BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:20--年-月-旬


新潟県 長岡市 ~ 市内人口 27万人、一人当たり GDP 290万円(新潟県 全体)


 ➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠  クリック

  長岡城跡
  山本五十六記念館
  長岡戦災資料館
  新潟県立歴史博物館
  蔵王堂城跡
  古戦場パーク(大黒戊辰戦争記念碑)
  長岡郷土資料館(悠久山公園)



東京 から北上した際、まず 六日町駅 前に投宿し、そのまま在来線で長岡入りした(990円、60分弱、1時間に一本の運行)。
この長岡市は、県都・新潟市に次ぐ、新潟県第 2位の人口都市であり、セオリー通り、ホテル価格は各段に安くなっている(各県の 2、3位クラスの都市は、だいたいホテル代金が驚くほど安い。大都市圏以外の県都は、首都圏並みの価格水準に揃えられている。企業出張者に対応した価格設定なのだろう)。

駅前観光案内所でレンタサイクルを借りた後、市中心部にまとまって立地する長岡城跡や 新潟県立歴史博物館、山本五十六記念館を回り、北長岡駅前まで移動して、蔵王堂城跡も訪問する。さらに北隣の駅「押切駅」近くに、古戦場パーク(大黒戊辰戦争記念碑)がある。ここは、戊辰戦争時に新政府軍の駐屯基地が設けられた村で、当時、激しい攻防戦が繰り広げられた末に、村は完全に壊滅し、両軍あわせて 100名の死者を出したという。両軍の兵士が、そのまま合葬された地点が、記念公園として整備されているわけである。
さらに、長岡城の御三階櫓を模した郷土資料館が立地する悠久山公園も訪問する(長岡駅前からだと、徒歩 40分かかる。駅前東口バス乗り場 ②番線より「悠久山行き」乗車、「悠久山公園入口」バス停下車、徒歩約 18分)

長岡市

なお、この長岡市の中心部は、かつて信濃川側沿いに整備された長岡城とその 城下町(人口 2万人)を継承している。本来なら三の丸や、城下町の一部などに鉄道駅や線路が敷設されるのだろうが、戊辰戦争で明治政府軍と激突し、城と城下町が戦火に巻き込まれたことから、その跡地は「公園(遊覧地)」という名目で、完全に「さら地」化されたのだった。長岡藩とその住民らのシンボルを完全破壊した、明治政府の報復処置であったことは間違いあるまい。さらに後日、本丸のど真ん中に「長岡駅」駅舎が建設され、城郭跡地を完全に消滅させたわけである(1898年開業)。下地図。

長岡市

下模型は、往時の長岡城の全容。
石垣はなく、本丸を含め、すべてが土塁スタイルであったことが分かる。また天守閣も建設されず、本丸にあった 御三階櫓(高さ 23 m)が、城下のシンボルであったという。下絵図 ⑤。現在の JR長岡駅大手口の噴水付近に相当する。

長岡市

長岡城の築城は、越後上杉家が 1598年に会津 120万石に転封された後に、越後国主として転任してきた堀氏一族によってスタートされている。織田信長、豊臣秀吉に従って各地を転戦した 堀秀政(1553~1590年)の一族で、この 家老・堀直政(1547~1608年)が領内統治を采配し、その一環で次男の 堀直寄(1577~1639年)が坂戸城主として 1万石支藩大名に列せられることとなる。その後、北隣の 支藩・蔵王堂城主も兼務することとなり、居城を蔵王堂城へ移すも、信濃川に近過ぎたために河川浸食が激しく、新たに長岡城の建設を進めることとなった。お家騒動からいったん堀家は越後から転封されるも、1616年の 大坂の陣後 に復帰し、蔵王堂城に戻った堀直寄が本格的に長岡城の築城に着手したわけである。戦国期も終わり、戦闘向けというよりも、平和な時代を前提とする 行政・経済都市のシンボル的存在として 工事が進められていたが、完成間近となった 1618年、直寄が越後国内の村上地区に転封を命じられると、代わりに 牧野忠成(1581~1655年)が入城することとなった。以後、幕末まで藩主は牧野家が継承し、幕末の戊辰戦争を迎える(12代目藩主:牧野忠訓)。この戦争で、名家老・河井継之助(1827~1868年)の率いる長岡藩軍が奮闘したわけである。

長岡市

長岡市

長岡駅前には 3連泊し、最終日に 直江津 訪問後、新幹線で 東京 まで戻ることにした(8,580円、1時間20分強)。

お問い合わせ


© 2004-2024  Institute of BTG   |HOME|Contact us