BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:20--年--月-旬
海賊王・蔡牽 の栄枯盛衰から見る、中国大海賊時代!






台湾 台北市 北投区 ~ 区内人口 26万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)


 ➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠  クリック

  北投温泉、北投文物館、普済寺(日本統治時代に建立された 日本式仏教寺)
  周氏節孝坊、陳氏祠堂
  陽明山国立公園の 硫黄鉱山地帯
  北投区の 歴史




硫黄の匂いに包まれ、あちこちから湯煙が立ち上がる台北市北投区は、 日本人の間でも温泉郷として有名だ。台北駅 から 地下鉄・北淡線を北上し、北投駅、もしくは新北投駅で下車するだけである。

当地の温泉の源泉は、ドイツ人によって既に発見されていたそうだが、 日本統治が開始された直後の 1896年、大阪出身の平田源吾が、台湾初の 温泉旅館「天狗庵」を開業して、初めて世に知られるようになる。 以後、複数の温泉旅館が進出し、今日の発展につながっているわけである。

北投区

北投区


 周氏節孝坊
「周氏節孝坊」は、北投区豊年路一段 36號(上地図)に現存する、周夫人(周絹。1788~1846年)の 顕彰記念碑で、三級古蹟に指定されている。 彼女は若くして夫と死別した後、未亡人のまま一人、貞操を守り続け、その忠節を称えられた人物という。 1843~1850年の間、閩浙総督の任にあった 劉韵珂(1792~1864年。今の 山東省済寧市 汶上県出身)が、退任直前の 1850年に紀念坊を建設させたという(1861年完成)。
元々は、四柱三間三層の石造りであったが、1897年の大地震により、 二層以下が部分倒壊するも、近年、市政府により修復作業が手掛けられ、現在の姿となっている。




さらに北東部にある「陽明山国立公園」へも訪問してみた。
同じ 地下鉄・北淡線沿いの剣潭駅で下車後、1番出口を出て、道路沿いにあるバス停から、 303番路線バスに乗車する(剣潭駅が始発)。約 1時間、35 TWD


【 北投区の 歴史 】

北投区は今から 6,500年前、すでに人類の生息が確認されている。新石器時代以前の大坌坑文化から、 芝山岩文化、圓山文化、植物園文化、最後の鉄器時代十三行晚期文化に至る、さまざまな時代の遺物が 15か所ほど発掘されている。 他に、平埔族系ケタガラン族の古い 集落群(唭哩岸社+嗄嘮別社=北投社。下地図)の遺構も、確認されている。

17世紀の スペイン(1626~42年)、オランダ統治時代(1642~61年)、 北投社では既に硫黄を使った、これら外国人との物々交換取引が行われていた。1654年の記録によると、 唭哩岸社は相当な規模の集落地となっていたようで、嗄嘮別社とともに、オランダ人の地図に言及されていた(下地図)。 当時、オランダ人は各集落コロニーに半自治スタイルの「地方集会」を開設しており、唭哩岸社と嗄嘮別社は、 「淡水集会区」に管轄されていたという。
その後、鄭氏政権時代には天興県が新設されており、「上淡水通事」担当の役人が、 当時、台北地区を統括した。清代に入り、さらに多くの中華系移民が入植してくると、 唭哩岸社と 嗄嘮別社の二社はますます膨張し、ついに接続されて「北投社」として統合されることとなる。下地図。

北投区

1713年、鄭珍、賴科、朱焜侯、王謨の 4出資者が集い、民間団体「陳和議」を結成して、北投庄、海山庄、 坑仔口エリアの土地開墾を役所に申請すると、北投地区の大規模開発が着手される。 1700年代中期には、七星墩圳、八仙圳、唭哩岸圳の水利設施も整備され、1700年代後期には唭哩岸街が発展し、 淡北で最も早くに市街地化し、北投地区の政治、経済の中心地となる。

なお、この時代、北投周辺の広い平原地帯には、漳州泉州 移民らが混在し集落を形成していた。特に泉州同安系移民がこの地域の最大人口集団で、 続いて、山区頂、竹子湖の 山岳地帯(下地図)に集住した泉州安溪系移民が続く。 これら集団は徒党を組んで抗争を繰り広げており、度々、敵対する集落地を襲撃し合っていた。

なお、北投区の最南端に位置する石碑地区であるが(下地図)、 1700年代前半、中華系の開拓民と 土着の平埔族が土地問題で対立すると、1745年、淡水同知に着任したばかりだった 曾曰瑛(1708~1754年。江西省南昌市 出身。役人出身の高級官吏養成機関を経て、 1745年に台湾府下の淡水撫民同知と 彰化県長官を兼任していた。教育行政を推進し、彰化県 下に最高エリート校を開設させる。その後、1748年に汀州府知府へ、 1753年に台湾府長官となるも、任期中の翌 1754年に病死する)が、両者の境界線を定める石碑を設置し、 以降、抗争が収束した逸話にちなみ、「石牌地区」として、現在の地名に継承されているという。

こうして、1700年代前半までには、すでに中華系移民によって、淡水 に至る河岸全域の土地開墾も完了されていた。 1712年、大雞籠社通事の賴科が、北投地区の住民らを集めて 霊山廟(淡水河沿いにあった、 原住民系の 集落・嗄嘮別社【今の 関渡地区。下地図】に開設されていた)を再建し、 同時に屋根の全面茅葺きから瓦葺きへの改修工事を主導する。完成後、諸羅県長官の周鍾瑄が「霊山天妃廟」と改名した。 これが、現在の 関渡宮(下地図)である。

北投区

1731年に淡水庁下で八里坌巡検司が設置されると、北投区はこれに統括された。 1875年、淡水庁(今の 新竹市) が廃止され、台北府が新設されると、これに属した。

日本統治下の 1920年、北投は台北州七星郡北投庄へ改編される。戦後の 1946年、中国国民党政権により、北投鎮公所が新設される。当初は台北県七星区に、翌年には 淡水区 に帰属する。 1967年7月1日、台北市 が直轄市へ昇格されると、北投鎮も台北市に併合され、北投区へ改編される。


お問い合わせ


© 2004-2024  Institute of BTG   |HOME|Contact us