BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



福建省 漳州市 平和県 ~ 県内人口 63万人、 一人当たり GDP 98,000 元(漳州市 全体)


 ➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠  クリック

  平和県城(九峰鎮の城隍廟)
  【初代&二代目】南勝県城
  小溪鎮の 城隍廟
  縄武楼(客家の城塞集落)
  厥寧楼(客家の城塞集落)
  大楼(客家の城塞集落)



地理的に近い 漳州市 中心部(薌城区)にある「漳州客運西バスターミナル」から郊外バス(乗車時間 1時間半)で直接、平和県 中心部(小溪鎮)に移動するのが最も便利だった。高速鉄道の駅から遠い上、隣接する他県からのアクセスも、往来バスの便数自体が少ない。

平和県の 中心部(小溪鎮)に到着後、続いて国道 G 355号線(迎賓路)を北へ戻る形で「旧県村」を訪問する(漳州市からの郊外バスで、途中下車できるかもしれない)。
ここは、かつて元代の 1322年に新設された南勝県役所が 1337年に転入され、 1356年に転出されるまでの 19年間、【二代目】南勝県の県都を担った場所である。目下、一帯は全く往時の痕跡は残されておらず、かろうじて地名に「旧楼」「后壁仔」という地区が存在する程度である。

平和県

続いて、平和県の西端に立地する、九峰鎮をローカル・バスで訪問してみる。

この都市には明代の 1517~1949年、平和県城が開設されていたわけだが、現在は城壁や城門などは一切、残されていない。
しかし、現地の 地名(城中村、城西村、南門大橋、南門洋、東山庵、城東村 など)には往時の記憶がはっきりと刻み込まれていた。下地図。

平和県

平和県

まず最初に、特に壮麗という当地の城隍廟を訪問してみることにした。九峰鎮東門内の省道 207号線沿いに立地し、今でも地元民から大切に祀られているという。

この平和県城の城隍廟は、唐代の 大詩人・王維(701~761年)を最高神とし、伝説によると明代の著名な理論家&政治家だった 王陽明(本名:王守仁。1472年~1529年)の指導によって創建されたという(1519年)。
彼は 1517年、朝廷の命により福建省南部の山岳地帯で発生した民衆反乱を平定した際、この地に平和県役所を新設するわけだが、城塞都市の完成後、この城隍廟の創建も指示していたと推察される。そもそも城隍廟とは漢民族が信仰する道教のシンボルであり、地元出身の有名人や将軍らを祭神として合祀し、城郭都市の守護を祈願する廟堂であったが、当地に縁も所縁もない王維を最高神とする点は非常に珍しいと言える。未だ少数民族らが跋扈した山岳地帯の漢民族化を図った、王陽明の政策的意図だったのだろうか。
清代の 1700年代初期と 1800年代初期に二度、大規模に改修工事が施された後、そのまま今日に継承されている。現在の城隍廟は南向きに設計され、その面積は 1,400 m2という。

なお、1949年に共産党政府が成立すると、水運交通の要衝であった小渓鎮が平和県の県都に定められ、今日に至るわけである。そのまま近代都市開発の波から外れたことが幸いし、九峰鎮の旧市街地区には往時の古民家や路地が今もたくさん現存する。

平和県

なお、平和県 中心部(小溪鎮)南側の山奥に立地する南勝鎮にも、かつて古城があった。元代の 1322年に新設された【初代】南勝県役所が立地した場所で、 1337年に前述の旧県村へ転出されるまで県城を務めたわけであるが、今日現在、現地には何も見るべきものはないので、訪問は辞めておいた。少し気になる地名としては、「古楼」や「坎頂城」ぐらいである。もしかしたら、マイナーな客家の 城塞集落・土楼や、村民らの小規模城塞などがいくつか点在しているのかもしれない。


 【 平和県の 歴史 】

元代まで、現在の平和県一帯は 漳浦県 に統括されていた。
元代中期の 1322年、龍溪県(今の漳州市中心部・薌城区にある 漳州古城)漳浦県、龍岩県の一部が分離され、南勝県が新設される。当初、その県役所は今の平和県南勝鎮に開設されたが、間もなくの 1337年、今の平和県小溪鎮旧県村へ移転されることとなる。
さらに 1356年、県役所が 蘭陵(今の 漳州市南靖県靖城鎮靖城村)へ移転されるに及び、南靖県への改称に至る。これら短期間の県城移転が物語るのは、 この山岳地帯で元代初期の 1280~82年に発生した、陳吊眼をリーダーとする 畲族(シェ族)反乱の残党分子が、引き続き 勢力を保ち続け、度々、元朝の県役所を襲撃していた実態が浮かび上がってくる

平和県

時は下って明代の 1517年、南靖県と 漳浦県 の一部が分離され、新たに平和県が新設される(そのまま漳州府に帰属)。その県役所が、河斗大洋陂(現在の平和県九峰鎮)に開設され(上地図)、以後、清末まで継承されることとなった。

この前年の 1516年8月、王陽明(本名:王守仁)が、兵部尚書(中央朝廷の軍務大臣)の王琼によって才能を高く評価され、都察院左僉都御史に大抜擢されると、南(安)、贛(州)、汀(州)、漳(州)などの、広西省から福建省南部にかけての治安維持を統括する総監に任命される。当時、この山岳地帯では山賊や少数民族の反乱が頻発しており、1517年に王陽明が自ら軍勢を率いて南征した際、新たに県城を新設したのだった。その県名からも、王陽明や明朝廷の真意が伺い知れる。



 土楼 ~ 客家の城塞集落
中華民国元年(1912年)以前に建造されたもので、現在まで完全な形で保存された 土楼(客家の城塞集落)は全国に 476あるという。客家集落が点在する福建省内にはこの土楼がたくさん現存しており、その非常に特徴的な住宅スタイルは、この地方で営まれた庶民生活文化を知る上で、貴重な観察の場を提供してくれている。
その代表例が芦溪鎮の縄武楼、芦豊村の厥寧楼、大溪鎮庄上村の 大楼(全国最大の方型の土楼である)、霞寨鎮の榜眼府、五寨郷の思永楼で、いずれもこの平和県内に立地する。

 国指定の 史跡「縄武楼」
平和県芦溪鎮蕉路村に立地する、清代の 1800年代初期に建造された円形の 土楼(直径 43.8 mで、内部には 24部屋を装備)である(下写真)。その土地面積は 1,506 m2、建築面積は 1,266 m2を誇る。
土楼は三階建てで、一階には 客間と台所、寝室が設けられ、それぞれの部屋から上へつながる階段が付設されて、 2階へ上がれるようになっていた。二階と三階部分がプライベートルームとしての子部屋が並んでおり、すべて吹き抜け構造であった。雨天でも濡れることなく、廊下で一周巡れる設計となっていた(下写真)。

そもそもは、第十八世目の子孫である 葉処侯(朝廷の最高学府である国子監で学んだ太学生でもあった。一定の学を修めて朝廷へ相応額の寄付を行えば誰でも入学できたという)が、清代中期の 1820年ごろから建設を始めたものという。 その後、1870年代に至るまでの、実に 50年以上かけて建設工事が進められる。
最大の特色は、柱や天井にめぐらされた技巧をこらした彫刻デザインといい、その造形美は清代の中晚期における閩南地方の民間芸術の宝庫と評される。 細かく巧妙な造りの木雕や書、壁画などが 646ヵ所もあり、他に例を見ない装飾の数々は高く評価され、 2001年6月に中央政府指定の史跡となった。
また縄武楼の正門中央には、石板に「縄武楼」と記された額縁が掲示されている。当時の楼代表者が自ら筆を振るって書いたものという。
平和県


 全国でも珍しい 方形の 土楼「大土楼」
平和県大溪鎮庄上村に立地しており、清代初期の 1650~1700年ごろに建造されたものという。この純粋に土のみで建造された家屋が一つ一つ連結され結合された土楼城塞であるが(下写真)、その建築面積は 9,000 m2 以上あり、全体の敷地面積に至っては 34,650 m2という。
楼内には住居スペース以外に、社会生活を送る上で必要な諸機能が公共空間にすべて完備されており、中国の農村伝統社会の縮図、福建省の客家人らの歴史文化風習の生き証人と評される。

平和県



お問い合わせ


© 2004-2024  Institute of BTG   |HOME|Contact us