BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~

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訪問日:2018年 5月下旬 『大陸西遊記』~


浙江省 嘉興市 桐郷市 ~ 市内人口 86万人、 一人当たり GDP 100,000 元 (桐郷市 全体)


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  嘉興市バスターミナル(嘉興汽車客運中心)から 桐郷市へ 7元(40分)
  濮院大道沿いのバス停「霊悟小区」~ 南宋王朝の皇族一家(趙伯澤の家族)の墓石遺跡
  【豆知識】北宋初代皇帝の子孫は、南宋末期 2万人いた !! 世代ごとの命名方法も必見 !!
  桐郷市中心エリアは なぜか、戦時体制下にあった ~ 地下防空施設とバス警備員
  国際都市化を標榜する桐郷植物園と、充実の展示内容で大満足だった桐郷市博物館
  古城地区の東郊外に延びる 魚行街 ~ 古城時代の城外商業地区の名残り
  北門大街と北面の掘割跡(北港河)
  古民家群が軒を連ねる路地「武廟街」~ 梧桐大街と鳯鳴路の交差点
  桐郷県城時代から残る旧市街地 ~ 北街と西街
  西面の掘割跡(康涇塘河)と西城門、西面城壁の跡地
  【豆知識】地図から読む 桐郷県城 ~ 康涇塘河と北港河との 合流ポイントの発展史 ■■■
  桐郷県役所があった県前街 と 呉蓬芸術院(桐郷書画院)
  南門直街の 今昔 ~ かつて南城門まで続いた 街道の名残り
  丁字街の 今昔 ~ かつて南城門外の南へと延びた街道 と 南門橋
  鳯鳴公園の脇に延びる「魚行街」沿いの名所旧跡 ~ 中国文筆界の巨匠・金仲華の旧家
  桐郷市バスターミナル(桐郷客運中心)の 路線網 ~ 崇徳行、海塩行、烏鎮行、大麻行
  【豆知識】桐郷市の 歴史 ■■■
  【豆知識】崇徳県城(石門県城)の 今昔 ■■■
  【豆知識】伝統的な水郷集落風景が残る、烏鎮 ■■■



嘉興市バスターミナル(嘉興汽車客運中心)から、10分に 一本、運行されている 191番路線バスに乗車して、桐郷市を目指す(7元。下路線図)。だいたい 40分で桐郷市街区に到達できた。

桐郷市

路線バスはひたすら国道 G320(濮院大道)沿いを直進し、桐郷市街区に入ると、鳳凰湖沿いのバス停を経由すべく、環城東路に入るも、すぐに逾橋東路をつたって濮院大道に合流する(この辺りのバス停が「霊悟小区(上地図)」といい、南宋時代の皇族墓所に由来するという。2003年までは革一村の 一区画(霊宿郷)であったが、宅地開発が進み、新たに独立地区に昇格された際、命名される。



 南宋王朝の 皇族一家(趙伯澤の家族)の盛衰 と 丞相・史弥遠による「廃立の変」

1979年冬、桐郷市街区の東部で南宋朝の皇族一家に関する墓石群が発見される。
これらは、1224年に 王都・臨安 を追放された、皇族・趙澤(1134~1218年。最後の安定郡王)とその息子・趙辺の嫁である胡氏と沈氏、そして孫の趙励の 4名の墓石であった。前者 2名の墓標は、趙辺自身の直筆だったという(沈氏の墓標は、その子の趙与梫の直筆)。

皇族・趙澤の一家が都を追われ、こんな僻地に埋葬されることとなった理由は、丞相の 史弥遠(1164~1233年)が朝廷を牛耳って専横政治を行っていた中で、トバッチリを受けたものだった。

桐郷市

南宋朝の中でも政権が安定していた 孝宗(2代目皇帝、在位 1162~1189年)から 寧宗(4代目皇帝、在位 1194~1224年)の治世下でも朝廷内の権力争いは苛烈を極め、寧宗の皇后・楊氏の兄であった楊次山と、丞相の史弥遠が政権を掌握すると、いよいよ皇位継承への介入が露骨になっていく。

寧宗はもともと 8人の子だくさんであったが、いずれも夭折してしまい、ついに 1220年8月、最後の実子で皇太子であった景献太子が病没すると、完全に実子がいなくなる。
こうして翌 1221年6月、趙瞿の子である 趙貴和(このとき、名前を趙竑へ改称)が皇太子に立てられ、同時にその弟である 趙貴誠(1205~1264年)が 沂王(皇族爵位の一種)を継承することとなる。当時、1206年に死去していた趙抦から空位の爵位であった。

しかし、新皇太子・趙竑は丞相の史弥遠の専制政治に非常に不満を抱いており、両者は対立する。このため、1224年8月3日に寧宗が病没すると、丞相の史弥遠は皇帝の意に反し、その弟の趙貴誠を皇太子に立て(同時に、趙昀へ改名)、そのまま 理宗( 5代目皇帝)として即位させてしまう。

なお、この 趙貴誠(元の名は趙莒で、1222年の沂王就任時に改名していた)であるが、北宋朝を建国した 初代皇帝・趙匡胤の次男・趙昭(951~979年。 979年に叔父で 2代目皇帝となっていた趙匡義により死罪を言い渡される)の十代孫にあたり(宋皇室の家系図参照▼)、南宋第 4代目皇帝の 寧宗(父は 3代目皇帝・趙惇)は彼の従兄に相当した。

桐郷市

宋皇室は儒教の伝統に則り、序列が重んじられ、その子孫の名は、各世代ごとに同じ漢字が使用されてきた。

下は 太祖系(初代皇帝・趙匡胤の 次男・趙昭【951年~979年】の子孫)の家系図を整理したもの。兄弟や同世代には、同じ漢字が真ん中に挟まれていたことが分かる。いずれも、姓は「趙」で、下の二文字が名前となっている。


桐郷市

この時、元皇太子であった趙竑は済王に封じられ、現在の 浙江省湖州市 一帯の土地を与えられる。実質的に 王都・臨安 を追放されたのだった。この突然の皇太子交代劇こそが、南宋史上有名な「廃立の変」と言われる事件である。

この皇位継承は寧宗の本意ではなく、丞相の史弥遠が一手に企てたもので、朝廷内でも多くの反対議論が巻き起こる。

実際、元皇太子の趙竑が下向のため封じられた 湖州市 一帯の民衆らは、潘壬をリーダーとして(黄色の朝廷服を着て趙竑を自称し、最終的に自ら皇帝になろうと企てた)、南宋朝廷に対し反旗を翻すも、間もなく反乱が平定されると、丞相・史弥遠は謀議をはかり、趙竑は死亡したと全国に宣言する(実際には、密かに 巴陵郡公【今の 湖南省岳陽市】へ降格され隠居させられた)。

朝廷では 真徳秀(1178~1235年)などの代表的な 道学派(老子の道教)の大臣や学者らが、済王(趙竑)の汚名をはらすべきだと議論を起こすも、丞相・史弥遠はその反対派を徹底的に弾圧し、多くの官吏を朝廷から追放してしまう。

このあおりを食らったのが、この墓標の主で、前皇帝・寧宗の旧臣派に属し、済王(趙竑)を推した皇族の一人・趙澤(1134~1218年。1215~ 安定郡王に封じられていた。そもそも、安定郡とは現在の 甘粛省平凉市 にあった古い郡名で、隋代で廃止されていたわけだが、形式上の身分として下賜され続けていた。当時は金朝からモンゴル軍が奪い取り、その領土に組み込んでいたわけで、全く郡王として土地基盤のない有名無実な爵位であったが、彼の死で 北宋代から存在したこの爵位も抹消される こととなった)の一族らであった。

すでに 1218年に死去していた趙澤の遺影とともに、一族は都を追われ(1224年)、息子夫妻(趙辺と胡氏)、さらに妾の沈氏とその次男・趙扐らは王都を去り、近郊に居を構える。しかし、趙辺一族の家計は急速に困窮の一途をたどり、完全に政界復帰の道も断たれる中、家計は破綻し、没落してしまうのだった。
妾・沈氏の次男・趙扐が母親とともに一家を支えるも、かつての皇室の威光は跡形もなく喪失し、全く首も回らない状態に陥っていたという
このため、残された家族らは後に烏鎮の東側の田舎へと引っ越し、ここで普通の百姓となって自らの生活基盤を形成していったとされる。その際、父・趙澤の遺影も当地まで持ち込まれ、家族らと共に埋葬されたと考えられる。

朝廷内部の権力争いの結果、趙澤の一家は没落したわけであるが、これは南宋王朝史においては小さな政変劇に過ぎなかった。しかし、対外的には無抵抗主義を貫き、金朝やモンゴル勢力に対し譲歩に譲歩を重ねた南宋朝廷にあって、朝廷内部では権力争いが絶えることがなく、まさに内弁慶の様相を呈した。これに合わせて、中央・地方では政治の腐敗が進み、社会は混乱して民衆生活は安定を取り戻すことはなかったとされる。そして、その国力は日々、衰退し、最終的に滅亡へとつながっていく。
この南宋朝の歴史を俯瞰するとき、趙澤の家族の盛衰は、ちょうど宋王朝の盛衰史にも重なってみえるわけで、一つの影の部分をあぶり出していると言えよう。

その後、擁立された理宗( 5代目皇帝)も、丞相・史弥遠の専横政治を疎ましく思うようになり、 1233年10月に史弥遠が死去すると、翌 1234年、端平へと元号を改めて、政治改革を断行する。いわゆる、「端平更化の政治」である。
理宗は史弥遠の残党勢力を朝廷内から一掃し、皇帝中心の政治体制を再確立させたのだった。
このとき、先の 1224年8月の「廃立の変」において、兄で元皇太子であった趙竑を擁護した家臣や皇族らを朝廷に復帰させることはしなかった。趙澤の子孫らに残されたわずかな朝廷再出仕への希望も潰えてしまったのだった。

理宗はその後、1264年まで在位するも、中央・地方の腐敗根絶は不可逆な状態にまで悪化し、その国力を確実にむしばんでいった。
1273年に長江の要衝・襄陽城を落とし、1276年には 王都・臨安 をも占領したモンゴル軍は、1279年の崖山の戦い でついに南宋朝の残党勢力を完全崩壊させることとなる。
この戦いで宋朝廷の皇族らも多くが死に絶え、また一部は田舎へ離散して百姓として生き残ることとなる(上の宋皇室の家系図からも、 すでに南宋末期には 2万人以上の皇族末裔が記録されていることが読み取れる)

桐郷市の片田舎に隠遁した趙伯澤の末裔のその後の消息は、誰も知る由もなかった。


市街地に入ると、濮院大道は平安路、世紀大道と名称を変えるも、バスはそのまま直進を続け、市内の南端に立地する桐郷市バスターミナルへまっすぐ南下していく(下地図の赤ライン)。

桐郷市

筆者は、まず桐郷市博物館を訪問すべく、東西メインストリートである振興大道と世紀大道との交差点を過ぎたバス停「農貿市場」で下車した(上地図)。

そして振興大道まで戻って、東側にあるバス停「茅盾中学」で 17番路線バスに乗車する(2元)。上地図の黄色ライン。



なお、この街には、「地下防空施設」の看板が至る所にあったので驚いた。下写真。

桐郷市 桐郷市

また、路線バス内には警備員みたいな作業着の男性が先頭に座っていて、前入口から乗車してくる客の 荷物チェック(かなり雑で適当な感じだが)をしていたのが印象的だった。ここは戦時体制下なのだろうか???と疑問に思ってしまった。嘉興市街区 は全くそんな物騒な言葉も見当たらなかったのに、この桐郷市内だけは時折、道路沿いに武装警察が立っていたりと、何やら戒厳令下の市民生活の印象を受けた。

もちろん、市民生活を見ている限りでは何不自由ない状態なのだが、これだけの公務員や看板の設置費用はすべて市民らが負担しているんだろうし。。。



すぐにバス停「植物園」で下車して(上地図)、桐郷植物園の北端にある桐郷市博物館へ向かう。
植物園内の公園案内板(下写真)には日本語、韓国語、英語が併記されていた。国際都市のイメージ作りに躍起な印象を受けた。

桐郷市

桐郷市博物館では、7000~6000年の 馬家浜文化 から崧沢文化と良渚文化など、長江流域に発展した新石器時代の古代文明圏(稲作文化)のこと、 京杭大運河 の完成により 隋代、唐代、宋代を通じて沿岸の 水運交易都市群(濮院、烏鎮、石門、炉頭など)が台頭し、運河終点の 大都市・ 杭州 の衛星都市の一角(江戸時代の街道に発展した品川、新宿、北千住の宿場町に相当)として嘉興市エリアが大成し、特に、南宋時代に土地開墾が活発となり、以後、元代、明代、清代に経済先進地帯として中国全土に君臨できたことなどが学習できた。

あわせて、明代に開設された 嘉興府城 や、唐代からあった 崇徳県城 の解説なども堪能できた。

桐郷市

見学後、再び、振興東路沿いのバス停「植物園」で 17番路線バスに乗車する。

バスは振興東路を西進し、鳯鳴公園の東隣りの園林路(途中から「魚行街」へ名称が変わる)沿いを北上後、慶豊中路に合流し、北港橋を渡る。この河川が古城北面の掘割に相当する(北港河)。
この北港橋を渡って、すぐのバス停「慶豊中路文昌路口」でバスを下車した(下地図)。



下地図の赤線枠は古城壁を示し、前述の「魚行街」は古城北東部に位置している。
かつて、その魚行街沿いに東城門があり、東城門へ続く路地は東門直街と呼ばれ、城内の滙家弄口から東側へと延びていた。古城時代、この街道沿いが城内最大の繁華街エリアとなっており、最も人通りが多い地区だったという。別名、魚行滙と通称されていた。

清末には、その延長で街道上の商店街が東城門外にも 150 mほどに渡って続き、2本のメインストリートが形成されて巨大な繁華街を形成していたという。その二つの街道は、それぞれ北港街と南街といい、両者は南北に 100 mほど離れて敷設されていた。その間に数多くの商家が軒を連ねたという。
上で 17番路線バスが渡った「北港橋」の名称も、これに由来している。


桐郷市

バス下車後、西側にある路地裏を歩いてみた(上地図内の青ライン)。小さな路地の李家浜路に迷い込んでみる(下写真左)。ちょうど桐郷市体育館沿いの路地だった。

桐郷市 桐郷市

そのまま北上して茅盾西路(上写真右。当地出身の文筆家・茅盾から命名。末尾参照)に突き当たると、ここを西進する。
この次の大きな交差点が 北門大街 だった(下写真左)。ここから進路を南にとる。

桐郷市 桐郷市

左手側に桐郷市第一中学校の校舎壁が延々と続く(上写真右)。 この敷地と、東隣の実験小学教育集団北港小学校の校庭は、明代、清代には県立学校(書院)が開設されたスペースだったという。

もともと城内の北東部(北面の水門脇)に位置した文思院が城外へ移転されており、すでに私塾スタイルの学校があったという。1430年に県役所が開設されると、県立学校へと昇格され、1437年に大成殿、文昌祠などの主要な建物が完成し、 1500年ごろに敷地内の全建設工事が完了したとされる。当時、県立学校は科挙合格に向けた受験予備校の意味合いを有した。
現在も前の道路は学前路といい、当時の名残が残る。

そして、北面の 掘割跡(北港河)にかかる大慶橋をわたって(下写真左)、いよいよ古城エリアに足を踏み入れる。ちょうど、この大慶橋あたりに、かつて北城門があった。

桐郷市 桐郷市

北港河を渡ると、北門大街は梧桐大街へと名称を変える。これが古城時代の南北メインストリートだった通りだ。
旧市街地を蛇行する東西のメインストリート 鳯鳴路(下写真左)との交差点付近に形成された広場(上写真右)は、古城時代の古地図から推察するに、大城殿の境内だった場所だろうか。。。

この鳯鳴路と梧桐大街との交差点脇にあった 路地「武廟街」が気になったので(下写真右)、ここを南下してみた。

桐郷市 桐郷市

今日、「武廟街」と呼ばれる 100 mにも満たない路地であるが、北は 平橋頭(現存せず)から南は南司弄までの 100 m程度の 短い南北ルートであった(下地図)。 ちょうど中間あたりに、広大な境内を有した 武廟(関帝廟。現存せず)が立地したため、古くからこの通称だったらしい。

共産党時代が始まったばかりの 1950年代、巨大な武廟の社殿が桐郷大会堂となり、演劇や映画の放映、会議場などに利用されてきたが、文化大革命直後の 1970年代、いよいよ武廟の社殿が撤去されると、桐郷絲織工場の 駐車場(武廟車間と通称された)となり、続いて桐郷一軽服装工場の倉庫となり、80年代には百貨店が開店し、現在は五階建ての住宅ビルが建っているという(下地図。現在の梧桐大街と北港步行街との交差点あたり)。

桐郷市

この武廟街はかつて、武廟の門前町として多くの小規模商店が軒を連ねたらしいが、現在は静まり返った住宅街の一角になり下がっていた。

桐郷市 桐郷市

路地沿いには古い家屋がたくさん密集し、しかも、まだまだ多くの住民らが居住する生活空間が広がっていた。
上写真は武廟街沿いに清末に建設された木造古民家。入り口には「工農街第一向陽院」の看板と、二階に「毛主席万歳」の文字が掲げられ、典型的な文化大革命時代の遺産という。現在、桐郷市の指定文化財として保護されている。

旧市街地内にはたくさんの野良犬が放し飼いになっており、住民らが蹴とばしていじめていた。。
途中 で北街という東西路地が西へと通じていたので、これを西進すると(下写真)、西街(南北路地)にたどり着く。

桐郷市 桐郷市

この北街であるが、古城時代は屈指の繁華街としてにぎわったといい、当時、北港街、魚行街、東南街などの繁華街で織物屋、米屋、たばこ屋、生地卸問屋などを多角経営していた富裕な商人らの邸宅が軒を連ねていたという。

下写真は、その中央あたりに残る古民家の「古街緑園」。かつて、ここには緑豊かな小庭園があり、市民らの憩いの場となっていたという。
その東隣には、1950年代に掘削されたという古井戸も保存されていた。かつて、茶屋が細々と利用していたが、何かのきっかけで防火用水として直径 1.5mの井戸へ改修され、以降、近隣住民らの炊事洗濯用水となったという。

桐郷市

下写真左は西街と北街の交差点付近。下写真右は、西街から北街へ入る入口あたり。

県城時代、古城の西側には繁華街はなく、ひっそりと郊外住宅地が広がるだけだったという。東南北にあった城門直街という街道だが、「西門直街」だけは存在せず、下写真の西街と北街との交差点から道幅 1 m 強しかない狭い石畳と泥道がまっすぐ西側へ延び、鳯鳴寺の裏門前と城隍廟の壁沿いを通過すると西城門にたどりつける具合の寂しいエリアだったらしい。

桐郷市 桐郷市

続いて、西街と鳯鳴路との交差点から(下写真左)、西側の 掘割(康涇塘河)まで歩いてみる。
この橋は鳯鳴橋というらしい(下写真右)。ちょうど写真の康涇塘河沿いに、西城門、その外側の甕城、そして吊り橋があったわけである。そして、この外堀沿いにずらりと城壁が連なっていたのだった。

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なお、上写真右の 奥側(南方向)に見えるのが南門橋で、これから訪問することになる。



ちょうど、鳯鳴橋と鳯鳴路がある河川の合流ポイント(今の桐郷第六中学あたり)に、かつて「鳯鳴市」という交易集落地が形成されており、ここが桐郷市中心エリアの発祥の地となった場所だった。
康涇塘河と北港河との交差する角地にある、下写真左上の運動場トラックが見える辺り。

「鳯鳴市」が拡大していくと、「梧桐街道(梧桐鎮)」と呼称されるようになる。当時、この一帯にアオギリ(梧桐)の木がたくさん生息していたことに由来するという。
ちなみに、元々の地名である「鳯鳴市」の由来は、五代十国時代の呉越国の統治下、伝説の鳥とされる鳯凰が 100羽も飛来し、この地に巣を作り、一帯には鳯凰の鳴き声がこだましていた、という逸話に由来するという。
この合流ポイントから康涇塘河沿いにかけて、同福鎮、史橋鎮、霊安鎮という集落が誕生し、総称して鳯凰街道と通称されるようになる。

明代中期の 1500年ごろ、桐郷県長官の李廷梧が、梧桐街道や鳯凰街道の美しさと地名の由来をたたえて詠んだ詩が残されているという。

桐郷市

1430年に桐郷県役所が開設されると、すぐに城壁の築城工事が着手される。
城域は小規模で、城壁の全長は 1,500 m、半径は 500 mの縦長の不規則な「お碗型」に設計されていた(下絵図)。また、幅 10~13 mの掘割が外周をめぐり、その外側には一面、田畑が広がっていたという。
しかし、しっかり東西南北に四城門を構え、それぞれ瓮城も装備されており、防衛力強化が図られていた(下絵図)。

清末まで、城内の西端と南東端、および東西の両脇には耕地や荒れ野が広がっており、小規模な県城内にはまだまだスぺ―スのゆとりもあったという。
しかし、前述の「鳯鳴市」に由来する港町や東城門へ続く東街の街道は、狭く短い路地が枝葉のように入り組む過密エリアとなっていた。いずれの路地も石畳できちんと舗装されていたという。

中華民国が建国される前後、城内の街道は城外へと延伸され、東城門外(北港街と南街。現在の魚行街)と 南城門外(丁字街)へと拡大していくこととなる。

桐郷市

城内の中心エリアは、東西南北の四つの路地で大きく構成されていた。単純に東面は東街、西面は西街、北面は北街と呼ばれ、本来は南面は南街となるはずだったが、県前街と命名されていた。その理由は明確で、県役所(南向きの八の字型の敷地)が路地沿いに立地していたことに由来する。

旧市街地から三路地が「直街」という名称を冠して各(東南北)城門へとつながっていた。魚行滙の 東端(滙家弄口)には東門直街がまっすぐに東へと伸びており、教化橋をわたって東城門へと続いていた。
また、魚行滙の 北端(すなわち、北街の東端)の北側には北門直街が北へ一路続き、平橋や倉橋をわたって北城門までつながっていた。
県前街の 東端(古城地区の第二の繁華街エリア「雲龍閣」の西端)には南へまっすぐ伸びる南門直街があり、熙橋や翻小橋を渡るとそのまま南城門へと至ったという。



再び、西街へ戻り、ここを南下すると 県前街 の路地にたどり着く(下写真左)。
ちょうど、県役所が開設されていた区画である。この先に交差する梧桐大街より東側は、東興街と名称が変わるのだった。ちょうど、上のコラム内にある第二の繁華街エリア「雲龍閣」に相当する路地である。

桐郷市 桐郷市

さて、この県前街沿いに呉蓬芸術院(桐郷書画院)があった。明代、清代の旧家屋を彷彿させる邸宅みたいだったので、中に入ってみた(入館無料。桐郷市県前街101号)。上写真右。
純木造の建物で、全体がゆがんでいるのが印象的だった。人の手で作られた、かつての伝統的な木造家屋を体感するのに非常に良い空間だった(下写真)。

ここは桐郷市石門鎮出身の 画家・呉蓬(1941年~。現在、中央国家機関芸術家協会名誉主席)を記念し、2016年末に開館された資料館兼教育センターで、彼の作品や生い立ちを紹介しつつ、また後進を育てるための芸術家養成所も兼ねた施設となっているという。
もともとは地元の豪商・夏家などの屋敷を連結させた敷地で、現在、その総面積は約 4,000 m2 、建物専有面積は約 3,000 m2にも及ぶという。

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さらに前進して、南側の路地「南門直街」に入り込む。
ここはその名の示す通り、かつて南城門まで続く街道があった(下写真)。

桐郷市 桐郷市
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路地「南門直街」沿いにはいくつかの狭い路地が交差しており、そのうちの一つ「夏家浜(下写真)」は、かつて地元豪商の夏家の 邸宅(前述の呉蓬芸術院)周辺、という意味の住所名の名残りと思われる。

桐郷市 桐郷市

また、下写真の「丁字街」は、ちょうど南城門外に位置した街道の名残りという。

県城時代、南城門から見て、南へまっすぐ延びる街道が「丁」の字に見えたことから、このように命名され、現在もそのまま使用されている、というわけだった。
城外にはたくさんの運河や水路があり、八字橋、臭水浜、邵家橋などが架橋されていたが、都市開発の中で埋め立てられ、今日、その面影は一切残っていない。

桐郷市 桐郷市

そのまま丁字街を南進すると、広い自動車道路である「振興大道」に行き着く(下写真左)。現在の桐郷市の東西メインストリートだ。

また、古城エリアの南北メインストリートである梧桐大街と城河路との交差点あたりが、かつての南城門の甕城と前面の吊り橋があった場所と推定される。そのまま梧桐大街をさらに南下すると、振興大道に行き当たるのだった(下写真右はその交差点)。

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これら一帯はすでに城外の南郊外に相当し、振興大道の西側の康涇塘河上にかけられた立橋が「南門橋」と命名されていたのも、これに由来している(下写真左)。

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最後に、東側の鳯鳴公園まで、公園路沿いを歩いてみることにした(上写真右)。
途中、公園路沿いの北側に杉並木通りを発見した。なかなか圧巻だったので、思わず撮影してしまった(下写真左)。

桐郷市 桐郷市

下写真左は、公園路と慶豊中路との交差点。鳯鳴公園内に堂々と立つ 6重の塔が目立っていた。
上写真右は、塔を真下から撮影したもの。
公園内ではたくさんの年配の男女らがダンスに興じていた。

桐郷市 桐郷市

このまま公園路を東進すると、園林路との交差点に至る。園林路はここから北側が「魚行街」へ名称が変わる(上写真右)。
清末以降、この魚行街から東城門までの街道沿いには、城外から延びた 繁華街地区(北港街と南街)が通じており、多くの商店街が軒を連ねたエリアだった。
なお、この魚行街 139号に、日中戦争下で多くの雑誌(『抗戦』『全民抗戦』『世界知識(香港)』『星島日報(香港)』など)の主筆を務めた社会評論家&文筆家の 金仲華(1907~1968年)の住居跡が保存されているという。清代晩年の三開四進スタイルで江南エリアの伝統的な古民家となっているらしい。

さて、本日はかなり古城エリアを歩き回ってみたが、県城時代の遺物である城壁や城門は全く確認できなかった。しかし、旧市街地に残る路地や地区名にかつての城郭都市時代の名残が色濃く残されていることは確かだった。西門農貿市場、県前街、魚行街、北港歩行街、城河路、北港橋、城東橋、東興街、東興南弄、北門大街、東興社区、西街、南門橋、北港歩行街など。

桐郷市

で最後に、園林路沿いのバス停「鳯鳴公園北大門」から 17番路線バスに乗り、桐郷市バスターミナル(桐郷客運中心)へ行ってみることにした。
バスは再び振興中路を東進し、桐郷植物園前を通過して、二環東路を南下するルートだった。

もし、最短ルートで 嘉興市中心部 まで戻るには、往路で利用した 191番路線バスを下車した世紀大道沿いで降車し、この反対車線から北上する 191番路線バスに乗り換えるのが最も早いだろうが、筆者は次回、崇徳鎮を訪問する下調べを兼ねて、当地の桐郷市バスターミナルを訪問してみることにした。

桐郷市バスターミナルに到着すると、その非常に合理的な設計に驚かされた。
地元路線のバスターミナルは外側に配され、長距離線を含む郊外ルートは建物内側から発車する仕組みだった。しかも、建物内も右手が長距離線、左手が近郊路線と区分けされており、大陸中国でも珍しく合理的に整理されたバスターミナルだと感心した次第である。

桐郷市

ここで崇徳鎮行バスの時刻表を調べた。他に、海塩鎮 や古い水郷集落として有名な観光地「烏鎮」へのバスも発着していた。
そして、なんと近郊の街に、「大麻」という地名があったのにはビックリした! 上写真の中央。
ここは、かつて麻溪と呼ばれた場所で、例のドラッグとは全く関係ない。その昔、大麻鎮には現在の市河のほかに、麻溪と大麻瀆という二本の川が東西を横断して流れていたことに由来するという。

さて、ここから再び 191番路線バスに乗車して、嘉興市バスターミナル へ戻ることにした。 50~55分で嘉興市バスターミナル(嘉興汽車客運中心)に戻ってこれた。さらに路線バスを乗り継いで、嘉興市中心部へ向かった。

桐郷市


 桐郷市の歴史 ~ 桐郷県城と崇徳県城

春秋戦国時代、江南地区に勢力を張った呉と越の両国は壮絶な抗争を繰り返した。
この時代、現在の桐郷市一帯は御儿という地名で呼称され、両国の国境最前線に位置したので、頻繁に戦場となっていたという。市内には何城遺跡など、たくさんの春秋戦国時代の遺跡が残されている。また、市内の石門鎮の地名も、呉と越がこの地に石造りの城塞を建造して戦闘を繰り返したことに由来するという。

紀元前 473年、越王の勾践がついに呉を滅ぼすと、江南エリア全土は越領に併合されるも、その越国もまた、勾践から 6代孫の治世時代に楚国により滅ぼされることとなる(紀元前 334年)。以後、江南地方はすべて楚国に併合される。
その楚国も紀元前 223年に秦により滅亡に追い込まれると、始皇帝はこの地での中央集権体制の確立を企図し、翌紀元前 222年に会稽郡を新設する。その管轄下には 由拳県(今の 嘉興市南湖区)、烏程県(今の 湖州市呉興区)など 26県が配された(下地図)。
この時代、今の桐郷市一帯は由拳県に属した。

桐郷市

前漢時代、御儿の地は、語儿とも別称されるようになる。
現在の崇福鎮の東部には南沙渚塘という河川が流れており、この時代、語儿中涇、もしくは語溪と呼ばれていた。ここから、現在でも崇福鎮は語溪とも別称される。唐代に入って崇徳の名称が使用されるようになり、代わって現在の濮院鎮あたりが 御儿(もしくは李墟)と通称されることとなった。

後漢時代の129年、銭塘江より南側が会稽郡に、銭塘江より北側が呉郡に分離される。このとき、現在の桐郷市一帯は呉郡下の 由拳県 に属した(下地図)。

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三国時代、孫呉の治世時代の 231年、由拳県下に豊かに実る稲穂を愛でて、自国の吉祥を祈願し、由拳県を禾興県へ改称させる。
242年には、皇太子・孫和の諱名とのダブリを避けるべく、禾興県が 嘉興県 へ変更される(引き続き、呉郡に帰属)。

南北朝時代の東晋朝、劉宋朝、斎朝、梁朝の治世時代もこのままの行政区が踏襲される。

陳朝初期の 558年に海寧郡が新設されると(下地図)、今の桐郷市一帯はこの海寧郡下の嘉興県に属した。

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隋代、嘉興県が廃止され、呉県に吸収合併される(蘇州に帰属)。

唐代初期の 624年、嘉興県 が復活設置されると、そのまま蘇州に属した。現在の桐郷市エリアも、この蘇州嘉興県下に配された(翌 625年、再び嘉興県が廃止される)。
634年、嘉興県が復活設置される(蘇州に属する)と、呉県から再分離されることとなった。
この時代、桐郷市一帯は 語儿郷(今の 桐郷市崇徳鎮)と称されており、嘉興県の南西部に位置していた。唐代晩年の 879年、語儿郷が義和鎮へ昇格される。この頃、運河の東岸が義和鎮、西岸が語儿市と通称されていた。  

五代十国時代の 938年、呉越王の銭元瓘が 嘉興県 の南西部に位置した 崇徳郷、南津郷、語儿郷、千乘郷、積善郷、石門郷、募化郷の 7郷を分離して、崇徳県を新設すると、その県役所が運河の 東岸・義和市(今の 桐郷市崇福鎮)に開設される(杭州 に属した)。西岸は語儿市がそのまま継承される。
なお、崇徳県の名称は、梁朝時代の 503年に郊外に建立されていた崇福寺に由来している。

940年、銭元瓘が嘉興県城内に秀州を新設すると、崇徳県、嘉興県、海塩県、華亭県を統括した(下地図)。

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北宋時代の 1077年、嘉興県 が再分離され、県下の 梧桐郷、永新郷、清風郷、保寧郷、千金郷の 5郷が崇徳県へ移籍される。これ以降、崇徳県は県下に 12郷を統括するようになり、元代までこの行政区が継承された。下地図。

1117年、秀州(州都は嘉興県城)が嘉禾郡へ改編される。下部行政区はそのままとされた。

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南宋時代の 1195年、秀州が府へ昇格されると、嘉興府 と命名される。 1208年、嘉興府がさらに昇格され嘉興軍節度となる。配下の管轄行政区はそのまま踏襲される。  

元代の 1277年、嘉興軍節度が嘉興路へ改編されると、嘉興路総管府が設置される(江浙行省に帰属)。その下には崇徳県などの 3県と華亭府の一府を統括した。
1295年には崇徳県が崇徳州へ昇格される(下地図は州城の全景。引き続き、嘉興路に帰属)。

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明代初期の 1369年、嘉興路が嘉興府へ改編されると、崇徳州は降格され、崇徳県へ戻された。
1381年、嘉興府 は浙江布政司へ移籍される。ここから以後、崇徳県はずっと浙江布政司下の嘉興府に帰属されることとなった。

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1429年3月、浙江巡撫の 胡概(1385~1434年。1411年に科挙に合格し進士となって以降、広西省・広東省按察使などを歴任し、最終的に中央政界に戻り大理寺卿、さらに右都御史へと昇進した)が、浙江省一帯の管轄区を視察中に、崇徳県に至る。当時、海塩県エリアを中心に、倭寇によって浙江省下の湾岸部の治安や交易網は大いに乱され、明朝の統制が効かない無法地帯も増えていた。この現状を危惧し中央統制を強化すべく、胡概は崇徳県の東部に位置する 募化郷、千金郷、保寧郷、清風郷、永新郷、梧桐郷の 6郷を分離して、新たに桐郷県の新設を朝廷に上奏する。
このとき同時に、平湖県嘉善県 などの新設も上奏される(上地図)。

翌 1430年2月、朝廷内で批准されると、早速、県役所が梧桐郷城内の 凰鳴市場(今の梧桐街道)内に開設される。直後より、県城の築城工事が着手されることとなった。

清代においても引き続き、崇徳県 と桐郷県の両県はそのまま嘉興府に属した。
康熙元年(1662年)、崇徳県の名称が清朝第 2代目皇帝・ホンタイジの治世元号「崇徳」とダブったため、石門県へ改称されると(下地図)、同時に、付近に元々あった石門鎮が玉溪鎮へ改名される。

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中華民国が建国された直後の 1912年、全国で府制が廃止されると、嘉興府 が廃止となる。石門県と桐郷県の両県は銭塘道に属した(上地図)。1914年、石門県が崇徳県へ戻される。日中戦争時代には語溪鎮へ改称されていたが、戦後に再び崇徳鎮へ戻された。

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上古写真は、桐郷市旧市街地の航空写真。周囲には田畑が広がっていた。
共産党中国が建国された直後の 1949年当時、この桐郷県城の城壁や 5城門(東西南北と小東門)と 4水門、掘割、寺廟、宝塔などはそのまま残っていたという。しかし、1950年代に入って、すべての城門と城門外の甕城が撤去され、城内が完全開放されることとなる。 1960年代末までには水門と城壁群もすべて撤去され、さらに順次、外周の掘割も埋め立てられてしまったという。

以降、1970年代末までに東大街の道路が改修され、道幅が大きく拡張されると同時に、南北へ延伸される。こうして、現在の古城地区の南北メインストリート「梧桐大街」が誕生し、もともとの石畳道路もコンクリート道路に生まれ変わったのだった。

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また、桐郷市中心部から K211番路線バスでアクセスできる崇徳鎮の古城地区であるが(上古写真)、桐郷県城跡と同様に、城壁や城門はすべて撤去されてしまっているものの、旧市街地の路地や地名には、かつての記憶が色濃く刻みこまれたままであった。

(西岸:旧・語儿市)北街家私、南大街、崇福寺金剛殿、宮前路、城北社区、
(東岸:旧・義和鎮)東昇街、司馬高橋

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 伝統的な水郷集落風景が残る、烏鎮

烏鎮は、近くに隣接する烏墩鎮と青墩鎮から命名されており、その歴史は 6000年前の古代人類まで遡ることができるという。
烏鎮は典型的な江南地方の水郷古鎮の一つで、魚米の郷、絲綢(絹織物)の府、との異名をとる。
1991年、烏鎮は省級歴史文化名城に指定され、1999年に旧市街地の保護と観光地化が開始された。

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中華民国時代から共産党時代にかけて、文筆家として活躍した 茅盾(本名:沈徳鴻。1896~1981年)は、ここ嘉興市桐郷県烏鎮の出身で、その生家が烏鎮内に保存されている、という(茅盾故居=中市観前街十七号)。

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