BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



福建省 漳州市 詔安県 ~ 県内人口 70万人、 一人当たり GDP 98,000 元(漳州市 全体)


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  詔安県城(懐恩県城)
  城隍廟、武廟(関帝廟)、懐恩古井、媽祖廟、石牌坊群
  悬鐘城(玄鐘千戸所城)
  関帝廟、祥麟塔、烟墩山、宮口港
  田楼(客家の 城塞集落)
  溪口楼(客家の 城塞集落)
  龍潭楼(客家の 城塞集落)
  大坪半月楼(客家の 城塞集落)



詔安県は、広東省と福建省が交わる境界ラインに位置し、福建省最南端の行政区である。投宿先の 潮州市中心部 から潮汕駅で高速鉄道に乗車し、詔安駅へ移動してみた。
もしくは、潮州総合バスターミナルから、饒平県まで 郊外バス(1時間20分、20元)で移動し、そのまま饒平県バスターミナルから、さらに 1時間に一本ある、詔安行の郊外バスで東進すると(8元)、直接、県中心部に至ることができる。

かつて 1530年に新設された詔安県城が立地した、詔安県 中心部(南詔鎮)の旧市街地であるが、現在、城門や城壁はすべて撤去されてしまっており、また地元博物館も開設されていない。しかし、往時の記憶を刻む地名を、至る所に目にすることができる ー 城東小学校、大水門飯飯店、城頂称台角水果市場、東門社区、南門家家経営店、東城村小区、南門頭大排档、県前路、西関中街、西門社区、懐恩公園(北面の掘跡)、環城西路、環城南路、環城東路、環城北路、西門街司法巷など(下地図)。

これより 900年前の唐代初期、当地には、初代・漳州刺史の陳元光によって開設された懐恩県城が立地していたが(686~741年の期間)、伝染病の流行で人口が激減したため県役所が廃止され、鎮城へ降格されていた。この時代の名残りとしては、南詔鎮西門内の帝君廟巷の壁面上にある、石板に刻まれた 四文字「懐恩古井」が唯一、という。 唐代の県城時代に掘削された古井戸と考えられており、未だに水は枯れていないという。

詔安県

この他、旧市街地に現存する旧跡は、明代に創建された開漳聖王廟、教練夫人廟、南門の 武廟(関帝廟)などがある。さらに清代初期に建立された媽祖廟前には、東門中街から県前街の約 700 mの街道上に七つの石牌坊が配列されており、沿道沿いには明代、清代に建立された古廟堂や古民家が数十も残っている(澹園院など)。

また当地の城隍廟は、旧市街の 西端(環城西路と西関中街との交差点。下絵図の西門脇)に立地しており、現在、詔安県政府により史跡指定を受けている。楼閣門から 前庁、拜亭、大殿(神廟は南向き設計)という配列で構成され、全敷地面積は約 1,200 m2という。
その最初の創建は、明代中期の 1530年といい、明末の 1618年と 1627年に 2度の大改修工事が施されている。また清代の 1714年と 1780年にも修築工事が加えられた記録が残る。

詔安県

最後に 武廟(関帝廟)であるが、旧市街地の西門街に立地し、同じく県政府から文化財指定を受けている。境内は 駅楼、両廊、拜亭、大殿(神廟は 26.7 m × 14.5 mで、東向き設計)で構成され、神廟前の中庭とあわせて、総面積は約 800 m2という。
明代の 1544年と 1605年、清代の 1679年、1747年、1902年にそれぞれ修築工事が施された記録が残る。
その他、旧市街地には 陳元光墓、許氏家廟綸恩堂、燕翼宮、沈氏家廟饗保堂(南門城外)、父子進士牌坊などが点在する。以下は、その解説。

 
 西亭観音庵
旧市街地にある県前街の西端に立地する。明代に建立されたもので、現在、敷地面積は約 400 m2という。北向きの設計で、門楼、天井、正殿から構成される。清代に増築された后殿のみ、南向きという。この后殿内に、廟所の由来となっている観世音が安置されている。

 功臣廟
旧市街地の東城村にあり、現在、県政府により史跡指定を受けている。もともとは祈山高という廟堂で、南宋時代後期の 1250年ごろに創建され、一時期、荒廃するも、清代の 1779年に再建された後、功臣廟と改名されたという。さらに清代末期の 1899年にも改修工事が加えられている。
敷地は南向きに設計され、門楼、拜亭、正殿、西厢房、后殿で構成される。この正殿には、唐代初期に福建省南部の蛮族らを鎮圧し、当地で 文明開化(漢民族化)の基礎を築いた、初代・漳州刺史の 陳元光(657~711年)をはじめ、その治世を支えた部下の祈山聖侯欧哲や武徳侯沈世紀らが合祀されている。

 朝天宮(天后宮)
旧市街地の宮前街にあり、同じく県政府により史跡指定を受けている。門楼、拜亭、正殿、后閣楼から構成され、敷地面積は約 1,000 m2(32.5 m × 10 m)という。
明代の 1550年ごろに創建されるも、間もなく荒廃した。清代の 1700年ごろに廃屋を再建する形で修復され、門楼と正殿(東向き)が建立される。1720年には祀典廟と命名される。 1742年、正殿の後方に妆楼が、1768年には廟堂前に 戲台(演舞用のステージ)が増設され、さらに 1806年、1865年、1904年にも追加の修復工事が重ねてられた記録が残る。

 東岳廟
明代後期の 1593年に創建され、清代中期の 1824年に再建されたもので、旧市街地の東関街にあり、県政府から史跡指定を受けている。敷地面積は約 1,200 m2(50.79 m × 19.95 m)で、門楼、軒廊、八卦亭、拜亭、正殿、后殿で構成される。
東向きの正殿では東岳大帝を、両側の脇殿では十殿閻王を、門楼の両側と北庁では関帝を、南庁では注生娘娘を、両廊北では速報司を、南では功徳司をそれぞれ祀っている。

 明代に建立された 石牌坊群
旧市街地の中心部にある県前街から東門中街に至る、 700 m強の街道沿いには軒を連ねる古民家群と共に、7つの石牌坊が建立年代順に配列されている。すなわち、奪錦坊、卿典坊、百歳坊、天寵重褒坊、父子進士坊、誥敕申貤坊、関帝坊である。
宋代以降、忠孝節義にすぐれた郷里の出身者を称えるために、各地の城郭都市内で盛んに石牌坊が建立されてきた。これは、当時の王権が封建体制を維持するために、地元の英雄を作り上げては、その功績を称える牌坊を建立し、儒教道徳、礼節、忠義の順守を市民の心に植え付けようと図った政策の一環だったわけである。当地の石牌坊群もその例外ではない。

当地で最古を誇る奪錦坊であるが、元々は奪錦街に立地し、1488年に建立されたものという。これは明代に科挙に合格した 許潜(1488年合格。明代に詔安県下で最初に合格した人物)、その子の 許判(1507年合格)、さらにその孫の 許選(1510年合格)ら三世代を顕彰するために設置されていた。石坊(高さ 5 m、横幅 7.5 m、南向き)に刻まれた「奪錦」や「世科」の文字は、常識外れの彼ら三世代の傑物を表した文言という。

また、卿典坊は元々、南詔鎮の東門街に 1587年に建立されていたもので、高さ 9.6 m、横幅 9.6 mであった。南京太仆寺(皇帝が王都外へ行幸する際、身辺の世話係を司った役職)の寺丞である胡清が、寄贈したものという。

百歳坊は元々、南詔鎮の聖祖街の北側に立地し、1580年に西向きで建立されたもので、高さ 6.5 m、横幅 8.8 mという。地元・詔安県三都の 名士・濃仲選が、地元の百年安泰を祈願し設置したという。

天寵重褒坊は元々、南詔鎮の東門街に立地し、1584年に建立されている(高さは 9.5 m、横幅は 9.5 m)。科挙に合格した沈という人物を祝して、南京戸部主事(南京城下の戸籍管理&財務局長官)の沈玺立が、私費で建立していた 石牌坊(1574年)を移築したもの。

父子進士坊は最初から南詔鎮の県前街に立地し、1585年に建立されたもので、高さ 9.6 m、横幅 9.6 mという。欽差提督巡撫福建地方都督院右副都御史の沈人种、福建布政使司左参議の甘来学、福建提刑按察司僉事の張文耀、漳州知府の楊際会、詔安県長官の張大器らが連名で、胡文と胡士鰲父子の科挙合格を記念し設置したものだったが、 1939年7月に日本軍の空襲を受け、一部が破損されたという。

誥敕申貤坊は元々、南詔鎮の東門中街の最西端にあり、1602年に建立されたもので、高さ 9.6 m、横幅 9.5 mという。
欽差提督軍務兼巡撫福建地方都察院右都御史の朱建昌、巡按福建監察御史の劉応龍、福建布政司布政使の王恩民、按察司按察使の楊徳政、署漳州府事同知の 羅良信、陶拱聖、通判の李応、季概、推官の王世仁、詔安県長官の黎天祚らの連名で、朝廷への忠節を宣誓する旨を刻印し建立されている。

最後に関帝坊は、最初から南詔鎮の県前街の西端に南向きに建立されていたもので(1625年、詔安県長官の楚荊朱が私費で創建した。高さ 5.5 m、横幅 4 m)、後に風雨により損壊したため、清代の 1793年4月に再建されたという。



さて古城地区の訪問後、最南端にある梅嶺鎮まで移動してみる。この半島の中央部には村道 C 409号線が貫通しており、ここを路線バスが往来する。その終点が大埕湾に面する宮口港で、南宋時代から続く交易港という。

この半島全体に、名所旧跡がいくつも点在する。塔山に立つ 祥麟塔(下写真左)、東の海岸線沿いに立つ 烟墩山(その名の通り、往時には烽火台が設置されていた)などを始め、特に、南門村に立地する 玄鐘古城(悬鐘城。下写真右)と 関帝廟(帝君廟)、果老碑林、古練兵場などが見所という。この半島部の集落は度々、倭寇の襲撃を受けており、明代に兪大猷や戚継光らの名将が鎮圧戦を繰り広げたエリアという。
その西横の烏田山の山麓には、中国共産党閩南地委機関の事務局跡が残る。

詔安県 詔安県


この詔安県梅岭鎮南門村にある玄鐘古城であるが、福建省の最南端に位置する詔安湾にあり、明代、清代において、南東沿岸部の防衛拠点の一角を成してきた。
この玄鐘城からは東山半島を遠くに見渡すことができ、銅山古城 が東山湾の守備を、玄鐘城が詔安湾の守備を担当した。その地理的な近さから、双方は関係の深い歴史を歩んできたという。それぞれ同時期に建立された関帝廟や古井戸も現存する。

この両者は、鎮海衛下の 3つの 守御千戸所(六鰲銅山、玄鐘)を構成するもので(下地図)、鎮海衛を含む三所城はいずれも 1387年、明王朝の 初代皇帝・朱元璋の幼馴染で建国の功臣の一人であった、江夏侯の周徳興の指示により建造されたものである。 この衛所制度は明朝により採用された支配体制の一つで、戸籍上で登録された住民らに軍役を課し、軍戸数が 112人で百戸所、 1,120人で千戸所を構成するものとされた。その千戸所を束ねる上級機関が衛所であった。
詔安県

明代後期の 1563年、衛所制度が機能せず、玄鐘城が倭寇の襲撃で落城し半島全域が占領されてしまう。翌 1564年、福建総兵の兪大猷と戚継光が軍を率いて進駐すると、倭寇の占領から解放される。しばらく荒廃したままだった玄鐘城だが 1572年に再建されるも、1650年代には南明政権を支えた鄭成功が占領し、駐屯拠点の一角として活用されることとなる。

最終的に鄭成功の排除に成功した清朝は直後の 1661年、遷界令を発令すると、沿岸部の住民らが内陸部へ強制移住させられたため、玄鐘城(悬鐘城)も廃城となる。ちょうどその直前、玄鐘城は康熙帝の 本名「愛新覚羅・玄燁」と発音がダブったことから、悬(懸)鐘城へ改名されたばかりであった。
1717年に再び大規模な改修工事が手掛けられた記録が残る。

詔安県

このとき、最終完成形となった玄鐘城(悬鐘城)であるが、岬沿いに建造された全面石積みの城壁は、全長 1,833 m、高さは 6.8 m~ 3.4 mを誇り、城壁上には 凹凸壁(女壁)が 861も増設されていたという。この他、城壁上には兵舎 15室が設けられ、東西南北の 4城門上には楼閣も組み上げられていた。特に、東西の 2門はすぐ外が海となっており、北門がメイン通路で、南門は山面で遮られており、周囲の海が外堀の役割を果たしていた。

現在、東南西の 3城門が残存し、特に東門の保存状態は完璧で、外面の甕城部分も完全に残り、内外の両城門をくぐる構造が立体的に体感できる(下写真)。

詔安県 詔安県

そのまま城内を進むと、西門前に関帝廟を目にすることになるが、この廟堂は 1378年に建立されたもので、門楼、拜亭、正殿などで構成され、今も地元民から厚い帰依を寄せられているという。

また、この関帝廟の後方には果老山という小山があり、伝説によると、八仙が西王母の催す宴会に参加した際、この小山で小休止したと伝えられ、これにちなみ「仙姑山」と通称されてきたという。現在、この山上には明代に建造された 30以上もの彫刻石板が点在する。その大部分は 1550~1600年ごろに、本城を守備した将官らによって刻印されたもので、明代の城防制度に関する貴重な資料となっているという。

さらに、城の南東にある海岸沿いの岩場には、巨大な「望洋台」岩石が見られる。その高さは約 6 m、横幅は約 3 mで、天然の自然美として当地の観光の目玉となっている。この岩石の表面に「望洋台」の三大字が刻印されており、明代中期の 1526年に福建巡海道の蔡潮が直筆したものという。同年、蔡潮は銅山古城 も訪問しており、同じく健筆を振るい文峰塔と南溟書院の額縁を書き、同時に「与造物遊」などの多くの石刻を残している

日中戦争時代、日本軍は三度にわたって詔安県の沿岸部を攻撃するも、地元民らによって撃退され、福建省南部における栄光の戦跡として伝えられており、岩石の一つにも「勝利」の文字が刻まれている。これは戦後、国民党政府によって彫刻されたものという。



 【 詔安県の 歴史 】

東晋時代の 413年以降、今の詔安県一帯は義安郡下の 綏安県(今の 漳州市雲霄県火田鎮西林村) の行政区に組み込まれていた。隋朝が南北朝を統一した直後の 592年、綏安県が 龍溪県(今の 漳州市竜海市顔厝鎮古県村)に吸収合併される。

唐代前期の 686年、龍溪県の南部で、旧綏安県エリアに相当した区画が分離され、漳州が新設される。配下の 漳浦県(州都を兼務。今の 漳州市雲霄県火田鎮西林村)と 懐恩県の 2県も同時に新設されると、この懐恩県城が今の詔安県南詔鎮に築城されることとなった。

しかし、741年に懐恩県が廃止され 漳浦県(今の 漳州市漳浦県)に併合されると(下地図)、県城は「南詔堡」へ降格される。進駐した唐の屯田兵らの軍事基地が、行政・集落拠点へ発展した城塞都市であったが、当地で流行った伝染病により人口が激減したため、県行政区が廃止されたのだった。

詔安県

宋代、「南詔堡」は南詔場と通称され、 また元代には 南詔屯田万戸府(南詔駅。上地図)が開設されることとなる。


1276年2月、モンゴル軍が 王都・臨安(今の 浙江省杭州市)を占領すると、南宋王朝は滅亡する。
この直前、多くの官吏、軍官らが王都から脱出していた中、朝廷内に残って最後まで政務を取り仕切っていた礼部侍郎の 陸秀夫(モンゴル軍と和平交渉を司るも失敗)、蘇劉義、保康軍節度使の張世傑らは、幼帝を奉じて浙江省から脱出し、同年 4月、福州城 を新王都を定める。この間も、長江北岸の拠点群 ー 揚州城(今の 江蘇省揚州市 中心部)真州城(今の 江蘇省揚州市儀征市)通州城(今の 江蘇省南通市) はモンゴル軍に対し、頑強に籠城戦を継続していたが(下地図)、ついに力尽きて落城すると、城内の人々は大虐殺されることとなる。
これらへの援軍派兵もできず、いたずらに時間を浪費した南宋亡命政権は、いよいよ同年 11月、モンゴル軍の本格的な追撃を受けることとなる。

詔安県

このモンゴル軍の大規模な南下作戦を聞き及んだ亡命政権は、福州城から海路、10万もの軍民を伴って 泉州城 へ退却する。この泉州城を新王都に定めてモンゴル軍に対抗する目算であったが、同年に 福建安撫使&広招撫使&沿海都置制使に任命され、泉州城の守備を司っていた 蒲寿庚(1205~1290年)は皇室一族の入城は許可するも、配下の将軍や軍民らの入城を拒否した上、泉州からの退去を要求する。これに激怒した張世傑は、 福建省の土着民族で南宋亡命政権に加勢した 畲族(シェ族)らを伴って、泉州城を完全包囲する。

しかし、間もなく 福州城 を接収し南下してくるモンゴル軍の 総大将・ ゾゲトゥ(唆都。?~1285年)が接近すると、張世傑らは泉州城の攻略をあきらめて包囲網を解除し、さらに海路南下して 漳州城、潮陽県城香港・九龍半島 を経由しつつ、同年末、硇州城(今の広東省湛江市 東海島開発区にある硇洲島)まで避難し、ここに王都を定めるのだった。
その際、張世傑らは 蒲寿庚(もともとは地元・泉州の大商人だった)配下の船団 400艘を接収し、その家財や商品らをすべて強奪して撤退したため、これに激怒した蒲寿庚は泉州内に隠棲していた宋皇室の末裔やその関係者 3,000名を捕縛して、皆殺しにしたという。その後、モンゴル軍に帰順した蒲寿庚は元朝から厚遇され、商人ネットワークをフル活用して多数の艦船を建造しモンゴル軍に提供したため、元軍の水軍力は飛躍的に向上することとなるのだった。彼の子孫も福建平海行中書省に任命されるなど、繁栄した。

この 泉州城 の包囲戦で、張世傑らに協力した福建省南部の 畲族(シェ族)のリーダーは 陳吊眼(1250~1282年。陳大挙、陳釣眼ともいう)で、彼の出身地が詔安県下の太平鎮白葉村ということから、この詔安県下の山岳地帯に、彼ら義勇軍が築造した軍事拠点跡がいくつも立地されていたのだった。

泉州城 の攻城戦に失敗後、南宋亡命政権は海路で 硇州城 へ向かい、 1年間の安住を得るも、その間にも 湖南省、湖北省、広西省を次々と失陥していった(下地図)。1278年1月、ついに 雷州城(今の 広東省湛江市雷州市) への攻撃も開始されると、半年間、モンゴル軍を撃退し続けるも、ついに遷都が決議される。同年 6月に 最後の地・崖山 へ遷都され、半年後の翌 1279年2月、そのまま南宋亡命政権は全滅に追い込まれる。

詔安県

他方、福建省南部で 畲族(シェ族)を率いた陳吊眼は、地元・詔安県の山岳地帯に要塞群を築いて抵抗を続けていた。従姉にあたる 許夫人(1252~1282年。本名は陳淑楨で、夫は許漢青)も反乱軍を率いて加勢しており、陳吊眼は自身を皇帝と称して昌泰へ年号を変え、独立王権を建国するに至る(昌泰国王)。この時、合計 15余りもの城塞を根城とし、モンゴル軍が広東省方面の南宋軍と戦闘中に、漳州一帯の官舎や各拠点を攻撃しては兵糧や武器を強奪し、地元民へ分け与えて大いに支持を得ることとなるのだった

1280年8月、元朝クビライ皇帝の下、丞相に大抜擢されていた 孛羅(?~1313年)は、高郵路総管府(府都は、高郵県城で、今の江蘇省揚州市高郵市)のダルガチの任にあった 完者都(1239~1297年。オルジェイトゥ。南宋朝の拠点・襄城と 樊城 の攻略戦を指揮し、配下のバイヤンに 王都・臨安 を攻略させる。その功績からバトュールの称号を下賜された。 1279年に黄華の反乱を制圧したばかりのタイミングでの再出兵要請であった)に勅令を下し、この陳吊眼らの反乱軍鎮圧に向かわせる。
翌 1281年8月1日、配下の阿塔海乞の率いる水軍が陳吊眼を攻撃する。さらに、将軍の高興が 畲族(シェ族)の 15の城塞すべてを陥落させ、陳吊眼と許夫人を千壁嶺へ追い込むと、翌 1282年3月、完者都(オルジェイトゥ)自らも現地に着陣し、高興と共に半山を攻めつつ、和議を提示して陳吊眼と許夫人を誘い出し捕縛に成功する。そのまま両名は 漳州城(今の 漳州市中心部・薌城区)まで連行されて処刑され(3月9日)、残党らもことごとく鎮圧されたのだった。
その後、総司令官の 完者都(オルジェイトゥ)は、最終的に 江浙行省平章政事(江蘇省・浙江省エリアの軍事総監)にまで出世している。



明代後期の 1530年、漳浦県(今の 漳州市漳浦県) 下の 二都、三都、四都、五都が分離され 詔安県が新設されると、その県役所が 南詔屯田万戸府 (今の 詔安県中心部南詔鎮)内に開設される。この県城と行政区は、そのまま清末まで踏襲されることとなった。

なお、この詔安県が開設された 当時(1530年)、県下には 2,886戸(20,836名の住民)が住民登録されていたが、清代前期の 1691年に至ると、戸籍人口は 85,000人となっており、160年を経て総人口が 64,164人増加していたという。実に 3.08倍という驚異的な増加率で、年平均で算出すると増加率は 8.77% であった。以後も居住人口は増え続け、 1829年に過去最高の 82,500戸(358,599人)を記録して以降、戸籍人口は少しずつ微減していくこととなる。

詔安県

中華民国が建国された直後の 1912年、住民人口は約 15万人(東山部分は含まず)にまで減少するも、日中戦争直前の 1936年には 195,891人(男性 107,900人、女性 87,991人)へと増加し、戦争期間中の 1942年には総戸数は 39,307戸で、登録住民数は 210,259人となっていた(1945年7月20日~8月15日には、日本軍の占領下にあった)。

なお当初、詔安県城下では海へと通じる東溪を中心に水運都市として発展したので、城郭都市の東側と南側が商業エリアとして繁栄するも、19世紀後半に至る頃には、東溪を下る河道が泥の堆積で困難となる一方で、陸路交通が飛躍的に発展したため、商業地区、新興住宅地区は県城の西郊外や北郊外へ拡大されていくこととなる。こうして、古城地区(南詔鎮)の都市開発が全方位で進み、古城時代の面影は急速に失われていくこととなった。


詔安県は南に広大な海岸線と平野部を有しつつ、北半分は巨大な山々が連なり、全く異なる空間を有する土地柄である。
この北部の山岳地帯でまず有名な観光地は、奇石群が連なる九侯山風景区という。ここは福建省南部エリア随一の山と称される名山で、かつて鄭成功がこの山麓まで屯田兵を連れて入植し、土地開墾を進めている。

詔安県

さらに北部の山岳地帯には、客家の 城塞集落「土楼」が多数、現存しており、その主なエリアは 秀篆鎮、官陂鎮、霞葛鎮、太平鎮、紅星鎮という。

それら土楼の規模は大小さまざまで、形状も円形、方形、八角形などそれぞれ異なる。比較的規模が大きく有名な土楼は、官陂大辺村にある田楼、新坎村の溪口楼、秀篆陳龍村の龍潭楼、寨坪村の大坪半月楼などが挙げられる。特に、田楼は直径 99.8 m、5階建てを誇る、福建省全土でも最大スケールの土楼となっており、有名な観光名所という。八角形をした巨大な円形スタイルの歴史遺産は保存状態も良好で、世界最大の土楼とも評される。



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