BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~

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訪問日:2019年7月下旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省 潮州市 饒平県 ④(海山鎮) ~ 鎮内人口 7万人、一人当たり GDP 33,000 元(県全体)


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  2系統の 路線バス(欧辺と黄隆)が 運行されており、新港路を ひたすら南進(5元、40分)
  三百門大堤を渡って 海山県入り。三百門港 と 柘林湾、アワビ&カキ養殖場を 遠望する。
  海山県 北島 と 南島を結ぶ、高沙水閘大堤を渡る。水道橋遺跡と 巨大風車群に仰天!
  98%の住人が「欧さん」という、欧石村を散策
  【豆知識】客家・欧氏一族の ルーツを考える ~ 春秋戦国時代の 越国王族の末裔か?? ■■■
  海山県の 県都・黄隆鎮を散策
  黄隆鎮の 屋外マーケット「石頭市場」にあった 観光案内板
  かつて 黄隆鎮に建造されていた 環濠集落と 外堀遺跡
  山頂に 鯉魚寨が築城されていた 石門山(鯉魚山)、そして 南澳島を遠望する
  【豆知識】明末、地元の軍閥領袖にのし上がった 朱阿堯と 鯉魚城塞の 攻防戦(対清) ■■■



饒平県(黄岡鎮)バスターミナル にある郊外バスの待合スペースから、海山鎮行 の路線バスが二方面ある。一つは欧辺方面、もう一つは海山県都を兼ねる黄隆方面のルートだ(下時刻表参照)。

海山鎮 海山鎮

両者ともに、海山鎮の南島入口までは同じルートを通行することとなる。

バスターミナルを発車後、黄岡古城地区の西端の沿河北路を通り、南門橋を渡って対岸へ進むと、そのまま一直線に新港東路(S222 号線。途中から新港西路へ改称)を南進するだけとなる。下写真左。
海山鎮 海山鎮

途中、大澳山のコーナーを曲がるところから、道路は左右に運河で挟まれるようになる。右手側はずっと住宅地が続いていたが、左手側は住宅街が終わり、あとは延々と湿地帯や草地、工場群などが広がるだけとなっていった。

この道路沿いの 運河「海山引(新港航路)」では、地元民が洗濯していたり、船を操作していたり、釣ってきた魚を売買していたりと(上写真右)、のどかな日常の生活風景が広がっていた。古くから海上生活圏と陸上生活圏との境界点に位置し、往時のままの生活習俗が継承されている様子が伺えた。そして、その先に地元漁師らの紅山水産市場があった。

海山県に近づいてくると、巨大な養殖場が広がるようになる(下写真)。ここでは、エビ、ザリガニ、カニ、スズキ、ナマズ、アジ、ハタなどが養殖されているという。

海山鎮

そして、直線道路をもう一度曲がると、省道 S222 号線(新港西路)は三百門大堤という橋を渡る。この橋は、大陸側の汫洲鎮と海山鎮とを結ぶもので、海山島が大陸側と結ばれる唯一の通路となっているわけだが、海自体はかなり浅いようで、橋というより浜沿いの道路を走っているような印象だった(下写真)。周囲にはたくさんの小さな漁船が停泊していた。

海山鎮

下写真の進行方向に見える港湾施設群は、海山県北島に設けられた三百門港で、広東省東部でも屈指の良港に数えられている。水深は深く、また海風を遮断する山を後方に有する地形が評価されたという。改革開放時代の 1977年、汕頭港 を補完する意味で港湾施設が整備されて以降、(広域)潮州港の一角として 1992年に対外開放され、現在でも 国際コンテナ・ターミナルとして機能しているらしい。
海山鎮

下写真は、三百門大堤の橋上から 柘林湾 を遠望したもの。
元代初期、南宋亡命政権一行が浙江省、福建省から海路より当地に逃避してきた際、この湾内に数千もの船団が停泊していたわけである。伝説によると、南宋亡命政権はこの柘林湾を城塞化し、新王都を建設しようとの計画もあったという

目下、海峡上では、海山鎮の名産というアワビとカキが養殖されていた。下写真。

海山鎮

海山鎮

三百門大堤の橋を渡り終えて北島側に至ると、「海山鎮へようこそ」という大きな看板が左手に掲示されていた。
路線バスはさらに省道 S222 号線を直進するのみなのだが、筆者の 訪問時(2019年7月末)、大部分が工事中で砂利道だった。この砂利道上を大型トラック、大型バス、自家用車などが入り乱れて通行しており、道路脇の商店や民家は土煙に晒されるばかりの日々で、さぞかし迷惑なことだろう。。。。と気の毒に思いながら通り過ぎていった。

しばらく進むと、海山鎮北島の南端に位置する「美宅村」という集落に至る。その沿岸部に「水道橋」跡と思わしき陸橋を発見した(下写真)。おそらく、かつて南島の住民向けに水を供給していた当時の遺物、かと推察される。

海山鎮

続いて、高沙水閘大堤という橋を渡る。ここから南島へと至るわけだが、たくさんの風力発電用の巨大風車が設置されており、実に壮観だった(下写真)。

現在、海山鎮は北島と南島の二島から構成されており(総面積 49.6 km2)、両者あわせての居住人口は 9万人弱という。東に 拓林湾、南に 南澳島、西に 澄海県 に囲まれる島で、古くから海上交通の要衝に立地し、その昔、「蓬莱」と呼ばれていた。
明代には信寧都汫洲堡に属し、中華民国時代の 1928年に海山区が新設され、共産党時代の 1957年に海山郷へ降格される。1986年11月に海山鎮となり 汕頭市 域に組み込まれるも、 1992年から 潮州市 域へ移管され今日に至る。

海山鎮

この高沙水閘大堤の橋であるが、もう海峡というより、川程度の距離だった。橋下には、たくさんの養殖場が設けられていた。下写真。

海山鎮

南島に入ると、道路の舗装工事もなくなり、スムーズに校道路を直進する。平日の日中だったこともあり、経由中の集落地での途中下車や乗客もなく、また、すれ違う自動車も極端に少ない中で、すいすいと終点まで到着できた(40分、5元)。
なお北島までの道中では、黄岡鎮へ戻る路線バスを何度も目にしており、どうやら 15分に一本ぐらいの間隔で運行されているようで、かなりの頻度があることに驚かされるとともに、帰る手段もありそうで安心できた。


海山島(別名:海北島、渓北島)と、黄夢島(別名:海南島、渓南島)は、かつて蓬莱仙境の地と称され、天より仙人が下りて下界を旅した地と考えられてきた。これは、当地に残る大岩群の神秘的な自然造形に由来している。

伝説によると、八仙のメンバーである李鉄拐と韓湘子が蓬莱の海山島を旅した折、まず黄夢島の相思石に到着し、ここから海山島にある 岩山(落山虎)の南側山頂の岩石上に降り立つ。まずはここに目印をつけて帰路の参考としたという。この刻印が今も残されており、後世の人によって「神前嶺」「仙脚石」と通称されるようになっている。
二人は、そのまま西側の海に面して集積する大岩群を散策していると、砂浜にあった巨大な岩盤の隙間からガジュマルの樹(当時、地元民はこれを松の木と呼んだ)がたくさん生えているのを見て、その美しさに驚嘆する。二人はすぐにその砂浜上の岩盤へと歩みを進め、この上であぐらをかいて将棋を楽しんだという。この将棋エピソードから、この大岩は「磐石」と呼ばれるようになる。その後、その磐石は浜辺に放置されっ放しとなる。後の時代、別のある仙人が当地を旅していると、その砂丘が年々、風雨によってかさ上げされ大岩が今にも埋まってしまおうとしていた様子を嘆き、寿山林公と協議して砂浜の砂を岩礁に変えて、それ以上、埋没しないように工夫したという。あわせて、方々からたくさんの流民らを集めて村落を形成させ、「磐石」を含む大岩群を守護させる役目を負わせる。こうして、後世になって村人らが磐石に「松磐勝概」と刻印し、同時に周囲の巨石群に「虫二」「山海奇観」「海山之雅」などの文字を彫り進めて、奇怪な彫刻巨石群を生み出すこととなるのだった。それらは現在、「松磐石刻」と総称され、当地の観光名所となっている。



下写真左が、この 海山鎮(欧石村)のバス発着所である。

海山鎮 海山鎮

バスが欧石村に到着すると、バイクタクシーが二台ほど待っていた。
彼らから「船着き場へ行くのか?」と聞いてくるので、NOと答えておいた。

おそらく、バス乗客はここからさらに船着き場を目指すパターンが多いのだろうか?その船着き場とは、避風港のことだろうか??避風港から、対岸の迅洲島へ移動することになる??たくさんの疑問が浮かんだが、とりあえず徒歩で回れる範囲内だけに限定することにした。
下地図の赤色ラインが、本日の移動経路。

海山鎮

バス発着所の正面の道路を北上し、とりあえず商店街の広がるエリアを目指す。その集落地の中心部、市亭路沿いに巨大な欧辺菜市場があった(下写真左)。
さらに北上していると、途中に井戸を発見(下写真右)。

海山鎮 海山鎮

なお、周囲の宅地前には小さな側溝が設けられていたが、いずれも細く浅過ぎて、雨が降ると簡単に道路に水があふれだす設計だったのが気になった(下写真左)。その北側に大きな溜め池があり、最終的にここに流し込むために、地下水路へと合流されているようだった。

下写真右は、その地下水路に架かる橋上にあった「中国移動通信」の代理店。個人商店が代理店契約を行っているスタイルで、当地のローカルぶりが伝わってくるだろうか?

海山鎮 海山鎮

そして、ついに溜め池に到達する(下写真)。

海山鎮

後方には小山を有し、前方に池をめぐらす、伝統的な客家集落だった。集落内部では、まだまだ古民家群がたくさん残されていた。

海山鎮

現在、この欧辺鎮は 5村から構成され、居住人口は 17,000名ほどという。池の周辺を整備した際、地元民らが寄付金を出し合った顕彰碑が設置されており、欧姓の住民が多いことが分かる(下写真)。実際、この欧石村の 98%の住民は欧姓であり、全饒平県下の中で、最も多く欧姓の人々が居住する行政区という。

海山鎮


この欧氏は、もともとは「欧陽」という姓の一族で、南宋末期から元代初期にかけて福建省 莆田市 からこの地に移住し、欧辺村を形成させたという記録が残る。明代末期~清代初期の混乱期、「欧」姓へ短縮したという。なお、この欧陽氏一族であるが、春秋戦国時代の越国王族の姓と同じで、楚によって滅亡に追い込まれ(紀元前 306年)、残党勢力が福建省北部へ逃亡し、その後、前漢朝時代に東越国、閩越国を建国することになった旧王族の末裔の一部なのかもしれない

その後、鄭氏、陳氏、沈氏(明代の 1490年代に福建省漳州市 詔安県 から移住)、洪氏らの一族も海山島へ流入し、明代初期、欧辺鎮の西隣に東石村が新設されることとなる。共産党時代の 1951年、もともとあった村名(欧辺村と東石村)から一文字ずつを取って、欧石村が誕生したのだった。

海山鎮

周囲の山々や島々に囲まれる天然の良港を成し、海上交易の中継拠点として栄えた柘林湾は、外海へと通じる主要航路を 3ルート有しており、それらは上地図の通り、西澳島(柘林鎮)と迅洲島に分けられた海峡を通行するものであった。
このうち、小金門は全長 2,500 m強、幅約 1,500 mの海峡で、目下、この西北角に三百門港が開設されているわけである。その地理的な特異性が生み出す海流により、小金門は古くからさまざまな水産資源が獲れたという。この漁業地を独占して繁栄したのが、この欧氏一族だったわけである。彼らはこの水産資源のさらなる安定供給と独占化を図り、湾前を埋め立てて養殖地を開墾し、現在の海山鎮における一大生産地を形成させることとなった。



そのまま池を一周回って、集落の方へ接近してみる。土壁造りの古民家がたくさん残っていた。かつて倭寇の襲来に対抗すべく、住民らが自力で建造した簡易な城塞集落が立地していたと推察される。

海山鎮 海山鎮
海山鎮 海山鎮
海山鎮 海山鎮

上写真右は、宮子巷の路地沿いにあった井戸。2 mほどの深さだったが、浅い水は透き通っていた。ここに 20 cm大の淡水魚が 2匹、泳いでいた。水質管理のためなのか、食用のためなのか。。。

また、広めの庭がある家には、当地の特産品である、カキやアワビの貝殻と落花生の天日干しがあちこちで行われていた(下写真)。

海山鎮

正午の時間帯の散策で、かつ炎天下だったため、そそくさとバス発着所へ戻ることにした。ちょうど客が乗車中の路線バスに飛び乗ることができた。そのままいったん、終点の 饒平県(黄岡鎮)バスターミナル に帰還した(40分、5元)。


バスターミナルのトレイで汗を拭い、しばし休憩した後、続いて、もう一つの 海山鎮(黄隆)方面行の路線バスに乗車する(5元、30~40分)。

海山鎮 海山鎮

郵便局前の道路中央に大樹が植わっており、この木の下にベンチが設けられて、終点「海山鎮(黄隆)」のバス発着所とされていた(上写真)。大雨の時とかは、乗客は郵便局の 建物(上写真左の緑看板)で待機するのだろうか??
白タクなども全くなく、周囲は静まり返っていた。仕方ないので徒歩で周辺を散策してみる。

海山鎮

省道 S222 号線の交差点まで戻ってみると、長距離バス用のチケット売り場があった(上写真)。 汕頭市 や潮州市、広州市 への直行バスが運行されていた。ここから直接、投宿中だった 潮州市中心部(湘橋区) まで帰れるわけである。

続いて、黄隆鎮の街中を散策してみる。
真夏の午後ということもあり、市街地はがらんとしていた。皆、屋内で涼をとり、夕方ぐらいから外出するのだろう。。。

海山鎮 海山鎮

なお、上写真の柵内を走る用水路は重要で、後々、旧市街地を囲んだ外堀の一部であったことが判明する。
海山鎮 海山鎮

途中で市街地エリアを見回りながらも(上写真)、基本的にはこの用水路沿いを南下し続けることにした。すると、石頭市場という露店市場にたどり着く(下写真左)。炎天下で誰もいなかった。

海山鎮 海山鎮

この屋外マーケットの脇に文化広場があり、海山鎮 の名所旧跡を解説するボードが掲示されていた。下写真。
海山鎮

海山鎮

海山鎮

さらに用水路沿いを南下していると、市街地の端に至る。
ちょうど道端の自宅前で、バイクの手入れをしていた男性に声をかけてみる。「岩田に行きたい」と言うと、「この時間帯は誰もいない。3~4時ごろに人が出てくるので、それまでは行っても無駄だ」という答えが返ってきた。

それでも夕方まで待てないので、「ここを直進するのか?」と確認して、そのまま用水路沿いを南進していると、頼りとしていた道中の友・用水路もここで西へと折れ曲がることとなった(下写真)。

海山鎮

このまま用水路は鯉魚塞新路を西へ進み(下写真左)、半月湖池へと注ぎ込むこととなる。交差点付近の住所は、饒平県海山鎮黄隆鎮隆東社区鯉魚新村四巷となっていた。

古くから海山島の最大集落がこの黄隆鎮に形成されており、倭寇などが跋扈した時代、先ほどの用水路や周囲に点在した沼地などを接続して、環濠集落が形成されていたと推察される。

海山鎮 海山鎮

用水路を失った直線道路はそのまま南へ続いていたので、筆者は草地と農地だけの無人地帯を歩き続けることとなった。道路両脇は草ぼうぼうであったが、西側に農地が広がっており、東側には海山初級第一中学校が見えた(上写真右)。

下写真は、第一中学校前の交差点を通り過ぎた辺りから、黄隆鎮一帯を遠望したもの。

海山鎮

ここまで来て、どこまで続くか先の見えない直線道路に不安を感じ、炎天下もあり、南進を断念することにした。
下写真は、筆者が踏破した最南端。。。まだまだ道路は続いていた。
この写真の左手前方に見えているものが 石門山(鯉魚山)であり、明代末期、山頂に鯉魚寨が建造されていた場所である。石門台座や石柱などの一部が現存するため、「石門山」と通称されるようになったと考えられる。
なお、道路前方に見える山陰は、対岸の 南澳島 である。

海山鎮

道中、地元の数人に岩田まで乗せて行ってくれるように声がけしてみたが、皆、白タク行為には興味がないようだった。
挙句の果てには、饒平県(黄岡鎮)バスターミナル まで戻って、白タクをチャーターしてきた方がいいと言う人もいた。 200~300元ぐらいで往復してくれるよ、とのことだった。仕方ないので、先ほどの大樹下のバス発着所まで戻り、当地での史跡巡りを諦めることにした。。。。

下地図は、本日の散策ルート。

海山鎮


上地図にある 石門山 は、かつて鯉魚山と呼ばれており、低い小山であったが、その山頂部に明代末期、地元出身の 勇者・朱阿堯によって鯉魚城塞が建造されていたという。
やや四角形に近い円形で設計され、当時、忠義庁、営署、馬屋、食糧庫、練兵場など一連の施設が設けられていた。現在でも山の斜面上には 柱石、門石、台石、石板などの残骸が残されており、またこの城塞にあった四城門のうち、小東門の上に掲げられていた石板(縦 1 m、横幅 50 cm)が現存するという。

また当時、鯉魚山の南西面の山麓には、水深の深い半月型の沼地があり、その周囲に防塁柵を設けて天然の外堀としつつ、中で鵝を養殖していたという。なお、この沼地は現存せず、ここから北西に位置する、現在の海山鎮黄隆鎮の市街地に同じ形状の溜め池が整備され、往時の英雄を偲ぶ場所とされている(上地図参照)。

この鯉魚寨から西へ 1~2 km離れた象鼻山下の沿岸部に、巨大岩「虎踢石」がある(下写真)。この高さ 6 mの巨大岩の中央部には空洞があり、中に人が入って通り抜けられる隙間ができていた。
伝説によると、朱阿堯は若いころ、この巨石前でよく剣術の鍛錬に励んでいたという。朱阿堯が剣を研いだという石も、周囲の岩場に残されている。鯉魚城塞に立てこもって清軍と戦った朱阿堯であったが、味方の裏切りで敗走に追い込まれると、この大岩内に身を隠しつつ逃亡に成功したという。直後より鄭成功旗下に参陣し、その水軍部隊を率いて活躍することとなった勇将・朱阿堯を称えて、地元民らはこの大岩を虎踢石と呼ぶようになったという。

海山鎮

なお、この朱阿堯(1630~?)なる人物であるが、もともと 地元(饒平県信寧都下の海山島)出身で、父親はなく母子二人の極貧生活を送りつつ、漁師として生活し、魚を獲っては直接、市場で売ることを生業としていた人物だった。
青年期に入ると、同じように生活苦にあえぐ地元の若者らを集めて民兵を組織し、海賊や山賊らの襲来に対抗する自警集団として海山島に割拠するようになる。そして、集落地の南にあった鯉魚山に城塞を建造し、手下の民兵ら 700名余りを束ねて海山王を自称した。

1647年1月、17歳のとき、南明政権の鄭成功に打診されて、南明軍に参加することとなると、翌 1648年、潮州地方に進入してきた清軍と対峙する。当初、清軍は各地に割拠する軍閥らに清軍への帰参を勧告しており、その使者が朱阿堯の陣営にもやってきたわけだが、怒鳴りつけて追い返したという逸話が残る。
翌 1649年、清朝は備威将軍の鄧友倫を総大将とし、大軍を派遣してくる。まず、その先方隊が要塞を包囲し、早々にも夜陰に乗じて夜襲をしかけてくるも、半月沼で養殖していた鵝が人馬の接近に反応してけたたましく鳴きだすと、朱阿堯らは清軍の奇襲を察知し、これを撃退したという。
その後、総大将の鄧友倫が到着するも、戦線は膠着する。この時、清軍が朱阿堯配下の兵士一人を捕縛すると、拷問にかけて城内の情報を聞き出すことに成功する。ここで、朱阿堯の従弟にあたる許明が臆病者で篭絡の可能性あり、という情報を得た清軍は、城塞内にあった許明に接触し、官位を保証して内応を約束させ、9月3日の深夜に城門を開けて清軍を城塞内に招き入れさせる内約が取り決められる。

許明は清兵の接近がばれないように、事前に鵝を毒エサで全滅させた上で、清の決死隊 400名余りを城塞内に間抜き入れ、各所に火の手がかけられることとなる。朱阿堯らは慌てて防戦にあたるも、多勢に無勢の中、城塞を放棄して包囲軍を突破し虎踢石の洞窟に逃げ込み、そのまま何とか海山島の脱出に成功したのだった。
自身の故郷奪還をあきらめた朱阿堯は、残存勢力 700名余りを率いて鄭軍本隊に合流し、右協水師都督に任命されて、鄭軍下でその武名を高めることとなる。特に、台湾島の 上陸戦(1661~62年)では先鋒旗と宝剣を授けられ先鋒を任されるほど徴用され、 オランダ軍を 駆逐後(32歳のとき)、彼の足取りは判然とせず、そのまま台湾島の防備と治安平定に尽力したと考えられている。現在、台湾島に居住する朱姓の人々は、この朱阿堯の子孫を自認しているという。

海山鎮

なお、海山県内の史跡はこの南島の 南端(黄隆鎮)に集中して立地している。千年の歴史を有する 古刹「隆福寺」、万年地質海灘岩田遺跡(海岸線にできた世界でも珍しい”龍”模様の自然堤防)、億年海蝕岩「石亀」、日中戦争時代の 1938年6月に当地での共産党司令部が置かれた 旧「劉氏家廟」、弘揚朱子文化の「朱氏宗祠」、烟楼山、三義女廟、東沙湾浜海旅游度假村、長征干部李沛群紀念館(饒平県出身者で唯一、共産党軍長征に参加した 勇士・李沛群が少年時代に通ったという学校跡が、共産主義教育施設として整備され、地元の小中学生らが郊外学習で訪問する場所に指定されている。李沛群は 1908年に貧しい家庭で生まれ、13歳で 広州 へ出稼ぎに出るまでの 4年間だけ、地元の私塾に通っていたという。その後、1926年に共産党に入党し、潮汕地方出身者二人のうちの一人として長征に参加する。共産党中国建国後は、広東省農業機械庁事務所副主任にまで出世した)などが点在する。 また、海山鎮坂上村三百門の大湾山北面の山裾には、南宋朝で 光禄大夫、左丞相、右丞相、太傅衛国公などを歴任した 重鎮・鄭清之(1176~1252年)の 墓(内紛にあけくれる南宋朝廷に見切りをつけ、1251年に夫人と四人の子らを伴って三百門まで船で南下し、当地で隠棲しつつ死去した)が残されている。



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