BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2019年7月下旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省 揭陽市 揭東区 ~ 区内人口 56万人、 一人当たり GDP 30,000 元(揭東区)


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  潮州市中心部(湘橋区)から、掲東区へ直接、路線バスでアクセスする(20元、35分)
  掲東区内にある 客家人の要塞集落(囲龍屋)の 名残りを感じる ~ 塞内、塞二村、南門橋
  丹鳳路周辺の 新開発地区 ~ 揭東人民広場 と 揭東区博物館
  客家集落の 陳寮村 と 地元バス停
  揭陽楼 と 掲陽市随一の バスターミナル「馬牙長途汽車駅」
  龍尾鎮の山岳地帯にある 九軍将軍府(九軍リーダー・劉公顕の故郷)
  白塔村にあった九軍の 本拠地・鴛鴦寨(洪厝寨、鄭厝倉寨、許厝寨の 3要塞集落の総称)



朝早めに 7天ホテル潮州市湘橋区)を出発し、徒歩 5分強ほどの距離にある粤運中心客運バスセンターへ向かって歩いていると、ちょうど潮楓路と瓷興路との交差点で、信号待ちしていた 揭陽 ⇔ 潮州バスが目に留まったので、急いで潮楓路の交差点を渡り、手を挙げてバスに飛び乗る(20元)。非常にラッキーだった。
結局、このバスは粤運中心客運バスセンターにも立ち寄り、10分後に本格的に発車したのだった。バスはひたすら、新風路(省道 S 335号線)を西進し、途中、潮州鉄道駅前を通過して 掲陽市 域に入ると、国道 G 539号線となった同じ道をただ西進するだけだった。

いよいよ揭陽市中心部の一角である揭東区の中心部に至ると、国道 G 539号線から人民大道北へ右折し、匯源路へと左折する。ちょうどいい場所だったので、運転手に下車を願い出て、丹鳳路と匯源路との交差点で降ろしたもらった(35分のドライブ)。下地図の 赤ライン

掲陽市

ここから徒歩で 揭東区博物館 を探すことにした。全くが検討がつかず、周囲の人に質問して、どうやら北側にある揭東人民広場に立地していることが分かってくる(上地図の青ルート)。

なぜか公園端に KFCがある広場に至ると(上地図)、その北端に巨大な建物が鎮座しており(下写真左の左端)、映画館、文化局、博物館、図書館、体育局などが併設された複合文化センターとなっていた。

掲陽市 掲陽市

筆者の目標とした博物館自体は図書館建物の 4Fにあったが、この日、内部は改修中とかで、展示物は壺類しかなく、そそくさと退出に追い込まれた。上写真右は、この 4Fから人民広場を眺めたもの。

とりあえず、図書館フロア(1F)にたくさんの南越国に関する解説板が掲示されていたので、写真撮影しておいた。
始皇帝の南征レポートの内容を強化するか??南越国の国王の系譜なども新情報だったし。

そのまま図書館を出るも、附近にバス停らしきものはなく、地元民に聞いても「無い」の一言。仕方ないので、北側に見えた大通り「興源路」を目指す。
下写真左は、博物館の裏手にあった金風路。複合文化センターに絡み、清代風の 家屋(東方紫園)が復元されていたが、例のごとく、中身は空洞の建物ばかりだった。

掲陽市 掲陽市

興源路を越えて丹鳳路をそのまま北上すると(上写真右)、さらに北側に広東省の伝統的な客家集落が見えた。前面に池、その正面に祖先廟が設置されていた。下写真。

掲陽市

ついつい北へ行き過ぎたが、路線バスらしき往来も無さそうで、さらに西側に見えた大通り「金新路(X 114)」なら掲東鉄道駅との間を往来する地元路線バスもあるだろうと思い、歩みを進めてみる。案の定、その交差点にバス停があった。
交差点脇には当集落を示す「陳寮村」の真新しい石碑が安置されていた(下写真左)。

掲陽市 掲陽市

反対車線だったので、道路を渡って南行の車線で待つ(上写真右)。
しかし、この金新路はコンクリート車やトレラーなど大型車が行き交う、ほろこっぽい通りで、いつ路線バスが来るかもわからず、10分で諦めてそのまま金新路を南へ歩くことにした。南側で交差する揭東大道まで行けば、より多くの路線バスの往来もあるはずだ、との読みだった。

すると、後方からバイクタクシーがちょうど客引きに通りかかる。すぐに飛び乗る(上地図の左端)。
とりあえず、「揭陽民族文化博物館へ」と依頼すると場所を知らないようで、揭陽市汽車総合バスターミナル の近くだと言い換えると、30元という。とりあえず、そのバスターミナル近くに博物館があるから、その近くになったらまた指示する、ということで話をつけた。

バイクはそのまま揭東大道に至ると、ひたすら西進した。、真正面に揭陽楼という城門を模した巨大な博物館が忽然と姿を現した。この日は、絵画展をやっているらしかった。ここで、写真撮影させてもらうので、20元あげて待たせる。下写真。

掲陽市 掲陽市

見学後、再びバイクに乗る。そのまま二つに分かれた揭東大道の南路「新陽東路(省道 S 335号線)」を西進すると、馬牙長途汽車バスターミナルがある交差点に到達した。マヤ文明みたいな地名だな。。。感心していると、ここのバスターミナルが揭陽市の一番重要なバスターミナルであったと後で知ることとなる。

初回の訪問時(2019年7月)、このまま交差点を馬牙路へと左折し、古城地区(榕城区)まで出向いたが(残金 20元は進賢門に到着時に支払った)、2回目の訪問時、この馬牙長途汽車バスターミナルから西へ移動する路線バスに乗車した。
ここから西へ 20 km強ある白塔鎮へ、さらに西へ 10 km強ある 龍尾鎮 へ訪問してみた(下地図)。

掲陽市

両者は明末清初の時代に、鄭氏政権に合流し清軍に対抗した地元義勇軍の発祥の地であり、またその本部基地があった場所であり、 そして全滅した地でもあった。

白塔鎮は 地元義勇軍(九軍と称された)が本拠地を構えた、客家人スタイルの要塞型集落を改造した 鴛鴦寨(洪厝寨、鄭厝倉寨、許厝寨の 3要塞の総称)があった場所で、龍尾鎮はこの九軍を率いた リーダー・劉公顕の故郷があった地である。 龍尾鎮の中心部からさらに北の山岳地帯へ移動した山岳地帯にある石坑村に立地する 九軍将軍府といわれる古民家遺跡が残っている。

掲陽市

掲陽市 掲陽市

1644年、揭陽県 下では清朝が派遣した県長官の呉煌甲による過酷な政治に 不満を持つ住民ら(主に客家人)が多数発生しており、この不満を糾合し 数万人にも上る農民兵を組織したのが劉公顕というわけであった(1645年6月決起)。

翌 1646年に 揭揚県城 を占領すると、南明政権の隆武帝から 左軍都督に封じられ、鎮国将軍の印まで下賜された劉公顕は、 その故郷に鎮国将軍にふさわしい大邸宅を建設したといい、 それが今に残る九軍鎮国将軍府、という。
三面を水が取り囲む要塞風の大豪邸(敷地面積 3,300 m2)で、その要塞外壁は厚さ 50cm強もある 頑丈さで、その上には楼角楼と四方向に門が設けられていたとされる。 また要塞屋敷内は東西の二つの通路と南北の五つの細い通路が設けられ、その通路沿いに 家屋や食料倉庫、馬屋、井戸などが完備されていた。

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最終的に 1651年、清方の数万の大軍勢が鴛鴦寨を三か月間包囲し、 降伏を願い出た軍民らを悉く大虐殺すると、この鴛鴦寨も含め、鎮国将軍府を 兼ねた要塞屋敷もすべて焼き払ってしまう。今では単に焼け焦げた要塞外壁の一部(厚さ 50 cmを越える土壁)や 馬小屋、雑草が生い茂る井戸、角楼上にある石積みの石窓などが残されるだけとなっており、 草木に覆われながら風雨でその遺構もどんどん失われているという。
当地に残る古民家群がその要塞屋敷跡とされるが、その概要に関しては、 将軍府遺跡の西門脇にある石碑に刻まれた文面を目にするまでは、外部からの訪問者は 分かりようもない状態、ということだった。



 鴛鴦寨の要塞遺跡 と 劉公顯(?~1651年)

劉公顯は 揭陽県霖田都石坑村(今の 揭陽市揭東区龍尾鎮)出身の客家人で、 幼少より武芸を習い、地元ではその秀でた武術で名をはせる。下地図。

彼は自分の地元である揭陽霖田都と藍田都の一帯で秘密結社を結成し、 1645年 6月9日(以下、すべて旧暦)、住民らを扇動して反清運動で決起すると、南塘山に 本拠地を構える。決起軍は九つの部隊で編成されることとなったので、 広く九軍決起と通称されていくこととなる。その過程で、客家人の要塞型集落 「洪厝寨」を占領し、続いて鄭厝倉寨と許厝寨も占領すると、これを 鴛鴦寨と総称していくこととなる。

この九軍を率いたリーダーは、曾銓、馬麟、馬殿、馬登、傅達、邱瑞、黄甲、呂忠、呂玉と 東西南北の四方面軍を統括した潘俊、陳云、陳汝英、陳侃、都軍(中央禁軍)の温韜魯、大将の呉元、 副将の曾懋昭ら、あわせて十八虎将と通称された猛者たちであった。

掲陽市

そして、清方の拠点で、当地方の中心都市であった 揭陽県城 の攻略に臨むこととなる。

これに対抗し、揭陽県長官・呉煌甲は県下の各村落に自衛の ための城塞集落の建造の指示を下す。九軍に従う村もあれば、 反抗して壊滅させられる村もあり、最終的に大軍勢となって膨れ上がった九軍は翌 1646年、 ついに揭陽県城下に達する。

当初、潘俊の率いる東軍が幾度も東門エリアを攻撃するも、城内の守備兵らは日夜よく防備し、 なかなか攻め込むことができなかった。そん中、リーダーの劉公顯が作戦を変えて夜襲を考案する。

1646年9月11日未明、北岸から榕江北河を渡河し、 城門外に潜伏して、守備兵が隙を見せている隙に、即効で進賢門を突破し、 城門を開けて揭陽県城へ雪崩込むことに 成功したのだった。

同年冬、清軍の先鋒隊が広東省に侵攻してくると、劉公顯はすぐに清方に寝返ってしまう。
そのまま九軍は清の遠征軍について 肇慶府城(南明の永暦帝政権の本拠地)へ遠征するも、 暇をもらいたいと願い出て揭陽県城へ帰郷すると、九軍は 揭陽県城 内から財産を略奪し、反抗する者をことごとく虐殺し、 書類などを焼き払い、県城を放棄してしまう。
そして、西へ逃走し、自身の根拠地があった南塘山へ逃亡してしまい、再び、反清で挙兵したのだった。

1648年4月、福建省一帯が不作で食料困難となったため、福建省内で反清 戦争を展開中だった 鄭鴻逵(鄭芝龍の弟)が大小 300余りの船団に 3,000名余りの 兵士を引き連れて潮陽の港に襲来する。南塘山の劉公顯はすぐにこの鄭軍に合流し、 再び、協力して掲陽県城を攻め落とし、県城内に軍司令部を開設する。

同年 10月20日、南澳島にあった 鄭芝龍(南明の隆武政権の実権を握った人物で、 子に鄭成功がいる)配下の 部将・陳豹を通じて、劉公顯は隆武帝配下の左軍都督に任じられ、 鎮国将軍の印を与えられて、占領した揭陽県城を本拠地とする都督府の開設を 許可させる。
配下の九軍各将も都督役所の周囲に邸宅をもらい受け、大いに権勢を 振るうこととなった。

翌 1649年には 鄭成功(鄭芝龍の子)が自ら大軍を引き連れて揭陽県下まで至ると、 劉公顯らもこの本隊に合流する。

掲陽市

これまで、劉公顯は幾度となく 潮州府城(今の 潮州市湘橋区)の攻略を目指すも、ことごとく失敗していた わけであるが、鄭成功が上陸した 1649年8月26日、劉公顯ら 九軍と鄭成功配下の 水軍部隊(鄭鴻逵の軍)と連合を組み、 潮州府総鎮の郝尚久の率いる清軍を鋪前の 港町(今の炮台鎮)をめぐって交戦し、 大砲発射による火力中心の砲撃戦が繰り広げられ、双方死者は千余りを数えたという。

府軍は防衛戦線の維持が困難を判断し、囲魏救趙の 計(一箇所に集中する敵軍を 分散させるために、別の弱点を突く兵術)を起用し、手薄となっている 揭陽県城 へ 別部隊を出動させたのだった。
劉公顯は事前にこの情報を入手すると、逆手にとり、 鄭鴻逵の率いる水軍の協力を得て深夜に県城まで戻り、 清兵の別動隊を返り討ちにしたのだった。

8月29日、劉公顯は兵力を集中させ、鄭鴻逵の水軍部隊の援護を受けて、 鋪前の清方守備陣地へ全面攻撃をしかけると、 清軍の防衛線は崩壊し、ついに勝利を収めることに成功したのだった。
清軍は 1656年にこの鋪前の港町に北砲台と南砲台陣地を建造することとなる

その後、清軍の防衛網が手薄となった 潮州府城 周辺の県城などを襲うこととなる。 靖海所城恵来県城 などを 攻略し、九軍の占領下にあった掲陽県城に帰陣することとなる(上地図)。

そんな折の 1650年1月21日、潮州府総鎮の郝尚久と沈時が、 揭陽県城 を迂回し九軍の本拠地であった鴛鴦寨を 急襲する事件が起きるも、丁宗周をリーダーとする守備隊は団結して防衛に成功する。

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しかし、1651年1月、鄭氏の主力軍が再び福建省へ戻ると、揭陽県一帯は再び、清軍の 第二次攻撃を受けることとなる。巨大な 潮州府城 を少数の九軍だけで守り 切ること叶わず、再占領されてしまう。

このリベンジに燃える劉公顯は同年 4月、馬麟や傅達らの少数の幹部 10名余りを連れて、秘密 裏に自ら潮州府城へ忍び込み、清総兵の郭虎らに離反を促すも、 その潜伏がばれてしまい、総鎮の班志富と郝尚久によって一味は捕縛されてしまう。 そのまま同年 5月6日、処刑される。

同月 16日、潮州府城 の清軍は、同月 16日、清軍緑営の上級軍官総鎮である 班志富と郝尚久が自ら数万の大軍を引き連れて九軍の本拠地であった 鴛鴦寨(3要塞)を包囲する。

これを迎え撃つ九軍は事前に清方の動きを察知し、十分に食料を備蓄して 専守防衛の体制を整える。
包囲する清軍は鴛鴦寨の周囲に溝や柵を張り巡らせ、土塁を築いて、その高所から 日夜、九軍の要塞へ向けて大砲を撃ち続ける。

九軍は一致団結し 6か月もの間、耐え抜くも、食料が尽き投降することを決する。 11月12日、鄭厝倉と許厝寨に籠城した 700名余りの兵民が相次いで投降し 城塞を後にすると、そのまま清兵が要塞内へなだれ込み、城塞に残っていた 子女を含む 1,000 名余りを大虐殺したのだった。

この後、残された洪厝寨の軍民はさらに守りを固めるも、同様に食料が尽きると、 最終的に一部の裏切り兵らが要塞に火を放ち、清軍を迎え入れて要塞内の 1,000名余り を虐殺し、すべての建物類は破壊されてしまう。
こうして、流星のごとく活躍した九軍も完全に壊滅したのだった。 一部の生き残った兵士らは福建省などへ移り、鄭軍に加入して、その後 10年以上も 戦闘を続けたとされる。

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この時、清の大軍勢に包囲され、最終的に大虐殺と徹底破壊 が行われた九軍の本拠地「鴛鴦寨」であるが、大きく 3つの 要塞型集落(客家式の囲龍屋) を総称するものであった。すなわち、洪厝寨(今の 揭東区白塔鎮塔東村的大寨内にある老寨) や 許厝寨(今の 白塔鎮の北側にある新村の許厝池)、鄭厝倉寨(今の 新村の過路塘)である。下地図。

九軍が占領した霖田都と藍田都の 2地域のうち、鴛鴦寨は霖田都の東部に位置し、 かなり県城に近いエリアであったことが分かっている(下地図)。

掲陽市

今の白塔鎮新村はかつて九寮湖と通称されるエリアで、七姓の一族らが九箇所の 小さな集落を形成する農村地帯であったという。

1651年の夏から秋にかえて、九寮湖一帯に 清の包囲軍が長期間滞在し、鴛鴦寨に籠城する九軍と対峙する。
この間、清軍は九軍に協力してきた村々ということで九寮湖周辺の 村落は完全破壊され、村人らの多くも虐殺されてしまったという。 わずかに生き残った村民らは到底、この地を復興できず、 他の村落への移住を余儀なくされたのだった。

この九寮湖の農村地帯が清軍によって壊滅させられる前、七姓の一族 の一つである、鄭姓の集落が 過路塘(今の新村の北部)に開設されており、 また、同様に許姓の集落が 苦洋塘(今の許厝池。かつて許姓の一族が住んでいたことに由来) から今の新村の南部 (洪姓の一族の集落地とつながっていた)にかけて形成されていた。
鴛鴦寨はこの鄭姓の集落と許姓の集落があった客家人の要塞型集落 を改修したものと推定されており、そして、洪姓の一族の集落地が 鴛鴦寨の中心部を成した「洪厝寨」だったと考えられている。

この洪氏集落地は明代、清代を通じて定位置に立地したことが 証明されており、明代初期に建立された 洪氏宗祠(今の 白塔鎮塔東村大寨内老寨)は、 潮汕地方の人々の生活習慣をよく今に伝えるものという。宗祠は集落地の 中心に立地し、周囲へと家屋が増えていき、集落が拡大されていったことを 伺い示す生き証人となっている。
洪氏宗祠の建立以降、多くの村民らが集落を囲む城壁の 建造を話し合ってきたという。明代を通じ、夜盗や海賊らが度々、集落を襲撃してきたという。 今の大寨内老寨は円形の集落地を形成しており、旧寨囲壁は石積み城壁で建造され、 壁は家への登れる二階建て程度の高さで、その城壁上は二人程度が歩ける騎道が あり、また三つの城門があったという。
典型的な守備型の囲屋で、現存する古寨壁は 450 mで、壁の厚さは 30 cm分あり、 西城壁に至っては、まだ 2階建ての城壁が 40~50 m分も現存している。

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鴛鴦寨が 3つの小規模な村寨で構成され、それぞれが 1~2 km の程度の距離に立地し近接していたこと、 もしくは連続する接続されたものだったという考えは、洪厝寨の軍民らが鄭厝倉と許厝寨 の農民兵らが先に投降したとき、清軍によって虐殺されたことを目にしていることから 明白であると推定されている。
特に、最初に投降した許厝寨と鄭厝倉は見せしめとして徹底的に 破壊されたようで、現在の新村の許厝池や過路塘の集落地の地下からは 往時の廃墟と化したがれきが出土している。

この廃墟の農村落に最初に定住し出したのが、新村の張氏であった。
同年冬、張〇という人物が復讐に燃える呉勾から逃れるべく、豊順県の山々を 越えて南へと移動し、全く荒野と化した霖田都下の九寮湖エリアに到着する。
いったいは無人と化し荒野が広がるも、その土地は肥沃で、水も気候も 条件がよかったため、ここに定住することを決めたという伝承が今に残る。 以後、その豊かな気候風土が提供してくれる農作物は再び、この地を 蘇られることとなり、いつしか九寮湖という地名は新倉村へ 改称されることとなったという。



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