BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬


大阪府 貝塚市 ~ 市内人口 8.2万人、一人当たり GDP 470万円(大阪府 全体)


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  願泉寺(貝塚御坊)、竹本家住宅東主屋、宇野家住宅、旧吉村家住宅、感田神社(外堀跡)
  畠中城(江戸時代の 庄屋・要家の屋敷跡)
  窪田城、粉河街道
  澤城(浜城)、紀州街道
  積善寺城(明教寺)、丸山古墳
  高井城
  千石堀城(せんごくの杜 公園)
  根福寺城



関西周遊では、大阪中心部(JR大阪駅前、難波、心斎橋、四ツ橋エリア)に連泊し、拠点としたい。関西最大のホテル激戦区というわけで、男性専用シングル 3,000~5,000円台も多い。 新幹線や JR京都線の新快速が発着する JR新大阪駅前(枚方市) まで移動すると、シングル、ツインともに 4,000~5,000円台のホテルも多く、選択肢はより広い。 この大阪中心部からは、京都奈良 エリア一帯まで日帰り往復できるので、 1~2週間ほど連泊したいと思う。

もしくは大阪府南部を巡る場合、JR関西空港線の「りんくうタウン駅」前の ホテルは結構、空きがあり、良い部屋が安売りされている場合も多い。

さて、南海線「貝塚駅」に到着後、駅東口の自転車駐輪場で運営されている、貝塚レンタサイクル(シェルりん)で、自転車をレンタルする(6:30~20:00、 一日 510円、電動自転車のみ)。要身分証

貝塚市

そのまま駅西出口から出て、「願泉寺(貝塚御坊)」を目指す。上地図。

この願泉寺を中心に、一帯は「貝塚寺内町」という地名で、江戸期に造営された門前町としての 環濠集落時代の名残が刻み込まれていた。今でも、その旧市街地には登録有形文化財に指定された古民家が点在し(竹本家住宅東主屋、宇野家住宅、旧吉村家住宅などに土蔵や格子戸が残る)、 また環濠時代の外堀跡も「感田神社(上地図)」の境内に残存する。

貝塚市



 願泉寺(貝塚御坊)

飛鳥~奈良時代、仏教の民主化を唱え畿内を安行した 行基(668~749年)がこの集落にも立ち寄り、36軒の支持者らと共に草庵を設けたのが起源、とされる(774年)。

以降、住職不在のまま、地元で細々と信仰されるだけだったが、1468年、 浄土真宗・本願寺派第 8世宗の 蓮如(1415~1499年。下家系図)が 北国、東国への巡教活動の途上、 当地にも立ち寄り浄土宗の説法を説くと、直後より本格的に本堂建設が着手される(蓮如は 1486年の紀伊下向時にも、再訪している)。こうして熱心な門徒衆が増加してくると、 紀伊.・根来寺(福永院)から 僧・右京坊(後の卜半斎了珍【1526~1602年】)を住職として 招聘することとなり(1545年)、以降、浄土真宗本願寺派の貝塚道場として台頭することとなる(1550年)。
その後も、浄土宗の門前町として順調に成長し、大坂石山本願寺 の編集する史書にも、貝塚道場の 寺内町(寺院を中核に据えた自治集落)の存在が言及されるようになる(1555年)。

しかし 1577年、織田信長による雑賀攻め(紀州征伐)の際、信長に協力した 根来衆の津田氏らによって攻め立てられ、貝塚道場や寺内町共々激しい焼き討ちに遭い、壊滅する。

貝塚市

1580年、信長との 10年に及ぶ 石山合戦 を経て大坂の地を明け渡した 本願寺法主・顕如(1543~1592年。先の 本願寺派第 8世宗・蓮如の曾々孫。第 11世宗主。上家系図)は、復興途上だった貝塚道場を経由して、紀伊国の鷺森御坊に移動し、そこを 新・本拠地に定めるわけだが、畿内の浄土宗門徒たちの底力はすさまじく、 同年内にも貝塚道場は完全復興され、再び卜半斎了珍が住職として復帰することとなる。
1582年6月に織田信長が横死すると、その後継者となった羽柴秀吉により、 寺内諸役免許の朱印状が発布される。

翌 1583年7月、畿内再進出を伺う 顕如・教如父子(上家系図)がこの貝塚道場へ移り、 本山に定めると、寺町は大いに繁栄する(「貝塚本願寺」「貝塚御坊」と称される)。 最終的に 1585年8月、大坂城とその城下町造営 に着手していた秀吉により、顕如が天満の地を与えられ招聘された後も(天満本願寺の開山)、貝塚寺町の隆盛は続くこととなった。

江戸時代に入り、西本願寺の 法主・准如(1577~1631年。浄土真宗本願寺派第 12世宗主。上家系図)より「願泉寺」の寺号を授けられたり(1607年)、徳川幕府から 寺内諸役免許の黒印状を下付されるなど(1610年)、卜半家 2代目を継承した了閑は うまく時の権力者らと関係を構築し、貝塚寺内の私領化に反発する門徒宗を抑え、 以降、寺内町の 地頭(領主)としての地位を確立していくのだった。

貝塚市

そんな中、豊臣家と徳川家との対立が決定的となり、大阪の陣 の前年 1613年には、 幕府指示の下、貝塚寺内に 3間(5.45 m)幅の周濠が掘削され(上絵図)、大坂攻めの前衛基地としての役回りも期待されるようになっていく。

戦後も、そのまま寺領として環濠集落が維持されるも、自衛機能は許可されず、 町の出入口に置かれた番所には 岸和田藩 の藩兵が配置され、岸和田藩の監視を受けることとなる(貝塚寺内北端の堀並橋から 岸和田城下南端の寺前橋までは、700 mほどの距離であった。上地図)。
この江戸期を通じ、紀州藩主 が参勤交代の際、願泉寺・本堂を宿泊施設として使用している(現存する書院で、大阪市指定有形文化財となっている)。

最終的に 1865年、寺町は大坂町奉行の直轄地とされるも、 実質的には明治政府による 上知令発布(1871年)までの、実に 260年以上に渡って、住職の 卜半(ぼくはん)家が寺内町を支配し続けたのだった。

貝塚市

太平洋戦争下の 1945年7月10日にあった堺大空襲では、この寺町一帯も被害を受け、 境内に焼夷弾が落下して鐘楼を焼失するものの、戦後の 1948年に青松寺より移築される形で 再設置されている(1702年建設)。この鐘楼の他、本堂(1663年再建)や 太鼓堂(1719年建立)、目隠塀、表門などが国の重要文化財に指定されている。その他、境内には大阪市によって指定された有形文化財も数多く現存しており(上地図)、貝塚市屈指の観光名所となっている。

現在でも、願泉寺は地元住民から親しみを込めて「ぼっかんさん」と呼称されているという。



再び「貝塚駅」まで戻ると、今度は駅南側から踏切を渡り、西出口へ回ってみる。 そのまま南海電鉄線沿いを南進し、府道 40号線を東へ進むと「要家屋敷跡」があった(下地図の白色ライン)。

貝塚市

かつて、紀州の根来衆が 信長・秀吉と対立した際、前線拠点の一つとした「畠中城」跡であり(周囲の地名も「畠中」のまま)、江戸時代、その本丸跡地に 岸和田藩下 の 庄屋「要家」が屋敷を構えたという。 今でも長大な土塀で囲まれた敷地が残っている。

根来衆が拠点化する以前は、和泉国南部の 土豪・神前氏の武家屋敷があったと伝承される。


続いて、そのまま近木川を目指して南進すると(上地図の黄色ルート)、近木川の対岸に立地していた「窪田城」跡地に至る。現在、一帯は完全に宅地開発されており、城郭遺構は全く残存していない。
そのすぐ脇を 旧・粉河街道が通っており、そのまま南進して府道 64号線に合流できる。

貝塚市

そのまま府道 64号線をまっすぐ西進すると、南海電鉄線「二色浜駅」の北側を通過する。上地図。

この駅西側一帯に、かつて「澤城」があったとされる。ちょうど近木川の土砂堆積により一段高くなった地形を利用して築城されたものだったが、現在は完全に宅地開発されており、城郭遺構は何ら残っていない。 発掘調査により、付近の「宝蔵寺」から堀跡が発見されているという(上地図)。

この澤城(浜城)は、紀州街道を抑えるべく、海岸沿いに設置された城塞で、本拠地・根来寺の出城として 配置された 根福寺城、高井城、千石堀城、積善寺城、畠中城、窪田城などの一角を成した(上地図)。 1585年3月、羽柴秀吉が紀州征伐のため 10万余の大軍勢で攻め寄せると、本陣を 岸和田城 に置き、根来寺衆の籠る諸城を同時に一斉攻撃させる。この時、澤城は守備兵も多く堅固であったため、 結局、武力制圧はならず、貝塚寺町の 住職・卜半斎了珍の仲介により開城交渉が進められ、 城兵らは紀州への帰還を許されることとなる。

貝塚市

そのまま南側にある府道 240号線に入り、ひたすら東進すると、JR阪和線「和泉橋本駅」を 通過する(その少し南西に「丸山古墳」がある。上地図)。府道は 239号線へ名前を変えるも、そのまま直進を続けると、一つ目の交差点を 北上し、「橋本町」集落に入っていく(上地図の白色ライン)。

この集落内にある「明教寺」一帯を本丸とし(上地図)、 東は津田川を天然の堀、東に二重、西に三重の人工の堀が掘削された 大城塞「積善寺城」が 立地していた、という(下絵図参照)。

城跡に関する解説板は、北側を流れる近木川沿いの車道に設置されている。ちょうど対岸に「貝塚中央病院」が見える場所だ。


戦国時代初期、畿内で勢力を張った三好氏が紀州へと南進する中、自治を死守しようとする根来寺の門徒衆らが、前線拠点の一つとして城塞を建造したことが起源とされる(1558年ごろ)。この時、三好方の最前拠点は、旧・岸和田城 であった。
なお、そもそも紀伊国の守護は、室町幕府三管領家の一角である畠山氏だったが、 高野山や根来寺などの強力な宗教勢力によって支配権を排除され、さらに 北上した根来寺の門徒衆により、和泉国南部も支配された状態が継続されていたわけである。

その後、三好氏が織田信長との戦火で失速するのを横目に、根来衆は信長方に組し続け、 石山合戦時 にも協力するも、1582年に信長が横死すると、根来衆内で反信長派が 一気に盛り返し、畿内勢力を継承した羽柴秀吉と対立するようになる。
貝塚市

1583年より大坂城の築城工事を着手し、河内、和泉両国の鎮定に苦心した 秀吉は、古参の家臣・中村一氏を岸和田城主へ異動させ、 和泉国南部を実効支配する根来衆との最前線を任せたのだった(同じく 1583年)

これに対応すべく、根来・雑賀衆は近木川両岸に築城していた 中村城、澤城、田中城、千石堀城とともに、「積善寺城」にも 大規模な改良を加えることとなる。と同時に、 陸路と海路から岸和田城下や大坂城下を急襲しては、度々、焼き討ち騒動などの 小競り合いを起こしていた。 ちょうどこのタイミングで、石山本願寺の元住職・顕如・教如父子が、鷺森から貝塚寺内へ拠点を 移し、再度の畿内進出を狙ってくるわけである。

この時、不安定化が増す畿内を横目に、小牧・長久手の戦いで岐阜へ遠征していた秀吉は、 なかなか対応が追い付かず苦心するも、徳川家康と共闘していた織田信雄の懐柔に成功すると、 主力を再び畿内へ帰還させ、すぐに紀州攻めに取り掛かる(1585年)大坂城 を出陣後、岸和田城 に着陣するや否や、配下の大軍を分けて 根来衆の支城群へ一斉攻撃を加えたのだった。下地図。

貝塚市

この時、「積善寺城」は二重、三重の堀を装備する大城塞となっており、 出原右京を大将に、鉄砲隊を主力とする 9500もの 根来衆が籠城していた。甚大な被害を受けた秀吉方は、武力制圧を諦め、 貝塚寺内の卜半斎了珍に仲介を依頼して開城交渉を進め、城兵らを紀州へ無血退去させる こととなった。
戦後も、城跡は破壊されず、そのまま秀吉方に転用されたようである。



一帯を周遊後、「橋本町」の旧市街地を東進し、橋本町会館と児童公園前を通過して(上段地図)、やや大きめの自動車道に出る。 この通りが地元の商店街となっており、これを北上すると(途中にバス停あり)、先程の 近木川を渡る。対岸にある竹内小児科内科医院脇から川沿いの土手を南下し、「清児」地区 に到着する。

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さらに土手沿いを南進すると、隣町の「名越」地区に至る。その駅前に大きな児童公園があり、 ここが「高井城跡」ということだった。上地図。

児童公園内に城跡に関する解説板が設置されているものの、城郭遺構は 全く残っていないようだった。ただし、往時の地形は未だに健在で、周囲よりやや 高台となっており、その脇には水路が流れていた。

この高井城は、先の根来衆の出城群の一角として築城されたもので、 1585年の秀吉による紀州攻めに際し、根来衆の 行左京・熊取大納言らが 籠城するも、福島正則らの部隊によって攻め落されている。

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続いて、近木川を渡り(千石橋)、府道 239号線をまっすぐ南進すると、 突き当りに「貝塚こすもすの里」がある(上地図の白色ライン)。この後方に「せんごくの杜」公園が 広がっており、一帯の丘陵(標高 60 m / 比高 30 m)上に、かつて「千石堀城」が立地していたという。

「貝塚こすもすの里」に隣接する里山駐車場の南端に、城跡に関する解説板が 設置されていた。そのまま遊歩道を登っていくと、間もなく横堀や二重堀、虎口跡などが 確認できる。自然のままに風化しているが、往時の遺構がはっきりと地形に残存していた。


和泉山脈から丘陵斜面が連なる北端部分に築城されていた(下写真)。そのまま山道を伝って、 後方の根福寺城や雨山城などにつながっていたと考えられる。

貝塚市

1585年の秀吉による紀州征伐の際、この千石堀城には根来方の大谷左大仁を 大将とする千数百人が籠城し、鉄砲を駆使して頑強に抵抗したという。 武力制圧を諦めかけた秀吉軍であったが、最後の最後で 筒井順慶 が放った火矢が 城内に至り、火薬庫の大爆発を誘発して、そのまま大混乱の中、落城したという。



帰路は再び近木川を渡り、大通りの「府道 40号線」をひたすら西進すると、南海電鉄線の高架下に行き当たる。そのまま北上すれば、すぐに貝塚駅前に戻ることができた。


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