これが南城門とその甕城の敷地跡というわけだった。

そして、再び亭橋南路を戻り、古城地区を東西に貫通する城内水路跡である魏塘市河を渡って(亭橋)、左折し中山西路沿いに進んでいると、旧東城門が移築されたという古城遺跡を発見した。ちょうど健康路と中山西路との交差点あたり(本頁中央部に写真あり)。
そのまま三輪自転車タクシーは花園路沿いに入り、 呉鎮紀念館(県歴史博物館を兼ねる)前で降ろされた。下写真。

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早速、呉鎮紀念館へ入館してみる(無料)。
身分証の提示は不要で、台帳に名前と電話番号を記入するのみだった。

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そもそも、この「呉鎮」というのは、この魏塘市(嘉善県中心部の旧称)出身の人物名で、元代に活躍した四大画家の一人に挙げられる著名人である(1280~1354年。19歳から画家を志した)。この敷地は彼の画廊であり、墓所(下写真右)ともなった地だったのだ。
もともと呉鎮は思賢郷下の陶家池村に生まれ、17歳のとき、叔父の呉森と長兄の呉𤦹(璋)らと共に、魏塘鎮の東郊外に移住してきたのだった。

青年期に全国各地を遊学した後、この魏塘鎮の中心部に邸宅(梅花庵)を構えて画廊とし、水墨画の制作に没頭することとなる。ここで生み出された作品が、『双桧平遠図』『秋江漁隠図』『中山図』『洞庭漁隠図』『竹譜』『心経』などである。

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ちなみに、墨による黒一色だけで山水画を描いた、元代の四大画家(元四大家)とは、他に倪瓉、黄公望、王蒙がいる。彼ら三人は互いに交流を持つも、呉鎮だけは同時代に活躍した彼らとの交流がなく、また定職にも就かず、貴人らとの接触も避け、ひたすら文芸活動に没頭したという。詩吟、書道、画の能力はいずれも高く評価されるレベルだったとされる。

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下古地図にある通り、この 呉鎮紀念館(梅花庵、呉鎮墓と呼ばれてきた)の一帯は、かつて県役所や学校、城隍廟などの県行政・文化の中心地区を成したエリアだったという。

この浙江省指定の史跡となっている呉鎮墓であるが、呉鎮が 75歳で死去する直前(1354年9月15日)、自ら墓標を書いたとされる。その文言が「梅花和尚之塔」であったという。
この呉鎮墓の真南に 1519年ごろ、嘉善県長官の倪璣が草葺き屋根の暗香浮月という簡単な亭を建立し、故人をしのぶ場所として整備する。これが時とともに、呉鎮 直筆の墓標にあった文言から「梅花亭」と通称されるようになったという(呉鎮自身も梅花道人と号した)。その後、度重なる修復を経て瓦葺きの建物となっていく。

その過程で、多くの人たちの献身的な尽力が積み重ねられていったのだった。

先の呉鎮直筆の墓標は、元末明初の混乱時に喪失されてしまっていたという。このため、明末の 1607年、嘉善県長官の謝応祥が地元の豪商らと協議し、呉鎮墓の修復工事を手掛けることとなり、棺の四方を石板で保護した上で土盛りし、下段を八角形で石材で囲う、今のスタイルが完成される。
そして再建した墓標には、謝応祥が直筆で「此画隠呉仲圭(「仲圭」は呉鎮の字)高士之墓」と記したのだった。これが現在に残る墓標となっている(上写真右)。

さらに、呉鎮墓の東側に広がっていた庭園「梅花庵」も、同時期の明末の 1600年ごろ、県学校に学んでいた地元資産家の子弟・袁士鰲が呉鎮墓を保護するための整備活動を始め、1620年に地元名士であった銭士升が私財を投じて敷地面積を拡張する。同時に、礼部尚書の董其昌が直筆で「梅花庵」の石碑をしたためたという。

今日、呉鎮墓の南東に梅花泉の古井戸が保存されている。「泉」という名からも明らかなように、もともとは大きな池だったそうだが、時ともに埋没し、1986年に井戸として再建されたという。また、この修復工事の際(1990年)、先の「梅花亭」も再建され、今日にその姿を伝えている。

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なお、最初に「梅花亭」を建立した倪璣が 嘉善県長官として赴任したのは 1516年~の 3年間で、着任早々の 1517年2月、県役所(県衛門)から東へ 70mばかりの地点(現在の思賢街一帯)に思賢書院という県立学校や、東岳廟(後に平川社学という学校へ改編。現在の東岳寺)などの廟所を建設するなど、文化政策に力を入れた。
彼は 1508年に科挙に合格し進士となった、咸寧県(今の陕西省西安市新城区)出身の人物で、もともとは朝廷内の諮問機関(諫官、諫垣役所)に勤務していたが、初の地方任務として当地に赴いたのだった。以後も定州長官などを歴任する。各地で地方郷土史の編纂に励み、その代表作が今に残る『定州志』という。その4世孫に 1586年、同じく進士となった倪思益がいる(福建省福州府下の侯官県出身)。

清末の 1897年、当時の県長官であった江峰青が「梅花亭」という石彫りの石碑を作り、敷地内に設置する。これが今も現存し 1990年に修復され、園内で保存されている。

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いちおう、呉鎮紀念館は嘉善博物館を兼ねており、わずかだが古城時代の資料も展示されていた。城内にはメインの城内運河が東西南北に十字に貫通し、それに付随して多くの小運河や水路が設けられていたことが読み取れる。城域は思ったよりも広大だったようだ。

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清代以降、手狭となった古城エリアから市街地が拡大され、東城門外に商業地区が延伸されていったそうで、ほとんどの展示内容が中華民国時代以降の市街地の発展史と現在の街並みへの継承、というテーマになっていた。
現在でも、この東城門外の一帯は商業エリアとして存続されている。後で巡ってみることにした。

博物館を出ると、そのまま前の花園路を南下し、魏塘市河まで行ってみる(下写真)。
ここにかかる橋が花園路橋。上古地図には花園街橋と記されており(赤丸)、古城時代から陸橋が存在した名残が現在にも継承されていた。下写真右は花園路橋から西側を眺めたもの。ずっと奥までが城域である。

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下写真左は花園路橋から東側を眺めたもの。かつては、この東西を貫通するメイン水路沿いに交易市場や商家が軒を連ねていたわけである。下写真右は、東隣の橋「亭橋」。かつての楊王廟橋で(上古地図参照)、廟所前に発展した門前町と運河沿いに亭があったことに由来すると思われる。

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下写真は、ちょうどこの中山西路沿いにあったバス停「嘉善一中」。現在、古城エリアのど真ん中に立地する嘉善市一中学の校舎敷地は、かつて城隍廟があった場所だ。

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下写真左は、「亭橋」から亭橋南路を眺めたもの。このまま北上すると、嘉善鉄道駅に至る。この東側一帯から商業エリアが広がっている。下写真右は、当エリアに新築されたショッピングモール恒利購物広場(顧家埭)。国際ブランドのスターバックス、薬局 Watson's、KFC などが入居する。

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下写真左は「亭橋」の東横にある「電広橋」から、さらに東へと続く魏塘市河を眺めたもの。
その脇に、移築・復元された東城門が保存されていた。下写真右。

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せっかくの城壁遺跡だが、大陸中国らしく男性諸氏の屋外便所となっているようで、異臭が漂っていた。。。

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ここから、「健康路」沿いに北上してみる(下写真左)。ちょうど、かつて東面城壁と東掘割があった場所である。
一つ目の交差点(願家埭沿い。下写真右)辺りが、商業エリア中心部となっていた。KFCの看板がよく目立っていた。

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清代から商業地区が城外へと拡大する中、この東城門外のエリアが新興商業地域として台頭したわけで、その名残となっている。下写真。

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下古地図は清代のもの。東城門外の七重塔(上写真右)は当時から存在していたことが分かる。

なお、この高さ 20m強の塔は泗洲塔といい、吉祥聖寺塔や大勝寺塔とも別称されてきたという。県城の東門外にあった大勝寺内にあった。北宋時代の 1187年、泗洲和尚の指示を受けた弟子の清梵が建立したのが発祥という。

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下古写真は中華民国時代のもので、現在の中山東路一帯を撮影したもの。
明代から清代、すでに東城門外に発展していた商業地区は当初、東市大街(後に東門大街へ変更)と呼称されていたが、共産党時代に入った 1950年代にさらに 4つに区分けされ、城門に近い方から大勝街、談公街、日暉街、羅星街と呼ばれていた。後に東門大街へまとめられ、今日、中山東路となっている。

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下古写真は、今の中山東路(旧東門大街)沿いの旧商家の街並みと、現在の街並みとを定点比較したもの。新商業エリアといっても、粗末な木造の掘立て小屋が軒を連ねる状態だったようだ。

南宋時代から始まり(伝説によると、魏武という姓の一族がこの地で交易集落を形成し牛耳っていたという)、元代にかけて徐々に拡大していた東郊外の集落地は、東門大街となった清代から中華民国時代にかけてますます発展し、すでに嘉善県の商業中心地区となっており、銭庄(貯蓄・送金仲介業者)、銀楼(金銀宝飾品の加工・販売業者)、銀行などの各種金融業者らも軒を連ねたという。早くから旅館、飲食、酒場なども発展し、にぎやかな中心地区を形成していたのだった。

また、この旧東門大街沿いには商業地区とともに住民らも増え、いくつか私塾なども開校される。中華民国時代に入り、これらが小学校や中学校へ改編されていくこととなった。

住民の増加に伴い、景徳寺、大勝寺、泗洲塔、神仙宮、地蔵庵、羅星台等の寺院や廟所も設置されていったが、清末の混乱や国共内戦、日中戦争を経て荒廃し、さらに古城地区の都市開発もあって、趣深い東門大街の庶民空間は何も残されていないという。

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下古写真は日中戦争時代、東城門(大勝門) を撮影したもの。
解説文によると、1927年に東城門が封鎖され、やや南側に新たに城門「新東門」が設けられたとある。現在の中山路と健康路との交差点あたりで、運河脇に保存されている古城門遺跡がそれである。

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さてさて、このまま健康路を北上し、解放北路との交差点に至ると、小東門の遺構が残されているらしかったが(下地図)、筆者はこの事実は後で知ることとなり、訪問できなかった。

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非常に残念だったが、筆者はその解放北路の一つ手前の「林蔭路」で左折してしまった(下写真左)。
その突き当りに烈士陵園があった(上地図の緑枠)。ちょうど亭橋南路との交差点。異様なほど丁寧に整備された小ぎれいな公園だった(下写真右)。

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そのまま西進すると、陵園路(下写真左)から花園路を渡って、老県府路に至る。
老県府路の道路ど真ん中に古木が保護されており、道路が左右に分かれて整備されていたのには感心させられた(下写真右)。

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明代中期の 1430年に築城された嘉善県城は、魏塘河沿いに発達していた魏塘鎮の集落地を基礎に構成されており、それが故に嘉善県の中心地区は「魏塘街道」という地名で、今でも呼称される。

下写真は老県府路(この南側一帯 ~ 魏塘市河の間に県役所があったことに由来)沿いにあった古城エリア 中心地区の老人福祉施設(下写真右。嘉善県魏塘街道 中山社区 老干部服務駅)。「老干部」とは別名、離休干部といい、 1949年の共産党建国前に党員として参画し、各地域において指導的立場で建国闘争にかかわった高齢者らを指す。彼らは特別な福祉サービスの恩恵を受けられるという。

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下写真は、この老人福祉施設の裏手にあった古民家地区。ちょうど 碩士街 沿いの路地風景。かつての県役所の北側エリアに位置しており、清朝役人らの住まいがあった場所だろうか。
かつて、このエリアには小さな城内水路が多数通っており、至る所に石橋と側溝があったという。

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下写真は、碩士街と花園路との交差点にあった碩士街小洋楼。中華民国初期に建設された西洋式建築物で、当地で文化遺産に指定され保護されていた。共産党時代初期には人民解放軍の施設だったという。
なお、「碩士」とは、役所に勤務しない、在野の儒学者など博識な老人らの敬称であった。碩士街の名前は上記の清代の古地図でも見受けられ、かなり由緒ある路地名と言えよう。

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老県府路の西端は 体育南路 となっており、ちょうど古城地区の南北メインストリートを形成する。この西隣に古城時代、南北メイン城内水路を成した売魚橋岸が現存する(下写真)。その地名から、かつてこの運河沿いには魚市場が立っていたことが推察される。

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下写真左は、この売魚橋岸にかかる絲綢路橋。ここから西が絲綢路(シルクロード)という路地なので、この名称がつけられている。
下写真右は、体育南路沿いにあった寂れた旧式ショッピングモール。「老北門 飯店」という看板が気になったので撮影してみた。

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下写真は体育南路沿いのバス停「碩士花園」。

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今回の古城巡りは県役所があった県城中枢エリアだけに偏ってしまった。本来は、さらに3面、同じ広さの敷地があったわけで、城内は相当に広いものだったことが分かる。

さて、体育南路を北上し、解放西路を東進して(下写真左)、亭橋北路沿いに北上して駅へ戻った。体育南路から徒歩で 15~20分ほどで到着できる距離だった。
下写真右は解放西路と亭橋北路との交差点にあった 嘉興農商銀行・魏塘支店

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下写真は、北面の掘割「北城河」にかかる新元橋。

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嘉善県城跡は城門と城壁共に完全に撤去されてしまっており、小東門遺構、新東城門(移築・復元されたもの)が残るとはいっても、全く見応えがなかった。

しかし、古城地区に残る地名や路地名には、かつての記憶が数多く刻み込まれていた。老県府路、願家埭、陳家埭、城北新村、北城河、北門橋、環北西路、滸弄、滸弄橋、新城河路、城西新村、倉橋、西城河、西城河路、南城河、売魚橋、南城河橋、東城河、馬路口橋、北新埭、荷葉弄、碩士街など。

また、中山西路沿いに樹齢 500年という大イチョウが保存されていた(下写真)。ちょうど古城時代、県役所の建物があった敷地内である。

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嘉善駅に到着すると、嘉興駅までの切符を買い、改札を受ける際、筆者が日本人と分かると駅員がとてもフレンドリーに話しかけてきた。列車が停車するホームも丁寧に教えてくれた。
嘉興駅 まで、再び普通列車で戻る(20分)。


嘉善県の歴史

春秋戦国時代、江東エリア、特に 嘉興市 一帯は呉越の国境地帯に位置したことから、度々、紛争地を提供することとなった。
当初は呉国の領土であったが、これを滅ぼした越国が併合し、その越国も楚に滅ぼされ、最終的に紀元前 223年に楚を滅ぼした秦の領土となる。

翌紀元前 222年に会稽郡下で 長水県(今の嘉興市平湖区)が新設されると、その管轄域に組み込まれる。
紀元前 210年、秦の始皇帝が東国巡游の際、江南地方に至ったとき、当地に残る楚や呉越の独立気質、そして勇壮で神秘的な地形と地名に気分を害し、十万ともいわれる人夫を駆使して、地形を破壊し、地名を改悪することとなる。その一環で、長水県は由拳県へ改称される(下地図)。

なお、始皇帝はこの江南地方の視察後、呉県城(今の江蘇省蘇州市)を経て、長江沿いの江乘(今の江蘇省南京市の北東)から船に乗り、琅邪 (今の山東省青島市黄島区)や罘(今の山東省烟台市北芝罘島)などを経て海路で、黄河河口の平原津(今の山東省德州市平原県の南西約 15km)に到達し、王都・咸陽 への帰路につくも、この地で病気となり、そのまま崩御するのだった。

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時は下って後漢時代の129年、会稽郡が南北に分離されると、北側の呉郡に所属される。
三国時代の231年、呉の孫権により由拳県が 嘉興県 へ改称される。

隋代に全国区で郡制が廃止され、州県の二段制度が採用されると、嘉興県も同時に廃止され 呉県 に吸収合併される(蘇州に帰属)。
唐代に嘉興県が復活設置されると、そのまま 蘇州 に属された。

五代十国時代、呉越国が嘉興県を 杭州 の管轄下へ移籍させ、その後、嘉興県城内に秀州を新設する。
北宋時代には、嘉興県下にあった魏塘鎮に巡検司が設置され(下地図は 1111年当時)、これが元代には魏塘務へ、明代初期には税課局へ、そして後に再び巡検司へ名称変更されていくこととなった。

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1429年3月、浙江巡撫の胡概(1385~1434年。1411年に科挙に合格し進士となって以降、広西省・広東省按察使などを歴任し、最終的に中央政界に戻り大理寺卿、さらに右都御史へと昇進した)が、浙江省一帯の管轄区を視察する。
当時、海塩県 エリアを中心に、倭寇によって浙江省下の湾岸部の治安や交易網は大いに乱され、明朝の統制が効かない無法地帯も増えていた。この現状を危惧し中央統制を強化すべく、 嘉興県 の北西部から 秀水県(嘉興県城内に併設)を、北東部一帯から嘉善県を、海塩県 から 平湖県 を、崇徳県 から 桐郷県 を分離・新設させて、行政区の細分化と治安徹底を図る案を朝廷に上奏する。

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翌 1430年3月28日(旧暦 4月20日)、明朝廷は、嘉興県の北東部にあった迁善郷、永安郷、奉賢郷の三郷全エリアと胥山郷、思賢郷、麟瑞郷の三郷の一部を分離して、嘉善県の新設を決定する。しかし、県城自体は築城されず、県役所が魏塘鎮内に開設されるだけとなった(嘉興府 に帰属)。上地図。
なお、「嘉善県」の由来であるが、上部機関「嘉興府」の「嘉」の字と、「迁善郷」の「善」の字から構成されたという。
また同時に、上奏案通り、平湖県(当湖鎮城)桐郷県(鳳鳴鎮城)も新設される(上地図)。

1510年、嘉善県長官の胡洁が住民らの安全確保を目的に、魏塘鎮の日暉橋の東側に賓暘門を、また同時に太平橋の西側に平城門も設置して、夜間は閉鎖されることとなった。

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1554年、倭寇の襲撃を防ぐために、吏部侍郎の趙文華が嘉善の守備を任されると、撫台の王抒と知府の劉悫と共に協議し、朝廷に新県城の築城を上奏する。すぐに許可され、県下の住民 1万余りを動員し、同年10月~翌年3月にかけて突貫工事が断行される。
この時の工事で、見張り台を備えた水門 5箇所、城門 4箇所、甕城 380m(総計)、望楼 4箇所、狼煙台 12箇所、兵舎 36室、凹凸壁 2,644 箇所を有する、高さは 10m、全長 4,827m の長大な城壁が完成したのだった(上地図)。
また、それを取り囲む全長 6.7m、幅 20m の掘割が掘削された。
城域面積 235,000 m2 にも及び、銀価 35,856.9 両が費やされたという。以後、数百年かけて明代、清代の歴任の県長官らは何度も増強工事を施すこととなる。

当時、東門外に大勝寺が立地していたことから、東門は大勝門と命名される。この大勝門(東門)を出ると、そこには東市大街が広がっていたという(清代には東市大街は東門大街と改称される)。

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清代もこの行政区が踏襲された(上地図)。
清末の 1860~1863年、太平天国軍によって江東地方が占領されると、嘉善県城も支配下に組み込まれる。
中華民国が建国されたばかりの 1912年、全国で府制が廃止されると 嘉興府 は消滅し、嘉善県は銭塘道に属した。1927年に道制も廃止されると、浙江省の直轄となる。

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共産党中国時代の1954年、城壁や城門が一斉に撤去されるも、今日現在、わずかに南西端の 100mにも満たない部分に城壁の基礎が残されているという。
上写真は在りし日の北城門(日本軍占領時代か?)。現在の体育路と解放路との交差点の北側。


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