BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



福建省 漳州市 南靖県 ~ 県内人口 37万人、 一人当たり GDP 98,000 元(漳州市 全体)


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  南靖県城(蘭水県城、蘭水鎮城、蘭陵鎮城)
  田螺坑土楼群(客家の 城塞集落)
  河坑土楼群(客家の 城塞集落)
  懐遠楼(客家の 城塞集落)
  和貴楼(客家の 城塞集落)
  裕昌楼(客家の 城塞集落)



地理的に近い 漳州市中心部(薌城区)にある「漳州客運西バスターミナル」から 601番城際快速バス(15分に一本あり。乗車時間 50分)で直接、南靖県中心部(山城鎮)に移動するのが便利である。西隣や南隣の別県からのアクセスは、かなり不便。

南靖県

山城鎮にある南靖県バスターミナルに到着後、まずは北 600 mにある地元の南靖県博物館を訪問してみる(上地図。福建土楼文学院内に入居)。続いて、蘭陵路を西進して江浜公園を散策する。かつて、牛頭寨山と呼ばれた小高い丘陵があった場所で、その名の通り、地元民らによって建造された小規模な城塞が立地していた。公園内の中山橋、蘭陵橋を廻った後、中山橋をまっすぐ南下し、中山南街を目指す。中華民国時代以降の旧市街地メインストリートである。

再び、南靖県バスターミナル(上地図)に戻るとローカルバスに乗り、北東の山間部に位置する靖城鎮を目指した(ちなみに、漳州市中心部(薌城区)から直行する靖城行の郊外バスもある)。下地図。
南靖県

ところで、 なぜ元代末期の 1356年に開設され 700年近い歴史を誇る 古都・靖城鎮を離れて、南靖県の県都が、現在の山城鎮に立地しているのだろうか?
それは日中戦争に由来するという。


1937年末に内陸の 重慶 へ首都を移した中国国民党に対抗すべく、翌 1938年5月3日、日本軍は援蒋ルートとされる沿岸部の港湾都市への占領作戦をスタートする。この一環で 5月10~13日の戦闘を経て アモイ が占領されることとなるわけだが、その前に周辺の集落や軍事拠点を牽制すべく、日本軍は航空機による無差別攻撃を繰り返す。その過程で、この南靖県城にも同月 7日朝 8時ごろ、8機の日本軍機が飛来し、 20分ほど機銃掃射と爆弾投下を行ったという。 この時、死者 28名、負傷者 34人、50戸あまりの建物が損壊した記録が残っている。

さらに、1940年4月26日にも 4機の日本軍機が上空を通過した際、 2個の爆弾を投下し、古城内にあった大きな 建造物(城皇廟と 王氏宗祠)を破壊している(死傷者はゼロ)。以後も、山間部に立地した南靖県城の上空を度々、日本軍機が通過していたことから、同年 7月21日、アモイからさらに距離がある奥地へ南靖県の県役所が移転されることとなる。
南靖県 南靖県

その移転先に選定されたのが、紫荊山の山麓を流れる蘭水の河畔に位置した山城鎮であった。当時、この鎮役所は北端に立地した 牛頭寨山(今の江浜公園あたり)の 南面山裾(溪辺村)にあったことから、山城鎮と命名されていた。かつて明代、清代に近隣の住民らがこの小山上に自衛のための城塞を建造していたことから、牛頭寨山と呼称されていたと推察される。南靖県の県役所は、そのまま山城鎮の メインストリート(内街と呼ばれていた。今の中山路)に開設されることとなった。
戦後になって、1961年10月に県役所が現在の蘭陵路沿いへ引っ越しされると、現在の人民政府役所につながるわけである。日中戦争が終結した後も、南靖県の県役所は元の靖城鎮へ戻されることはなく、以後、上下関係が逆転し、この山城鎮が県都として発展していくこととなった。



さて、元代末期の 1356年から南靖県城が立地し、 700年来の県都を担ってきた 旧市街地(靖城鎮靖城村)であるが、現在、紅十五軍政治部遺跡、雲水古道、広済宮などの旧跡が残るものの、古城遺構は一切、残っておらず、見学するものはほとんど無い。

さらに、古城時代の名残りと言える地名も、靖城村、靖城旧菜市場など、わずかしか見当たらない。この九龍江の河畔エリアに至っては、目下、県挙げてのニュータウン計画が持ち上がっており、古城地区はますます跡形も無くなろうとしている。

南靖県

南靖県


 【 南靖県の 歴史 】

南北朝時代の梁王朝の治世下の 510年ごろ、晋安県(県役所は、今の福建省 泉州市 南安市豊州鎮)が分離され、蘭水県が新設される。その立地場所が今の南靖県靖城鎮靖城村と考えられており、これが漳州史における最初の県役所の開設として記録される。
しかし、隋代初期の 592年、蘭水県と綏安県が廃止され 龍溪県(今の 漳州市竜海市顔厝鎮古県村)に吸収合併させると、再び、鎮城へ降格されることとなった。

時は下って唐代中期の 777年、漳州が漳浦県、龍溪県、龍岩県(今の 福建省龍岩市新羅区)の 3県体制になって以降、今の南靖県一帯はこれら 3県に分かれてを統括される。
さらに時が経ち、元代の 1322年に至ると、龍溪県、龍岩県、漳浦県 3県の一部ずつが分離され、その中間地点に南勝県が新設される。県役所は、今の漳州市平和県南勝鎮に開設された。間もなくの 1337年、県役所が今の 漳州市平和県小溪鎮旧県村 へ移転される(引き続き、漳州路に帰属)。

さらに 1356年、南勝県の県役所が 蘭陵鎮城(今の 南靖県靖城鎮靖城村。南北朝時代に蘭水県が開設されていた場所。当時から 漳州城 へと通じる、九龍江沿いの交通の要衝であった)へ移転されると、南靖県へ改称される。
短期間の間に 2回もの県城移転を行った背景として、この山岳地帯で元代初期の 1280~82年に発生した、陳吊眼をリーダーとする 畲族(シェ族)反乱が関係する、と推察される。その残党分子が引き続き、山間部で勢力を保ち続け、度々、元朝の県役所を襲撃していたわけである

以後、清末まで継承されることとなった。下地図。

南靖県

日中戦争時代に、この県役所が山城鎮へ移転された経緯は、前述の通りである。

なお、この南靖県下には数多くの客家の土楼が現存しており(土楼群グループ 6つと、単体の土楼 123ヵ所)、特にそれらのうち、芸術性の高い土楼群グループ 2つ(田螺坑土楼群、河坑土楼群)、単体 2ヵ所(懐遠楼、和貴楼)が世界遺産登録されている(2008年7月6日)。このため、海外からの観光客も度々、当地を訪れるようになっている。下地図。

南靖県


 田螺坑土楼群
方楼 1つ、円楼 3つ、楕円形の土楼 1つで構成され、現在、中央政府から歴史遺産指定を受けている。方楼(步雲楼)を中央に据え、他の 4つが周囲を取り囲むように配置されており、山の斜面を利用して山全体になじむような設計となっている。

 河坑土楼群
1 km2の範囲内に集中して 14個もの大型土楼が建造されており、福建省内でも最も密集度の高い土楼集落となっている。最も古くに建造された 朝水楼(1549~1553年)から、最も遅くに建造された 永慶楼(1967~1972年)まで、足かけ 423年にも及ぶ芸術作品であり、現在、福建省政府から歴史遺産指定を受けている。このうちの 7ヵ所(朝水楼、永盛楼、縄慶楼、永貴楼、陽照楼、南薰楼、永荣楼)は、明代および、清代に築造された方形タイプの土楼で、残りの 7ヵ所は近代以降の中華民国および、共産党時代に建造された円形タイプの土楼という。上空から見ると北斗七星の星列のように配置されている。

 懐遠楼
南靖県梅林鎮坎下村に立地し、中華民国時代の 1905~1909年に建造されたものである。建物面積は 1,384.7 m2、敷地面積は 3,468 m2で、高さ 3 m強の外壁で囲まれている。この外壁はアヒルの卵片と土砂、小石、粘土を混ぜ合わせた材料を、幾重にも重ねて塗合わされた強固な土壁で、今だに壁の表面は一切、崩落していない。

南靖県下の円楼の中でも保存状態が特によく、二重の円形で取り囲む円土楼となっている。2006年5月に中央政府により歴史遺産に指定され、また 2008年には世界遺産にも登録されており、県下の土楼作品の中でも最も美しいデザインを誇る。

 和貴楼
南靖県梅林鎮璞山村に立地し、2001年5月に中央政府により歴史遺産指定を受けている。
清代中期の 1732年、西向きの方形型として建設され、その設計デザインが暦図の生き写しとなっている点が最大の特徴という(「厝包楼、楼包厝」と表現される)。后楼の高さは 17.95 m、前楼の高さは 17.08 mで、最大 5階建て(21.5 mの高さ)となっており、さらに楼外には 15軒の伝統的な連結家屋が配され、また楼内には私塾学校も開設されていた。

この他、大きな特徴としては、外壁の高さと厚さの比率が 13︰1 と、いびつである点、また小石や粘土を含めず、単に土だけを積み上げて建造されている点、あと他の土楼と異なり、地盤の緩い沼地上に建造されている点、が指摘されている。さらに、楼内にある二つの井戸に関し、一つは鏡のように反射する綺麗な水が湧いているのに対し、他方は黄色く濁った水を湛えている点も特徴で、こうした対称性から「陰陽井戸」と通称される。

 裕昌楼
その建造は元代中期の 1308年まで遡り、700年もの歴史を経る最古の土楼の一つである。
複数の木柱が回廊スタイルで建てられ、土楼全体を支える構造であるが、その左から右への傾斜角度が最大で 15度の地点もあるにもかかわらず、長い歴史の中で一度も倒壊事故を起こしていない、強固な設計を誇る。当時の形状をそのまま今に伝えており、福建省南部の伝統建築物の代表格と評される。なお、各家の台所がすべて同じ設計となっており、それぞれに深さ 1 m、幅 0.5 mの井戸が設けられ、今でも清潔な水を湛えているという。

南靖県

 塔下村
村落を流れる小川沿いに古民家と土楼が建ち並び、その美しい風景は「閩南周庄(福建省南部の中華伝統集落)」との異名をとる。特に遠目からの景色は圧巻で、福建省政府から歴史遺産指定を受けている。
また集落の東側には、明朝後期に創建された張氏家廟が立地し、さらに徳遠堂前には、高さ 10 mほどの 石龍旗杆(石製の旗用ポール)が 23本建立され、完璧な状態で現存する(上写真。中国最多を誇る)。



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