BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~

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訪問日:2019年4月中旬 『大陸西遊記』~


雲南省 昆明市 晋寧区 ~ 区内人口 33万人、 一人当たり GDP 34,000 元(晋寧区)


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  昆明市街地(巫家垻)から 晋城鎮へ バス移動(50分、15元)+ 路線バス(40分、2元)
  呈貢区化古城村から 晋城鎮入りする(25分、50元) ~ 晋東路沿いの 第二人民医院前で下車
  西門村の交差点 と 名刹「盤龍寺」
  晋寧州城(古滇国王都、滇池県城、益州郡城、寧州城、陽城堡)旧市街地 マップ
  東方廟街(途中から政通街へ名称変更) と 李氏旧家(100年前の建造)
  青空(屋外)刺繍ミシン屋 ~ 政通街 と 北門街の交差点
  北門跡 と 北門街
  西面の外堀跡 と 百花街(売春宿と 養豚場)
  巨大かつ壮麗な廟殿「城関聖堂」 ~ 元は 武廟、今は 賭博センター
  城関聖堂の正面路地 ~ 下西街、関井街(官井街)、南正街 の見事な 古民家街道
  西門跡 と 望鶴街
  老県府街沿いに発見した、滇池県役所跡(漢代~)祈念公園
  地元ご老人のご好意により、自宅見学させたもらった @ 龍翔巷
  老県府街沿いの 城南社区民センター と 古井戸
  晋城鎮の 青空(屋外)バスターミナル ~ 「晋城 → 昆陽行(8元)」など
  【豆知識】晋寧区の 歴史 ■■■
  【豆知識】昆陽州城(河西県城、建伶県城、冷邱県城、望水県城、万水県城、巨橋城) ■■■



この晋寧区晋城鎮は、戦国時代後期(紀元前 277年)~前漢時代中期(紀元前 109年)にかけて、古滇国の王都が開設されていた場所で、雲南省でも屈指の悠久なる歴史を誇る土地である。また、明代にアフリカ大陸まで航海した 鄭和(1371~1433年)の故郷としても知られる(現在の晋寧区昆陽街道にある鄭和公園あたり)。

この晋城鎮には、北隣の 呈貢区化古城村 を見学してから、さらに南下する形で現地入りした(化古城村で話かけてきた白タクに乗って)。高速道路代を入れて合計 50元というので、二つ返事で OK した。
白タクは澄江料金所から昆磨高速道路に入り、富有料金所で降りて(高速代片道 4元)、いよいよ晋城鎮に到達すると、晋東路沿いの第二人民医院の正門前で下ろしてもらった(乗車時間 25分)。運転手は優しく丁寧な中年女性だった。

ちょうど、この人民医院は古城エリアの東城門あたりに相当し、病院の裏手側に旧市街地が広がる構図だった。
医院前に「盤龍寺」という案内板があったが(下写真)、ここが西門村の交差点に相当する。

晋寧区

ここでいう、「西門」とは古城側ではなく、この盤龍路の坂道 2 kmを上った先にある(下写真左)、盤龍山の山麓に建立された名刹「盤龍寺」の西側を意味している。

晋寧区 晋寧区



 盤龍寺

元代後期の 1347年に蓮峰和尚が建立した小さな寺院を起源としており、以後、数百年の年月を経る中で、度重なる戦火や天災を経験し、何度も建て替えが繰り返され、拡張されてきたという。
特に、1837年に発生した震度 8級の晋寧大地震により多くの寺院建築物が破壊され、さらに太平天国の乱により残った建物も焼失してしまうという最大ピンチを、清朝末期に経験する。
ようやく 1879年、民衆の寄付により大伽藍が再建されるも、 1960年代後半の文化大革命で再び破壊されてしまう。
最終的に 1980年代に再建され、1983年、昆明市により重要文化遺跡に指定されたという。

現在、昆明市西山風景区大理市 賓川県の鷄足山と並び、雲南省 下の三大仏教聖地と称される。観覧料 8元。



さて、いよいよ滇池県城の古城エリア散策をスタートしてみるわけだが、すでに城門と城壁はすべて撤去されており、古城らしい遺構は一切、残っていないことは最初から分かっていたので(郷土博物館もない)、路地名や地名から往時を妄想しながら現地巡りを進めてみることにした(下地図)。

晋寧区

まず第二人民医院の南脇の 路地(東方廟街)から、古城エリアへ入ってみる(下写真)。

晋寧区 晋寧区

下写真左は、東方廟街沿いに残る李氏旧家。約 100年前の中華民国時代に建設されたもので、床面積は 193 m2 もあり、西向きの三坊一照壁式で設計されているという。

晋寧区 晋寧区

途中から、東方廟街は政通街へと名前を変える(下写真)。
なお、この政通街は北へ行けば行くほど、商店が増していき、北門街をさらに越えていくと、地元の繁華街エリアのメインストリートとなっていく。北端の晋北路との交差点に至る頃には、完全に若者向けの華やかな商店街通りとなっていた(末尾参照)。

晋寧区 晋寧区

さて、政通街が北門街と交差するポイントに、路上でミシンを踏む、二人の夫人を目にした(下写真)。日光を完全遮断したフル装備で、ひたすら作業に没頭していた。
中国では 青空(屋外)理髪店、青空(屋外)歯医者、市場などを度々見かけるが、不動産賃料が含まれないだけ、顧客、業者ともに安価にサービスを授受し合える、単純かつ明快なスキームに改めて気付かされる。

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そのまま北門街を散策してみた(上写真右)。この北端に、かつて北門があった(下写真)。

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なお、この北門街は 南北(上写真)とともに、東西(下写真右)にも古城地区を貫通するストリートで、文字通り、縦横無尽の路地となっていた。

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そのまま北門街を西進してみると、西端にドブ水路があった(下写真左)。かつての西面の外堀跡だと推察される。
地元民たちは自動車、自転車、バイクそれぞれで細い橋を譲り合って渡っていた(下写真右)。

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その橋南側の家屋に女たちが数人暇そうに座ってたむろしていた(下写真左の中央に見える灰色小屋の前後)。売春婦たちだった。やはりどこの町にもいるものだ。少し接近しようと、百花街を南下してみる。
そのまま売春宿を通り過ぎると、南側に養豚場があり、豚が箱詰めにされトラックで運ばれていく最中だった(下写真右)。

晋寧区 晋寧区

さて、再び北門街を戻る形で東進し、人和街を南下してみる。旧市街地は、ちょうど道路工事のまっ最中で、どこもコンクリートを掘り返して埋め戻す作業途中だったため、砂埃がすごかった。

すると、人和街の南端の 曲がり角(下写真左)に、城関聖堂の巨大な廟殿がでんっと鎮座していた(下写真右)。内部を写真撮影したかったが、たくさんの地元民たちが麻雀に興じる一大賭博場と化しており、気が引けたので止めておいた。

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なお、この城関聖宮は 1999年の大規模修築工事の際に命名されたもので、もともとは武廟として明末の 1600年ごろに建立されたという。反清で挙兵した三藩の乱に際し、1681年、ついに雲南省へ侵入した清軍の攻撃により、この晋寧州城も落城すると一帯は焼け野原となったという。戦後、すぐに城郭の再建工事が進められ、ようやく 1730年ごろに武廟の修築工事も完成されたのだった。

清代後期 1870年ごろ、太平天国の乱で再び焼失してしまうも、 1900年ごろに復興される。以降、関岳廟と称される。現存する正殿はこのとき再建されたもので、1999年の修繕工事を経て、今日に至るというわけだった。門や壁の装飾は清代当時のままで、非常に貴重な歴史遺産という。 現在、晋城老年協会の茶室として転用されているそうで、老人たちの飲茶やおしゃべり広間というのが建前だが、実際には 大賭博場 となっているわけだった。

晋寧区 晋寧区

その 正面通り(下西街)も道路工事中で、砂埃はすごかった(上写真)。そのまま南下する。

すると、いつの間にか下西街は関井街(下写真左。官井街とも書く。現在でも各民家内の炊事場近くには小さな家庭用の井戸があり、「私井」と通称されているという。古くからの習慣で各家ごとに掘削されたらしいが、中には路地沿いに設けられ、公共用に供された井戸もあったという。それが「官井」と通称され、この路地名の由来となっている)へ、さらに南正街へと(下写真右)、路地名が変わっていった。

この一直線の路地に残る古民家群が、内容、数ともに最も充実していた。最も古い建物でも清代後期といい、大多数は中華民国時代の建造という。

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そのまま南正街を南下すると、西脇に畑が見え隠れするようになる(下写真左)。この辺りは、すでに古城外のエリアに相当するのだろう。
途中、望鶴街という路地を通過した(下写真右)。これは、明末の 1637年に建造された西門上の楼閣・望鶴楼の名称が冠されており、この先が西門へと続いていた可能性が高い。

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なお、南正街から東へ伸びる三差路の交差点で、古城壁の部材を転用してそうな旧式工場らしき外壁を見つけたので、写真撮影しておいた。下写真。

晋寧区 晋寧区

再び南正街を戻る形で北上し、老県府街という「いかにも」と思える路地を右折してみる。すると、忽然と史跡公園が姿を現した(下写真)。

漢代に開設されていた滇池県役所の跡地だった。それを明記する石碑が保護され(下写真中央に見える白壁の中央部)、その前に亭が立てられて公園化されていたのだった。
公園自体は真新しい何の変哲もないものだが、地元の晋寧区政府によって丁重に保護されていることに感動した。この下写真が、当エリア散策での一番の収穫物だった。

晋寧区

紀元前 109年に、古滇国が前漢朝の遠征軍の前に降伏に追い込まれると、その王都は滇池県城へと改編される(益州郡都を兼務)。その際、ここに県役所が開設され、また隣接する場所に益州郡役所も開設されていたと思われる。その由来から、老県府街という路地名が誕生していたのだった。

三国時代の 225年に諸葛孔明が南蛮遠征して以降、益州郡は廃止され、建寧郡の郡役所が味県城に開設 されると、以降、ここは単なる滇池県城となる。(南北朝時代の一時期、晋寧州の州都も兼務していた)。

下写真左は、この史跡公園の西脇になった路地「甬道巷」。下写真右は、その北隣の「龍翔巷」。往時は、県役所の敷地内だったと思われる。

晋寧区 晋寧区

さて、この史跡公園周辺を熱心に写真撮影していると、亭内のベンチに座っていた地元の ご老人(上写真内の白帽子を被っていた人)が何やら話しかけてくる。
地元方言らしく聞き取れずにいたが、ちょうど公園横にあった龍翔巷沿いの自宅前まで連れ出され、門のカギを開け出した(下写真左)。。。どうやら中に入れと言っている。そして、天井や 二階部分(物置き)、裏口階段などを指さして写真撮影しなさい、と指示しているようだったので、とりあえずあちこち撮影させてもらった。

晋寧区 晋寧区

台所のキッチン台座に上って、二階部分(物置き)も撮影しなさい、とか言ってくれたが、さすがに遠慮しておいた。天井は鉄板を敷いているようだった。内部は真っ暗で、明るい外から入ったばかりだった筆者は、実際のところ、目が慣れないまま暗くてあまり視認できなかった。

晋寧区 晋寧区

突然のご好意にびっくりし、そそくさと写真撮影して、20元をチップとして差し出すと、頑なに受け取ってもらえないので、門脇の坪の上に置いて、重ね重ね感謝を言って、お別れした。
大陸中国をあちこち放浪していて、こんな好意を受けたのは初めてだった。

各民家ごとに掘削されているという、キッチン脇の「私井」の有無も確認できればよかったが、すっかり我を忘れてしまっていた。この旧市街地は無数の「私井」が設けられており、かなり地下水が汲み上げられていると思われる。家庭が使用するレベルだと、地盤沈下までの危険性はないのだろう。

晋寧区 晋寧区

さて、逃げるようにして、ご老人の自宅前の路地「龍翔巷」を西進すると、再び 関井街(官井街)に行き当たる(上写真)。
ここから大回りする形で 関井街(官井街)を南下し、再び老県府街を東進して(下写真)、そのまま晋東路へ戻ることにした。

晋寧区 晋寧区

途中、老県府街のカーブポイントに、城南社区民センター(晋城鎮城南居民委員会)の真新しい建物があった(下写真左)。

また下写真右は、老県府街沿いにあった古井戸。わざわざ道路脇の塀がこれを迂回して整備されている様子に、またまた感動させられた次第である。内部にはまだ水がなみなみと残り、その深さは 2 mもない浅さだった。こんな乾燥した土地でも、すぐ地下には豊富な水脈が流れているのだった。

晋寧区 晋寧区

そのまま老県府街を踏破し晋東路に戻ると、坂道を下ることにした。
なお、この晋東路との交差点にあった晋寧第二中学の敷地だが、筆者の 訪問時(2019年4月下旬)、トラクターや小型ショベルカーなどが動員され破壊されている最中だった。校舎建替え作業中なのか、新規に宅地開発中だったのかは、不明だ。

晋東路を北上する形で坂道を下っていくと、2分 ほどでロータリー交差点に至る(最初に白タクで降車した晋東路沿いの第二人民医院から北へ 500 mほど)。下写真左。
ちょうど、このロータリー沿いに、晋城鎮から近郊各地へ移動する路線バスがたくさん停車していた。この中の一本が、昆明 行であった。

先ほどの青空ミシン女性と同様に、バスターミナルという建物を有しない、青空バス発着所だった。砂埃の中の古城散策だったので乗車前に手洗いをしたかったが、そんな場所は微塵もなかった(ロータリー周囲は華やかな商店街で、飲食店や喫茶店が多かった。昆明行バスの停車ポイントの向かいには、寿司屋まであった。本格的な寿司店というより、ホットドックと同種の軽食として提供されていた)。

晋寧区 晋寧区

ここから、昆明 行のバスに乗り込む(下写真左)。ここでもバス車内は乗客が一杯になったら出発する仕組みで(高速道路までの所々で乗客を乗せるらしく、90%ぐらいの乗車率で出発)、平均すると 1時間に一本という運行割合のようだった。

出発直前 1分前に運賃係の女性が座席に座る乗客たちから 運賃 15元を徴収し終えて下車すると、運転手が乗り込んですぐに発車した。いちおう、旧タイプであるが 40人は乗れる大型バスだった。

筆者が昆明行のバス乗車率を最初に確認した時、まだ一桁台だったので、先に手洗いと腹ごしらえすべく、ロータリー周辺の商店を見て回ることにした。
ここで、冒頭の政通街を発見することとなったわけだ。古城散策の初期に通った、寂れた路地が(冒頭参照)、このロータリー脇まで延びていることに驚かされた。この晋北路沿いに至る頃には、かなり華やかな若者ストリートへ大変貌していた(上写真右)。

ちょうど、この政通街がロータリーに交差する脇にあったファースト・フード店チェーン「華莱士」で、バーガー・セットをテイクアウトした(13元)。手洗いも完了し、さっぱりできた。そのままバス車内で食べたかったが、発車前は外で食べるように指示され、車外で食事する(青空バスターミナルらしく、数個のプラスチック椅子がバス脇に並べられていた。。。)。

晋寧区 晋寧区

食事後もまだ発車する見込みが立っていなかったので、もう少し散策してみることにした。

ちょうど、この昆明行のバス乗り場の後方に、晋城 → 昆陽行の郊外バスが停車しており(上写真右)、次回のために運賃を聞いてみたら、8元ということだった。

さてさて、1時間近く経った後にようやく 昆明 行バスが発車すると、高速道路へと至る一般道上で、途中乗車する乗客らを乗せながら高速道路入口へと北上した。最終的にこのバスは 官渡区 体育館近くの巫家垻バスターミナルに到着した。乗車時間はちょうど 50分だった。

このバスターミナルから ⑤番路線バスに乗車する(2元。下写真)。 40分ほどの乗車後、東風西路沿いの小西門 で下車し、ホテル へ帰りつくことができた。



 昆明市中心部から 晋城鎮への アクセス方法

さて逆に、昆明市中心部(五華区)から、晋城鎮へのアクセス方法であるが、上記の逆ルートで ⑤番バスの終点「巫家垻公交バスターミナル」まで移動し(2元。下写真)、ここから 1時間に一本ある、晋城行の大型バスに乗り込む方法が、地元のネット書き込みで紹介されていた。

晋寧区

また、別の方法では、地下鉄 1号線で南へ移動し、終点の大学城南駅へ向かう。そして、D出口から出ると、K37番路線バスに乗り換え、終点の中村衛まで移動する。中村衛から、さらに K44番路線バスに乗り換えて、晋城鎮へ向かう方法もある。



晋寧区の 歴史

晋城鎮は滇池湖畔エリアで、最も古くに形成された集落の一つであり、新石器時代から古代人類の生息が確認されているという。

戦国時代後期の紀元前 279年、楚の頃襄王が大将軍の庄蹻(?~紀元前 256年)を派遣し、長江沿いに四川省から 雲南省東部(滇池周辺)まで軍事占領する(下地図)。その戦勝報告のため、庄蹻らが楚へ帰任しようとした矢先の紀元前 277年、秦が四川省を再占領し、楚の遠征軍と本国を分断してしまう。

こうして、帰国を断念した楚軍により、母国から独立する形で古滇国が建国される(奴隷制を有する古代国家で、庄蹻をリーダーとし地場部族らを糾合した)。
その王都が開設されたのが、この晋寧区晋城鎮だったわけである。

なお、滇池の 対岸エリア(現在の晋寧区の西半分)は当時、まだ未開のままだったと考えられる。

晋寧区

紀元前 221年に中原を統一した秦の始皇帝により雲南遠征が決行されると、この古滇国も降伏に追い込まれ、中央集権体制の導入を図る秦朝により、街道(五尺道)の整備が進められる。
また、旧王都跡地には滇池県が、滇池の 対岸(現在の晋寧区古城鎮)には、河西県が新設される。

前漢朝も秦代からの統治形態を踏襲するも、紀元前 116~111年に雲南エリアの地場勢力が前漢朝の支配から造反し自立の動きを見せると、紀元前 111年、第 7代目皇帝・武帝が 郭昌(大将軍・衛青に従って匈奴遠征に従軍するなど、常に最前線で活躍した軍人)を総大将とする大軍勢を派兵する。2年ごしの紀元前 109年に、ようやく雲南地方東部の平定が成る。
降伏した古滇王には武帝から滇王印の印綬を下賜され、そのまま統治者として支配体制に組み込れつつ、前漢朝による中央集権制度の導入が断行されたのだった。

このとき、益州郡が新設され、古滇国の王都時代から最大集落地であった 滇池県城(今の 晋寧区晋城鎮)が郡都を兼ねることとなる。24県を統括した(下地図)。
対岸の 晋寧区西側(現在の 晋寧区古城鎮)には建伶県が設置された(下地図)。

雲南省東部の 最大都市・滇池県城はその後も拡大を続け、最盛期には内城と外城の二重の掘割で集落地を囲むようになっており、その外周の最大距離は 3.5kmにも及んだという。

晋寧区

後漢時代もこの行政区が踏襲され、魏晋南北朝時代、雲南省東部(南中と通称された)の主要豪族(大姓)が滇池湖畔エリアに割拠し、独立勢力圏を構築すると同時に、中原王朝の支配力が弱まると、内地との隔絶が生じ、滇池エリアにあった地場民族と、戦乱を避けて流入してきた漢民族らとの文化融合が進むこととなる。

三国時代の 225年、蜀の諸葛孔明が南蛮遠征で雲南地方を平定すると(下地図)、益州郡が建寧郡へ改称される。滇池県はそのまま踏襲されるも、郡役所が 味県城(今の 雲南省曲靖市麒麟区三岔)へ転出される。当時、一帯の地場部族長らを束ねたリーダー孟獲の本拠地に、行政機能を集約させたのだった。
晋寧区

その蜀も 263年に魏(後に西晋)により滅ぼされると、雲南地方(南中地区)も西晋領に併合される。
270年、西晋朝廷はこの雲南エリアの統治政策を強化すべく、益州下の建寧郡と雲南郡、興古郡、そして、交州下の永昌郡の四郡が分離され、寧州が新設される。州都は 味県城(今の 雲南省曲靖市麒麟区三岔)が兼務した。
282年、寧州が廃止され益州に再編入される。同時に、建寧郡が晋寧郡へ改名されると、滇池県(今の 晋寧区晋城鎮)が郡都として返り咲く。同時に、滇池の 対岸(現在の 晋寧区古城鎮)にあった建伶県は、冷邱県へと改名される(現在の 玉溪市 一帯も統括域に含むようになる)。

間もなく、雲南省下の諸部族らが反晋で挙兵し、各地の県城や郡城を占領すると、南夷校尉が新設され、その平定戦が展開されることとなる。これに任命されたのが、益州での統治手腕を評価された 李毅(?~306年)で、雲南省各地を転戦した。

302年には復活設置された寧州長官として、引き続き、各地の平定戦を主導するも、タイミング悪く、寧州一帯で天候不順から飢饉が発生し、反乱軍に糾合された農民らにより、寧州城(味県城)も完全包囲されるに至る。この戦役中に病死した父の寧州長官職を継承し、各地を転戦して、寧州の平定を成し遂げたのが、その娘の 李秀(291年~?。当時 17歳)であった。彼女はこの滇池県城にもその足跡を残したと考えられる。騎射に長け、常に先陣を切って軍を鼓舞した李秀は、反乱平定と治安回復を一気に成し遂げ、その死後、雲南省内で神格化されることとなる。

東晋時代初期、冷邱県は再び建伶県へ戻される。
333~339年の間、成漢朝の李特・李雄父子により占領されるも、再び東晋朝が支配権を奪還することとなる(下地図)。

晋寧区

581年に北周朝から帝位禅譲されて隋朝を建国した楊堅は、全国の行政区の再編に乗り出し、595年、滇池の 西岸(現在の昆明市西山区の湖畔に築城されていた碧鷄関の城塞内)に昆州役所を新設する。
昆州刺史として、地元の部族長・爨翫が任命されるも、隋朝廷から派遣された 韋冲(540~605年)がその上級機関の 南寧州総管(味県城【今の 雲南省曲靖市 麒麟区三岔】が州都を兼務)として赴任すると、その横暴な統治政策に不満を募らせる。
ついに 族長・爨翫(昆州刺史)が爨族一味で徒党を組んで反乱を起こすと、昆州役所はすぐに閉鎖され、韋冲は中原まで逃げ帰ることとなる(その後、菅州総管に再任され、603年には中央に戻って民部尚書となる。その娘は豫章王・楊暕の妃となっており、政界に強いコネを有した。孫は後の唐朝に仕え、宰相となった韋待價がいる)。

隋朝はこの雲南省東部に巨大ネットワークを有する爨氏の勢力を討伐すべく、597年、歴戦の 猛将・史万歳(549~600年)を総大将とする大軍勢を派兵する。
族長・爨翫に与した地方部族らは各個撃破され、現在の雲南省西部の 麗江市 まで隋が進軍する中で、30余りの部落が破壊され、男女二万余りが捕虜となったという。隋軍の過酷な弾圧戦争の前についに力尽きた爨氏は投降する。
しかし、当地に駐留した史万歳も横暴な施政に手を染めると、翌 598年、爨翫とその実子・爨宏は再び、反隋で挙兵する。地元部族らの支配の困難を悟った隋朝廷は雲南地方を放棄し、南寧州総管府はついに閉鎖されることとなる。下地図。

晋寧区

最終的に内政、外征で失策を繰り返した隋朝も短期間で滅亡すると、618年、唐朝がその権力基盤を継承する。
621年、滇池県城に晋寧州の州役所が併設される(昆州に帰属)。
これが、晋寧の地名が最初に使用されたタイミングで、以後 740年代まで、滇池県城が晋寧州の州都を兼務することとなる。
一方、対岸の 西部エリア(昆陽地区)は、望水県(万水県)へ改称される(鉤州に帰属)。

750年ごろ、雲南省西部で勃興した南詔国が雲南省東部にまで勢力を伸長させてくると、晋寧州は晋川州へ改称され、対岸の 西部エリア(昆陽地区)は渠濫川と改名される。

晋寧区

南詔国を継承した 大理国の統治時代、晋寧地区が陽城堡、昆陽地区は巨橋城と改名される(ともに 鄯闡府 に帰属)。上地図。

秦代、漢代以降、唐代に至るまで、一貫して滇池湖畔エリアの中心都市として君臨し、歴代中原王朝の雲南省東部支配における重要拠点の一角を成してきた 旧滇池県城(陽城堡)であったが、この時代に至ると、雲南地方の 政治、経済、文化の中心エリアは西部の大理市が担うこととなり、さらに、雲南地方と 中原王朝(唐、五代十国、北宋、南宋朝)との公的な関係性も薄れるタイミングに重なり、その絶対的地位を徐々に低下させていくこととなった。以後、滇池湖畔エリアの一行政都市として存続するのみとなる。

元代後期の 1347年、陽城堡が陽城堡万戸府へ昇格されると、三泊県(今の 安寧市 的県街一帯)と易門県の 2県を統括した(中慶路に帰属)。後に晋寧州へ再昇格される。
また 1351年、滇池西岸の巨橋城が巨橋万戸府へ昇格されると、最終的に昆陽州へ改編される。下地図。
晋寧区

以後、明代、清代を通じ、晋寧州と昆陽州がそのまま踏襲され、共に雲南府に属した。
なお、明代には、晋寧州は 呈貢県(今の 昆明市呈貢区城内村)帰化県(今の 昆明市呈貢区化古城村)の 2県を統括した(上地図)。

また、この明代を通じ、晋寧州城自体も度々、強化工事を手掛けられていくこととなる。まず 1486年に、晋寧州長官の熊宏が土壁城壁を整備し、そして明代後期の 1600年ごろ、レンガ積み城壁へ全面改修される。
1637年には、晋寧州長官の 唐万齢(今の 江西省赣州市出身)が、州城の 4城門上に楼閣と瓮城を増設する。その楼閣上には、それぞれ 東門海曙楼、西門望鶴楼、南楼控江楼、北楼海宴楼という額が掲示されたという。
晋寧区

翌1638年、明末の大旅行家・徐霞客が晋寧州城を訪問すると(上地図)、文学者でもあった州長官・唐万齢は、当時、すでに旅行著述家として名を馳せていた 徐霞客(1587~1641年)を歓待し、その投宿先を府役所内に手配したという。

しかし、1644年に農民反乱軍により北京を占領され明王朝が滅亡すると、そのまま満州族が中国へ侵入し、清王朝を建国するに至る。
ついに 1657年、南明政権の残党勢力を追って呉三桂が雲南省入りすると、そのまま雲南王に封じられ、ここで半独立王国を作り上げることとなった。
その治世下の 1668年、帰化県が廃止され呈貢県に吸収合併される。
間もなく、昆陽州下でも三泊県が廃止され、安寧県 と易門県に吸収合併された。上地図。

晋寧区

しかし、藩王の世襲を認めない清朝との対立が決定的となり、1673年に呉三桂が主導して三藩の乱で挙兵するも(上地図)、 1678年に呉三桂自身が病死すると、清軍は 1681年、ついに雲南省にまで侵攻してくる。その際、晋寧州城も戦火に巻き込まれ、多くの歴史的建造物が焼失されてしまったという。
戦後、清朝により明代の城郭都市の基礎上に、すぐに再建が進められることとなった。この時、東南西北に設けられた各城門へ通じる路地も明代のそれが踏襲され、それぞれ 龍翔道(東門街)、南熏道(南門街)、鳯翥道(西門街)、拱城道(北門街)と命名される。
1755年、再び、大規模な修繕工事が着手され、当時の州長官・朱陽により各城門楼閣は三部屋構造の平屋建てに改修されたという。

中華民国建国の翌 1913年、全国で州制度が廃止されると、晋寧州は晋寧県へ、昆陽州は昆陽県へ降格される。
共産党時代の 1958年、両県が合併され、晋寧県に統一されると、県役所が西岸側の旧昆陽県側に開設される。 1960年に 玉溪市 から分離され、昆明市 に編入されて今日に至る。


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