BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~

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訪問日:2019年7月下旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省 潮州市 饒平県 ②(三饒鎮) ~ 鎮内人口 5万人、一人当たり GDP 33,000 元(県全体)


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  黄岡鎮 → 三饒鎮へ移動(20元、50分) 潮州市 → 三饒直行バス(7:30 or 13:30、35元)
  東門橋 と 食飯渓、 西坡山(標高 615.7m) ~ かつての 北面外堀跡
  三饒鎮の 最繁華街 ~ 省道 S 222(柏豊線)沿いの ドライブスルー と 東面城壁跡
  中華街の 東交差点 ~ 東門跡 と 棕樹夏邱氏祖廟
  ”饒平県城の 第一市民”に認定された 邱氏一族の歴史 ~ 琴峰山をめぐる 県城史から
  南面城壁 と 南門跡の 城基南路を歩く ~ 城壁遺構 と 関帝廟、福徳祠
  【豆知識】明末清初の 名将・呉六奇 と 翁厝巷 エピソード ■■■
  【初代】饒平県城(三饒鎮城)の 今昔マップ
  【豆知識】地元の英雄・呉六奇(1607~1665年)の 波乱万丈 人生 ■■■
  西門近くに 550年間も存在し続ける 城隍廟、その壮麗かつ精緻な 建築デザインは お見事!
  西面城壁跡 ~ 嶺后塘 と 三饒衛生院(病院)
  【豆知識】古城遺産解説 ~ 饒平県衛 城門レプリカ、孔子廟(学宮)、琴峰書院 ■■■
  【豆知識】饒平県城の歴史 と 古城時代の絵図 ■■■
  客家の 城塞集落「道韵楼」を訪問する ~ 圧巻の 3階建て 巨大木造建築物!
  「土楼」と通称される 城塞集落 外壁面の頼もしさ!
  【豆知識】全国でも珍しい 八角形デザインの 土楼「道韵楼」とは? ■■■
  饒平県の山間地帯に残る 土楼遺跡 ~ 饒平三韵(新韵楼、饒韵楼)、紫来楼、灰楼、、、
  道韵楼から東回りで 省道 S222号線へ 移動 ~ 意図せずして「陶磁器の町・三饒」を知った
  三饒鎮 観光マップ
  1000年の古刹・双流寺 と「饒平県」の 命名エピソード



この日は、潮州市中心部(湘橋区)のホテル を朝 8:05 に出発した。
しばらく路線バスを待っていたが、8:20発の饒平行のバスに乗りたかったので、バイクタクシーで市汽車バスターミナルまで直行する(5分、10元)。
そして、無事に 8:20発バスに乗車できた(20元)。9:30には 饒平県(黄岡鎮)バスターミナル に到着する。

まずはトイレを使い、(10:10発)三饒鎮行のバス乗車券を買う(身分証提示、20元)。

三饒鎮 三饒鎮

そして、しばらくバス待合スペースで待つ。「茂芝(饒平県上饒鎮)」行のバスが遅れて到着したので(上写真左)、出発時間も遅くなっていた(10:25)。このバスが、饒平県北部に広がる山間部一帯を担う路線バスらしく、饒平県(黄岡鎮)バスターミナル を出ると、丁未路沿いをひたすら北上するだけの一直線ルートだった(北へ 48km)。丁未路は途中、迎賓大道へと名称が変更され、さらに後に省道 S222となって北上し続けることとなる。

この山岳地帯は杉が植林された山々と農村風景が延々と続いており、水がきれいな地区に指定されているようだった。三饒鎮中心地のすぐ南には巨大ダムがあったが、水はだいぶん減っている印象だった。
思ったより早く三饒鎮に到着する(11:15)。だいたい、50分ぐらいのドライブだった。しかし、筆者は最初、ここが三饒鎮とは気づかず、そのままバスが発車すると、道中の街角で「三饒餃」という当地の名物らしい食堂の看板を目にする。そして、東門橋を渡ったあたりで(上写真右)、ここが事前に調べていた三饒鎮の地形そのものであることを確信し、周囲の乗客に確認すると、「三饒鎮は通り過ぎた」という。

あわてて、バス運転手に下車を願い出ると、舌打ちしながらバスを降ろしてくれた。不幸中の幸いとはこのことを言うのだろう、おかげで東門橋と食飯渓を難なく写真撮影できた(下写真)。
右手に見えるノッポの山は 西坡山(標高 615.7m)で、古城地区のどこからでも見えた。

三饒鎮

この食飯渓の河川が、かつて県城の北面外堀を担っていたわけである。
下写真左は東門橋上から見た食飯渓の下流方向。ダムで水量が一定に保たれていた。

三饒鎮 三饒鎮

さて、そのまま幹線道路「省道 S222(柏豊線)」を南下していると、たくさん「三饒餃」「東門餃」の看板を見かけた(上写真右)。ただ、これらの看板は、この道路沿いだけしか見かけなかった。道中を往来するトラック・ドライバーや旅人に対し、持ち運びしやすい弁当として編み出された、ご当地料理なのだろう。実際、古城地区や地元民らの生活空間では全く目にしなかった。

この自動車道路が、かつての東面城壁の跡地である。この幹線道路「省道 S 222(柏豊線)」は、鎮内で唯一、交通量が激しいエリアだった。その他は全く交通量がない、と言ってもいいぐらいの静かな町だった。
三饒鎮

古城地区 の散策にあたって、現地の地名に往時の記憶が刻みつけられており、全体構造を把握するのに非常に役立った。上写真の左端に見える「東門士多店」をはじめ、「東門溪大慶大排档」、「百年老店東門餃(上段の写真右)」、「東門生活市場」、「西門焼烤」など、東西両端が明確に把握できた。

この道路沿いの一つ目の三差路が、中華路である。ここを西進すると、孔廟(目下、大部分の敷地は饒平県第一中学となっている)、三饒鎮人民政府(かつての饒平県衛)、城隍廟が立地する、古城時代のメインストリートであった。下写真。

三饒鎮

この中華街の東西には、かつて東城門と西城門が設置されていたわけだが、目下、その東門跡地の脇に、小ぎれいな邱氏宗廟がデンっと構えてあった(下写真左)。古城東半分の地区名「棕樹社」を冠して、棕樹夏邱氏(「夏」は華北地方からの移民の意)と称する、客家一族の祖先廟らしかった(下写真右)。

三饒鎮 三饒鎮

なお、古城北側には金山邱氏大宗祠があり、城内に居住した邱氏も各地区に分派し、それぞれ地名を冠して祖先廟を設けていたようである。その他、旧市街地には黄氏宗祠、林氏宗祠などの祖先廟も、今も現役で残るという。


饒平県自体は、明代中期の 1477年に新設されたわけであるが、それより以前から下饒堡と呼ばれる城塞集落が存在し、一帯の地区行政の中心地を担っていた(海陽県弦歌都に帰属)。この集落内に県役所(県衙)が開設されるにあたり、当地の一等地を占有していた邱氏を立ち退かせることとなる。

当時、食飯渓沿いの南面は小高い丘となっており、これが琴峰山と呼ばれていたようである。現在は、旧市街地が広がっているため分かりにくいが、旧市街地の中央にむかって緩やかな傾斜が今でも残る。この琴峰山全体を占有する形で、城塞集落「下饒堡」が建造されており、その南山麓に邱氏開祖の邱成実の墓地が、また東隣に邱氏宗廟が設けられていたという。饒平県城の築城にあたり、この墓地を撤去して県役所(県衙)が、邱氏宗廟の建物を造り変えて孔廟が開設されることとなり、邱氏一族は喜んでこれら敷地を朝廷に献上し別の場所に再建したことから、地元で大いに名声を高めることとなった。
実際、饒平県の初代長官である楊昱は、邱氏に「先邑名家」の額縁を寄贈している。すなわち、「饒平第一家邱氏(饒平県城に居住した最初の一族)」との栄誉を手にしたのだった。以後も邱氏は、当地の名門一族として君臨することとなり、明代には一族出身の邱金声が県長官を務めたこともあった。

さて、この開祖とされる邱成実(1052~1137年)であるが、北宋朝下で鴻臚寺卿(全国の寺社を管理する役職)を務めた邱杰秀の長男として誕生する(福建省莆田市 にて)。小さいころから優秀で、1099年に郷試(科挙の地方試験)に合格すると、初めて泉州学正に任命され、後に通直郎(皇帝直属の書記官)、枢密使(全国の軍隊を統括した枢密院の最高幹部)へと出世する。老年に達した頃、故郷に戻り福建省莆田市の林泉で隠居していたが、子の丘君与が南宋政権下で 梅州 刺史に就任することとなり、一族は海陽県下の双溪(今の三饒鎮の中心部)に移住する(1132年)。そのまま邱成実は当地で死去したため、琴峰山の南山麓に墓所が設置されていたのだった。

また古くから、邱氏一族は家業として提灯を造ることでも名を馳せ、県役所や城隍廟へも納品され、これが当地の伝統産業としても発展していくこととなったという。今でも毎年、旧正月や年末年始で作品展が開催され、また提灯祭りが地元で催されているという


三饒鎮

さて中華路の次の交差点は城基南路(別名:菜場街、文豊路)で、にぎやかな露店市が続く路地であった。ちょうど昼前の時間帯で、八百屋など食材屋は稼ぎ時のタイミングだった(上写真)。この道路沿いに、かつて南面城壁が連なっており、そして上写真の右端(赤いテント傘)辺りに南門が立地していたわけである。ここは南平路との交差点にあたり、右手を直進すると、三饒鎮人民政府(上写真右端の青看板。かつての饒平県衛)や孔廟に行き着く。

その途中に、「城基路」と書かれた石板と古城解説の碑文を発見する(下写真左)。ちょうど裏手に、関帝廟と福徳祠が向かい合って設置されていた(下写真右)。廟堂のデザインや参拝スタイルなど、台湾 と全く同じ習俗性を感じた。

三饒鎮 三饒鎮

この「城基路」の石垣面は、往時の城壁面の一部である(上写真左)。共産党時代に入って、民家などに転用されていた旧城壁面のレンガ資材を、地元幹部が再回収し積み直したもの、という。

下写真右は、その関帝廟を正面から撮影したもの。後方の賑やかな街道が「城基路」。

三饒鎮 三饒鎮

そのまま福徳祠脇を奥まで進んでみた(その路地は「世芳堂巷」という名称だった)。すると、急に広場に行き着く。屋根がしっかり設けられた庶民市場で、「三饒中心市場」と書いてあった(下写真左)。
ここから、先程の「城基南路」へ戻ることにした。その交差点に「黄氏宗祠」「世芳堂」の巨大な石碑が建てられており(下写真右)、この奥の住宅街の一角に、黄氏一族の祖先廟が現存していたのだろう。
三饒鎮 三饒鎮

この辺りまで至ると、すでに城基南路でも西半分となっており、あちこちに「西門」の文字を目にするようになる(下写真左の「西門 翁厝」、下写真右の「西門 蘆厝」)。
閩南地方の方言では、「厝」は「住居」を意味するらしく、要は「翁氏一族の居住区」「蘆氏一族の居住区」という意味だろうか。

三饒鎮 三饒鎮

気になったので、「西門 蘆厝」という案内のあった路地に入り込んでみる。ここは古城時代では南面城壁の外にあたる場所なのだが、古民家と最近のコンクリート住宅が広がるだけだった。その一角に、完全に廃屋となった平屋建ての古民家が残されていた(下写真左)。これ以上、奥に入り込むことは控えることにした。

再び、城基南路へ戻り、とりあえず、西の端まで踏破してみる(上写真右の奥)。突き当りは四差路の交差点となっており、交通の要衝の一角なのだが、そもそも交通量自体が少ないので、信号機も設置されていなかった。この交差点が、かつての西城門が立地したポイントである(下写真右)。
ちょうど「西門焼烤(バーベキュー)」の食堂があった(下写真右)。

三饒鎮 三饒鎮

なお、後で知ったことだが、「西門 蘆厝」よりも、「西門 翁厝」の方が訪問価値が圧倒的に高い場所だった。。。筆者はそれに気づかず、通り過ぎてしまっていた。下地図の青ラインは、この日の移動経路を示す。


「西門 翁厝」には、かつて翁厝巷と呼ばれる路地があり、当地を治めた名将・呉六奇(1607~1665年)が営署(軍役所機関)を構えていた場所という(その建物遺構が一部、現存するらしい)。

そもそも、この「翁厝巷」という地名自体の誕生にも、この呉六奇が大いに関わっていた。
地元・三饒鎮に伝わるエピソードらしいが、当地に駐在していた呉六奇には複数の妾がいたが、そのうちの一人が趣味の刺繍作業中に針を落としてしまい、見つけられずにいた。ちょうどそのタイミングで呉六奇が部屋に入ってくると、床を指し「ここに針が落ちているのはなぜか?」と猜疑心露わに質問する。
すると、その妾は笑いながら刺繍針を拾い上げて、「裏切り者の目は神のごとく鋭いわね!」と一言、言い放ったという(呉六奇が南明政権から清朝へ寝返った事実を指す)。すると、呉六奇は烈火のごとく大激怒し、翁という姓の付き人に命じて、その妾を城外の食飯溪へ沈めて処刑するように命じる。しかし、その妾は妊娠しており、そのまま母子ともに殺してしまうのはいかがなものかと、思案に暮れた付き人は、呉六奇の夫人の内諾を得て、その妾を自宅に匿うことにした。

数年後、付き人の翁が幼児を連れて呉六奇に面会する機会があり、呉六奇がため息をつきつつ、「あの時、自分は妾を殺さなかったら、我が子もこれぐらいの大きさだったのにな。。。」と漏らしたという。使用人の翁は彼の後悔の念を察知し、呉六奇に本当のことを話して、その子を引き渡したのだった。
呉は使用人の翁に深く感謝し、多くの謝礼金を与え、さらに自身の邸宅をも譲ったという。これが、翁厝底と呼ばれる家屋跡という。今も外壁の一部が現存する。当時、木造の巨大邸宅は北に隣接する県役所をも越える壮麗さを誇り、右壁には麒麟窓を有し、窓枠には精美な石造りの飾り彫刻が施された贅沢なものだったという。この窓彫刻は今日、東門溪橋の北雨亭の壁上に移転・保存されており、当地でも非常に貴重な歴史遺産という

三饒鎮

さて、ここで登場する呉六奇(1607~1665年)であるが、清代初期に饒鎮総兵官(三饒鎮一帯の兵権を統轄した総司令官)に任命されて以降、この饒平城内に 12年もの間、駐在し、この地で死去することとなった名将である。彼は今でも三饒鎮の地元民から呉皋(呉鈎)という愛称で親しまれ、長く崇拝されてきた人物という。

もともと呉六奇は広東省豊順(今の広東省 梅州市 豊順県豊良鎮南厢大衙)の役人の家に生まれ、裕福な家庭環境で成長することとなる。その祖先は明朝で観察使(道員。地方行政の高級官僚で、ほぼ名誉職的なものであった。各省を統括する巡撫や総督と、府長官との中間レベルの官位)を輩出した家柄でもあった。幼いころから厳しく教育され、彼は生まれながらに勇猛果敢な性格で、多くの軍略書を読み漁るほどの優秀さを誇るも、青年期に酒と賭博に溺れて財産を使い果たし、一家を破産させてしまう。

その後、役人の馬引き人に身を落とすこととなり、広東省、福建省、江蘇省などを放浪しながら乞食同然に身をやつし、浙江省の海寧県(今の浙江省嘉興市海寧市)に至る。ある日、現地で腹を空かしながら雪の中で眠っていると、「鉄丐」と呼び止める声を耳にする。たまたま徒歩で散歩に出ていた、海寧県の孝廉(科挙制度の地方試験である郷試に合格したレベルの地元名士)の査継佐であった。風貌の堂々とした乞食を見て、思わず声をかけたのだった。「君が、巷の人々が”鉄丐”と呼ぶ者か?」と聞いてくる。呉六奇はうまずく。「酒は飲めるか?」と聞かれると、さらにうなずくので、査継佐はこの乞食を家に招き入れ、二人は酒を飲み交わして会話を楽しんだという。別れ際、査継佐は新しい棉衣(綿入りの防寒用コート)を乞食に与えるも、呉六奇は礼を言わずに立ち去ったという。この時の出会いが、呉六奇の人生の歯車を大きく好転させるきっかけとなる。なお、「鉄丐」とは「鉄のような頑固者で豪放な乞食」という意味の言葉で、単なる乞食という様子ではなかったことが伺える。

それから数年後、査継佐は再び、西湖にある放鶴亭(今の浙江省杭州市西湖区)で呉六奇と出会うこととなるも、呉六奇の衣服がボロボロで、また裸足であったことを気にかけ、「あの時の棉衣はどうした?」と聞くと、呉は「春なのに何で棉衣が必要でしょうか?酒屋で酒に換えて飲み干した」と答える。さらに「読み書きはできるのか?」と質問してくると、呉六奇は「読み書きができずして、どうやって乞食にまでなろうと思うのだ?」と答えると、査継佐は改めて感動し、彼を自分の邸宅に招き入れて、体を洗い、新しい衣服に着替えさせる。
改めて酒を飲み交わした際、呉六奇の本当の身の上を知った査継佐が「なんで乞食に身を落としている?」と質問してくる。「私は乞食業をやってみたかった。古来より賢人と言われる人々は皆、同じ道を歩んできたはずだ」との答えを聞いた査継佐は、その志を大いに褒めたたえ、「この人は本物の大人物である!」と将来性を高く買ったのだった。そのまま自宅に 1ヵ月留め置いた後、軍隊に入って立身出世を目指すことを勧めつつ、呉六奇に故郷へ帰る旅費を工面してやり、多くの贈り物を持たせて見送ったのだった。呉六奇はこの足で、故郷に戻ることとなる。

この当時、故郷の 梅州市 豊順県一帯では山賊や海賊らの襲撃が多発しており、治安は大いに乱れていた。帰郷した呉六奇は郷の次男坊ら烏合の衆を集めて軍事訓練を施し、自警のための民兵集団を組織する。その戦闘の過程で頭角をあらわし、周囲の山間エリアでも影響力を持つこととなり、配下の民兵をますます拡大させて地方軍閥に成り上がっていく。
ちょうど同時期、清軍が華北地帯を席巻し、明王朝が滅亡すると(1644年)、 1646年10月、南明政権(桂王・朱由榔)が 肇慶城 で成立する。梅州 一帯の民兵を束ねるリーダーとなっていた呉六奇は、この南明政権に参加し、総兵(官軍の軍旗を掲げることが許された武官)に任命されて反清抗争を戦うこととなる。直後より、南明政権の水軍要塞があった 南澳島 に詰めるように命じられる(下地図)。

三饒鎮

しかし清軍は湖北省、湖南省も陥れ、いよいよ広東省にまで勢力を拡大してくる。前年に平南王に任命されていた尚可喜が 1650年、広東省北部の韶州をも攻略した知らせを聞いた呉六奇は、南明政権の落日を確信し、 碣石総兵の蘇利と共に清軍に投降する(上地図)
彼は若い時の放浪生活から、山や川の地の利を利用することで、大軍に対抗できる術を学んでいたため、広東省東部の平定戦を進める尚可喜らの本隊に主要街道を進軍してもらい、自身の小部隊は山岳地帯の制圧を願い出る作戦を進言する。こうして清軍は、スムーズに広東省東部の平定戦を進めたという。
しかし、福建省の沿岸部を牙城とする鄭成功一派は依然、強力な勢力を有しており、泉州漳州潮州恵州などを蹂躙しつつ、各地の軍閥らに決起を呼び掛けていた。これに呼応して 1654年、揭陽県下で農民を主体とする九軍の反乱が勃発すると、その平定戦でようやく呉六奇の見せ場がやってくる。反乱軍の要塞集落の一角であった馬頭営を陥落させ、反乱軍リーターの劉公顕の軍事基盤を破綻させるという軍功を挙げたのだった。こうして大埔湯坑一帯の反乱軍を壊滅させた功績を称えられた呉六奇は、清朝の順治帝(第3代皇帝)よりその活躍と忠義を激賞され、協鎮潮州総兵に任じられる。こうして正規軍 1,000名を統括する総兵官となり、饒平県城に駐屯することとなったわけである。

同年4月、鄭成功配下の将・李增らが饒平県下一帯に侵攻してくると、自身の部下であった劉道璋も内応してしまい、ピンチに陥るも、呉六奇は水軍の残存兵力を鼓舞して防戦に努めたという。
直後の翌 5月、鄭成功と内応した潮州総兵の赫尚久も潮州城で挙兵し籠城すると、潮州配下の各県も一気に武装蜂起する。しかし、呉六奇だけは態度を明確にせず、傍観する姿勢を貫く。いよいよ 10月、清の大軍が潮州城を包囲すると、呉六奇は潮州城下まで駆け付け、清軍として参戦する。この戦役で呉六奇の軍は雲梯などを使って城壁突破の第一の戦功を挙げたことにより、清朝廷から総兵官左都督に任命されるとともに、破格の恩賞を下賜される。対して、潮州の反乱軍を率いた赫尚久の父子は、井戸に身を投じて自害して果てることとなった

三饒鎮

その同じ年の 12月、鄭成功自らが大軍を引き連れて広東省東部に侵攻してくると、 南澳島 を守備する呉六奇は 碣石総兵の蘇利 らの水軍の来援を期待するも、結局、援軍は来ず、敗走に追い込まれる。こうして 揭陽県城澄海県城普寧県城 の三県城がすべて落城するのだった(上地図)。
翌 1656年2月、清軍の反転攻勢がスタートすると、呉六奇の率いる部隊が揭陽県城攻めを担当する。この時、鄭軍の水軍基地を急襲し、3000余りを討ち取る戦果を挙げる。さらに鄭軍を追い詰めていき、最終的に澄海県と普寧県をも再奪取し、清軍の勝利に大きく貢献する。
2年後の 1658年2月、鄭成功が 南澳島 に再侵攻してくると、呉六奇は夜襲を決行し、鄭軍配下の将らの生け捕りに成功する。同行していた靖南王の耿継茂に対し、呉六奇は捕虜の送還を提案するも、耿継茂は捕縛した蘇新、黄亮らを直ちに処刑してしまうのだった。
1660年、呉六奇は自腹を切って水軍艦船を建造し、鄭成功らの海上勢力との抗争を進めつつ、清朝により海禁政策の徹底を指示されて海上交易を取り締まる中で、違反者や反対勢力を数万人以上も粛正したとされる功績と忠誠心が高く評価され、順治帝(第3代皇帝)から破格の称賛を受けることとなった。こうして 1664年6月、太子太保に任命される。下絵図。
三饒鎮

呉六奇と 盟友の蘇利(碣石総兵) の活躍ばかりが賞賛され、焦った靖南王の耿継茂は翌 1665年4月、両名を陥れようと朝廷に対し、ウソの報告を上奏する。それは、呉六奇が南明政権の桂王の子を匿っているということ、さらに南明政権の残存勢力と通じて湖南省や広東省で軍事調略を行っていること、さらには銀山開発などを秘密裏に行っていることなどが列挙されていたという。
そんな渦中にあった翌 5月、呉六奇は饒平県城で病没することとなる。その遺体は、故郷の大埔県湖寮鎮の虎山下の右前方に埋葬されたという。順治帝(第 3代皇帝)はその忠臣の死を称え、国葬として盛大に葬儀を執り行わせるとともに、莫大なお供え物を下賜したという。あわせて、追加で少卿兼太子太保の官位も贈られることとなった。1962年にその墓地跡が劇場へ建て替えされる際、珍しい宝物のお供え物類が百種類以上も出土したという。

なお、呉六奇には四子がいた。長男は呉启晋といい、1657年に科挙に合格し高級官僚となっていた。第二子は呉启豊といい、後に貴州安籠総兵に任命されることとなる。第三子は呉启鎮といい、黄崗鎮次将に任じられ、第四子は呉启爵といい、山西太原総兵に任じられ、一族は清代を通じて繁栄することとなった。
他方、靖南王の耿継茂の讒言により清朝から不審の目を向けられることとなった 碣石総兵の蘇利は、同じ 1665年、身の危険を感じて反清で挙兵するに及び、碣石衛城に立てこもるも、清軍の大軍に包囲され軍民共々、全滅させられるのだった


結局、最後の最後まで山間地方の三饒鎮のような僻地に駐在し、最期を迎えた呉六奇であるが、前述の通り、華々しい戦功を挙げ続け、また清朝皇帝からも高く評価された人物でありながら、もっと富裕な領地を与えられなかったの理由は、何であろうか?なぜ、饒平県城で一生を終えることとなったのだろうか?

その理由として指摘されるは、未だ鄭成功・鄭経父子の勢力が福建省と台湾に残存し、南東沿海部の抗争に対処させる目的があったという点、もしくは、呉六奇自身が南明政権から清朝に降伏した武将だったため、清朝は完全には彼を信用していなかった点が指摘されている。幸いにも彼自身も高きを望まず、この地の領主として雌伏したが故に、反清で挙兵し処刑されていった靖南王の耿精忠(耿継茂の子)、碣石総兵の蘇利潮州総兵の赫尚久、平南王の尚之信(尚可喜の子)らのような運命にならなかったとも言える。

呉六奇が饒平県城に駐在した時代、彼の旧営署(軍役所機関)が開設されていたのが、前述の翁厝巷なのであった。この彼の在任期間中、県城は大いに増強され防衛力を強化されることとなる。城壁の高さが 3.4m分かさ上げされ、また城内の街道の道路幅が 1mずつ拡張される。さらに北門上にあった楼閣を尊君楼へと改名して建て替え工事を進めている(1685年、この城門楼閣は望耕楼と変更されることとなる)。 1659年には孔廟の改修工事、また名宦祠と郷賢祠の修築も手掛けた。
彼は時間があれば読書を好み、自身も著書『忠孝堂文集』を残している。また、後世に執筆された金庸小説『鹿鼎記』の中に出てくる、怪力の将軍は呉六奇がモデルと言われている。

なお、呉六奇は当地に滞在中、すべてのことを支配したがる気質であったという。市中で使用される木秤が、一斤十六両という目安を使用している風習に関し(前漢時代の十両銀子が 161.4グラムだった習わし)、「六」の文字が自分の名前にダブることが悩みの種となっていた。そこで、一斤二十両に改めて、三饒鎮のみで使用することを命じる。この変わった命令(半斤八両ではなく、半斤十両)が全国に知られるようになると、多くの人の笑いの種となったという。しかし、実際には二十両の方が、十六両で計算するよりも明らかに簡単なわけで、共産党時代に入った1950年にようやく半斤五両で統一されるのだった。

最後に、大恩人・査継佐への恩返しエピソード。
呉六奇がこの地を統治していた期間中、かつての大恩人・査継佐が訪ねてきたことがあった。呉六奇は自ら跪いて査継佐との再会を懐かしみ、かつての恩義を称えて涙したという。以後、一年間もの間、彼を留め置き、旧交を深めることとなる。
そんなある日、査継佐が営署内の庭園を散歩していると、高さ 7m近い巨大岩を発見する。見る角度でいろいろ形状を変えるということで、査継佐が大いに喜び大絶賛したことがあった。翌日、再びその場所へ行ってみた査継佐はその巨石が忽然となくなっていることに気づく。その理由を問うと、呉六奇が人に命じて、巨石を船に乗せて海路、査継佐の邸宅まで運ばせたというのだった。この石は現在でも、その屋敷跡地に残されているという。
また査継佐が当地を立ち去るに際し、呉は見舞金として三千金と、錦綺(高級織物)、珠貝、珊瑚、屏象などの宝物を贈っている。そして数年後、浙江省で史書を書き換えるという事件が起きた際、査継佐もこれに連座して罪に問われるも、呉六奇が身を挺してその身の潔白を朝廷に上奏したため、恩人を救うことができたという。



さて、「西門焼烤(バーベキュー)」の食堂脇にあった裏路地「中華路」に(下写真左)、何やら派手な廟所が見えていたので、近づいてみる。なんと、ここが三饒鎮が誇るという、城隍廟だった!(下写真右)早速、中に入ってみる。

三饒鎮 三饒鎮

山門(正門)、前殿、大殿、五谷殿、后殿の五段構えの設計となっており、こんな小規模な県城には似つかわしくないぐらい壮麗なデザインで固められていた。特に、前殿の木造屋根やその彫刻は見事だった(下写真)。

三饒鎮

下写真は、前殿から山門(正門)、そして戸外を眺めたもの。

三饒鎮

この城隍廟は県城が建造された 1477年に同時に建立されており、以後、1493年、1544年、1605年、1852年に大規模に補修されている。しかし、その建物および境内は、共産党時代に入り、1954年には食品加工工場へ、1989年には陶器工場へ転用され、修築されることもなく風雨の中、荒廃していったという。ようやく 2009年末~2013年6月かけて再建工事が手掛けられ、今日の姿に復興される。2015年12月、広東省政府により史跡指定を受けている。

下写真は、凝った天井の装飾群。

三饒鎮 三饒鎮
三饒鎮 三饒鎮

東西 32m、南北 73.4m、敷地面積 2,349 m2の南向き境内を一周後、再び、正門から外へ出ると、西脇に路地があったので、そのまま北上してみる。そこには城隍廟の裏門と思わしき、真新しい出入口が設けられていた(下写真左)。
ここから土地はやや下り坂が続くようになっており、地名も「嶺后塘」と掲示されていた(下写真右)。直訳すれば、「丘陵斜面下の堤防」ということになる。つまり、「県城が立地した琴峰山が北へと下り、食飯渓沿い堤防へと続く地区」と解釈できよう。

三饒鎮 三饒鎮

少し道路(坑海線)沿いを北へ進むと、三饒衛生院のきれいな建物が立地していた(下写真左)。それにしても、コンパクトにまとまった規模だからか、自動車の往来が本当に少ない町だった。
その西郊外には、延々と農地が広がっていた(下写真右)。

三饒鎮 三饒鎮

この道路(坑海線)が、かつての西面城壁が連なっていた場所で、北へそのまま進めば、先ほどの食飯渓の河川まで至る。食飯渓の堤防と連結される形で城壁は続き、ぐるりと琴峰山全体を取り囲むように設計されていたわけである。
筆者は北へ向かわず、南へ戻ることにした。再び、西門跡の交差点に至ると、 1時間弱の古城散策を終える。


なお、城隍廟と同じ中華路沿いをさらに東進すると、現在、三饒鎮人民政府が立地する役所前に到達する。ここが明代、清代に饒平県衛(県役所)があった場所で、現在、復元されたレプリカ門が設置されている、ということだった(下写真左)。

またその東隣には、孔廟が現存する。もともとは饒平学宮(県営の高等教育機関)が開設されていた場所で、その本堂が孔子廟大成殿として改修され現存するという。現在、饒平第一中学校の校庭の一角に保存されており、部外者の見学は難しい。

三饒鎮 三饒鎮

なお目下、古城地区周辺には、この県衛正門レプリカと孔子文廟以外に、城隍廟(饒平県指定の歴史遺産)、道韵楼(中央政府指定の文化遺産)、東岳廟、打破鼓、文明宝塔、双流寺など、 7ヵ所の名所旧跡が点在し、さらに九曲仙踪、七榕飛渡、繡岭風清、破壁古梅、望海三庵、皇帝亭、琴峰書院、打破鼓、翰墨园、登去斋、石渠なども見どころという。

このうち、琴峰書院であるが(上写真右)、清代の 1730年代に三饒鎮の大金山に開学されていたものを、1755年、県長官の宮文雅が県城内の地区学校跡地に移転させ県営学校に定めると、翌 1756年、三饒書院と命名する。そして 1877年、最終的に琴峰書院へ改名されたものという。
1906年、饒平県立小学堂へ改編され、さらに中華民国時代の 1921年には饒平県第一高等学堂となる。共産党時代に入り、1949年から三饒鎮中心小学へ改編されるも、1988年に饒平県指定の歴史遺産に指定されると、現役の学校としての役目を終えることとなるのだった。

三饒鎮

そもそも現在の饒平県一帯は、長い間、潮州府下の 海陽県(今の潮州市中心部・湘橋区)が管轄するエリアであった。現在の黄岡鎮など沿岸地区は早くから集落が栄え、漢民族文化が浸透したが、北の山間部は明代に至っても、独立精神の旺盛な地場民族が跋扈し、その風習は未開なままで衛生や治安管理もままならず、税収も芳しくなかった。

当時の巡撫両広副都御史であった呉琛が明朝廷に対し、この山間地帯の治安と統治強化を図るべく新県の設立を上奏するもすぐには許可が下りず、呉琛の死後、巡撫両広総督に就任した朱英(1417~1485年。今の湖南省郴州市出身で、 1445年に科挙合格後、監察御史や布政司参政、布政使などを歴任し、 1475年より広州に赴任中だった)が再度、朝廷へ上奏することで、ようやく認可が下される。
こうして海陽県の東半分が分離されて饒平県が新設されたわけであるが(1477年)、その県名の決定にあたり、南宋時代に詠まれた「饒永不瘠、平永不乱」の詩句が称えた、「三饒太平」の意味から決定されたという
県都の選定では、本来ならば経済都市として栄えた沿岸部の黄岡鎮が有力候補となるだろうが、そもそもの新県設立の目的が北部山岳地帯への統治徹底にあったことから、広大な行政区の中心部に位置した元歌都の下饒堡(今の三饒鎮)に白羽の矢が立ったというわけである。なお、この当時、沿岸部は倭寇の猛威にさらされ、大いに治安が悪化しており、これを避ける意味もあったと考えられる

三饒鎮は北に尊君山、南に天馬山、東に望海山、西に待詔山が立ち並び、四方を高い山に囲まれた盆地の中央部に位置したが、古くから 梅州潮州 とをつなぐ交通の要衝であったという。この立場は今も変わらず、両都市間を結ぶ多くの物流トラックが往来する。当時から数本の街道が 潮州府城 方面へ伸びており、また河川交通により南部の 経済都市・黄岡鎮 とも直接、接続されており、意外に交通至便というわけだった。
県役所が設置されると、翌 1478年に全面レンガ積みによる城壁の建設工事が着手される。当時、その高さは 6m、厚さ 3.4m、全長は 2,400m強で設計されたという。また東西南の三方向には外堀が掘削され、その幅は 4m、全長にして 2,500m強に達した。北面は食飯溪が外堀を兼ねることとなる。
当初は参政の劉洪総、右参政の丁潞、僉事の趙宏、陳廷玉らが工事担当を継承して進められ、次年に初代県長官の楊昱が着任したタイミングで建設工事が完成したという。このとき、東西南北の四城門が設けられ、城門上には楼閣も付設されていた(下絵図)。

三饒鎮

1535年秋、河川洪水が発生し、城壁面が 134mほど損壊した際、県丞(県副長官)の徐澄が補修工事を手掛けた記録が、また 1538年には四城門上にあった楼閣すべてが倒壊し喪失されてしまった記録が、それぞれ残されているという。翌 1539年、県長官の羅印凱が再び、四城門上に楼閣を建設すると同時に、城壁上に凹凸壁も増築させたという(上絵図)。
1558年、県長官の林叢槐が西面城壁上に櫓を増設し、また北門の楼閣前に幅 3.4mの外堀を追加で掘削する。そのまま西門外の外堀と接続し、水が引き入れられることとなったという(それまでは食飯渓から直接、引いていた?)。1630年、台風により増水した河川氾濫のため城壁が破壊され、800m分倒壊する。すぐに署県事督粮通判の段変が修理工事に着手している。

そして順治年間(1644~1661年)、前述の呉六奇が饒平鎮城に駐在した折、城壁を全面的に高さ 3.4m分かさ上げし、さらに城内の道路幅を 1m拡張させる。 同時に、北面の城門楼閣を建て替えて尊君楼(清朝への忠誠心をアピールしたか?)と命名し、城壁上に兵舎や櫓台など、17室を増築することとなる。1685年には、県長官の劉北が自腹で城壁を修築し、同時に尊君楼を望耕楼へ改称している。

1930年、市街地の道路拡張に伴い城壁の全面撤去が進められ、城壁レンガなどは商店や民家、道路などの部材へ転用されてしまう。その後、南面城壁の跡地が市民らの露天市場となり、近年になって道路整備が進められ、城基南路が誕生することとなったわけである。
なお、この城基路沿いにあった関帝廟裏のレンガ面は、この時、すでに定年退職していた党幹部の黄勇、黄明の二人が私財を投じて集めてきた、旧城壁時代のレンガ片を積み直したものという。



続いて、もう一つの主目的である客家の城塞集落(土楼)を訪問してみる。龍塘大道まで出ると、5つの道路が交差する大きな交差点に至る。その一つに「南聯村」と掲げられた石牌門が設置されていた(下写真左)。そのまま一直線の道路を進むだけとなる(下写真右)。

三饒鎮 三饒鎮

それにしても自動車の往来が全くない、静かな町だった。筆者が訪問したのは 7月末で真夏シーズンだったが、この日は薄曇りで日照りもなく、動きやすい一日で助かった。

道中、何人かの地元民に土楼「道韵楼」の方角を聞きながら、無事に到着する。さすが一級の観光名所らしく、トイレが入口付近にきちんと設置されていた。せっかく遠路はるばるやってきたので、汗を洗い流してから訪問させてもらうこととした。

三饒鎮 三饒鎮

上写真左は、道韵楼の正門前にあった池。他の客家集落からすると、かなり大きめの溜め池が設けられていたようである。
上写真左の中央に見る、小さな正門から中に入ってみる(この入口上の石板額縁は、明代の南京礼部尚書・黄錦が自筆したものという)。木組みの細い柱群が連なり、すぐ上の階の床も全面、板張りであった(上写真右)。基本的には建物全体が木材で組み上げられ、壁面のみ土壁とレンガ積みで構成されているようだった。

三饒鎮

上写真は、正門を抜けたタイミングで、入口を見返したもの。すべてが木造であることが分かる。
ある程度、有名な観光名所だし入場料を覚悟していたが、誰も管理人はいなかった。

内部は思ったより広い中庭だった。深さ 2mほどの古井戸が二か所あった(下写真中央)。

三饒鎮

中庭の中央部には、道韵楼内の住民らの集会所か、祖先廟を兼ねた建物が残されていた(下写真)。

三饒鎮

なお、どの部屋にも住所と番地が振られていた。「三饒南聯 大楼内 39、40、、、、」。戸籍登録や郵便制度の必要性からか、すべての部屋が独立した「住所」を有していたのは、後で考えれば至極当然な仕組みだったが、最初に目にしたときは本当に驚かされた。まさに、集合住宅のイメージである。
三饒鎮

写真に見える通り、7~8部屋程度はまだ住人がいたが、それ以外の大部分の部屋は空き家となっていた。出会った住民らに「3F部分まで登りたい」と話かけてみたが、北京語が通じないと逃げる人もいる中、親切な人から話を聞くことができた。「以前はガイドも付けて 3F部分の一部も散策させていたが、今は荒廃するままに放置されているよ」とのことだった

三饒鎮 三饒鎮

仕方なく、中庭をぐるりと一周、巡っていると、二つ目の出入口を発見した(上写真)。
上写真左の 2階、3階部分は、現在、空洞となっているが、かつてはそれぞれ独立した木箱のような部屋が設けられていたわけである。

そのまま通路から外へ出てみると、巨大な土壁スタイルの城塞壁が連なっていた(下写真)。中から見ると、モロそうな木組みの 3階建て住居であったが、外から見ると、堅牢な土塁とレンガ壁で覆われた城塞そのものであったわけだ。
三饒鎮

しかし、よくよく壁面を見てみると、いつ崩落してもおかしくないぐらいの痛み具合だった。多くのレンガ壁は剥がれ落ち、内部の土塁面が曝け出されていた。
三饒鎮

また、壁面には排水用と思わしき、小さな穴がたくさん開いていた(下写真)。 2階、3階に設けられた部屋窓は実に小さなもので、木窓で覆われていたようである。中には、最近になってガラス窓をはめ込まれたであろう部屋も一つあった。

三饒鎮


この三饒鎮南聯村にある「道韵楼」であるが、地元では「大楼」と呼ばれる。その建造は北隣の饒平県城より 30年早い 1447年から開始されているという。食飯渓沿いの琴峰山に建造された県城自体は翌 1478年から本格的に作業が進められ、県行政区内の住民らが総出で駆り出されて 1年後の 1479年に城郭都市の完成を見るわけだが、こちらは客家の輩氏一族らだけでコツコツと建設工事を進めざるを得ず、実に 140年以上もの年月を費やしたというわけだった(1587年完成)。

そもそもは当地に移住してきた客家・輩氏の第五代目子孫にあたる輩礼と輩智の兄弟が最初に建設を手掛けたとされ、当時、兄弟 5人とその家族らだけが入居していたが、時と共に居住者も増加し、徐々に城塞集落は拡大を遂げていく。当初は円形だったが、部屋を次々と連結させ三階建て三重構造へ増築していく過程で、八角形型として完成されたという。その地道な工事は、父から子へ、子から孫へ、さらにひ孫世代へと歴代四世代にわたり継承され、莫大な資材と労力をかけ 100年以上の工期をつぎ込んだ傑作で、全国最大級の八角形型の土楼として、2002年7月に広東省政府から、 2006年5月には中央政府から史跡指定を受けている。なお、輩氏一族は後に黄氏へ改姓して今日至っている。
かつて土楼内では多い時で 600人以上が居住していたという(土楼外周の民家を含む)。 10年前でも 100人強が土楼内外で生活していたという記録が残る。

三饒鎮

完成からすでに数百年が経過しているにもかかわらず、今も当時の姿と構造のまま現存しており、まさに神秘の建築物といえる。 80年前に大地震が発生した際に附近の村落で多くの民家が倒壊する中、この土楼内ではいくつかの部屋が左右に傾く被害を受けるも、全体として倒壊することもなく、そのまま完全な姿で残っていたという。

前述の通り、工事の過程で結果的に成った八角形デザインであるが、この形状は全国でも非常に珍しいタイプで、しかも敷地面積約 1万 m2を有する最大級の土楼となっている(北向きに設計)。上空写真からも分かる通り、外周 328m、直径 101.2mの正八角形(外壁の高さは 11.5m、厚さ 1.6m)は、八卦図のデザインが正確に模されており、そのキーワードも 8の倍数という。すなわち、井戸は 32ヵ所、天窓は 16ヵ所、部屋は 72室、梯子は 112ヵ所となっている。さらに中庭にある井戸は左右対称にあり、ちょうど八卦図の中央部にある二つの点をイメージしてデザインされているという。徹底した易学理論モデルを実践し、すべてが統一されたデザインと設計が凝らされていたわけだが、その基本コンセプトは、城塞集落に施された八つの防衛機能に集約されており、防水、防火、防獣、防震、防賊、防旱という。また、外壁面に設けられた小さな小窓は獣や盗賊らの侵入を阻止しつつ矢狭間も兼ねており、さらに正門上には巨大水槽が隠され、敵の侵攻時、楼門が焼き落とされるのを防ぐ役割を担っていたという。また城塞内の数多くの井戸は乾燥や火災に対応する装備となり、各所には側溝が張り巡らされて水の循環システムが構築されていた。
その上、特殊な紋デザインが印字されている屋根瓦には、火災時に延焼を防ぐ目的で、全てに泥カバーのコーティングが施されていたという。今日でもこれらの屋根瓦は現役で使用されている。この屋根瓦の連結を含め、鉄釘は一切使用されず、すべてが竹釘が接続されており、まさに完全自然素材による地球に優しい住宅であったが、現在、ほとんどの竹釘はかなり腐食してしまっている。

伝説によると、清代初期の 1665年、先の呉六奇が死去した直後に、 碣石総兵の蘇利 が挙兵すると、各地の山賊や海賊らに劇を飛ばして反清の挙兵を訴える。すると、当地の山賊らもこれに呼応して道韵楼に攻め込んできたという。しかし、3か月もの間、数百人の住民らは土楼内に立てこもり、籠城戦に成功する。このとき、住民らは楼内に蓄えられた食糧、井戸水で自給自足しつつ、山賊らの火攻めに対し土楼上面に設けた内部側溝の水を散布して対抗したのだった。住民らは落城したり、逃亡すると、逆により悲惨な目にあうのは確実だったので、協力し合って死守し得たわけである。

三饒鎮

また、道韵楼から西へ 800mの地点に、同じく客家の城塞集落「新韵楼」(上地図。三饒鎮南新村。現在、半壊している)が、北へ 3kmの地点に饒韵楼(食飯渓の北岸。三饒鎮田饒村竹藍。全周 163m、32室、3F建て、高さ 9.8mで 1634年に建造されるも、現在、半壊している)という客家の城塞集落が同じように建造されており、これらを合わせて饒平三韵と総称されている。

さらに山岳地帯には、他にも複数の土楼が立地する(県下には、客家の城塞集落「土楼」が 600ヵ所も現存しており、そのうち「物件」として史跡登記されているものは 214ヵ所という。 570余りが円形で、他は正方形、長方形、八角形、半円形、カニ型などがある)。早いもので明代に建造された土楼から、遅いものだと 1970年代に完成された集落も含まれている。
特に代表的なものが饒平県樟溪鎮烏溪村にある、巨大城塞集落「紫来楼」である(下写真の右上)。道韵楼とほぼ同時代に建造された典型的な円形デザインの土楼で、現在、広東省政府により歴史遺産指定を受けている。かつては多くの訪問者で賑わったらしいが(入場料 50元)、今ではすっかり観光客も途絶えてしまっているのも、道韵楼と同じ状況にあるようだった。
三饒鎮

この「紫来楼」は総面積は 2,348 m2を誇り、合計 54室(内楼 18室、外楼 36室)もの部屋数を有するも、井戸はわずかに 3ヵ所(内楼 1ヵ所、外楼 2ヵ所)のみが設けられているという。主に 1階が生活居住空間で、2階部分が食糧雑物などを備蓄する空間という設計であった。各部屋前には糞尿や雨水をたくわえる設備があり、緊急時の水不足に対応する仕組みが装備されていた。
城塞集落の中心広場はタニシや鵝卵の殻などで固めた、直径約 2mの陰陽八卦図が描かれており、また内部の部屋では祖先を祀る祭事用の空間「祖庁」が設けられていた。ここの祖先廟は 2階建てという独特な設計で、緊急時には中間部分に 40人以上が避難できる構造となっていた。
この土楼も数百年の工事を経て完成されたもので、二重の土楼はそれぞれの建築年代が大きく異なるのも特徴という。内部の楼閣ほど高く、外側の楼閣は低層となっており、明代、清代の建築スタイルが結合された傑作として高く評価されている。特に外壁面は土塁、レンガ面など三重もの土壁素材で塗り固められており、その頑丈さも必見の価値がある。


さて、中庭を経由して道韵楼の正門から退出すると、前の池を一周し、再びトイレで汗をぬぐって帰路につくことにした。
往路と同じルートも面白くないので、東回りでバスターミナルを目指すことにした。徒歩で南聯村を突き抜けて、南聯路沿いに省道 S222号線まで踏破を試みる(末尾の地図参照)。 20分ぐらいは田舎道を歩いただろうか。。
下写真左は、伐採されることなく、南聯村委員会前の道路脇に保存されていた古木。

三饒鎮 三饒鎮

あまりに道がくねくねしていて、自分がいったいどこを歩いているのか不安いっぱいになってきたころ、広い駐車場と村文化広場が整備されている三差路に行き当たる(上写真右)。ここでも、道路のど真ん中に古木が保存されており大いに感心させられた。引き続き、広い道路沿いを進むわけだが、南へ進む路地が枝分かれしており(下写真左)、この暦尾泰新路の先が老暦村で、さらに山道を進んでいくと、灰楼村に至る。ここにも円形タイプの土楼が現存する。

三饒鎮 三饒鎮

さて道路沿いに進んでいると、最近復元されたばかりのような廟堂前に至る(上写真右)。そこに掲示されていた「東門」の矢印案内板で安心することができた。

しばらく原野地区を歩いていると、陶器工場がたくさん軒を連ねる地区に至る。道路脇には、陶器類が無造作に打ち捨てられていた(下写真左)。
この三饒鎮は 700年余り前から陶磁器の産地として有名で、特に明代、清代には青花模様の陶磁器が流行し、柘林港澄海県下の樟林港汕頭港 から輸出される重要な供給地を担ってきたという(現在、饒平県新豊鎮九村には明代、 清代の陶磁器窯炉遺跡が残る。この九村と大埔村が主産地であった)。県都として 500年近くもの間、饒平県に君臨してきたわけだが、1953年1月、県役所が当地から 黄岡鎮 へ移転されると、経済や商業活動は大いに停滞することとなるも、今日でも日用陶瓷の生産は盛んで、広東省下の 4大陶磁器生産地の一角に名を連ねる、ということだった。

三饒鎮 三饒鎮

そして、大通り「省道 S222号線」に到着する(下地図の緑〇)。ここで南下するバスを待とうと道路脇に立っていると、猛スピードで走る自家用車が音を鳴らしてこっちに合図してくる。たぶん乗合白タクかな。。。と一瞬思ったが、1時間も歩き通しだったので、即座に判断できず、通り過ごさせてしまった。 また、似たような乗合白タクが来るだろう、、、という楽観もあったわけだが。

三饒鎮

しかし、10分強待ってみたが、白タクもバスも来ない。。。不安になってきたので、市街地の方へ戻る形で北上する(上地図)。そしてバスターミナル前の交差点に至るころ、ちょうど 饒平(黄岡鎮)行バスがバスターミナルに入っていった(ちなみに、上写真右の交差点で停車中のバスは、黄岡鎮から到着したもの。バスターミナル前の道路脇で下車するようだった。その向かいには、バイクタクシーが待ち構えていた)。すぐに後を追い、窓口でバス・チケットを購入して(20元、身分証確認なし)、バスに飛び乗る。
ここから往路と同じく、50分ほどのドライブで 饒平県(黄岡鎮)バスターミナル に帰りつけた。

なお、上地図の青ラインがこの日の散策経路であるが、すべて徒歩圏内に目的地がそろっており、非常に便利な都市だった。いざとなれば、バスターミナルあたりに 2~3台たむろするバイク白タクに声をかければいい、という安心感もあった。 昨日の炎天下の海山鎮での散策に比べれば、安心感が違った。
なお、上地図で省道 S222号線に合流したポイントからバスターミナル側へ向かわず、反対に 600mほど南下すると、双流寺 があるらしかったが、事前調査不足でこの訪問時は気づけなかった。。。この寺は 1000年を越える古刹で、「饒平県」の命名エピソードを生んだ現場という


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