BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



福建省 漳州市 雲霄県 ~ 県内人口 50万人、 一人当たり GDP 98,000 元(漳州市 全体)


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  雲陵城(雲陵駅城、雲陵撫民庁城)と 北門(水月楼)
  威恵廟 と 燕翼宮
  女革命家・秋瑾(1875~1907年)の 生家
  英済宮 と 莆美堡
  西林城(【初代】漳州城 & 漳浦県城、綏安県城)
  軍陂(灌漑遺跡)
  菜埔堡
  下河村古城



高速鉄道駅「雲霄駅」で下車後、地元の 15番路線バス(銅陵バスターミナル行)にて、東山バスターミナル 前で下車し、この近くにある 7天ホテルに投宿する。翌日、この東山バス・ターミナルから郊外バスで雲霄県バスターミナルに移動した。全国チェーンの 7天ホテルがここしかなかったため、漳州市西部を巡る旅に、数日間、滞在することにしたのだった。

もちろん直接、この高速鉄道駅「雲霄駅」から ⑥番路線バスに乗車すれば、直接、北の雲霄県中心部を訪問することも可能だ。県バスターミナル、南市場、人民公園などを経由する「将軍山」行のバスが往来している。

さて雲霄県中心部では、まず「人民公園」を目指す。ここが雲陵鎮で、かつての 雲陵城(雲陵駅城、雲陵撫民庁城)が立地していた旧市街地である(下地図)。このエリア内に東市場、呉原享堂(明代、中央朝廷で戸部左侍郎にまで出世した、地元出身の 呉原【1431~1495年】の死後、勅令により建造された墓所の一部)、秋瑾(下解説参照)の 生家、威恵廟、天后宮、開漳聖王府祖廟燕翼宮(陳元光の旧邸宅)などが点在する。その西端には、雲霄民俗文化博物館も立地する。
また東端には現在、漳江沿いに雲陵鎮政府や雲霄県中医院がある(下地図)。

雲霄県



 威恵廟
現在、雲霄県一帯には、優に 100は越える数の開漳聖王廟が建立されている。当地で厚い信仰を集める開漳聖王とは、唐代前期の 669年、朝廷から蛮族の反乱鎮定のために派遣され、そのまま当地に駐留して中央集権体制の導入を主導した 陳政(616~677年)、陳元光(657~711年)父子のことを指す(特に 686年に初代漳州長官となった息子を指す)。あわせて、彼らの子孫やこれを支えた家臣らも開漳聖王巡安として合祀されている。未開の地を開墾し、中原文化の普及に尽力した彼らは、福建省南部で「漳州の父」として崇められ、今でも各地の開漳聖王廟で線香の煙が途絶えることはないという。

この威恵廟であるが、雲霄古城エリアの西門外に相当する(下地図)、西園街工農路 557号に立地しており、もともとは 684年、陳元光が 父・陳政のために(677年死去)、陳将軍廟として各駐屯地や集落に建立していたものの一つで、現存する廟堂のうち最古、と指摘される。間もなく、陳政とともに、開漳聖王として称えられた陳元光や部下らも合祀されると、父に代わって子の陳元光が 主神(聖王)に定められることとなった(父は蛮族の平定戦の途中に陣没したため、21歳で総司令官を継承した 息子・陳元光が鎮圧戦を完遂し、686年に唐朝廷から 初代・漳州長官に任命されて、地元支配を実質的に指揮したため)。
北宋時代末期の 1113年、朝廷から直々に「威惠廟」と記した額縁が下賜されると、開漳聖王廟から威惠廟へ改称され、そのまま今日に至るわけである。その後、長い月日の中で幾たびもの修復工事を経た記録が残る。特に、 1491年と 1631年、1840年、1890年の工事記録に関する石碑が現存する。現在の廟所は、明代の 1490年代の建築スタイルが主に踏襲されているという。

雲霄県

 燕翼宮
もともとは 686年、初代・漳州刺史に任命された陳元光のために、唐朝廷から下賜された邸宅という。
当時、陳元光は自身の本拠地を 漳州城(この旧市街地から北へ 5 kmの火田鎮西林村)に置いていたわけで、その邸宅が当地にあることから推察すると、漳州域内の屯田開発や治安維持のため、彼は各地に入植地や進駐軍の駐屯基地を開設し、定期的に視察・滞在していたわけで、その各所に自分専用の屋敷を設けていたと思われる。こうした駐屯基地の一つが当地の旧市街地区・雲霄古城であり、当時、漳江沿いにも複数、整備されたと考えられる。後世、これら唐代の駐屯基地が集落化され、各地の村落拠点や都市となっていったのだろう。

彼の邸宅は 1300年を経る中で度々、改修工事が施されており、特に北宋時代の 1070年ごろに再建された際、「開漳祖廟」の額縁が掲げられ、以後、宮廟へ改称されることとなる。現在、地元では王府と通称されている、この陳元光の旧邸宅跡は、 2013年に福建省政府により歴史遺産指定を受けている。


 頂関帝廟
現在、雲霄県雲陵鎮大園街と南強路の交差点に立地し、協天大帝廟とも別称される。かつて、雲霄城の北東には関帝廟が 2か所あったため、地元ではその地理上の方位を冠して、頂廟と下廟と略称し区別していた。その前者のものが、ここに現存するわけである。
明代後期の 1550年ごろに創建され、長い間、廃墟となっていたものを、清代後期の 1880年に再建されたという。約 400 m2の敷地面積を誇り、東北向きに設計された頂関帝廟の内部には、この再建工事を主導した雲霄庁長官・秋嘉禾(革命家・秋瑾の祖父。下写真)が自ら記した額縁『聖不可知』が、今も現存する。現在、雲霄県政府により史跡指定を受けている。
雲霄県
 秋瑾の生家
秋瑾(1875~1907年。上写真)は本名を秋閨瑾といい、祖父・秋嘉禾(1831~1894年。1865年に科挙合格)が雲霄庁長官として一家を伴い、当地に赴任した翌年に誕生する。この邸宅は、1803年に建設されたもので歴代庁長官の官邸として使用されつつ、紫陽書院(七先生祠)として地元の教育機関も併設されていたという。 1890年まで祖父が雲霄庁長官を務めたことから、秋瑾はその幼少期をこの邸宅で過ごしたという(実際には、祖父が南平県長官などにも着任したため、これに同行して福建省内を幾度も、引っ越ししていたと考えられる)。
その後、父祖の地である浙江省・紹興へ移住する。この間、母親が教育熱心だったことから、秋瑾は幼いときから兄と共に家庭教師をつけられて高度な教育を授けられ、 15歳のとき、従兄とともに騎馬や刀剣を習い始めたとされる。
秋瑾の父・秋寿南も高級官僚で、間もなく湖南郴州長官に出世する。1895年、父の転勤にともない、19歳の秋瑾も湖南省湘潭県に移住する。秋寿南はこの地で、湘潭県下で最も富裕な一族で、曾国藩の従弟であった王殿丞と知り合う。王は娘の秋瑾生を見ると、自分の息子である 王廷鈞(1879~1909年。4歳若かった)との婚約を願い出る。秋瑾はこの婚姻に不満であったが、封建社会の中、父母に逆らえず、1896年4月20日、渋々結婚するに至る。1897年6月に 長男(王沅徳)を、また 1901年に 長女(王灿芝)を産む。1904年7月、封建社会からの脱出を試みた秋瑾は、夫の反対を押し切り自費で東京留学を決行する。当地で 洪門天地会(三合会。末尾参照)に参加し、また孫文とも知り合って革命運動に没頭するようになる。
1907年、母の葬儀にともない中国に帰国すると、祖父の旧宅であった浙江省の紹興城南門付近に居住し(この旧宅は今も地元で観光名所として保存されている。今の 紹興市区塔山西脇にある 邸宅「和暢堂」)、現地での革命運動のリーダーとなる。しかし、現地の 盟友・徐錫麟(1873~1907年)との連携に失敗し(彼は秋瑾の愛人でもあったとされ、7月6日夜、学生 100人余りで決起し、安徽巡撫の恩銘を暗殺することに成功するも、治安部隊に包囲されて 4時間余りの死闘後に捕縛され、翌日、陵遅刑により惨殺される)、これを聞き及んだ秋瑾は逃げることも戦うこともせず、拠点を包囲した清軍に無抵抗で逮捕される(同年 7月13日)。この時に、「秋風秋雨愁煞人」の一言のみ残したという。2日後の 7月15日早朝、紹興軒亭口(紹興市鬧市区横府街に記念碑が残る)の刑場で斬首された。
以後、封建社会打倒のための革命有志の一人として祀り上げられることとなる。その数奇な人生と、男女平等を目指して「強い女性」を貫いた生き方は、国民党や共産党でも大いに誇示され、度々、彼女を題材にした映画が制作されることとなった。

 水月楼
明代に建立され、清代中期の 1805年に再建されたものが、現在、雲霄県雲陵鎮の溪美街に現存する。雲霄古城の城壁が高さ 4 m、長さ 20 mにわたって残っており、その中央部に立地する北城門の上に設けられた城門楼閣で、建物面積は約 350 m2、東北向きに設計されていた。「水月金容」と刻まれた門額が掲げられており、現在、県政府から史跡指定を受けている。

 天后宮
現在、雲霄県雲陵鎮下の大園街と南強路との交差点に立地し、媽祖宮と通称される。もともとは明代に創建されたもので、清代に 3回ほど再建工事が施されている。
敷地面積は 600 m2で北東向きに設計され、前後に両殿を有する。境内には、清代に整備された透雕蟠龍石柱と牡丹鳳凰石柱の各 1対が現存し、県政府から史跡指定を受けている。

また、この雲陵鎮から南西 500 mに隣接する「莆美鎮」にも名所旧跡が残る。

 下営将軍廟遺跡
雲霄県莆美鎮前埔村に残る史跡で、唐代前期、漳江沿いの屯田開発と治安維持のために進駐した唐軍の駐屯基地跡の一つで、当時、唐軍の総司令官であった陳元光が、677年に陣没した 父・陳政を祀るために各駐留拠点や集落地ごとに建立させた廟堂の名残りという(684年)。こうした駐留拠点は時とともに集落化、村落化を遂げ、引き続き、住民らによって廟堂が大切に保護されてきたわけである。
なお、もともとは陳政を祀った廟堂であったが、後にその子の陳元光を開漳聖王として祀る官廟へ変更されることとなる。
元代初期、南宋政権の復興を目指した 陳吊眼(1250~1282年)が、山間部の 畲族(シェ族)を率いて、漳州一帯の住民らと共に武装蜂起すると、その兵火に巻き込まれて廟堂はいったん焼失されてしまうも、すぐに元の場所に再建される。現存する本殿は南向きに設計され、その建物面積は約 350 m2という。
1997年に広東省政府によって発掘調査が進められた際、唐代、宋代の陶瓷片や紅色筒瓦、灰硬陶瓦飾などが大量に出土したという。それらには 684年、686年、712年などと唐代の年代が記された文物が含まれており、当時から屯田兵らが駐留した証拠となっている。


 英済宮 と 莆美堡
雲霄莆美鎮莆美村に残る英済宮は、明代中期の 1550年ごろに建立された張氏の祖先廟である。倭寇が莆美村を襲撃した際に破壊されてしまうも、後に同郷の一族らが寄付を出し合って再建したものという。
この張氏の集落地にある莆美堡は、まさにこの明代の倭寇暗躍の時代に建造された庶民らの自衛城塞で、現在、城門と城壁が部分的に残るという。



続いて、漳江のさらに 5 km上流にある火田鎮西林村を目指す。

ここは、東晋時代末期の 413年~隋代初期の 592年までの期間、綏安県城が開設されていた場所であり、また唐代前期の 30年間(686年~716年)、【初代】漳州城(漳浦県城)が立地したポイントである。しかし、当地は低温多湿な気候であったことから、兵士らの間で伝染病が流行したため、716年に州役所と県役所が共に、当時、「李澳川」と呼ばれていた「鹿渓」の 中流域(現在の 漳州市漳浦県綏安鎮)へ移転されることとなる【二代目・漳州城】

こうして【初代】漳州城はいったん廃城となるも、この古城跡地は引き続き、軍の駐留基地、および地方役所が開設され続けたようで、その遺構が今日まで現存する。往時の城下町もそのまま存続され、現在の西林村の北西端の漳江沿いに、元代に建立されたという 開漳聖王廟(上林聖宮)が今も残る。
当地は現在、完全なる田舎町で、史跡以外の見どころはなく、周囲には広大な農田エリアが広がるだけとなっている。この農村地帯こそ、唐代前期に朝廷から派遣された屯田兵らが、汗水たらして開墾した土地というわけである。

雲霄県

再び、雲霄県バスターミナルに戻り、さらに東進して 漳浦県 中心部(綏安鎮)へ移動し、唐代中期から新築されたという【二代目】漳州城(漳浦県城)跡の旧市街地を訪問してみることにした(地元博物館あり)。



 西林城(【初代】漳州城 & 漳浦県城、綏安県城)
唐朝廷により現地遠征軍の総司令官に任じられていた陳元光は、山間部に跋扈する蛮族の平定戦がほぼ完了した 686年、現地支配のため中央集権体制の導入を朝廷に上奏すると、付近を流れる大河「漳江」にちなみ、漳州が新設されることとなる。そのまま 初代・漳州刺史に任命されると、旧綏安城跡を本拠地とした陳元光は、これを【初代】漳州城(漳浦県城)に定める。

現在、雲霄県火田鎮西林村に残る西林城跡は、城壁周囲の全長が約 4 km、敷地面積が 1.5万 m2で細長い楕円形型となっており、現在も西林村の中心部を成し、まさに新旧の町並みが同居する状態で、その姿を今に残す。眼下に流れる漳江沿いに築城されており、すぐ北隣には菜埔村が広がる。

目下、南面城壁と北西の城壁面の一部基礎土塁のみが残されており、石材を中層と上層に組み込み、土と粘土を煉り合せた土壁で、外面が覆われていた構造がよく分かるという。
また古城北面では、掘割がはっきりと目視できる状態で現存する。南面は漳江を天然の堀に利用していた。この漳江へ通じる水路がもともとは三つあり、そのまま城内へ船で往来できたという。今は水路と水門一つずつが現存する。
漳江を隔てた南岸には、古い船着き場が残されており、往時のままの姿を残す石畳や石階段が古碼頭遺跡となっている。対して、古城側では東城門に船着き場が設けられており、当時の土地神を祀った廟堂が残る。

さらに古城地区の北西面の内側には、古い指揮台が残る。地元の人が土樓と呼ぶもので、三層の土塁で盛り上げられており(全体の高さは 5 m)、周囲は堀で囲まれていた。下段の高さは 3 m、横幅 54 m、縦幅 45 mで、中段の高さは 1.5 m、横幅 26 m、縦寬 15 m、さらに上段(横幅は 20 m、縦幅は 9 m)がかぶさる構造で、この上段部には建築物と土壁があったと推定されている。

この指揮台の南 100 mの場所に軍営山と呼ばれる、中華鍋をひっくり返したようなこんもりした丘陵があり、中央部のみが突出している(周囲は約 15 mほど)。南北の直径が約 600 m、東西が約 400 mで、平面で見ると楕円形となっており、総面積は約 20,000 m2という。軍営山の四方には掘割が掘削されており、外部と地形的に断絶されていたようである。今もその掘割の遺構が現存する。

また、西林城の北東の隅、位置としては城外の城壁に近い場所に演兵壇が残る。その六角形型の頂上部は平坦に整備されており、外周は石材が組み上げられていた。
また城外には、二つ並んで立地する指揮官らの幹部施設跡が見られ、それぞれ縣衙と郡衙と通称される。その敷地範囲は南北 120 m、東西 40 m強という。その跡地の北側の後方には庭園と、東側には牢房があり、正面にある大門の両脇には警備室の跡が残る。周囲には大量の石板やその破片が散乱しており、当時の建物群の規模を伺い知れる。

その他、城内に残る旧跡としては 軍営巷、糧倉、塩館、五街厝、総兵寨、尚書府などが挙げられる。その中にある蔡総兵寨は保存状態が完璧で、石積みの厚い壁が今も残る。この他、当時、掘削された古井戸や、将兵らが馬を飼育していた際に使用した石槽なども見て回れるという。

なお、この西林城跡は 1400年前の約 30年間ほどしか開設されていなかった【初代】漳州城(漳浦県城)のものというより、その跡地を大規模拡張させた元代の兵士駐留基地だった可能性が高い。 南宋末期に勃発した陳吊眼の率いる民衆反乱(1280~1282)を鎮圧するために、造営されたモンゴル軍の要塞陣地だったと考えられる。
未だ広東省で南宋の残党勢力との抗争が続いていた 1278年、漳州路総管同知であった 陳君用(宣武将軍、南勝伯。元朝の建国の功臣の一人)が反乱軍に対峙すべく、この西林城に駐屯していた。現存する五通廟は五方の神を祀る廟堂で、陳君用によってこの滞在時に創建されたと言われる。

なお、元軍の西林城は明代初期の戦火により消失されてしまっており、明代、清代には対倭寇用の城塞として、さらに鄭成功の駐屯基地として大改修され転用されていたと考えられる(下地図の左下の、内通路豪仔林か?)。戦乱がなくなった後は、周囲の農村集落に守られる形で、今日まで往時の遺構を保持できたようである。現在、一帯は県政府指定の歴史遺産に登録されている。

雲霄県


 軍陂
火田鎮竹根潭村に残る歴史遺産で、現在、県政府から史跡指定を受けている。
唐代初期(668~679年ごろ)、陳政、陳元光の父子が朝廷軍を率いて福建省南部へ進駐し、一帯に跋扈した蛮族らの反乱平定戦を展開中に、当地の実効支配を進めるべく、屯田兵らを駆使して農地開墾も同時進行で進めていった名残りという。当時、整備された灌漑施設が今も残っており、軍陂と通称される。
そのまま明代まで利用されてきたが、清代に入って大規模に改修され、現在、加工した石材を積み上げつつ、すき間を石灰で塗り固めて補強した貯水池ダムが残る。このダム壁の断面は上辺 2 m、下辺 4 m、高さ 5 mの台形型となっており、もともとの全長は約 120 mあったという。現在は約 30 mずつ 3ヵ所のダム壁が残る。唐代から整備が始まった用水路は山間部を蛇行するような形で掘削されており(全長 4 km)、後世になって、その沿線上に 6ヵ所の貯水池が増設されたという。こうして総面積 1,000ヘクタール以上もの土地が農地に生まれ変わったのだった。

清代後期の 1858年、用水路「軍陂」沿いに陳元光廟と聖王陂の碑が建立される。その石碑には、清代後期の 1861年に彫刻された 1文(全 379文字)が石板に残されており、その内容は雲霄庁同知の叶宗元が、灌漑施設の船舶利用でもめていた地元民らの裁判の判決文を記したものという。


 菜埔堡
火田鎮菜埔村に現存する倭寇遺跡である。
当地出身の 張士良(1578~1664年)は 1612年に科挙に合格、 1619年に進士になった地元の秀才で、以後、安徽省の貴池県長官や太和県長官、礼部試同考官などを歴任にした後、戸部郎中として中央朝廷に出仕する。さらに出世を重ね 1630年には寧波知府、1634年には河南按察司副使 兼 大梁兵備道となって、河南省下の信陽州に駐在していたが、間もなく李自成の農民反乱が勃発し政局が大混乱となったので、1635年秋ごろに官職を辞して故郷に戻り、隠居生活を送りつつ 87年の生涯を閉じたという。

その晩年期、この城塞集落「菜埔堡」を築城したのだった。当時は海から倭寇が、山から山賊が度々、雲霄鎮城や周囲の村々を襲っていたため、隠居中の張士良は一族が住む数百戸の人家を守るために、住民らから寄付や労働力を集めて城塞集落を建造させる。以後、集落は被災を免れたという。

このとき建造された城塞集落の外壁は粘土で固められた土壁スタイルで、高さ は 5~8 m、全長 600 mとなっていた。外周を掘割と城壁で囲まれた縦長の楕円形型で設計され、その城壁上には凹凸壁も増設されていたという。また、東西南北に四城門を設け(下写真左は、完全な形で残る南門)、損壊した北門上には「拱極門」という石額が今も残る。また北門外 1.3 mの場所には、城塞集落と同時期に設置された貞徳垂芳の石坊も現存する。これは、張士良が祖母を顕彰し建立した紀念碑という。
現在、城塞内には明代、清代に建設された古寺 4つと、明代末期に描かれた浮雕麒麟石照壁が残る。

雲霄県 雲霄県



 【雲霄県の 歴史】

現在の雲霄県一帯では、早くも 6000年前から古代人類の生息が確認されているという。
秦の始皇帝が紀元前 214年に中国華南地方を武力併合すると、翌 213年に郡県制が導入され、雲霄県エリアは新設された南海郡の東端に属した(下地図)。しかし、現実的に支配できたのは 平野、沿岸、街道沿いの「点と線」のみで、山間部などの広大なエリアは、多くの蛮族らがそのまま割拠していた。

前漢王朝を建国した劉邦により、紀元前 195年に南海国が新設されると、その版図に組み込まれる。しかし、紀元前 174年に南海国が蛮族らの支持の下、反漢で挙兵すると、前漢王朝の直轄軍と南越国によって武力鎮圧されてしまう。その旧領は、西隣の南越国下の揭陽県に再編入されることとなった(下地図)。
雲霄県

時は下って東晋時代の 331年、南海郡の東部地区が分離され東官郡が新設されると、同時に綏安県が新設される。この綏安県役所が、現在の雲霄県火田鎮西林村に開設されたわけである。

413年、東官郡がさらに分離され義安郡が新設されると、その郡都は 海陽県城(今の 潮州市中心部) とされ、綏安県もこれに属する。その後、420年に東晋王朝が滅び、劉宋朝が建国されるも 50年後の 479年に斉王朝が政権を簒奪すると、502年までの 30年間、中国華南を支配した(下地図)。

この時期、義安郡の郡役所が海陽県城から綏安県城へ移転されることとなり、郡下 6県の頂点に君臨し、政治、経済、文化の中心都市として繁栄を謳歌したという。こうした背景から、現在の漳州市エリアにおける文明化の発祥は、 この義安郡城を務めた 綏安県城(今の 雲霄県火田鎮西林村)時代であるとする指摘もある(後述する、唐代前期の陳政、陳元光による文明開化説の異説の一つ)。

雲霄県

続く陳朝の治世下でも、義安郡都として継承されるも、589年、北朝の隋王朝により陳王朝が滅ぼされて南北朝時代が統一されると、592年、義安郡役所(間もなく潮州へ改称)は海陽県城へ戻される
同時に綏安県が廃止され、龍溪県(今の 漳州市竜海市顔厝鎮古県村)と 義招県(県役所は、今の 梅州市大埔県湖寮鎮古城村。 607年に万川県へ改称されるも、621年に廃止されると海陽県へ吸収合併された)の 2県の県域に編入される。この時、龍溪県は 泉州(今の 福建省福州市)に、義招県は潮州の行政区に帰属された。つまり、かつての県域は 2つの州に分断されてしまったのだった。

続く 唐代初期(669年)、福建省南部(閩南)エリアで 雷万興、藍奉高らの率いる 畲族(シェ族)を中心とする諸部族連合の大規模な反乱が発生すると、潮陽県城(今の 潮州市中心部)を占領する。これに対抗すべく、 唐王朝は建国の功臣の一人であった 陳政(616~677年)を征討軍司令官に任命する。
彼は 初代皇帝・李世民時代からの軍人で、3代目皇帝・高宗の治世下にあって、老将軍として頼りにされており、左郎将帥徳将軍に任じられたのだった。こうして朝廷側の期待を一身に背負って嶺南行軍総管として出征すると、息子の 陳元光(13歳)を伴って漳州地方へ進駐する。

この時、旧綏安県城(今の 雲霄県火田鎮西林村)を暫定的な本部ベースに定め、蛮族の鎮圧戦を進めるとともに(平野部では一応の平定がなるも、山間部での紛争は長く継続されていくこととなる)、周辺の土地整備と住民支配を進めるべく、主に 綏安溪(漳江)沿いに軍事拠点を開設していった。この時、陳政は古城脇を流れる 大河(綏安溪)に言及し、「この河は、上党郡の清漳河のようである(今の 山西省長治市)」と話した逸話にちなみ、後に漳江と命名されることとなる。
このとき、陳政自身はすでに高齢だったこともあり、実際の執政は実子の陳元光や家臣団に任せ、駐留兵士の屯田、灌漑整備などを進めていったと考えられる。

雲霄県

677年、陳政はそのまま蛮族鎮圧戦の最中、陣没すると、陳元光(21歳)が職務を継承し、嶺南行軍総管に任じられる。こうして 陳元光(657~711年)が本格的に地元支配に手腕を振るうこととなった。

現在の雲霄県中心部から西へ 2.5 kmに、標高 426 mの 将軍山(かつては雲霄山と呼ばれていた)が立地する。
これは、677年に当地で死去した陳政の遺骸を、この山に埋葬したこと由来するという。
総面積は 3.19 km2で、市街地の主要道の一つである陳政路をそのまま西進すると、公園に到達できる。現在、公園内は美術館、児童公園、遊園地、レストラン街などが整備され、その一角に陳政墓園が保存されている。

この陳政墓園には、陳政とその夫人である司空氏が合葬されており、両脇には翁仲、馬、羊などの大型石雕が配置されている。
この将軍山の墓地以外でも、息子の陳元光は駐留軍の士気を維持すべく、各地の駐留基地や屯田兵らの集落地ごとに、父・陳政を祀る廟堂を一斉に建立させていた(684年)。これらが後世になって、逆に自身を主神として祀る開漳聖王廟へと変貌していくわけである。


さらに 10年かけて山間部の平定戦が完遂された 686年、陳元光は唐朝廷に中央集権体制の導入を上奏すると、すぐに許可され漳州が新設される。そのまま陳元光が、初代・漳州刺史に任命された(漳浦県長官も兼務)。彼は本拠地としていた旧綏安県城を、【初代】漳州城(【初代】漳浦県城)に定めることとなる。このとき、同時に新設された懐恩県城は、 今の漳州市詔安県 中心部・南詔鎮に開設された。下地図。

なお、この旧綏安県城が立地した「雲霄県 火田鎮」の地名の由来であるが、陳元光らが入植するまで、地元の民族らは焼き畑農業をメインとし、定期的に移住を繰り返す風習を持っていたことに関係するという。陳元光らが中原の先進文化を導入して大規模な水田化を図ると、地元で定住型による農業社会が確立され出し、蛮族らの捕虜や流民らを平野部に定住させることに成功する。こうして地元の社会風習が一新されることとなったわけである。
同時に、庶民らの市場を設けて商業交流を活性化させることで、定住者らの生活の安定化を図り、漳州市一帯の社会基盤が育つようになる。後世、その恩恵を受けた地元民たちから、陳元光が「開漳聖王」「老太王」「聖王祖」と称えられる所以となるわけである。

しかし 711年11月5日、苗自成と雷万興の子が再び、潮州地方を含む蛮族らを結集して大規模に挙兵すると、そのまま山岳地帯に立てこもる。この平定戦に乗り出した陳元光は少数の兵士を率いて急行するも、援軍の到着が遅れ、敵将・藍奉高によって切りつけられた刀傷がもとで、撤退途上で死亡してしまう。これを聞き及んだ漳州内の人々は、大いに嘆き悲しんだという。

直後に、実子の陳珦が翌 712年、漳州刺史を継承し(下地図は 711年末の様子。漳州は当初から変わらず、漳浦県と 懐恩県 の 2県体制だった)、以後、3年にわたって反乱軍と対峙することとなった。最終的に 715年、敵将・藍奉高を捕縛して処刑し、父親の仇討ちに成功する。

雲霄県

しかし、他方で漳江河岸一帯では当時、低温多湿なエリアであったため、軍民らの間で伝染病が蔓延していた。こうした事態に直面し、716年、村長の余若納の建議を受け、漳州役所と漳浦県役所が 李澳川(今の鹿渓)の 河畔(今の 漳州市漳浦県中心部・綏安鎮) へ移転されることとなる(【二代目】漳州城)。しかし当時、新たに州城が築城されることはなかったという。

以降、【初代】漳浦県城(漳州城)跡は、そのまま兵士らの 駐屯基地(西林城)として使用され続けたと考えられる。また、開拓屯田兵らの駐屯集落であった、現在の 雲霄県 中心部(雲陵鎮)に雲霄駅が設置され、漳浦県の下部組織として一帯の管轄が委ねられることとなる。

741年、同じく伝染病が流行し人口が激減したため、懐恩県も廃止されると(懐恩鎮へ降格。今の 漳州市詔安県中心部・南詔鎮)、漳浦県に編入される。同時に、もともと泉州下にあった 龍溪県(今の 漳州市竜海市顔厝鎮古県村) が漳州へ編入され、さらに行政区が拡張されることとなった(下地図は、この直後の様子を示したもの。引き続き、2県体制が維持された)。

雲霄県

翌 742年に陳珦が病死すると、唐朝廷から新たに殳伯梁が漳州長官として派遣されてくる。しかし代々、陳氏が統治を継承してきた土地であったため、住民らの反発は強く、治安は乱れ政治腐敗が問題視されることとなった。こうした事態を受け、地元名士の余拱辰、朱興家らが朝廷へ建議書を提出し、直系子孫である陳酆を地元の漳州長官に再任命してほしい旨を請願する。
陳珦の 実子・陳酆(721~779年)は 17歳で科挙に合格し、 中央朝廷から辰州下の 唐興県(今の 浙江省台州市天台県)長官に任命されたタイミングで、まさに任地へ赴こうと出立準備を進めていた、ギリギリの段階で中止となる。755年、朝廷から漳州刺史を継承する辞令が発せられる。

その後、さらに子の陳咏が漳州長官を継承するも、ついに中央朝廷に召されて、光州司馬として陳一族は任地の漳州を離れることとなるのだった。
続いて 782年、漳州刺史として柳少安が着任すると、すぐに領内視察を敢行する。その際、九龍江が海へと流れ出る河口部に立地した 龍溪県下の 桂林村(今の 漳州市中心部・薌城区) に立ち寄った際、その地の利を称賛し、「ここは南面を流れる九龍江が東の海へと注ぎ出し、北面に 登高山【今の芝山公園】などの山々が配置される地勢がよい」として、朝廷に漳州役所の移転を上奏する。しかし、朝廷内の審議により却下される。

次に当地へ赴任した漳州刺史の陳謨継も再び、朝廷に対し同じ内容を建議すると、ついに 786年、漳州の州役所が 龍溪県下の桂林村 へ転入されることとなる(【三代目】漳州城)。それはまさに、漳州が開設された 100周年にあたる節目でもあった。あわせて、九龍江の南岸になった龍溪県役所もこの桂林村へ移転され、今の漳州市中心部・薌城区が発展するスタートとなったわけである。州役所(府衙)は現在の中山公園内に開設され、以後、清末までその州役所の位置は不変であったという

雲霄県

時は下って宋代、漳江沿いでは 雲霄駅(今の 雲霄県中心部・雲陵鎮)が台頭し、一帯の行政エリアの中核集落を担うようになる(漳浦県下の安仁郷浦東里に帰属した)。この頃、農業、漁業、陶器製造業、通商交易などが活発化し、集落内には多くの寺廟などが建立されていったと考えられる。
しかし、南宋末期から元代初期にかけて戦乱の時代に突入し、民間活動は停滞に追い込まれる。多くの地元民らが、陳吊眼の率いた 畲族(シェ族)主体の反モンゴル決起軍に合流し、北部の山岳地帯に立てこもってモンゴル軍と戦うこととなった(1280~82年)。このとき、鎮圧戦を展開した元軍が駐留した場所が、西林城(今の 雲霄県火田鎮西林村。旧綏安県城&【初代】漳州城跡)だったわけである。現在の城塞遺構はこの頃に整備され、明代、清代にも転用されたと考えられる。

元代、今の雲霄県域は、漳浦県下の安仁郷修竹里と新安里に分かれて統轄された。
1321年、龍溪県、漳浦県、龍岩県の一部が分離され、南勝県(今の 漳州市平和県南勝鎮。間もなく漳州市平和県旧県村へ移転)が新設されると、新安里は漳浦県から南勝県へ移籍される(下地図)。
なお 1356年、南勝県役所は 蘭陵(今の 漳州市南靖県靖城鎮)へ再移転されるに及び、南靖県へ改称されることとなる

雲霄県

明代初期、漳浦県は六都の行政区で構成されていた。
1519年には 平和県(今の 漳江市平和県九峰鎮)が新設され、また 1530年に 詔安県(今の 漳江市詔安県南詔鎮)が新設されると、漳浦県、平和県、詔安県の 3県に分かれて統轄された。
この明代を通じて、そのまま雲霄駅が踏襲されるも、沿岸部に近かったことから山賊や倭寇らの襲撃に悩まされるようになる。1574年には明朝により海防駐屯兵が増派され防備が強化されるとともに、1592年には地元の警察機関も併設される。

清代初期の 1649年10月、鄭成功の率いる軍が漳江を船で遡って、今の漳州市一帯に進駐してくる(下地図)。その配下の部隊により、梁山を防衛ラインとし盤陀嶺一帯に城塞群が構築される(これに、前述の西林城も含まれていた)。北から迫る清軍をこの山間部で防ぎつつ、南の後方に控える 東山城 などの駐留部隊がバックアップするという二重の防御体制を構築したわけであるが、最終的に 1661年9月、清軍によって 泉州、漳州一帯が占領されると、鄭軍は全面撤退に追い込まれ、また同時に遷海令により沿岸部の人々は海岸からの強制移住を課されることとなり、せっかく長年の苦労を経て、農業や商業が発展していた雲霄駅一帯は荒廃することとなってしまう(最終的に鄭氏政権が降伏した 1683年に解除される)。

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清代中期の 1736年、雲霄駅に 漳浦県丞(県長官の副官)役所が配置される。
1798年まで県丞役所は周辺の 30保の行政区を統括したが、そのうちの 25保が 平和県(今の 漳江市平和県九峰鎮)へ移籍されると、最終的には詔安県雲霄駅の下には 2保と 13村だけが残留されることとなる。直後に 雲霄撫民庁(今の 雲霄県雲陵鎮)が開設されると、漳州分府とも別称されるようになる(下地図)。

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1842年の第一次アヘン戦争敗戦後、清国は 英国、米国、フランス等の欧米列強と一律に不平等条約を締結させられる。こうした清朝の弱腰外交と、安価な外国製品の大量流入により中国の国内産業は破壊され多量の失業者が発生する。こうして社会が大混乱となる中、1850年、太平天国の乱が勃発する。この時、漳浦県下の人々も多くが 秘密結社(雲霄撫民庁の行政区では、小刀会や会仔軍などが暗躍)を通じて、反清活動に参加するようになる。

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1853年、岳坑村の朱翔をリーダーとし、反清組織「兄弟会」を結成されると、福建省全土から多くの民衆らが呼応する。
1864年9月、清軍により浙江省、福建省を追われて南下してきた、太平軍侍王の李世賢が福建省南部へ進駐すると(上地図)、地元の秘密結社らの協力を得て、勢力挽回を図る。これに先の岳坑村の兄弟会も加わり、共同戦線を組んで雲霄城を攻撃し、以後、200日以上も占領することとなった。李世賢らは 同年 10月、漳州城 を攻め落とし、本拠地に定める(上地図)。

しかし、翌 1865年4月中旬、朝廷から太平天国軍の残党征伐を託され、浙江省から福建省を南下してきた 閩浙総督・左宗棠(1812~1885年)の率いる清軍 3万余りが当地に攻め寄せると、漳州城 や雲霄城は完全包囲される。翌 5月には太平軍と兄弟会は防衛戦に失敗し、すべての占領地から駆逐されてしまうのだった。しかし、これらの秘密結社は地下組織として命脈を保ち、陳岱の白扇会や哥老会などへ名を変えて、引き続き、反清活動を継続することとなる。その後、太平天国軍を率いた李世賢は、広東省梅州市蕉嶺県へ逃れるも、仲間に暗殺されることとなる。


清代を通じ、特に福建省、広東省の貧困地帯の農民らが互助組織として細々と講じていた団体が複数、存在していた。そんな中、1761年に雲霄県高塘村出身の僧侶・雲龍和尚が還俗し、萬雲龍(もしくは鄭開、鄭洪二とも。清朝の追及を逃れるため、名前をいくつも変えた)へ改名すると、日中は仏法布教活動、夜間には賭博場を経営して資金を集めつつ、高溪廟らとともに、観音亭で 秘密結社「天地会」を結成する。
その活動資金は豊富で、加入者は結婚及び葬式時に資金援助があり、また他者との紛争時には助力を受けられ、強盗に遭った際には暗号を示せば侵されず、メンバーを紹介すればキックバックの報奨金を付与されたことから、周囲の貧困農村の互助組織を次々と飲み込みながら、爆発的に組織を拡大させることとなる。

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その後、福建省南部から 台湾、広東省、広西省、長江流域一帯にまで影響力を広げ、経済的な互助組織として以外に、その不平等社会を生み出している清朝に対する政治運動の色合いを含むようになり、武装化するようになっていく。この過程で、太平天国の乱や辛亥革命にも参画し、中国華南で重要なネットワークを提供することとなった。そのメンバーには孫文や魯迅、林語堂も含まれている。
清朝支配下の大陸中国では、清朝からの弾圧を避けるため、天地会は 洪門、三点会、三合会、添弟会、三河会、圏子会等など 50種類以上の名前を使い分けていくこととなる。

また、アヘン戦争後に海外から大量の安価な商品が流入すると、貧困層は生活が成り立たなくなり、苦力と呼ばれる海外移民を大量に生み出すこととなった。彼らはそのまま 秘密結社「天地会」のメンバーであり続けたため、渡海先の アメリカ、日本、東南アジア各地でそれらの支部が設立されていくこととなる。現在でも、米国(ハワイ)や日本に現存している。


中華民国建国の翌 1913年、雲霄撫民庁が雲霄県へ昇格される(福建省に直轄)。
1918年、粤軍営長の陳紹鵬が率いる民兵らが雲霄県一帯に侵入し占領すると、陳紹鵬自らが県長に就任する。その後も、各地に割拠した軍閥らが侵入しては、雲霄県を占拠し、また敗走されるなどを繰り返し、住民らは治安の悪化に大いに苦しめられることとなり、こうしたお上に頼れない時代背景もあって、秘密結社はますます拡大されていくのだった。

1920年には、北洋軍閥の李厚基がケシの苗を当地に持ち込み、地元の農民らに強制的に栽培させる。その種代を先に貸し付けて、完成品のアヘンで支払わされる仕組みを取り入れたため、雲霄県下の貧困農民らはこの負担と労役に耐えられず、特に北西の山間部の農民らが連携して連郷自治グループを結成し、この北洋軍閥軍と何度も武力衝突を引き起こすこととなった。
せっかく自分たちが加担した秘密結社が成し遂げた辛亥革命と中華民国の建国であったが、軍閥らによってその成果は簒奪され、農民らはさらなる苦労を強いられていった。こうした不満の素地が、後に共産党思想の浸透へとつながるわけである。


北部の山間部に位置する雲霄県下河村にも、庶民らが対倭寇襲来に備えて築城した城塞遺跡が残る。
下河村古城と称される歴史遺産であるが、水門から南門に至る城壁が相当に傷んでいたため、近年、観光地化をねらった雲霄県役所により、迎熏門までの 140 mの城壁が修復されたという。

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