『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2015年2月下旬


日本香川県高松市 ~ 高松市人口 42万人、香川県全体 一人当たり GDP 359万円


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  高松城(玉藻城)の歴史
  高松城の月見櫓と水手御門
  明治期における高松城の古写真
  海水堀を有する高松城内の井戸は、真水?海水?
  屋島の古地図(江戸期までの海岸線)
  屋島周辺の源平古戦場跡
  源義経の身代わりで射殺された佐藤継行の墓
  那須与一と扇の的
  義経の弓流し



たいていの高松訪問者は、JR線より瀬戸大橋を渡って当地へ到着されることであろう。岡山駅から高松駅までは、所要時間1時間。快速マリンライナーは、毎時2本が往復されている。

 【岡山→高松】 毎時 12分と42分   【高松→岡山】 毎時 10分と40分

  ※ JR高松駅構内に観光案内所があり、高松城解説資料や市内マップなどが無料でもらえる。

高松市は徳島市と並んで、四国の玄関口となっており、本州側からの出張者や訪問者が必ず足を運ぶ場所となっている。海路交通の要衝でもあり、海岸線には神戸三宮、岡山(宇野港、児島港)、瀬戸内の島嶼地域へのフェリーが頻繁に出入りしていた。その船乗り場の東側に巨大な台地形の山が見える。屋島である(下写真左)。

高松市 高松市

高松への訪問者は、ご当地の食事処として、「一鶴」(上写真右)を地元市民から紹介されることであろう。市内にチェーン展開されているので、何軒か目にした。ここの骨付き鶏肉は有名らしい。十分なボリュームと、しっかり味付けされた鶏の足は酒のつまみ、ご飯のおかずにもってこいである。一人での夕食に入店されている地元市民も何人もいた。
なお、夕食時は込み合うので、入店時間は要注意。

それにしても、ここ高松に来て最も驚いたのは、河川や海辺、城の堀などの水の清さであった。 数メートルの深さでも、底がはっきりと見える水の透明度、そして、さまざまな魚類や亀、水鳥が生息する環境の良さは、 日本随一ではないだろうか。高松城の堀にフグやクロダイ、ボラ、スズキなどが泳いでいたのには本当にビックリさせられた。それを水面から 見える水の透明度も、他の城郭ではありえないレベルであった。


高松城(玉藻城)跡  入園料 200円

江戸時代、徳川親藩の松平家が幕末まで藩主を務めた讃岐高松藩のシンボルであった高松城であるが、現在は、本丸部分、二の丸部分、天守台などの中核部分のみが残存する。
下の模型写真は、江戸時代初期のころのもの。
1587年、生駒親正と一正の親子が、四国平定戦後の豊臣秀吉から讃岐一国を与えられる。翌1588年より、この地での築城工事が開始される。その築城デザインのすばらしさから、築城の名手・藤堂高虎や黒田孝高、細川忠興らが縄張りを担当したとも指摘されるが、その真相は明らかになっていないらしい。

高松市

この生駒親正・一正の親子であるが、朝鮮出兵(2回目遠征の文禄の役)に際し、 5000の兵を連れて半島遠征軍に加わっている。特に息子の一正は合計3回、高松と半島とを往来している(父の親正は1回目のみ同行)。
半島では、南の全羅道成敗を目標とした日本武士団の連合軍に加わり、生駒一正は宇喜田秀家、島津義弘、小西行長、蜂須賀家政らと共に、連合軍5万を構成して、南原城(明・朝鮮の守備兵4000)の攻略戦 に参加し、落城させる。
また、後半戦では 加藤清正が籠る蔚山城の戦い でも、救援軍として活躍した。
この戦いの後、半島出兵中の各将らにより協議が持たれ、 防衛ラインの縮小か、現状維持を図るかで意見が二分される。 このとき生駒一正は、宇喜多秀家、毛利秀元、蜂須賀家政、藤堂高虎、脇坂安治、中川秀成、 長曾我部元親、山口宗永らと共に、戦線縮小を主張するも、最終的には豊臣秀吉の裁定により、 1部の縮小のみに決せられている。

秀吉の死後に勃発した関ヶ原の戦いでは、生駒一正が東軍に参加し、会津の上杉討伐遠征から岐阜城攻め、関ヶ原本戦まで徳川方に同行し、その功により戦後、加増されている。しかし、1640年、跡継ぎ問題に端を発する生駒騒動により、出羽国矢島(秋田県)へ移動・減封されてしまう。
これに代わって高松藩主となったのが、松平頼重(徳川光圀の実兄)で、幕末まで幕政を支える西日本の重要親藩に位置づけられることとなる。

1642年の松平氏の入城後、1671年から着工された整備工事により、二の丸から北の丸と東の丸が分離・新設され、また、三の丸にあった南向きの大手門が撤去され、西側の旭門として移転される。1676年、二代目の松平頼常の治世下に完成する。下の絵図は、享保年間の高松城の様子。すでに現在に残る城郭構成を目にできる。

高松市

高松市

下写真左は、有名な 月見櫓 と水手御門。新設された北の丸の突き出た部分に位置し、藩主が乗船する際に使われた門。参勤交代の折は、ここから海路、江戸へ向かった。

下写真右は、二の丸にあった水門の外側。石垣に”ドア”が!

高松市 高松市

下写真左は、明治時代初期のころの北の丸と海岸線。奥に、水手御門を有する月見櫓が見える。
下写真右は、明示期に取り壊される前の天守閣。

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下は昭和初期の高松城の様子。天守閣は明治期(1884年)に撤去され、上には玉藻廟が建てられている。 西の丸には、展示会場のような敷地があったようだ。現在は、琴電駅と駅前広場になっている。

高松市

下写真左は 天守台 の今の姿。かつての天守閣の基礎石や柱の跡がはっきりとマークされていて、 日本の木造建築技術のすごさを改めて実感できる。 下写真右は、現在の三越デパート周辺。かつて、常盤橋があり、丸の内(武士の居住地区)と町人街とを 隔てる外堀が設けられていた。なお、当地の三越デパートの正面入り口付近にあるInformationデスク前には、 待ち合わせすスポットで設置されたソファーが設置されており、他の街にはない高級な憩いスペースになっていた。

高松市 高松市

二の丸にある披雲閣の前に井戸跡があった。海水に囲まれた高松城であるが、井戸を掘れば、真水が出たのであろうか。
最後に、香川県立歴史博物館と披雲閣の間にある城門に、郵便ボックスが設けられていた。高松城宛に郵送物を送ると、 このポストに入るのだろうか。


屋島

高松市内から屋島へのアクセスは琴電もあるが、自転車を利用した方が、屋島地区を巡る上では便利のように思う。高松市内のレンタル自転車は、6時間100円と良心的。
市内中心部から、30分ほど東へ移動すると到着する。国道⑪号線をまっすぐ東進するのが簡単。道路標識を参考にしつつ、屋島の形状から現在地を確認していけば、問題なく到着できる。

さて、源平の合戦当時の海岸線は、以下のようなものであった。どうやら、江戸時代の新田開発を機に、 屋島と四国は陸続きになったようである。

高松市

1185年2月18日早朝、徳島県の海岸線に5艙の船で上陸した源義経ら 150 の兵は、すぐに在地の豪族を味方につけ、また平家方の豪族を攻め滅ぼすなどして、徹夜で屋島まで移動する。 そして、翌2月19日の未明、屋島の南側(瓜生が丘)に到達する。当時、船を持っていなかった源氏軍は 屋島への渡海に思案するが、地元民らの牛を連れて干潮時に南岸より屋島へ上陸する、という習慣を耳にして、 馬でも渡れると判断し、後藤兵衛父子ら30騎を選抜して早速、奇襲を決行する。 今の琴電「古高松駅」の一帯である。現在でも地名で、赤牛崎として残る (夜中に牛の角に松明をつけて渡海したという伝承による)。下写真左はその赤牛崎一帯で、現在でも屋島と四国は 相引川によって島と陸地で切り離されていることになっている。
下写真右は、その屋島側にある八十八カ所詣での一つ、屋島神社の入り口。

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19日早朝、屋島の山裾に開設されていた行宮(幼少の安徳天皇が御所として滞在した場所)と平家方の陣営(地図内:要塞2)を急襲し、 天皇の身柄と三種の神器の奪還を図るも失敗する。 かつての行宮跡は、現在、安徳天皇社となっている(下写真左)。

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安徳天皇社のさらに上の高台に登って、屋島古戦場一帯を眺めてみた(下写真)。この眼下の海岸付近に、平家方のたくさんの軍船が停泊し、また 多くの陣営が設置されていたことであろう。

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当初、2年前の一の谷の戦いで背後をつかれた苦い経験を有する 平家軍は、再度の奇襲にあわてふためき、海辺に停泊していた軍船に乗り込んで海上へと撤退を図る。 しかし、すぐに陸地側に見える源氏軍が少数であることに気付くと、すぐに軍船を陸へ戻して逆襲を試みる。

また、義経の率いる源氏軍本体は屋島の対岸、陸側にあった平家陣営(地図内:要塞1)を 同じく急襲する。現在の総門付近(下写真左)で、屋島側の行宮が完成する前の束の間、安徳天皇はここに仮の行宮を 設置され、居住していたとされる。平家軍は行宮の移転後も、ここに陣営を設けて、守備を固めていたのであろう。
激戦の末、義経らはここの平氏方守備軍も同じく海へと追いやることに成功する。 この戦闘の最中、佐藤継行が義経の身をかばって矢にあたり死亡している(射落畠)。その墓所は今でも大切に保存されていた(下写真右)。

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夕方ごろ には両者ともに戦闘を止め、撤退モードとなる。その中で、平家側から一艘の船が源氏方へ近づいてくる。ここに、那須与一(当時17歳、栃木県大田原市出身、1168~1232年)による「扇の的」逸話が登場する。

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現在でも、那須与一が馬の足場とした台座石(下写真左の右下にある平たい石:下写真右の中央の石=駒立岩)、命中を神に祈ったとされる祈り石、そして、平家方の 小舟(下写真左の奥にある水色の女官の絵)があったであろう付近の位置関係が残されていた。

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下の写真左の手前にある岩が、与一の祈り岩とされるもの。
ところで、この那須与一記念の地にあった木造建築の古さには 目を見張った。昭和初期の建築物ながら、未だに現役で使用されており、その 心意気 に感じ行った。

さて、扇を見事に射ぬいた与一の腕前を源平軍双方ともに絶賛する中、 平家方の船上で舞を踊る者が登場し、義経の命により、与一はこの無防備な武者をも射殺する。 これに激怒した平家方が再度、上陸戦をしかけてくる。ここで浜辺を死守する源氏方との間で 戦闘が起こり、義経の弓流し(下写真右)の名場面が登場することになるわけである。

高松市 高松市

日も暮れ、19日夜、平家方は海上の島嶼部に開設した拠点で休息を取り、 翌20日、21日も上陸戦を試みるも、源氏方に阻止される。 さらに、兵庫港から源氏の援軍船団が出航したという知らせを受け、 平家の軍船は広島の宮島へ撤退していく。

当時、平家方は四国の諸豪族の平定戦などで兵を分散させており、屋島の本拠に滞在していた主力軍は1000ほどであったとされ、義経と途中で味方となった在地豪族らの兵でも十分に戦い得たということである。


また、この屋島山上には大和政権時代、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗したことを受け、 日本列島の防衛強化の一環として、朝鮮式城郭が築城された。当時、土塁であった城壁跡(屋島城)は、現在はもう何も残されていない。

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