BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省 揭陽市 榕城区 炮台鎮 ~ 区内人口 56万人、 一人当たり GDP 30,000 元(榕城区 全体)


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  揭陽市中心部(進賢門前ロータリー)から 炮台鎮 へバス移動(2パターン)
  東嶺陸村 ~ 陸氏家廟(南宋亡命政権の 丞相・陸秀夫の子孫たち)と 木額「忠貞」
  炮台墟(旧市街地)~ 三日紅旧跡、北砲台・南砲台、関帝廟、炮台老市場、桃花過渡旧跡
  新塞村の 外堀跡
  【豆知識】炮台鎮の 歴史 ■■■
  石牌古寨(対倭寇要塞)と 古城壁、外堀跡



揭陽市中心部(榕城区)の進賢門前ロータリー から発着する 潮汕空港、高速鉄道駅「潮汕駅」を往来する路線バスに乗車して炮台鎮を目指した。下写真。

炮台鎮

炮台鎮

ちなみに、 揭陽市汽車総合バスターミナル を始発とし、馬牙バスターミナルを経由する 308番路線バス(汕頭往復)でも、炮台鎮を訪問できる(下写真左)。

炮台鎮 炮台鎮

まずは、空港&高速鉄道往来のバスは炮台鎮の中心部の手前にあるバス停「南湖」後に東進するため、ここで下車せざるを得ない。下地図。

せっかく手前で下車したので、 ここから東へ 2 kmほど離れた東嶺陸村を訪問してみる(下地図)。

炮台鎮

この東嶺陸村の住民は全員、陸という姓で、南宋亡命政権で丞相を務めた陸秀夫の末裔とされる。この集落地に陸氏家廟という、屋根が大きく反り上げ、壁や瓦は派手に粉飾された豪勢な小宮殿のような古民家が保存されており、その中央の建物に「忠貞」としたためられた 木額(牌匾)が掲げられている。

その由来は地元では以下のように語り継がれているという。
明代の 1522年、この村出身の 陸黼(字は貢齋)が 貢生(朝廷下の最高学府・国子監で勉学を積んだ学生)となる。彼は後に県長官として別地域へ赴任する前、地元の私塾で講師をしていたことがあり、その塾生に林大欽がいたという。
1531年、状元となった林大欽が恩師の陸貢齋にその成功を報告するため、府兵を遣って 潮安県 沙溪から一本の杉材木を運び込ませ、それを使って東嶺祠堂を建設したという。
東嶺祠堂が完成されると、林大欽は自ら筆を執り「忠貞」と黑漆で 木額(牌匾)をしたためる。これは、陸氏先祖である南宋時代の陸秀夫が南宋皇帝から下賜された別名で、その由緒ある尊称を恩師に送ったわけである。

さて、ここから 4 km離れた炮台鎮の 中心部(下地図)までバイクタクシーで移動した。

炮台鎮

炮台鎮の中心部には 三日紅旧跡、古炮台遺跡、関帝廟、炮台老市場、桃花過渡旧跡(船の渡し場)、新寨村(かつての堀川が集落地を囲む。上写真の赤ライン)などの名所旧跡がある(上地図)。



 【 炮台鎮の 歴史 】

揭陽市中心部(榕城区)の南東部にあって、榕江の支流である榕江北河と榕江南河との合流地点に立地する炮台鎮の面積は 54km2で、域内人口 12万という。現在、鎮政府自体は旧市街地の 炮台墟(人口 1.3万人)内にあり、かつては鋪前という通称された地域だったという。

榕江沿いにあって、古くから潮汕地区の重要な交易集落地の一角であり、明代、清代にはその大きな都市化が進むこととなった。
清代初期の 1649年(旧暦)8月26日~29日にかけて、この鋪前の港町をめぐり、清軍と 鄭軍(鄭成功配下の鄭鴻逵率いる水軍と、劉公顯率いる九軍の連合軍)とが激しい砲撃戦を繰り広げ、双方 1,000名を越える死者を出している。
最終的に奇襲作戦が功を奏し、鋪前の清陣地を陥落させると、そのまま勢いに乗って潮州府城まで占領した鄭軍であったが、1651年春に再び清軍に再占領されると、同年末に完全に潮汕地区も清軍の領土に併合される


それから 5年後の 1656年、鄭軍の逆襲を防ぐ目的で、榕江を臨む両岸に砲台陣地が建造されると、その周囲の土地開発が一気に進むこととなり、一帯は 砲台(炮台)という地名がそのまま使用されるようになる。

炮台鎮

こうして発展を遂げた炮台鎮の港町には 1685年、広州管轄下の税関支部が開設される。以後も中華民国時代、共産党時代を通じても、引き続き、対外交易都市として栄えることとなるのだった。
1951年に炮台区に、1957年に炮台郷となる。最終的に 1986年に炮台鎮とされ、今日に至る。

また、周囲の農村エリアは、榕江が蛇行する平原地帯ということもあり、水資源が豊富で、稲作、甘薯、麦、豆、麻などの栽培が盛んな他、ミカン、バナナ、 サトウキビ、ブドウ、マンゴーなどの果物も数多く出荷されているという。特に、手工業では刺繡製品が当地の名産となっているらしい。


さて、榕江を渡って南炮台エリアも視察した後、再び、炮台鎮の 中心部(炮台墟)に戻ると、今度は南東 1.5 kmにある、古民家集落が広がる石牌古寨を訪問してみる。

炮台鎮

炮台鎮

ここは倭寇対策で自衛した地元の城塞集落があった場所で、今でも 外堀(護寨河)と、 古く色こけた 城壁(寨壁)の 一部(約 108 m分)が残っているという。その寨壁は貝殻や灰を混ぜた土壁で、高さは 3.9 m前後、厚さは 30 cm強という。



 【 石牌古寨 】

元代明初の時代、中国全土が混乱し、また海岸地帯では倭寇の襲撃が度々重なった 1369年、桑浦山を筆頭とする石亀山脈の西面の麓に広がる肥沃な平原地帯に、感隆公という人物が目をつけ移住を決める。こうして東に桑浦山、南に榕江が接する、楕円形の集落地を建設し、彼はその天然の地運を尊び、金亀宝地(後の石牌村)と命名したという。

以降、その集落地には楊氏、林氏、呉氏、廖氏など多くの氏族も流入し、周囲に各氏族ごとのコミュニティを建設していったという。しかし、いずれも小規模なままだったとされる。

周囲に多くの集落地が誕生し雑然とする中、感隆公は、さらに西に隣接する土地がもっと風光明媚であることを発見し、再に一族を連れて大移住を図ることとなった。
彼らの移住後、元々の 集落地(金亀宝地)の中央に建設されていた廟所が蔡氏家廟として転用され、蔡氏の祖先廟として現存していくこととなる。 以後、蔡氏は非常に勤勉に働き、土地を開墾して一族の人口を増やしていったという。明代中期には、蔡族がこの石牌頭あたりで一番繁栄した氏族となっていた。

しかし、明代は倭寇の襲撃もあり、社会は大いに混乱した時代で、これに対応すべく、蔡氏の一族らが相談し合い、集落地の周囲に城壁の建造を決定し、全員賛成で可決される。すぐに建設工事が着手され、間もなく寨壁が完成したのだった。その規模は、東西の長さは約 200 m、南北は約 100 mほどとなった。

東西南北にそれぞれ四城門を有し、城門上には見張り台や警備室を兼ねた楼閣が増設されていたという。また、寨壁外の 外堀(護寨河)は深く、四城門外には吊り橋が設けられていた(現在は鉄筋コンクリートの橋となっている)。大門の前面の両側にはガジュマルの樹が植樹され、その堅固さをさらに補強させていたという。

さて、当地で最も有名な史跡として、「翰苑」の額縁が挙げられる。その古めかしい文字は毛筆で書かれて彫られたもので、現在、この石牌村の寨外門楼上にある石板に刻まれて残っている。

伝説によると、明代の嘉靖帝が下賜したもので、潮州府長官の周鵬が自ら記したものという。
明代の 1550年ごろ、石牌村北厝から秀才に合格した 蔡材(字は藺坡)が出て、 21歳で進士に合格すると、翰林院への進学を許可される。
しかし、地元へ帰省する際に病没してしまい、その若すぎる死を惜しんだ嘉靖帝が 1562年にこの 二字「翰苑」を下賜し、潮州府長官の周鵬に自ら書かせたというのだった。
この 石碑(牌匾)は 潮州府城(今の 潮州市湘橋区) からこの石牌村まで運ばれて、最終的に寨外貢門楼の上に掲げられたという。



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