BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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海南省 定安県 ~ 人口 32万人、一人当たり GDP 38,000 元


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  【初代】定安県城
  【二代目】定安県城(南建州城)
  【三代目】定安県城
  容瓊県城



【 定安県の 歴史 】

紀元前 111年、前漢朝 7代目皇帝・武帝により南越国が滅ぼされると、華南地方も前漢朝の直轄領に組み込まれる。翌紀元前 110年、顔盧県(今の 海南省海口市 美蘭区霊山鎮多呂村)と、曋都県(瓊山東潭。今の 海南省海口市瓊山区 鉄橋村あたり)が新設されると(共に珠崖郡に帰属)、現在の定安県エリアを統括した。

しかし、統治スタート初年度より海南島原住民の武装蜂起が頻発し、前漢朝は次第に直接統治体制の維持が困難となっていく。ついに紀元前 46年春、珠崖郡 が廃止され、同時に、すべての郡県レベルの役所閉鎖に追い込まれる。以降、朱盧県(今の 海南省海口市瓊山区旧州鎮)が、大陸側の 徐聞県城(今の 広東省湛江市 徐聞県。下地図)へ転出され、海南島を間接統治するスタイルが模索されることとなった(合浦郡に帰属。郡都は、今の 広西省欽州市 浦北県旧州村)。ここから 600年間、海南島(ちょうど日本の関東地方と同じ面積)は、実質的に中央朝廷の直轄支配が及ばない島となり、無法空間と化すわけである。

定安県

後漢王朝が再建される中、南方へ派遣されていた 伏波将軍・馬援(紀元前 14~後 49年)が交耻郡を平定すると(43年)、朱盧県を廃止し、珠崖県を新設する(引き続き、合浦郡下の徐聞県城内に入居)。

三国時代、孫呉の支配下の 228年、珠崖県が珠官郡へ昇格されると、郡役所は引き続き、徐聞県城(今の 広東省湛江市 徐聞県)内に併設される。同時に、朱盧県が復活設置され、この珠官郡に統括された。
242年、珠官郡が珠崖郡へ改編される。また同時に、朱官県が新設されると、現在の海南島全域は、この珠崖郡下の朱官県が統括することとされた(上地図)。

西晋朝が孫呉を滅ぼし、三国を統一した 280年、引き続き、朱官県に統括される(珠崖郡は廃止され、合浦郡に帰属)。南北朝時代の劉宋朝の治世下も、引き続き、朱官県に属した(交州に帰属)。上地図。

定安県

南朝の梁王朝の治世下の 540年、崖州に統括される(広州都督が直轄)。その州都は、儋耳郡城跡地(今の 海南省儋州市三都鎮旧州坡)に開設された。上地図。
この時代、俚族(壮族先民族の一派)リーダーであった 冼夫人(512?~602年)が、広西省、海南島一帯で統治手腕を発揮したことで知られる。彼女は周辺の 諸部族(「峒」と称された)千余りをまとめ上げ、梁王朝、陳王朝、隋王朝と支配政権が目まぐるしく変遷する中、平和裏に臣従することを選択し重用される。その功績を称えられ、後年、隋朝廷から譙国夫人の称号を下賜されることとなる。

隋代後期の 607年、顔盧県(今の 海南省海口市 美蘭区霊山鎮多呂村)が復活設置されると、これに統括される(珠崖郡に帰属)。610年には、珠崖郡の郡都に定められる。

定安県

唐代初期の 622年、顔盧県は顔城県へ改称される(627年には舍城県へ変更。付近を流れる舍城水に由来)。同時に、珠崖郡が崖州へ改編されると、引き続き、その州都を兼務した。上地図。

631年、瓊山県(今の 海口市瓊山区旧州鎮に開設)が新設されると、舍城県城は廃止され、舍城県役所は瓊山県城内に同時入居することとなる。この時、瓊山県、富雲県、博遼県、臨機県、万安県の 5県を統括するため、瓊州が新設される。
639年、瓊山県が廃止され、代わりに 顔盧県(舍城県から改名)、会口県、容瓊県(現在の定安県内。791年廃止)の 3県が分離・新設される。この時、現在の定安県エリアは、顔盧県(今の 海南省海口市瓊山区旧州鎮)に統括された。

864年、忠州(安南都護府に帰属)が新設される。その州役所は、顔盧県の南端にあった黎峒に開設されていたが、7年後に廃止される(配下には県役所が配置されず、州直轄領だった。現在の定安県域もこれに属していた)。 871年以降は、瓊山県に統括される(瓊州に帰属)。下地図。

唐王朝の滅亡後、五代十国時代が開始されるも、そのままの行政区が踏襲される。

定安県

北宋時代の 1107年、現在の定安県エリアは鎮州に統括される(瓊管安撫司に帰属)。州役所は、鎮寧県城(今の 海南省東方市 広壩村)に併設される。この時代、現在の県域の南部は鎮州下に、北部は瓊山県に統括された。
しかし間もなくの 1111年、鎮州と鎮寧県が廃止されると、以降、南宋時代末期まで、瓊山県に属した。

元代の 1292年6月、瓊山県南部が分離され、【初代】定安県(現在の 定安県双灶の中瑞農場あたり) が新設される。地域の安定化という願掛けがこめられて、命名されたという。 2年後の 1294年に、定安県龍門鎮下の官衙村(もしくは、文笔峰盤古文化旅游区内にある古城南建州エリア、という説あり)へ移転される(【二代目】定安県城)。
1329年、定安県が南建州へ昇格される。海北(今の 広西省北海市)元師府に直轄された。

定安県

明代初期の 1369年、南建州が定安県へ降格される。翌 1370年、県役所が 定陽の 地(今の 定安県定城鎮)へ移転される(【三代目】定安県城)。
清代も、このままの行政区が踏襲された。上地図。

中華民国時代も、定安県政府は引き続き、定城鎮旧県衙(県役所跡)に開設される。
共産党政権が樹立された 1950年以降も、県政府は現在の定城鎮中心部に立地した。 1958年12月、屯昌県と合併して定昌県となる。1961年5月に定安県へ戻されて、今日に至る。広東省から独立して海南省が新設されると(1988年)、海南省政府によって他の市レベルと同列に直轄される。


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