BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2015年10月下旬 『大陸西遊記』~


浙江省 舟山市(中心部)定海区 ~ 区内人口 40万人、一人当たり GDP 40,000 元(舟山市 全体)


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  定海県城跡(昌国県城、昌国衛、翁山県城、定海直隷庁)
  舟山市の繁華街 と 定海文化広場(南門跡)
  金塘島への 上陸
  定海県城の 全景模型
  環城南路とかつての 海岸線イメージ
  竹山公園 と 舟山アヘン戦争記念館
  第一次舟山アヘン戦争(1840年)と 第二次舟山アヘン戦争(1841年)
  明代、清代に 漁村地区に開設されていた「紅毛館」とは
  舟山市博物館
  舟山市の 歴史 ■■■



【 定海県城跡(翁山県城) 】

定海区

かつて定海県城(翁山県城)を防護した城壁も城門も、今では完全に撤去されてしまっているが、旧市街地区には古城時代の名残を色濃く刻む路地名や地名が数多く残る。

南珍野菜市場、総府路、県府弄、中大街、東大街、西大街、都神殿東弄、県前街、師旗弄、書院弄、 北門野菜市場、北門布行、北門修車行、正大好超市北門店、西門賓館、西門家電、西門外湾、 東門口(バス停)、東門野菜市場などである。

定海区

東門口の バス停(下写真左)から、解放東路を西へ進み、水路を渡って、古城地区に入った。 ちょうど、この交差点一帯がかつての東門跡であり(下写真右)、先の水路が外堀跡である。

鎮海区 鎮海区

解放東路沿いに、おしゃれな ショッピング・エリア(定海文化広場など)が広がっている。 この解放東路と人民南路の交差点一帯が、かつての南門跡である(下写真左)。

鎮海区 鎮海区

そのまま人民南路を南下して、東海西路で自転車タクシーに乗った。この一帯は、 かつて環城南路まで田畑が広がっていた地区である。途中、南珍菜場を通過した(上写真右)。

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現在も、かつての用水路跡が市内各所で水路として保存されていた(上写真左)。なお、古城時代、環城南路(上写真右)がかつての海岸線にあたり(下写真)、 その中間地点に小山があったようである(下の 定海県城の模型 参照)。現在は、完全に平坦な道路に舗装されてしまっているが、 その名残は観音橋路として今もしっかり路地名に刻まれていた。

定海区


  交通アクセス(寧坡市南バスターミナル ~)

寧坡 鉄道駅の西隣にある 寧坡市南 バスターミナル(汽車南駅)から、舟山市行きのバスに乗車する。
だいたい 20分に一本ある(50元)。かなり高級な観光バス・タイプの長距離バスである。

大陸中国では珍しく、チケットに印字されている座席番号通りの着席を求められ、皆等しくチケット番号ごとに着席していた。
バスの乗車職員も 2人おり、荷物の出し入れなどを手助けする要員が乗り合わせていた。舟山市は、中国でも屈指の観光地だけあり、きちんとした管理を心がけている様子が伺えた。
きれいに整備された立橋を渡って、バスは舟山諸島へ向かう。だいたい橋を渡り切るのに、 15分ぐらいかかる。寧波市内を出発してから 50分ほどで舟山諸島の本島に入る。

定海区

ここから、30分強かけて本島の中心都市:定海市までバスは進む。竹山トンネルから定海地区の バスターミナル(舟山中央バスターミナル)を経由し、さらに新城公共バス 総合ターミナル(舟山緑城シェラトンホテルがあった)と続き、そして最後に 沈家門 地区のバスターミナル(舟山普陀長途客運センター)に到着した(寧波市内からの所要時間:2時間強)。

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 定海バスターミナル(舟山中央バスターミナル) ⇔ 寧坡市 南バスターミナル (所要時間 75分 44元)

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  交通アクセス(寧坡市鎮海区 バスターミナル ~)

寧坡市の北側にある鎮海区を見学してから、その足で、鎮海区 バスターミナル(聡園路と雄鎮路の交差点)からでも移動できる。
金塘鎮行のバスに乗る(20分に一本あり)。23元、所要時間 40分ほど。
ちょうど舟山諸島の最も大陸側に 近い島(金塘島)である。
海上陸橋をわたって到着する。バスは新型タイプで、二列&一列の座席構成であった(下写真左)。

鎮海区 鎮海区 鎮海区

金塘鎮 バスターミナル周辺(島内には結構、急峻な山々が連なっていた。上写真右)には何もなかったので、そのまま 定海地区(終点は解放東路にある東門バスターミナル)まで移動した。10元、所要時間40分。



舟山アヘン戦争 遺跡

定海区

筆者は、舟山市の東部にある 沈家門 地区のホテル・チェーン大手の 錦江之星(舟山普陀沈家門店)に投宿した。このため、寧坡市から沈家門 バスターミナル(舟山普陀長途客運センター)まで直接、向かった。

この沈家門地区と定海地区との間は、複数の路線バスが結ぶが、一番、速くて本数が多いのが快速 21番バスである(3元)。だいたい 30分程度のドライブだ。定海地区 バスターミナル(舟山市中央バスターミナル)まで直行できる。
実際には、路線バスはバス・ターミナル内には入らず、その前の環城南路上のバス停で降乗車に対応している。

定海区

なお、この環城南路がかつての海岸線であった(上写真)。アヘン戦争当時、ここに、突貫工事で土壁の防壁が構築されていたわけである。
現在の海岸線はかなり埋め立てされており、かつての原型を全くとどめていない。

そもそも、現在の舟山本島全体がかなり海岸線を埋め立てられており、総面積が増えてしまっているが、かつてはこれの 3分の 2程度であった。およそ、400 km2ぐらいである。ちょうど今の横浜市の面積(437 km2)ぐらいであった。現在は、500 km2近くに拡大している。ちょうど西隣の 横須賀市(100.7 km2)分がそのまま増設されたようなものである。
これだけの面積の島なので、島内には河川もあれば、ため池もある。最も高い山では標高 500 mを超える。

唐代から宋代にかけて、海のシルクロード として重要な拠点都市となった舟山市の定海地区は、当時から、かなりの人口と集落地が発展されていたはずである(元朝時代の統計では島内人口は 125,000人であった)。

鎮海区 鎮海区

この定海地区 バスターミナル(舟山バスターミナル)の西側に山が見える。 ここが竹山公園であり、バスターミナルから実に徒歩 3分である。 第二次舟山アヘン戦争での激戦地跡だ。

鎮海区 鎮海区

この山上には、舟山アヘン戦争記念館が開設されており、その屋上には、対英戦で殉死した 3将軍を祭る廟が設置されている(上写真)。 それぞれ、定海鎮総兵の 葛雲飛(海岸線の土塁防衛を担当)、寿春鎮総兵の 王錫朋(曉峰嶺の防衛を担当)、処州鎮総兵の 鄭国鴻(竹山口一帯の防衛を担当)である。

鎮海区 鎮海区
鎮海区 鎮海区

山全体が舟山アヘン戦争遺跡公園となっており、海側の傾斜の急斜面上には将軍や兵士らの墓が並ぶ(上写真)。
第二次舟山アヘン戦争時、ちょうど山の斜面を利用して、多くの砲台陣地が構築されていたのであろうが、6日間にわたって昼夜を問わない激しい艦砲射撃を浴び続け、壊滅的な打撃を受けた最前線地帯である。下地図。

定海区

なお、第一次舟山アヘン戦争は、1840年7月25日から 26日未明にかけて行われ、あっけなく県城が占領されてしまう。県長官は入水自殺して果てることになった。その池跡は今日でも保存されているという。

英国は戦争開始前から、大陸中国との貿易の過程で、海岸線上の島嶼部を占領して、基地化することを画策しており、確信犯的に舟山諸島を攻撃・占領したのであった。当時、清朝は 広州城 にその主力軍を集結させており、福建省、浙江省などの沿岸部にまで防衛の手が回らず、各拠点は個別撃破されていく。

定海区

島を占領したイギリス軍は、早速、綿密な測量調査を実施している(上地図)。同時に、島内の人々の生態調査とともに、食糧類の略奪が進められていく。

こうした圧制的な占領政策に対し、島の人々による反旗が度々勃発する。島民らは飲料水の水源を絶つべく、井戸を埋めたという。最終的に疫病の蔓延に苦しめられたイギリス軍は翌年 2月、いったん島を捨てて撤退することとなる。
モンスーンによる水害を恐れた英国軍は冬~春の間は一時、矛を収めていたが、同年 6月に舟山諸島に再び来襲する。第二次舟山アヘン戦争の勃発である。
島の再占領後、香港島と同様な植民地支配を前提とし、英国による計画的な占領政策が執行されることとなる。

定海区

しかし、南京条約の締結により、清国は 香港島 の割譲と、莫大な賠償金、そして、5港の開港という屈辱的な諸条件を飲まされる。清朝は賠償金を完納するや否や、すぐに英国側に担保として割譲されていた舟山諸島から退避するように要求する。
こうして、7か月間の占領の後、舟山諸島は清国に返還されたのであった。以後、イギリスはますます香港島の開発に精力を注ぐこととなる。

このアヘン戦争博物館内にある 古城模型 はすばらしい。第二次舟山アヘン戦争当時の土壁防塁が再現され、また県城とその海側の漁村集落地の位置関係が非常に分かりやすい。

鎮海区

鎮海区

ちなみに、明代にポルトガル人が、清代初期に英国人らが一時、定海地区に貿易拠点を構えた際、中国側により紅毛館が設置・提供されていたというが、それは港近くの漁村街地区であろう(上写真)。
実際は、村に簡単な掘っ立て小屋があった程度ではないだろうか。。。


そして、バスターミナル前から路線バス 53番で、北にある島内内陸部の白泉鎮地区へ足を運んでみた(3元)。島内を視察してみて思うことは、島は結構、広いということだ。
また、途中に見える家々は 3階建ての立派なものが多く、豊かな浙江省に属する舟山市の人々が出稼ぎで戻ってきて、自宅を修繕した生計パターンが推察された。

白泉鎮地区までだいたい 30分ぐらいのドライブであった。ここに行くまでの道は凸凹も多く、バスはよく揺れた。
そして、白泉鎮からは 51番バスに乗り、市内まで戻ってみた(2元)。途中、浙江海洋学院の校門前を通過する。それまでは田舎の人たちが多かったが、急に今どきの若者たちが乗車してくるギャップが面白い。

そのまま東門地区を通過して、舟山中央バスターミナルに戻った。


舟山市博物館

かつて定海地区の環城南路沿いにあった舟山博物館は、すでに半年前に引っ越したということで、再び、快速 21番バスに乗り、臨城地区にある 藝術文化センター内(下写真)にある博物館を訪問した(北側にシェラトンホテルが見えると、ここが臨城地区である)。これだけ広大な平野部は、すべて埋め立て地に違いない。

鎮海区 鎮海区

博物館は、1Fから 3Fまである清潔な最新式の建物で、3F部分が歴史展示空間である。
筆者らが訪れたときは訪問者が全くなかった。それに反比例して、無駄に多い警備員たちが暇そうにぶらついていた。。。各階、ゆうに 5人以上は配備されていることだろう(それほど広くもないのに。。。)。
行政側が頑張って公共投資を進めているのに、市民のニーズと水準が追いついていない典型的な事例のように見えた。

鎮海区

展示館自体は非常に清潔で、最新のテクノロジーとあわせて、展示レベルも程よく、面白かった。

上の資料は、古代より塩田事業で栄えた舟山市の様子。
今は埋め立てられ陸地化している臨城地区が、かつては、ほぼ全て塩田であったことが伺える。

また古代より、遣唐使、日明貿易などを通じて、日本との交易ルートの途上にあり、当地で生涯を終えた日本人もたくさんいたに違いない。 日本絡みの展示の多さが、日本とのつながりの深さを如実に物語っていた。

普陀観音の由来に関する展示もよかった。『不肯去観音』 (2013年、中国映画)の一部が上映されながら、普陀島 にあって、多くの中国人に崇められている観音如来像の由来が解説されていた。唐末期の 863年、日本僧侶の慧萼が中国の仏教寺である五台山から観音如来像を持ち帰ろうとした際、幾度も暴風雨に見舞われ、ついに、日本へ持ち出すことができず、この普陀島に安置されたという逸話に基づいている。

鎮海区 鎮海区

現在、普陀山は 五台山、峨嵋山、九華山と並び、四大仏教名山に数えられている。
ちなみに、日本では 894年、菅原道真公の建議により、遣唐使が廃止されるに至る。


舟山市の 歴史

唐代の 738年、かつての甬東の地に翁山県が新設される。その下には、富都郷、安期郷、蓬莱郷の 3郷が配された。

翁山の県名は、附近にあった翁山から命名されている。これが舟山諸島での最初の県城開設となった。

定海区

県役所は当初、義頁河の河畔に設置されるも、後に鎮鳌山の山裾へ移転される(上絵図)。現在にまで続く、旧市街地の始まりである。

762年秋、折からの冷夏で不作に苦しんでいた農民たちに、唐朝廷のさらなる増税強化政策が重なり、司鞭小吏の職にあった袁晁は農民らの惨状に深い同情を頂き、彼らとともに決起することとなる。その際、この翁山県城を一番初めに占拠し、ここを拠点に 台州、信州、温州(永嘉県城:今の 温州市)、明州(鄞県城:今の 寧坡市)などまで戦線を拡大し、その勢力は 20万人まで膨らむ。唐朝廷は安史の乱の平定戦で功績のあった李光弼を大将軍に抜擢し、討伐戦を展開する。翌 763年4月、ついに首領の袁晁が捕縛され、王都・長安 で処刑されるに至り、反乱は鎮圧された。

この時の戦火で荒廃した県城は廃城とされ、翁山県役所も臨時に移転されるも、後に完全廃止となる。

時は下って、北宋時代の 1073年、王安石が鄞州長官として赴任すると、北宋朝廷に翁山県の再設置が上奏される。
北宋の神宗により受理され、1078年、旧翁山県の県城跡地に昌国県役所が開設されるに至る。下地図。

定海区

元代の 1278年、海岸線の防備と管轄下の人口増加に伴い、昌国県は昌国州へ昇格される。このとき、舟山諸島には居住民 126,000人余り(22,600 戸)が登録されていたという。

明代の 1387年、昌国県が昌国衛へ改編される。もともとの 昌国県(今の 舟山市定海区)下の県域はすべて定海県(今の 寧坡市鎮海区)の管轄下に組み込まれた。この行政区は清代前期まで継承されることとなる。

定海区

清代の 1687年、定海県(今の 寧坡市鎮海区)が鎮海県へ改称される。翌年、昌国衛(今の 舟山市定海区)が定海県へ改編される(上絵図)。
以後、300年にわたり、舟山諸島は鎮海地区が監督することとなった。

定海区

アヘン戦争下の 1841年9月、イギリス海軍 29隻の軍艦により舟山諸島が攻撃され、定海鎮総兵の 葛雲飛(海岸線の土塁防衛を担当)、寿春鎮総兵の 王錫朋(曉峰嶺の防衛を担当)、処州鎮総兵の 鄭国鴻(竹山口一帯の防衛を担当)らが軍民を率いて抵抗するも、大破されるに至る(定海保の戦い)。同年 10月1日に戦死した葛雲飛は国防の英雄として祭られることとなった。
この第二次舟山アヘン戦争の前年の 1840年、清朝政府は海岸線の防備を進めるべく、定海県を直隷庁へ昇格させ、浙江省の直轄に置いていた。しかし、同年 7月末に起きた第一次舟山アヘン戦争時にあっけなく陥落・占領されている。

中華民国が建国された 1912年、定海直隷庁は定海県へ降格されることとなる。


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