BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



福建省 漳州市(中心部)薌城区 ~ 区内人口 64万人、一人当たり GDP 98,000 元(漳州市 全体)


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  【三代目】漳州城(【二代目】龍溪県城)
  芝山公園 外周城壁跡
  西門広場(子城 西門跡)
  中山公園(漳州府衙跡)、文廟、双門頂石牌坊、林氏宗祠(比干廟)



漳州市中心部では、勝利公園前にある 7天酒店ホテルに投宿した。大都市圏では珍しく、このホテルチェーンの支店は一つしかなかった。

翌朝、地元の漳州市博物館を訪問してみる。旧館が東隣の龍文区内にあり、新館が九龍江の対岸である漳州市竜海市にあるので、事前確認が必須であった。その他、市内では宮廷医学博物館など、複数の博物館も立地するので、注意が必要だ。

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そのまま漳州城の旧市街地を訪問してみる。
かつて南隣の 潮州城 よりも広大な城域を誇った漳州城は、外城と 内城(子城)の 2空間で設計されていた(上絵図)。

内城(子城)には 漳州府衙署(役所)など上級行政機関や官吏らの邸宅が立地し、四方を城壁で取り囲むのが一般的であったが、明代、清代には城下町との間で区分けがなくなり、内城(子城)は築造されなくなっていく。しかし、この漳州城には清末まで内城が継承され(浙江省・嘉興府城の子城は、今でもその城壁、城門が現存することで有名)、おまけに 内城(子城)の外周に廻らされていた内堀までが現存する(子城の城壁は南宋初期に撤去されるも、内堀は城内水路として、以後も残されていた)。こんな市街地の中心部にあって、今日でも子城の内堀がほぼ完全な形で保存されていることは、実に珍しい(下写真左。東宋河、東橋亭、東水門、北宋河、北橋亭、西宋河、西橋亭、西水門)。
薌城区 薌城区

また、外城を取り囲む城壁は、南宋時代には 10,000 mにも達していた(最終的に、清代初期に 6,570 mへ縮小される)。東面と西面、南面は付近を流れる大河を天然の外堀に据えており(東面は別に水路も掘削され、外堀とされていた)、川橋がそのまま城門橋を兼ねていた。これらの河川は今日も健在で(下地図)、また芝山公園には外周城壁の北西端にあたる一部も現存する(上写真右)。

さらに、城内各所には往時の記憶が地名に刻みこまれていたが、西門広場(かつての西門跡)、北門礼拜堂(新華北路と 漳華中路との交差点)、県前直街、北廟新村、打錫巷、太古橋など、思ったよりも少なかった。

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さて、この 内城(子城)跡地の一部には、古民家や名所旧跡を残すエリアが保存されている(約 0.86 km2)。
この九街十三巷の路地内には、文廟の大成殿、明代の 双門頂石牌坊(香港路と台湾路の交差点)、林氏宗祠(比干廟)という、中央政府指定の 3歴史遺産を筆頭に、福建省政府、および漳州市政府により歴史遺産指定を受けた 中国共産党福建臨時省委員会事務局跡、府衙跡、侍王府、東西橋亭、及び、宋代の子城 内堀などの 14ヵ所が点在する(上地図)。

また、世界最小の空中廟堂である 伽藍廟、楊騒(1900~1957年。左翼作家、詩人)の旧宅、徐氏家廟、小姐楼、番仔楼(小洋楼)、キリスト教会や古民家が連なる騎楼ストリート、中洋折衷の建築物、閩南地方特有の古民家なども各所で見られる。その他、武廟、龍文塔、太平門、中山公園(かつての州役所跡地。園内には閩南革命烈士紀念碑や孔銅像も設置されている)、紅軍攻克漳州紀念碑、徳配天地、道冠古今、中華観音堂、侍王府、迎春接福、水石亀、慈恵宮、江浜公園沿いにある 洋老洲佛祖、泗州佛祖なども残る。


 漳州文廟
修文西路沿いにあり、古城地区における最大の伝統的建造物となっている。北宋時代の 1044年に創建され、1112年に州役所の左隣に移築されるも、南宋時代の 1139年に元の場所に戻されたという。歴史上の著名人らも当地に足跡を残しており、南宋時代の 1190年、朱熹(1130~1200年。朱子学の開祖)が漳州長官として赴任した際、教育政策を重視したことから当地で官吏や著名文化人らに講義を担当させたエピソードや、 明代末期に 鄭成功(1624~1662年)、黄道周(1585~1646年。南明政権に殉じた忠臣)らが文廟に参拝したこと、また鄭成功の 父・鄭芝龍(1604~1661年)が多額の寄付を行って文廟を再建したこと、などが史書に記録されている。 明代、清代の戦乱期、および中華民国時代の一時期、廟所内は荒廃するも、その都度、修復工事が施されて復活し、1996年に福建省政府により史跡指定を受けるに至る。

廟所は南向きに設計されており、その敷地面積は約 10,000 m2以上もあり、建物群の総面積は 2,600 m2という。入口から一直線上に 戟門、丹墀(本殿への石階段)、月台(テラス部分)、大成殿が配置され、その両脇には東西に連なる長廊下と亭が配置される。古そうな明代風の建物群、たとえば明倫堂や櫺星門、泮池などはすべて復元されたもの。基本は、明代の木造建築スタイルで整備されているが、同時に大成殿内部の彫刻デザインなどでは宋代や元代の名残りも見られ、宋代の閩南地方の古代木造建築物の特徴と北方文化の建築スタイルが、見事に融合した折衷様式となっているという。

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 中山公園
市街地の中心部に立地し、敷地面積 60ヘクタール近くある。
公園内には中山紀念台があり、現在、漳州解放紀念碑の南に位置する。この紀念台は 19路軍共産党軍が漳州に進駐した際に建立したもので、日中戦争中、日本軍の空爆により一度、破壊されてしまったという。
また、中山紀念亭であるが、中山公園南端にある旧府署の左脇に立地し、軍閥の粤軍を率いた 陳炯明(1878~1933年)が漳州城に入城した翌 1919年、『漳州公園記』の碑を建立するも、1922年に陳炯明が政治的に失脚すると、1927年1月、北伐軍がこの碑文を撤去し、何応欽(1890~1987年。孫文、蒋介石を支えて国防司令官にまで昇進し、台湾で死去。日本への留学経験もあり、敗戦後の日本軍降伏受諾や兵士帰国などを手配した)の『漳州中山公園記』と、孫文(1866~1925年)の『総理遺訓』の碑文のみが残されて、今日に至る。
さらに仰文楼であるが、清代中期の 1710年に漳州知府の 魏荔彤(1670~?。医者の一家に生まれ、医術、文学に関する多数の著述を残した)が創建したもので、中華民国時代に閩南工農革命委員会事務局などに転用され、今も現存するという。

また、中山公園と文廟との中間エリアには、騎楼と呼ばれる 2階建ての商店兼住居の建物が延々と軒を連ねる(上写真の中央から手間に広がる、茶色屋根の建物群)。
1919年、前年に漳州城を占領した粤軍の陳炯明が外周城壁を撤去後、閩南護法運動を主導し城内の都市改造を推進すると、旧漳州役所(漳州府衙)広場前まで騎楼群の建設が進められ、多くの商人らが入居するようになったという。
共産党時代に入り、そのまま商業地区として残され、現在は非物質文化遺産博物館なども開設されている。

この 旧漳州役所(漳州府衙)の正面入り口前には、「府埕(「埕」は閩南方言で「空き地」を指す)」と呼ばれる縦約 50 m、横 20 m強の広場があり、当時、漳州府城内で最も広いスペースとなっていた。ここは文武官員らが往来した官道であり、また諸々の儀式が挙行されてきた場所である。中華民国以降もこの広場は残され、政策に関する告知や集会などが催されたという。

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 【 薌城区の 歴史 】

南北朝時代、梁王朝の治世下の 540年、晋安郡が分離され 南安郡(梁安郡)が新設されると、同時に龍溪県も新設される(下地図)。この時、県役所は九龍江の南岸側である、今の漳州市竜海市顔厝鎮古県村、石牌村、下半林村、上半林村の一帯に開設されたと考えられている(下地図でも、九龍江の南側に記載されている。【初代】龍溪県城)。
付近を流れる複数の河川が、龍のように蛇行していたことから、「龍溪県」と命名されたという。

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隋代初期に南北朝が統一されると、建安郡と南安郡(梁安郡)の 2郡が廃止され、龍溪県は 泉州(州都は 閩県城。今の 福建省福州市)に組み込まれた。
第 2代目皇帝・煬帝の治世下の 607年、建安郡が復活設置されると、龍溪県はこの建安郡に属する。

唐代初期の 618年、建安郡が建州へ改編される。間もなくの 622年、建州から 豊州(州都は南安県城)が分離・新設されると、龍溪県は豊州に属した。 しかし、627年、豊州が廃止されると、龍溪県は再び、泉州(州都は今の 福建省 福州市)に統括された。

686年、嶺南行軍総管として進駐していた 陳元光(657~711年)が、朝廷から初代・漳州長官に任命されると、泉州と 潮州 の中間地帯に漳州が新設される。その領域は、ちょうど龍溪県の南半分に相当するエリアであった。
この時、陳元光は、唐軍を率いて拠点網を構築していたうちの 一つ(中営屯所)であった、綏安県城跡(今の 雲霄県火田鎮西林村)を本拠地に定めており、そのまま漳浦県城と漳州城に定めたのだった(【初代】漳州城)。この時、龍溪県は泉州に属したままであった(下地図)。

699年、泉州下の 莆田県、南安県、龍溪県の 3県が分離され、武荣州が新設されるも(下地図)、翌 700年に廃止されると、龍溪県は再び、泉州(州都は今の福建省 福州市)へ再移籍される。しかし同年、すぐに武荣州が復活設置され、711年に武荣州が泉州へ改称されると、州都は今の 泉州市 晋江市に開設されることとなり(733年に、州役所が今の泉州市中心部へ移転される)、龍溪県もこれに属した。下地図。

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716年、州都一帯で伝染病が蔓延したため、漳州役所と漳浦県役所が 李澳川(今の鹿渓)の 河畔(今の 漳州市漳浦県中心部・綏安鎮)へ移転される(【二代目】漳州城)。当初すぐには州城の建設工事は進められなかった。

741年、龍溪県が泉州から分離され、漳州へ移籍される。
786年、漳州の州役所が龍溪県下に移転されてくる。
当時の県城から見て、九龍江の対岸にあった、登高山(今の芝山公園)の山麓に位置した 桂林村(今の 漳州市中心部・薌城区)がその敷地に選定される。九龍江の大河が南面を流れつつ東方向に海へと注いでおり、北面から西面には山々が連なる地形が風水理論上、極めて適切との判断を根拠としたという。同時に、南岸の龍溪県城も北岸へ移転されることとなり、こうして新たに【三代目】漳州城(【二代目】龍溪県城)が建造され、以後、清末まで継承されるのだった。

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唐王朝も国家破綻が明らかとなる中、黄巣の農民反乱が勃発すると(874年)、王権は瓦解する。その混乱に呼応し 881年、台州(今の 安徽省淮南市寿県寿春鎮)で農民反乱軍を率いた王緒が光州(今の河南省 信陽市 潢川県)を占領すると、現地の軍閥であった 王潮、王審邽、王審知の三兄弟を捕虜とし、そのまま軍に帰属させる。光州刺史を自称するも、唐の征討軍が迫る中、光州を放棄して南下し、流賊化して福建へ至る。まずは当地の汀州、潮州 を経て漳州城を占領し(上地図)、さらに泉州や建州へ平定戦を続行中、食料危機に陥った王緒は各部隊への兵糧供給をケチるようになると、王潮らは激怒し政変を起こして王緒を監禁する。これに憤慨した王緒が自害して果てると(885年)、王潮が新リーダーに就任する。
王潮は弟の王審知を派遣して北隣の 泉州城 を陥落させると、漳州と泉州を実効支配することとなった。この時、福州城 には唐の名将で福建観察使だった 陳岩(849~892年)が駐在しており、彼を攻めることはせず、逆に帰順して唐朝から泉州刺史に封じられる(886年)。その後、陳岩は朝廷中枢へ召されて工部尚書や兵部尚書として出仕していたが、 892年正月に病死すると、陳岩の妻の弟であった范暉が福州城を占拠したため、 2年の抗争を経て、王潮が福州をも併合する。そのまま王潮は唐朝から福建観察使、威武軍節度使に封じられて、福建省全土を統治した。

898年に王潮が死去すると、末弟の 王審知(862~925年)に後を継承させ、唐王朝が滅亡した後の 909年、閩国が建国される。王審知の治世下は安定した閩国であったが(基本は、南唐に服属する形をとった)、その後、王室内部で抗争が絶えなくなり、ついに 945年、南唐国の侵攻を受けて閩国は滅亡する(下地図)。この時、旧領地は 3分割されることとなった。

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当初は南唐国に占領された漳州、泉州であったが(翌 946年、漳州は南州へ改称される。南唐国から派遣された董思安が漳州刺史に就任した際、父の名・董章の「章」が「漳」の地名と同じ発音であったため、改名させていた)、南唐軍が北の呉越国の援軍で守備を固めた 福州城 の攻略に失敗すると、南唐軍は 2万もの戦死者を出し敗走することとなる(947年)。これに参加させられていた泉州刺史の 留從效(906~962年)は、逆に南唐国に対し反旗を翻して泉州城に残る南唐軍を包囲する。本国からの支援がない中、孤立した泉州城の守備隊は講和を結んで無血撤退する。
こうして泉州城を接収した留從效は、そのまま漳州をも併合し独立勢力化するも、表面的には南唐国に臣従した(949年、南唐国が正式に、留從效を漳州と 泉州 の 2州を統括する清源節度使に任命する)。

962年、留從效が死去すると、陳洪進(914~985年)がその領地を継承する。 966年、南州が漳州へ戻される。
その南唐国も 975年に北宋朝により滅ぼされると、強大な北宋朝と国境を接した 呉越国(浙江省、福建省北部)と 清源節度使・陳洪進(福建省南部)は、共に国土を返上し(978年)、そのまま北宋領に組み込まれることとなった(下地図は、北宋時代末期の 1111年当時の様子)。旧呉越国の王族や陳洪進らは 王都・開封 で安寧にその生涯を全うする。

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唐代~五代十国時代にかけての漳州城は、府役所や主要機関を内包する主郭部のみを土塁で囲み、城下町の外周には簡易な木柵が設けられる程度の城郭都市であったと推察される。これは、中原や華北地方が度々、激しい戦火に巻き込まれる中、比較的に平穏で安定していた福建省南端地区の時代的、社会的な背景を物語るものであった。

しかし、長期の戦乱を統一した巨大王朝・北宋朝の治世下で、初めて本格的な城壁の建造が着手されることとなる。
999年、漳州役所や高級官吏らが居住する エリア全体(後に子城と呼ばれる区画)を取り囲む、土壁と掘割が築造される。その全長は 2,000 mで、6城門が配置されたという。すなわち、東門(名第門)、清漳門、西門(登仙門)、朝真門、南門(雲霄門)、北門(慶豊門)であった。

1013年、郊外の城下町外周に本格的な木柵が整備され、外城エリアの都市開発が進められる。その外周柵の全長は 7,500 mにも及んだ。さらに西面に外堀を兼ねる水路が掘削され、そのまま南西角に増設された水門を通って、直接、城内から海へとつながる航路が完成する。

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北宋末期から南宋初期にかけて、金朝やモンゴル軍との戦闘の最前線となった華北地方、長江流域から、多くの流民が華南地方へ移住することとなり(上地図)、漳州城下でも居住人口が爆発的に増加する。
こうして背景から、手狭になった城内を拡張すべく、1150年ごろ、子城の城壁が撤去され(掘割はそのまま残され、以後、城内水路として活用された)、外周の木柵まですべてを一つの城壁で取り囲むべく、大規模な外周城壁の築造工事が着手される。すでに南面にあった河川堤防と連なる形で、東面、西面、北面に巨大な土壁が誕生することとなった。
1211年には、初めて石材が用いられて東門周辺の城壁が整備されると、高さ 5 m弱、全長約 1,667 mの石積み城壁が完成する。
さらに 1230年、西面、南面、北面の三面も石積み城壁へ改修され、高さ約 5.7 m、全長 8,334 m部分が完成する。あわせて、城壁上には櫓、烽火台、 7つの城門が増設されたのだった。すなわち、東門(朝天門)、西門(安豊門)、南門(通津門)、北門(貢珠門)、北西門(小関門)、南西門(龍溪門)、南東門(朝宗門)である。

こうして四方全面が石積み城壁となると、のべ 10,000 mにも達し、膨張した流入人口を内包し得る城郭都市が完成されたわけだが、この城域が漳州城史における過去最大面積を記録することとなり、以後、各王朝による修繕工事の過程で規模縮小が進められていく。明代に 3割縮小され、清代にさらに 1割が縮小され、最終的に全長 6,570 mに落ち着くのだった。


時は下って 1366年、明軍がモンゴル勢力を追放し漳州城を占領すると、旧城壁が撤去され、東面、西面、北面の三面の城壁が削減される。撤去された石材は再度、組み直され全長 7,243 mの城壁が完成された。 30%分が縮小されることとなり、城門も 東門(文昌門)、西門(太平門)、南門(三台門)、北門(太初門)の 4つに削減される。あわせて城壁上には凹凸壁や櫓が増設された。

2年後の 1368年、元代の 漳州路(1279年~)が漳州府へ改編される。1567年1月には、龍溪県と 漳浦県 の一部ずつが分離され、海澄県が新設される。以後、明代、清代を通じて、このままの行政区が踏襲された。
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明代後期の 1567年、朝廷が正式に海禁政策を停止すると、月港(今の 漳州市竜海市海澄鎮)には交易市場が開かれるなど、周辺で新興都市が勃興することとなった。当然、漳州城内の経済発展もめざましく進み、西隣の潮汕地区とともに、九龍江河口部は海外交易拠点として大いに賑わったという。こうして住民人口が急増中だった 1571年、漳州府城のさらなる補強工事が進められることとなり、兵舎&倉庫、見張り台、櫓などが城壁上に増設される。そのうちの一つとして、威鎮閣(八卦楼と通称される。上写真)が建設されたのだった。
上写真は、清末に漳州府城の南東隅を撮影したもの。中央に八卦楼が見える。その脇までが城壁の範囲内だった。城壁の外側には清末に敷設された博愛道が見える。

明末清初の混乱期、戦火により城内は大いに荒廃する。 1656年に再建工事が進められ、城壁の全長は 6,570 mへさらに縮小される。
城の北面は芝山まで、南面は九龍江の北岸まで、東面は今の新華北路まで、西面は西直街に収まる範囲内に限定されることとなった。その後も、幾度もの改修工事が施され、その過程で 南門(三台門)が時阜門へ改称されている(下絵図)。

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清代を通じて配下に 7県を統括した漳州府であったが、1912年の中華民国建国後、全国で府州制が廃止されると同時に消滅することとなった。以後、龍溪県などの 7県は直接、福建省に統轄された。

1918年8月、軍閥勢力の一角であった 粤軍総司令長・陳炯明(1878~1933年。中華民国政府で陸軍部陸軍総長にまで昇進した)が漳州城に入城すると、すぐに城壁の撤去工事に着手し、その跡地に建馬路を敷設する(下地図の芝山公園付近に見られる通り、漳州府城時代の城壁の一部分は保存され、今も現存する)。陳炯明は最終的に 1922年、中華民国総統の孫文らと国政に関する意見を異にしたため、政界から引退すると、その後は福建省でも軍閥割拠の時代を迎え、目まぐるしい支配者の変遷に直面するのだった。
この陳炯明の治世時代、外城、内城(子城)の区分けがなくなり、多くの庶民らの宅地が 内城(子城)跡地にも入り込むようになる。こうして、今日に残る九街十三巷の騎楼ストリートが形成されたわけである。

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