BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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黒竜江省 鶏西市 ~ 人口 172万人、 一人当たり GDP 36,000 元


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  竜泉府城(寧安県城)
  東平府城(伊州城)
  蜜山府城(蜂蜜山招墾局、蜜山県城)
  黄泥河子驛駅 = 清朝の全国駅伝ネットワークの補給所



【 鶏西市の 歴史 】

現在の鶏西市を含む、黒竜江省南部は、中国東北地方でも比較的早くに文明化したエリアであった。 6000年前、この肥沃な黒土の土壌が広がる東北地方一帯に、狩猟採集生活をメインとする先住民(肅慎族ら。下地図)が集落を形成したという(新開流文化)。

鶏西市

中原地方が戦乱に荒れ狂った戦国時代、燕国の支配圏に組み込まれる。上地図。
紀元前 300年、燕国が東胡国を滅ぼすと(上地図)、その広大な旧領に、上谷郡、漁陽郡、右北平郡、遼東郡、遼西郡などが新設される(下地図)。この時、現在の鶏西市エリアは遼東郡に統括される。引き続き、東北地方の主な住人は肅慎族であった。

紀元前 225年、秦国が燕国を攻め滅ぼし、さらに紀元前 221年、中原全域を統一すると、始皇帝が全国に郡県制を導入する。この時、中国東北部には、右北平郡、遼西郡、遼東郡の 3郡が配置されることとなった。現在の鶏西市域は引き続き、遼東郡に属した(下地図)。

鶏西市

紀元前 206年、劉邦が秦王朝を滅ぼすと、前漢王朝を建国する。地方行政区は、秦王朝の制度がそのまま踏襲される。この時代、中国東北地方は、東胡族の勢力圏下にあった。

第 7代目皇帝・武帝が遠征軍を派兵し、衛氏朝鮮を滅ぼした直後の紀元前 109年、玄菟郡が新設されると、中国東北部は 遼東郡、遼西郡、楽浪郡、玄菟郡の 4郡に統括された。現在の鶏西市域はこのうち、玄菟郡の管轄域に組み込まれる(下地図。共に幽州に帰属)。

鶏西市

後漢時代には遼東郡に、後漢末期には公孫氏支配下の遼東郡に属した。魏国により公孫氏が滅ぼされると(238年)、中国東北部は、遼東郡(郡都は襄平県城 - 今の 遼寧省遼陽市)と、昌黎郡(郡都は昌黎県城 - 現在の 遼寧省錦州市 義県義州)に分かれて統括される。

西晋時代、北方民族が華北地方へ侵入し、五胡十六国時代がスタートすると、東北地区は北燕国の勢力圏に組み込まれる。最終的に、この南北朝時代に華北地方を制したのは、北魏朝であった(386年建国)。439年に完全に華北地方を統一後は、南朝の劉宋王朝と対峙することとなる。

この時代、中国東北地方は、勿吉族(挹娄族より改名)が勢力を伸張させ、 7つの部落を形成していた(下地図 ー 粟末部、伯咄部、安車骨部、拂涅部、号室部、白山部、黒水部)。
この時、現在の鶏西市域は、この勿吉族の勢力圏下にあった。興凱湖より西側エリアでは、穆棱河北岸は号室部の、南岸は拂涅部のテリトリー、という棲み分けが行われていたという。

鶏西市

その後、地場民族どうしの抗争が激化し、游牧民族が東遼河の上流域に、契丹族が牡丹江と松花江の流域に割拠し、また アムール川(黒竜江)中流域と下流域は、引き続き、靺鞨族(勿吉族から改称)の勢力圏下に置かれていた。黒竜江省南部は、靺鞨族の拂涅部のテリトリーに統合されるようになっていく(上地図)。
これらの諸勢力は、いずれも隋王朝に服属した。

唐代前期の 698年、忽汗河(牡丹江)の上流域に割拠した、粟末靺鞨族(上地図)の 族長・大祚荣(?~719年)が、周辺の靺鞨諸部と高句麗の残党が建国していた震国を併合し、一大勢力を作り上げる。 713年、唐朝廷は大祚荣を渤海郡王に册封し、忽汗州都督の地位を下賜する。これが後に改称されて、渤海国となる。
上京の 竜泉府(今の 黒竜江省牡丹江市 寧安市東京城鎮)に王都を開設し、五京十五府六十二州を統括した。この時、渤海国により、東平府(府役所は 伊州城に併設 ー 現在の 鶏西市密山市の南東にある臨湖村)が新設される。これが現在の鶏西市エリアにおける、初の行政庁開設となった。

鶏西市

唐王朝末期の 907年、契丹族八部の族長会議が催され、耶律阿保機(872~926年)がリーダーに選出される。
唐王朝が滅び、中原が五代十国時代に突入して混乱する中、耶律阿保機は内モンゴル自治区やモンゴル平原などを平定し、契丹国を建国する(916年)。臨潢(今の 内モンゴル自治区蒙古巴林左旗林東鎮南波羅城)に王都を開設した。そのまま怒涛のごとく中国東北部まで勢力を伸張させると、渤海国を亡ぼす(926年)。その旧領に 東丹国(926~982年)を建国させ、中国東北部を統治したのだった。これ以降も、旧渤海国の残党勢力は幾度も反乱を起こすも、悉く鎮定され、多くの遺民らが山東半島方面へ落ち延びていくこととなった。

947年、契丹国は遼王朝へ改名し、983年に再び、契丹国を称する。王都は 上京(今の 内モンゴル自治区巴林左旗林東鎮南)へ改称され、以後、北宋王朝と対峙していくこととなった。
今の鶏西市一帯は、この遼王朝の支配下の、建州女真族(靺鞨族)の居住区に属し、上京路下の 速頻踟(役所は、現在の ロシア・ウスリースクに開設)に統括されていた。下地図。

鶏西市

1113年、女真部落聯盟リーダーの 完顔阿骨打(1068~1123年)が女真族各部落を統一すると、翌 1114年、遼王朝に対し反旗を翻す。現在の 黒竜江省南部を平定した完顔阿骨打は、翌 1115年に皇帝を称し、金王朝を建国するに至る。王都は、会寧府(今の 黒竜江省ハルビン市 阿城県)に定められた。
完顔阿骨打の死後、実弟の 完顔呉乞買(完顔晟。1075~1135年)が 2代目国王を継承すると、 1125年には遼王朝を、1127年には北宋王朝を滅ぼし、南宋朝と対峙することとなる。以降、行政区トップには五京が開設され、その配下に 十四総督府と 十九路が配された。
今の鶏西市域は、遼王朝と同様、上京路下の 速頻踟(役所は、現在の ロシア・ウスリースクに開設)に統括された。上地図。

鶏西市

1206年、チンギス・ハーンがモンゴル帝国を建国すると、2代目皇帝・オゴデイ、3代目皇帝・グユク、4代目皇帝・モンケの治世にかけて、陸続きだった 西遼国、西夏国、金国などを次々と併合していく。

1271年、第 5代目皇帝としてクビライが即位すると、国号を元に定め、王都を 大都(今の 北京市)に開設した。 1279年には、ついに南宋朝を滅ぼし、中国全土を統一する。
この時代、中国東北地方の多くの土地が、モンゴル帝国皇族らに分与されることとなった。その他の土地は、元朝廷の直轄地に組み込まれる。現在の鶏西市一帯は、元代初期には遼陽行省下の 開元路万戸府(治所は、黒竜江省牡丹江市 東寧市三岔口村附近。上地図)と、後期には 胡里改路万戸府(治所は、黒竜江省ハルビン市 依蘭県依蘭鎮)に統括された。

1368年、朱元璋が明王朝を建国すると、元王朝の統治体制は完全に否定され、 1409年、奴爾干都司が新設されて、中国東北部を統括する。当時、海西女真族が多く居住していた、現在の鶏西市域は、麦蘭河衛に監督されていた。

鶏西市

清代の 1644年、清朝の第 3代皇帝・順治帝が、東北地方の大部分の満州族諸派を糾合し、中原へ侵攻する。そして、明王朝を継承する形で、北京 に王都を定め、全国を統一する。
この時代、中国東北地方は満州族の出身地ということで、漢民族の移住が厳しく制限されることとなった(封禁政策)。1653年、昂邦章京下で 防寧古塔(1662年に寧古塔将軍へ改編。上地図)が新設されると、現在の 黒竜江省牡丹江市 を中心に周辺の広大な土地を統括した。上地図。

1757年、寧古塔将軍が吉林将軍へ改称され、その行政庁が、吉林烏拉(今の 吉林省吉林市 龍潭区烏拉街鎮)へ移転される。吉林将軍の配下に、寧古塔副都統が新設されると、今の鶏西市エリアはこれに属した。上地図。

鶏西市

清代後期から、ロシア帝国の南下政策に対抗すべく、順次、満州地方の封禁政策は撤廃され、漢民族が新移民として満州地方へ流入するようになる。この新移民を使って各地の原野開墾が推進されていく中、1882年、穆棱河招墾分局(今の 黒竜江省牡丹江市 穆棱市興源鎮)が新設される。 1899年には、蜂蜜山招墾局も新設され、同時に 寧古塔、蜂蜜山、三姓(今の 黒竜江省ハルビン市 依蘭県一帯)に、それぞれ驛駅が設置される。この駅伝ネットワークの中で、寧古塔から蜂蜜山ルートのうち、今の鶏西市エリア内に配置されたものが、青溝嶺驛駅(今の 黒竜江省ジャムス市 樺南県梨樹郷猴石溝)と 黄泥河子驛駅(今の 鶏西市恒山区)の二か所であった(清代には、全国で合計 1,785か所の驛駅が 150~300 km毎に設置されていた)。上写真。

1908年、蜂蜜山に 蜜山府(今の 鶏西市蜜山市)が新設されると、現在の 鶏西市域の大部分を統括することとなる。翌 1909年には 穆棱県(今の 黒竜江省牡丹江市 穆棱市)が新設されると、現在の 鶏西市エリア南西部を管轄した。

鶏西市

中華民国が建国されると、府州制度が全国で廃止される。 これにあわせて、蜜山府は 蜜山県(今の鶏 西市蜜山市)へ改編され、吉林省に直轄された。
引き続き、今の鶏西市エリアの大部分は蜜山県に、南西部のみ穆棱県に統括されるも、 1919年に勃利県(今の 黒竜江省七台河市 勃利県)が新設されると、鶏西市域の北部がこれに帰属されることとなった。

1931年、日本軍が 満州事変(九一八事変)を起こし、翌 1932年3月1日、満州国(首都は 吉林省長春市)を建国させる。この日本統治下の 1941年9月1日、東安省下の鶏西街に鶏寧県が新設される。戦後の 1949年7月30日、鶏寧県が鶏西県へ改称され、さらに 1956年に鶏西市へ昇格され、今日に至る。

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