BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



福建省 漳州市 漳浦県 ~ 県内人口 97万人、 一人当たり GDP 98,000 元(漳州市 全体)


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  【第二代】漳浦県城(【第二代】漳州城)、漳浦文廟、傅公河、府第牌坊
  趙家堡(北宋皇室の末裔らによる 城塞集落)
  詒安堡(詒安城)
  藍廷珍府第
  錦江楼(客家の 城塞集落)
  周軍堡(客家の 城塞集落)
  詒燕楼(客家の 城塞集落)
  赤湖鎮城
  佛曇鍳湖古兵営(人和楼)
  旧鎮鎮城(城内村 と 城外村)、石柄銃城遺跡
  六鰲城(陸鰲千戸所城)



漳州市 東山県中心部の 7天酒店に投宿し、ホテル近くの東山バスターミナルから 雲霄県 中心部(雲陵鎮)を訪問後、そのまま東進し漳浦県に入る。当地の旧市街地を見学した後、そのまま東山バスターミナルに戻る、三角ルート旅行となった。
もしくは、高速鉄道を乗りこなせば、潮州市 中心部(湘橋区) から 潮汕駅 ~ 𩜙平駅 ~ 詔安駅 ~ 雲霄駅~漳浦駅間を、それぞれ移動し日帰り訪問も可能だろう。

さて、この漳浦県 中心部(綏安鎮)であるが、唐代前期 716~786年に【第二代】漳州城(【第二代】漳浦県城)が開設された場所であり、786年に漳州役所だけ 龍溪県下の 桂林村(今の 漳州市中心部・薌城区)へ移転されると(「三代目」漳州城)、以後、【二代目】漳浦県城として清末まで継承されることとなった都市である。つまり、当地の旧市街地は実に 1300年間、途切れることなく一地方の県城として君臨し続けた古都だった、というわけだ。

現在でも、古城時代を彷彿とさせる地名の名残りは数多く、南門橋(龍湖大道沿い)、府前街、環城東路、北門媽祖廟、東勝路、城東郵政支局、北大街、麦市街、北市場、西大街、南門村、許官巷などが挙げられる(下地図)。

漳浦県

旧市街地区は、北隣に綏南村が、東隣に綏東村が、西隣に鹿溪橋閘を隔てて京里村が、南隣には鹿溪と溪南村がそれぞれ立地し、往時の城域がちょうど隣接地区との境界線となっているため、全体の把握が非常に分かりやすい。

この小さなエリア内に、中央政府により歴史遺産指定されている漳浦文廟、宋代に掘削された 運河「傅公河」、府第牌坊などを筆頭に、一級の歴史遺産が点在するわけである。当地では、まず西湖公園内にある漳浦県博物館を訪問してみた。

続いて、近年、地元政府肝いりで再開発された総面積 500ヘクタールの「府前唐街」に足を踏み入れてみる。この敷地内では、もともとの跡地上に 漳浦県衙(県役所)、文廟、城隍廟、観音廟、相府、高東溪祠などの再建が計画されており、大規模な閩南文化の建築群(建物面積 90万㎡)が出現する予定という。同時に商店街も整備され、観光地の目玉化が図られている(下絵図)。

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その他の名所旧跡としては、綏東社区の 孔廟(宋代に創建され、明代初期に大規模に再建された。現在、県政府によって歴史遺産指定を受ける)、印池塘、印石亭(宋代に創建され、 1936年に再建。古くから石板が建ち並び、共産党時代に入って革命烈士陵園が整備される)、綏西社区の 西湖(西面の堀跡)と 西湖宮、綏南社区の城隍廟、高東溪祠、尚書府、綏北社区の黄道周墓、道周社区の黄道周進学堂、北門天后宮、南門社区の媽祖宮、五風橋、馬坑村の 開漳聖王威恵廟(古城西の郊外に建立されていた)、羅山村の東羅岩、が挙げられる。

また、特に古城時代、「西城外の開漳聖王廟」に対し、「東城門外の東岳廟」と称され、壮麗な境内を誇った東岳廟であるが、仁聖大帝を祀った元来の本殿はすでになく、現在は部分的に再建された建物群が残るのみという。
近くの注生娘娘廟は、娘媽廟と俗称され、元代に創建されて以降、地元で継承され、今日でも保存状態は良好という。その他、駿亭、蔡新府第、漳印池曇、仙脚川福徳正神、漳浦紅楼などもあるが、特に蔡新府第は、歴史上、最も出世した 当地出身者・蔡新(下肖像画)の邸宅跡として有名だ。

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1300年の歴史を誇る漳浦県城下からは、数多くの優秀な人材が世に輩出されてきた。歴代で通算すると、32名の 進士(科挙のうち、国家試験の合格者)、44名の挙人(科挙のうち、地方試験の合格者)、 3名の 総兵官(地方の軍司令官)を数える。

その中でも特に有名な人物が、清代に文華殿大学士となった 蔡新(1707~1799年。上肖像画)である。科挙に合格後、朝廷に出仕して 兵・礼等五部尚書を歴任し、皇帝の 皇子(嘉慶帝 と 乾隆帝)らの家庭教師を務めて、漢文学を清朝廷に広めた人物である。
また同じく大出世した同郷人である、南明政権の忠臣で書道家・文学者の 黄道周(1585~1646年。東山県の 銅山古城出身) が母親を伴って移住してきたという 旧宅跡(25歳~)も、旧市街地にて保存されている。


龍湖大道沿いにある南門村は、漳浦県城の南門外にあったことから命名されており、今の県 中心部(綏安鎮)の南隅に位置する。かつて、この道路は南溪という大河で、地元では南門溪と呼ばれていた。その名の通り、「南門橋」が架橋され外堀を構成する重要な河川であった。

この南門橋の脇には、明代から 天后宮(漳浦南門媽祖石像)が建立されており、その前を多くの船舶が往来していた。この前の港湾部分は、県城内外に運ぶ物資が集積される賑やかな船着き場となっており、常に船運業者らが媽祖を参拝し、線香の煙が途絶えることはなかったという。清代を通じても、常に大事に祀られてきた古刹で、現在、県指定の歴史遺産となっている。

続いて、鹿溪(南溪)の河口部に位置する、旧鎮鎮を訪問してみる。


この南溪は、もともと 鹿溪(下写真。現在、県中心部の南を流れ、唐代、宋代には李澳川と呼ばれた)の主流河道であったが、明代後期の 1600年ごろ、洪水によって川の流れが変化し、今の鹿溪沿いの鹿溪公園辺りを通過するようになると、南溪の水量が激減してしまう。県城を取り囲む外掘の水量が激減してしまったため、対策が急務となり、 1633年、北から流れる 岩前溪(今の割后溪)が鹿溪と合流する手前のポイントに双溪ダムが築造され、その水を県城側へ流す水路が整備される。以後、城西エリア、城南エリアの農田灌漑や生活用水が復活され、住民らの生活は安定する。後になって双溪ダムが撤去されると、同じポイントに梧桐隙という水門が設けられ、同じく水を南門溪へ引き込む機能を担って、今日に至るという。

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 【漳浦県の 歴史】

南北朝時代、現在の漳浦県一帯は、南安郡(梁安郡)下の 龍溪県(今の 漳州市竜海市顔厝鎮古県村)に統轄されていた。陳王朝の治世時代、閩州(後に豊州へ改称。州都は、今の 福建省福州市)が新設されると、これに属した。

589年に隋朝によって陳王朝が滅ぼされ、南北朝時代が統一されると、翌 590年に豊州は泉州へ改称されるも、2代目皇帝・煬帝の治世下の 607年、泉州が建安郡に改編される。
このとき、建安郡は 閩県(郡都を兼務。今の 福建省福州市)、建安県、南安県、龍溪県(今の 漳州市竜海市顔厝鎮古県村) の 4県を統括した。下地図。

間もなく、龍溪県が廃止され南安県に併合されるも、その南安県も廃止されることとなる。煬帝は 王都・大興城(今の 陝西省西安市)の築城、大運河の建設三度にわたる 高句麗遠征 などで国家財政を破綻させ、これに反比例する形で経費節減のため、地方の県城や郡城の統廃合を進めた一環であった。
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唐代前期の 686年、漳州が新設されると、同時に 漳浦県(州都を兼務。今の 漳州市雲霄県火田鎮西林村)懐恩県(今の 漳州市詔安県中心部・南詔鎮) の 2県が新設される。上地図は 711年当時の様子。

716年、漳江沿いで伝染病が蔓延したことから、漳州役所と漳浦県役所がそろって、李澳川(今の鹿渓)の 河畔(今の 漳州市漳浦県中心部・綏安鎮)へ移転される。ここに、【二代目】漳州城が誕生する。当初は州城の築城が見送られたが、後に工事が着手されたと考えられる。

741年、伝染病の流行で人口が激減したことから、龍岩県が廃止されて 龍溪県(同年、北の泉州から漳州へ編入される)に、また懐恩県も廃止され漳浦県に、それぞれ吸収合併される。

786年、漳州刺史・陳謨継の建議により、漳州役所が 龍溪県下の 桂林村(今の 漳州市中心部・薌城区にある漳州古城)へ移転される。【三代目】漳州城の誕生。
このとき、【二代目】漳浦県はそのまま継続されることとなり、清末まで漳州に帰属することとなる。
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唐代末期の 886年8月、王潮(846~898年)、王審邽、王審知(862~925年)の三兄弟は、寿州(現在の 安徽省淮南市寿県)の首領・王緒に従って農民軍を率いて福建省へ南下し、刺史の廖彦若を処刑して泉州城を占領する。王潮らは福建観察使の 陳岩(849~892年)の武名を恐れ、北上して 福州城 を攻めることはせず、そのまま陳岩に帰順を申し出ると、配下に組み込まれ泉州刺史に任命される(886年。上地図)。その後、朝廷内で司空、司徒、御史大夫へ出世した陳岩であったが、間もなく死去すると(892年正月)、陳岩の妻の実弟であった范暉が勝手に福州城を占拠したため、王潮と対立し、2年の抗争を経て福州城も併合されることとなる(893年)。
907年に唐王朝が滅亡すると、五代十国時代がスタートする。これにあわせて、王潮の跡を継いだ末弟・王審知により、 泉州 ・福州城を中心とする閩国が建国される(上地図)。

以後、947年に南唐国が閩国を併合するまでの間、漳州の地はこの 閩国(909~945年。五代十国の一つ)の領地に組み込まれた。
しかし、王審知の死後、後継者争いが続き、閩国の国政は迷走する。南唐国はこれに乗じ、945年に閩国に侵攻して 健州、泉州、漳州を占領し、そのまま 王都・福州 へ攻め寄せるも、海路より援軍に来た呉越国との対戦で大敗を喫してしまう(下地図。947年以降、福州城は呉越国に併合された)。

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同時に、泉州と 漳州(946~966年の間、南州へ改名)で反南唐の挙兵が決起され、南唐国の進駐軍が追放されると、そのまま泉州刺史の 留從效(906~962年)が、独立勢力として実効支配する。その後、南唐国に帰順すると、949年、南唐国は留從效を、泉州・南州の 2州を統括する清源節度使として追認する。
962年、留從效が死去すると、陳洪進(914~985年)がその職位を継承する。 翌 963年、清源軍(泉州、莆田、南州を統括)が平海軍へ改称される(上地図)。966年、南州が漳州へ戻される。

最終的にその南唐国も 975年、王都・金陵城(現在の 江蘇省南京市)を北宋に攻められて降伏すると、北宋による中国統一がなる。北宋朝の半属国として生き延びていた 呉越国(王都は 福州城)も、いよいよ北宋の外交圧力を受け、978年に領土を献上することとなる。その際、平海軍節度使として留任されていた陳洪進も北宋朝へ帰順し、漳州はじめ平海軍すべてが北宋に併合されることとなった。以後、福建路が新設され、漳州はこれに統括された。

元代には漳州路に、明代には福建省下の漳州府に、清代には汀漳龍道下の漳州府とされるも、基本的に配下の行政区に変更は加えられなかった。


現在、漳浦県下には、21郷村にわたって合計、77もの城塞集落遺跡が現存する。

その最大のものが、漳浦県 中心部(綏安鎮)の南東 35kmにある、湖西鎮城内村の詒安堡(詒安城)である(下写真)。上空から見ると、U字型デザインで集落全体を取り囲んむ城壁は、花崗岩を加工して積み上げた全面石積みスタイルで、厚さ 2.2 m、高さ 6.7 m、全長 1,200 mという(上には騎道も整備されていた。下写真)。この城塞集落は、清朝の鄭氏台湾平定戦で功績を挙げた 黄性震(1638~1702年)が、 1687年に建造したものという。城内には、今でも黄氏の末裔たちが数多く居住する。

当初は鄭成功に与していた黄性震であったが、息子の鄭経が政権を 継承後(1662年~)、徐々に治世が腐敗していく様子を目の当たりにし、清朝に帰参することとなる。1678年、鄭軍の 最高司令官・劉国軒(1629年~1693年)が本拠地の 厦門 を出陣し、同安県(今の 厦門市同安区大同街道)、長泰県(今の 漳州市長泰県岩溪鎮石銘村)、平和県(今の 漳州市平和県九峰鎮)、海澄県(今の 漳州市竜海市)など 10県を占領した際、清軍は大いに狼狽する。福建総督に任命されたばかりだった 姚启聖(1624~1683年)が漳州一帯を視察した際、故郷に帰っていた黄性震がその陣中に出向いて、「平台十策」と称される作戦を提起したとされる。その要点は、鄭軍の主力らとまともに軍事衝突せず、また台湾島は気候も全く異なるため直接侵攻せずに、敵軍を内部から瓦解させる方法を説いたという。それは金品で人心を買い、官位で人を引き抜き、残った勢力を手薄なものから掃討して、徐々に主力部隊の気勢を削いでいく、という中期計画であった。この作戦を採用した姚启聖は順調に占領地を再接収し、劉国軒の率いた主力部隊を海澄県城に押し込めることに成功する。さらに時間をかけて人心の買収工作を続け、1680年に海澄県城、金門や厦門などを攻略し、鄭経らは大陸中国の拠点を完全に喪失し、澎湖諸島へ引き上げることとなる
同時に、台湾本島へも工作員が派遣され、1681年6月までに 4万人以上が台湾から清朝へ帰国し、双方のパワーバランス崩壊が決定的となる。 続いて 1682年、水軍提督の施琅に澎湖諸島攻撃を指示し、翌 1683年に海上遠征が決行されると、わずか 7日で澎湖諸島は占領され、そのまま台湾本島へ侵攻することなく降伏に追い込むことに成功したのだった。この功績を高く買われた黄性震は、特別に康熙帝に拝謁することを許され、軍功正一品を授与される。以後、山西按察司僉事、広西按察使司按察使、湖南布政使司布政使、大常寺卿などを歴任することとなった。

漳浦県 漳浦県

また、この城塞集落とほぼ同サイズの土楼が、ここから南へ、車で 10分の位置にある。
これが湖西郷の碩高山北西の麓に立地する趙家堡で(見学料 10元)、楕円形デザインとなっており、地元では両者あわせて「城塞集落姉妹」と通称されている。

南宋朝の王都・臨安 が陥落後(1276年)、残党勢力らはモンゴル軍の追撃から逃れるべく、広東省の崖山 へと逃避行を繰り返すこととなる(1279年に全滅)。この過程で、宋宗室の一人であった 趙若和(北宋朝の太祖・趙匡胤の弟である 趙匡美の第 10世孫)はモンゴル軍の追尾を逃れるため、その残党勢力の一行から離脱し、漳浦県下の山岳地帯に逃亡する。そのまま黄という苗字に改姓し、漳浦県下の 佛潭橋積美村(今の 漳浦県佛雲石埕村積美)に家を建てて、終生、この地で隠棲することとなる。
そのままひっそりと土着化していたが、元王朝が滅び明朝が建国されると、 1385年、子孫にあたる黄明官が自身の祖先は北宋皇室の趙若和であり、趙姓への復帰を朝廷に願い出る。御史の朱鍳の調査により、同一氏族であることが証明されたため、晴れて趙姓への復活を認められることとなった。

そのまま月日は流れ、明代後期に至る頃、趙一族の中から秀才が輩出される。
趙若和のちょうど第 10世孫である 趙范(1543~1617年)で、 1571年に進士に合格すると、政府高官となり 南京廬州府下の 無為州長官、河南彰德府磁州長官、戸部陝西司員外郎、貴州司郎中、浙江按察司副使などを歴任する。1589年夏に母親が死去すると、これを契機に故郷へ戻り、隠居生活に入る。そうした中、地元で飢饉が発生すると、私財を投じて数千人を救済したという。
また同時期、沿岸部からは倭寇が、山間部からは山賊らが度々襲来しており、趙范は趙氏一族の人家を守るべく、低い丘陵であった碩高山に集落を移した後、 1600年の年末から 城塞集落(趙家堡)の建造に着手する。 1604年夏に 城塞楼閣「完璧楼」が完成すると、続いて周辺に住宅を建設していく。最終的に 1613年に内外の家屋全体が完成すると、 4年後の 1617年に趙范は死去するのだった。さらに 2年後の 1619年、趙公瑞が 父・趙范の偉業を継承し、家屋全体を取り囲む外周城壁の建造に着手する。朝廷へ届け出た後、すぐに許可が下りると、北宋時代の 王都・開封城(今の 河南省開封市) や、 南宋時代の 王都・臨安城(今の 浙江省杭州市)にあった王城スタイルをまねて、内城と外城の二重設計を目指したとされる。早くも翌 1620年中に、全長 1.5 kmもの外周城壁が完成されると、いよいよ現在に見る城塞集落がその姿を現したのだった(下写真。内部面積約 5,000 m2)。以降、宋代の建築や彫刻など、往時を偲ぶデザインが建物や広場など各所に盛り込まれていったという。

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なお、最初に建設された楼閣部分(完璧楼。高さ 20 m、建物面積 484 m2)が城塞の中枢を成しており、各階には部屋が 16室、小部屋が 48室、装備されていた。下写真。
この楼閣入口には「完璧楼」の三文字が刻まれており、その文意は「完璧帰趙(完璧楼は趙家のもの)」という。

また、外周城壁は石材で枠組みを構成しつつ、全体は土壁で建設されており、その高さは 6m、厚さは 2 m強といい、壁上には凹凸壁も増設されていた(上写真)。
さらに東西南北に四つの入り口があり、東門には「東方鉅障」、西門には「碩高居勝」、南門には「丹鼎鐘祥」と刻印された額縁を有し、唯一、北門のみ何も掲示されていなかった。建物中庭には東門外へ通じる秘密の地下道が一つ、掘削されていたという。
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さて、この外周城壁に囲まれた趙家の集落地であるが、五つの進府第が整然と建ち並んでおり、それらは 2F 建てで各 30部屋を有し、合計で 150部屋が配されていた。ここは城塞内で「官庁」と呼ばれて中央部に配され(上模型写真参照)、その「官庁」前には、魚が泳ぐ池が設けられていた。その池上には凝ったデザインの汴派橋という橋がかけられ、今も現存する。
この他、当地の見どころとしては進士坊、修竹花園、輯卿小院、聚佛宝塔などがあり、これら各所に配された石材には 墨池、悟石、読書処、雲巢などと刻み込まれ、往時の趙家の人々の気位の高い生活をイメージできる材料となっている。
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さらに北に立地する 藍廷珍府第 であるが、1727年に建設されたもので、 300年近い歴史を有する邸宅遺跡という。
台湾総督を退職した 藍廷珍(1664~1730年)が故郷に帰って隠居した際に建てたと考えられており、この地で孫の 藍元枚(1736~1787年)が誕生し、祖父と同じく台湾総督に任官されることとなるのだった。

藍廷珍は地元出身で、若くして軍隊に所属し出世した、たたき上げの人物であった。 浙江省の定海鎮浙江の温州鎮台湾・澎湖諸島 などに現場指揮官として配属され、おもに海防を担当した。そして、澎湖諸島で協副将、および 南澳鎮総兵(軍長官)の職位にあったとき、台湾で朱一貴の反乱が勃発する(1721年)。すぐに軍を率いて平定した功績が認められ、さらに福建台湾鎮総兵官に昇進する。最終的に 1723年に福建水師提督に任命され、 1727年に退任し、家族を伴って当地に隠棲したのだった。それから 2年後に病没する。

その子に 藍日寵(藍天秀)があり、孫として藍元枚が誕生することとなる。祖父と同じく軍人の道を歩み、1773年、若くして 台湾鎮総兵(軍長官)に着任する。まだまだ経験不足だった彼は祖父の名誉を顕彰して任官されただけで、特に実質的な権限はなかったと言われる。その後、金門鎮総兵、蘇松鎮総兵などを歴任した。 1784年には江南提督に、1786年には福建陸路提督に、そして同時に福建水師提督へと出世していくこととなる。 翌 1787年に彼が自ら兵を率いて台湾へ渡海し、林爽文の反乱を平定する。間もなく、その台湾の地で死去した。

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その他、県下で最大の城塞集落とされ、必見の名所旧跡に挙げられるのが、深土鎮にある錦江楼である(上写真)。内外を三重の円楼で取り囲み、最大の直径は 58 mもあるという。逆に最小の城塞遺跡は大南坂鎮にある周軍堡で、その直径はわずかに 12 mのみだが、それでも例外にもれず、2~3階建ての楼閣を組み上げているという。なお、長橋鎮東升村にある詒燕楼は 4階建てとなっており、この最大城塞集落・錦江楼の中央部に位置する主楼も 4階建てで(上写真)、珍しい設計となっている。

その他、赤湖鎮にもかつて対倭寇戦のための城塞集落があったが、今は城壁類は撤去されている(下写真は、1902年に撮影された、村の西門跡。当時はまだ、石積み城壁と城門が残っていた)。しかし、赤湖鎮内でも土楼などは複数、現存し、観光に事欠かない。
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さらに東には、佛曇鍳湖古兵営も残る。
別名、人和楼と称され、漳浦県政府により歴史遺産指定を受けている。明代の 1522~1619年の 100年の間に、現存する 人和楼、附楼、山寨などの建築物群が順次、建造されていったといい、現在の総敷地面積は 10ヘクタールで、外周城壁と内楼で構成する台形型の土楼となっている。その外壁の厚さは 1.1 m、高さは約 6 mという。内楼はその中央部に位置し、縦 45 m × 横 24 mで設計されている。
また北西角には、平面積約 10 m2の 3階建ての角楼(櫓)が突出する形で増設されている。かつて、主楼門上には人和楼の額縁があったが、今は喪失されているという。

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また、鹿渓(旧名:李澳川)と浯江が海へとつながる、河口部に位置する旧鎮鎮であるが、北宋時代にはすでに交易集落として発展しており、1086年に敦照鎮が正式に新設される(上地図)。その後、地元では 牯鎮、古鎮、旧鎮などと呼ばれるようになり、最終的に清代中期の 1700年ごろに旧鎮鎮へ改称されて以降、今日に至る。この河口集落は古くから台湾交易で栄えた港町であった。
明代末期、倭寇らの襲撃が激化すると、福建参政の施郅矅が河口集落「旧鎮」を守るべく、城壁の建造に着手する。
この時、築城された城塞は、その東門が今の城内村の石柄輔信公廟から東へ約 80 mの地点に立地したという。城壁はそのまま南へ伸び、旧鎮港まで連なっていた(今は埋め立てられて道路が広がっている)、北は今の旧鎮中心小学校の校舎後方まで連なり、古寨尾山の山麓まで伸びていた。

対倭寇戦争の際、当地に進駐した兵士らのうち、鄭という者の子孫がこの城内に住み続けることとなり、これ以降、城内村と通称されるようになる。その後、陳姓の一族も住むようになり、さらに黄姓、李姓、呉姓などが移住してきて、東城門外にも集落を形成すると、城外村と命名される。こうして、現在に残る、城内村と城外村という二つの村が誕生したということだった。
特に、城外村は明代、清代において、水上交易集落として最盛期を迎え、后港尾から魚仔街あたりまでの街道沿いには数多くの交易船が停泊していたという。北は 台州温州上海南通 から、東は 台湾 まで、幅広い交易ネットワークを有した。

当地の名所旧跡としては、明代に建立された 輔信公廟(城外村石柄。唐代に陳元光の部下として入植者を指揮した将軍・李伯瑶を主神とする)、清代初期に建立された 媽祖廟(もともとは、城外村新福街の中央部に立地したが、 1932年に道路拡張にともない翰林府の左側へ移築)、石室家廟(城外村紅埭の南西側の紅灯山中腹。石柄村・陳氏の開祖の子・義公を祀る)、明代建立の 関帝廟(城外村崎街の端)、清代の 1731年に建立の 翰林府(進士に合格し、翰林院で庶吉士【研究生】となった、欽賜の邸宅跡)などが残る。特に、銃城遺跡(城外村石柄の北西側の 銃城山山頂)は明末の 1633年に、福建参政の施邦曜が倭寇対策で建造した砲台陣地跡で、今では山頂の巨石に「功徳碑」と刻まれた文言が残るのみとなっている。
その他、烏石天后宮、海雲岩、垢洗書院、武当行宮なども挙げられる。特に「海屋」と呼ばれる岩場遺跡であるが、古くから文化人らが物見雄山で立ち寄った名所で、巨大な石がたくさん乱立する風景は一見に値する。岩場の岸壁上には、古代よりさまざまに彫刻された文字が見られるという。

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さらに、この南に位置する六鰲半島の先端部には、六鰲古城が残る。ここは、漳浦県バスターミナルから、一日 15便の直行バスが運行されている(10元、50分に一便)。

六鰲半島の先端にある青山の中腹に、山全体を取り囲むように設計され、天然の岩盤の起伏に沿って蛇行して建造されていた。上空から見ると、不規則な三角形のような円形となっており、現在、六鰲鎮の西側にその城壁の一部が残るのみとなっている。
全て長方形に加工された石材を積み上げた城壁は、全長 1,815 m、厚さ 2~3 m、高さ 6 mで、現在、壁内側はガジュマロの樹が生い茂って分かりづらくなっているが、壁面外はそのまま海が外堀として取り囲んでおり、堅城ぶりを訪問者に見せつけている。

また、南西、南、北の 3城門を有し、それぞれに土壁の楼閣が増設されていた。あわせて水門も設けられており、東面と西面に合計 5ヵ所が現存する。これらは、大雨時の排水用であり、また戦時の緊急避難経路として使用されていたという。その他、城壁上には兵舎や見張り台も残る。
城の中央にある山上には、「海天一覧」と刻印された巨石があり、その周囲には、当地を守備した明代の守将らの指示内容などを刻印した石板が多数、残されている。また北東隅の外には明代に建立された関帝廟が、北側には兪大猷の倭寇撃退を記念する碑文『憲伯兪公澤枯靖海碑記』が残されている。

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もともと六鰲半島は、宋代には安仁郷下の含恩里に属していた。元代になって、青山巡検司という役所が初めて開設される。明代初期の 1388年、倭寇の襲撃に対抗すべく、陸鰲守御千戸所が建造されると、鎮海衛(今の 漳州市竜海市隆教郷鎮海村)に統轄された(上地図)。
周囲を海に囲まれた岬上に立つ、青山の中腹を城壁で取り囲む形で建造されており、まさにウミガメ竜が丘を背負った姿に見えたこと(巨鰲載岳)から、陸鰲城と命名されたという。同時に、青山も陸鰲山へ改称されることとなった。

陸鰲守御千戸所は、半島の住民らを軍戸に組み入れて沿岸部の防衛拠点の一角を担うこととされたが、1550年ごろに営所制度が機能せず、倭寇によって占領されてしまう。
1566年、戚継光と兪大猷が浙江省から福建省へ進駐し、内陸奥深くまで侵攻していた倭寇らを駆逐すると、戚継光は沿岸部に守備部隊を配置させていく(下地図)。その一環で、一部隊が陸鰲城の城外にも駐屯することとなり、地元で浙兵営と通称されることとなった。現在の堂山土兵営の前身とされる。

漳浦県

清代に軍戸制度が廃止され、保甲制度(10戸で一保、10保で一甲を単位とする 村民統治システム)が採用されると、清代初期に六鰲半島は陸鰲保と龍澳保の二保体制とされた。しかし、鄭氏台湾に対抗すべく、1662年に遷界制が導入され、村民らが内陸部へ強制移住させられる(このうちの一部は、鄭氏台湾へ逃亡した)と、1679年まで無人地帯と化す。同年に強制移住が解除されるも、多くの村民らは六鰲半島に戻ることはなく、以降、人口は激減するのだった。これにあわせて保甲制度も改編され、1700年、陸鰲保と龍澳保の二保が合体されて、龍鰲保のみにまとめられる。
清代を通じて、旧鎮鎮、深土鎮一帯の人々が徐々に六鰲半島へ移住すようになり、居住人口は緩やかに増加していった。

中華民国時代に至ると保甲制度が廃止され、里隣制度(治安と軍事活動のための隣組組織)が採用される。以後、全半島は六鰲里と命名される。この時から、「陸鰲」はより簡便に「六鰲」と記されるようになり、現在の地名として定着することとなるのだった。



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