BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2014年6月中旬
海賊王・蔡牽 の栄枯盛衰から見る、中国大海賊時代!






台湾 台北市 ①(中正区) ~ 区内人口 18万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)


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  かつての 淡水県署(役所)跡に建つ、台北城の 守護神「城隍廟」
  清末 ~ 日本統治時代の 台北古城 マップ
  中山堂 ~ 清代の 最高行政庁「布政使衛門」、最初の 日本総督府、蒋介石の 式典会場
  中華民国建国の 父・孫文の 足跡 ~ 梅屋敷ホテル、国立国父紀念館
  二二八平和公園 ~ 清代の天后宮廟から、台北新公園、台湾博覧会メイン会場 を経て
  国立台湾博物館前にあった 防空壕跡、石製の生活用具
  台湾民主国、日清戦争直後の 7日天下
  台湾総督府 と 台湾銀行の 今昔
  228記念館 ~ 1947年二二八事件(進駐国民党軍 vs 台湾民衆) と 台北ラジオ局、戒厳令
  台湾最大の 海運会社 Evergreen社(長栄有限公司)の本社ビル と 海事博物館(200 TWD)
  東城門跡から 信義路を歩く ~ 東門市場 と 国立中正記念堂(日本軍駐屯地跡)
  南城門 と 南面城壁跡
  北城門 と 城壁、外堀の 断面図!
  建城当時に 唯一、甕城を 増設されていた 北城門跡
  西門町 ~ 台北の「原宿」「秋葉原」エリア
  台北市の 歴史



台北古城 は 1882年に着工され、1884年に完成した清朝最後の城郭都市である。当時、中国沿岸に迫りくる日本や欧米勢力から、台湾島を防衛する目的で築城された。

しかし、日清戦争を経て、1895年に台湾島自体が日本に割譲されると、その植民地政策が進む中で 1900年、城壁の一部が撤去され、市街地の拡大が進むようになる。
この一環で、台北城の守護神であった 城隍廟(下写真)も城外へ移転される。

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下地図は、日本植民地下の台北市地図と、 城郭都市時代(1895年当時)のそれとを合成したものであるが、現在の城隍廟が立地するポイントは、 「淡水県署」と記されている場所である。築城当時は、北城門のすぐ内側に創建されていた城隍廟 であるが、日本植民地政府により、台北駅の北側の淡水河沿いに、「霞海城隍廟」として移築されていたのが分かる(下写真)。
第二次大戦後に日本が去ると、元々の立地場所である北城門前への再移転が検討されるも、 土地問題で実現できず、下地図の「淡水県署」(日本植民地時代は、病院施設に転用されていた)跡地に移転され(1947年11月)、 現在に至るわけである。住所は「武昌街一段 14号」。

なお、1876年に台北府が新設された際に、淡水県は淡水庁から昇格されていた。1879年に正式に県役所業務がスタートし、人口統計調査を実施した 結果、県下には 408,000人の住民登録があったという(1893年)。しかし、1895年に 日本が植民地政策をスタートすると、淡水県は台北県 淡水支庁(現在の 台北市、新北市、 桃園市の一部を統括した)へと改編されることとなる。

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1904年に入ると、本格的な城壁撤去作業が進められ、北門(承恩門)、東門(景福門)、南門(麗正門)、小南門(重熙門)を残し、西門(宝成門)と、すべての城壁が除去されてしまう。

また古城時代、西門側は淡水河との間に湿地帯が広がっていたようで、防衛上に有利とあってか、 この西門近くの北面側に、当時の 台湾最高行政機関(布政使衛門)の役所施設が立地していた。今の 中山堂(下写真の左)付近である。 日本植民地政府は当初、この清朝の布政使衛門に総督府役所を開設し、 初代台湾総督・樺山資紀(1837~1922年)が就任式を行ったわけである。清朝から続く台湾政治のシンボルの 地らしく、現在、この中山堂の正面には、抗日戦争記念碑が設置されていた。

現在の建物は、日本植民地政府により イベントホール「台北公会堂」 (収容人数 1,500人)として建設されたもので(1936年11月26日)、建築家の 井手薫(1879~1944年)が設計している。 下写真中央は、1954年に総統二期目就任を祝う、蒋介石(1887~1975年)ら参加の式典を撮影したもの。

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ちなみに上写真右は、梅屋敷(かつての 日本植民地時代の最高級割烹旅館)に投宿している、孫文(1866~1925年)の様子。 孫文は、台北に 3度(1900年、1913年、1918年)、訪問しているが、 その二度目の滞在時に梅屋敷ホテルに泊まったという。 梅屋敷ホテルは元々、台北駅の 東隣「逸仙公園」内に立地していたが、今は その応接室のみが移設、保存されており、内部は国父史蹟館となっている。 辛亥革命で清朝を打倒し、中華民国を建国した孫文の業績を称える 博物館だった。

孫文に絡む博物館としては、国立国父紀念館(下写真左)もある。 台北 101ビルにも近く(記念館後方に見える)、絶好の写真スポットとなっていた。 また、この記念館の入口建物には、高さ 8.9 mもの巨大な孫文像が安置されており、 その前には常に衛兵が立って警護していた。下写真中央は、10:00、11:00、12:00、、、、毎時 ちょうどに行われる、衛兵交代式の 様子(この日も、多くの見物客が取り囲んでいた)。

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続いて、二二八和平公園に向かってみる。
日清戦争後の 1895年6月7日、新たに台湾統治者となった日本軍が、 台湾城北門より入城してくる(上写真右)以前、この公園敷地には、 天后宮や聖王廟が立地していた。下地図。

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1899年に公園化事業が進められ、1908年、台北新公園として一般公開される。 1913年に天后宮の神殿が撤去されると、代わりに 巨大洋館「児玉総督後藤民政長官記念館」が 建設される(1915年開館。下地図)。これが戦後に、国立台湾博物館 へ転用されるわけである。
1935年には、公園全体が台湾博覧会のメイン会場となった。 下地図は、この直後の台北マップ。

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さて現在、公園内に残る巨大洋館「台湾博物館」であるが、 台湾島の歴史、文化に関する総合展示場となっている。 また、その入口脇には、かつて民間で使用されていた、 石製の生活用具が展示されていた(下写真左)。

さらに、その向かいには戦時中の防空壕が残されていた。中央に煙突が見える (下写真中央)。下写真右は、防空壕の断面図。

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ちなみに台湾島の住民らは 日清戦争の直後、日本の進駐に反対し、最後の台湾巡撫だった 唐景崧(1841~1903。下写真左) を初代大統領とする、台湾民主国の建国を宣言する(5月24日)。 しかし、日本軍の台湾上陸により軍事的に圧倒され(5月29日スタート)、 唐景崧は間もなく大陸中国への亡命に追い込まれる(6月5日)。当時、既に 淡水港(下写真中央)から他のアジア地域へ定期航路便が開通しており、 蒸気船を運行していた貿易商社ダグラス社の独占市場となっていた。 このダグラス社の輸送船に隠れる形で、脱出を図ったという(最終的に、ドイツ籍の輸送船 Arthur号にて厦門へ逃亡)。なお、当時の台湾島の最大輸出品は、 台湾烏龍茶であったらしい(下写真右)。

こうして、もろくも瓦解した台湾民主国は、台湾各地に政治的空白を 生み出してしまい、各所で大いに治安が悪化したという。 この社会混乱に直面するに至り、地元名士や地主層、学者らの間で、 早期の治安回復を望む機運が高まり、日本軍の到着が台北城内の市民らによって 歓迎された、ということだったらしい(6月14日)。 緊迫度を増す当時の人々にとって、統治者が誰であるかよりも、 政治と経済の安定化が最優先課題だったわけである。

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日本軍の入城後、近代都市計画 が策定され、台北城全体の改変が実施されていくことになる。下の写真は、日本統治時代の発券銀行であった 台湾銀行(1899年設立)と、現在の同地最大の商業銀行となった 台湾銀行本店の姿。 内部も普通に見学できる。

ちなみに、この正面通りの名は「重慶路」。同じ並びにある台湾総督府や 台湾銀行など、 政治・経済の中枢部ということもあり、この地に避難してきた国民党勢力は、その最後の栄光の地であった 本土拠点「重慶」を、最重要道路名として採用したのだろう。

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下写真左は、日本統治時代から使用されている、台湾総督府(現在の 中華民国総統府)本庁舎である。
下写真右は、外側から見た東城門と 総督府の遠景。 正面に 大通り「ケタガラン通り(凱達格蘭大道 = 原住民族名の一つから命名されている)」が走る。戦前まで、 写真右端に見える緑地部分に、台湾総督官邸が立地していた。

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なお、この 旧台湾総督府(現在の 中華民国総督府)の建物は、 3日前までに予約しないと入館できないらしい(午前 9:30~11:30 のみ。 事前予約者に対し、入館ガイド付きのツアーが催行されている)。 また、この周辺には、国衛大学、国防庁なども立地していた。 総督府周辺を警備する職員らが夏のさわやかな南国風のシャツを着ていたので、初めはボランティアの人かと思ったが、しっかりイヤフォンとマイクを付け、制服組と連携していたので、それなりの専門 SP部隊の人たちだった。

さて、総督府の正面にまで広がっていた、 二二八和平公園を再訪してみる。園内には、228記念館が立地していた。

第二次大戦後に日本軍撤退を受けて、台湾市民は中国復帰を歓迎したのも束の間、 中国国民党配下の進駐軍政府は組織的に腐敗しており、また日本文化に影響されていた台湾市民を 大いに虐げることとなった。経済や社会は混乱し、物価の高騰も続く中で、食料やタバコなどの 供給が政府統制下に置かれ、人々の生活は困窮する。
そんな中、1947年2月27日、国民党所属の警官が、違法タバコ売りの露天商の女性に暴力をふるい、 この騒動を制止しようとした通行人が発砲され、落命する事件が起きる。 流血沙汰が発生したことから、いよいよ堪忍袋の緒が切れた台北市民は翌 2月28日、 市街地北側よりデモ行進を開始する(下写真地図)。
当局は発砲によって鎮圧を試み、約 10人のデモ参加者が死亡する。 さらに態度を硬化させたデモ隊は、この公園にあった台北ラジオ局を 占拠し、台湾全土へ民衆決起を促したのだった。各地で不満を蔓延させていた 台湾市民は一斉に武装蜂起し、地方に駐屯していた 国民党軍を襲撃することとなった。 大陸中国側から増派された国民党軍が上陸してくると(3月8日)、数か月に及ぶ武装闘争の末、 数万人規模の台湾市民が死傷して鎮圧されたという。以後、台湾島は 1987年まで、戒厳令が 敷かれることとなったわけである(サンフランシスコに亡命中の民主派台湾人が暗殺された ことをきっかけに、米レーガン政権から圧力をかけられて解除される)。

この全島規模での民衆蜂起の起点となった 台北ラジオ局本部跡を、 台湾民主化のシンボルとして紀念し、総統・李登輝(1923~2020年)により、 1996年2月28日、228博物館が開館されたというわけだった。

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そのまま 公園南口を後にし、先に触れた 台湾総督府の正面通りを形成する東城門跡を巡ってみる。
この城外正面に、台湾が誇る 大海運会社、Evergreen社(長栄有限公司)の本社および、 これが運営する 海事博物館(入場料 200 TWD)が立地していた(後に、張栄発基金会へ改称)。 まさに総督府と面と向かって建つ、そのビルの威風は、台湾経済を海から支えた 実績を誇示するに、十分な立地と外観であった。下写真。

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さらに、東城門跡から信義路沿いを東進してみる。延々と商業地域が広がっていた。 途中、ノスタルジーあふれる「東門市場(下写真左。伝統的な海鮮物市場)」を見るにつけ、 台北の都市開発が郊外へと拡大される過程で形成されてきた、庶民の生活パワーを実感した。

下写真右は、その沿道上にあった国立中正記念堂。この異様な巨大さには目を見張った! また、その敷地も広大で(25万 m2)、日本統治時代には山砲隊、および歩兵第一連隊の軍用地 であったという。戦後には、国民党軍の駐屯基地とされていたものが、 蒋介石(1975年死去)を紀念する公園へ改造された、というわけだった(翌 1976年、一般公開スタート)。

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再び、東城門へ戻り、つづいて南城門側へ移動してみる(下写真左、中央)。 かつて南面城壁が連なっていた直線箇所は、今では大通りとなっており、 特に南面城壁の台座部分では、かつて城壁が築かれていた箇所が道路と並行して 緑地化されており、しっかりと古の記憶が刻まれていた(下写真右)。

また、それぞれの城門跡の左右面には、城壁部分が接続されていた壁面が、くっきり 色の違いを見せていたのが、生々しかった(下写真左の手前の壁面)。

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下写真は、日本軍入城直後の、台北城壁の様子。城壁の高さは、凹凸壁まで含めると、 人の背丈の 3倍以上あったことが分かる(厚さ 3.5 m、高さ 6.1 m)。

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なお、城壁の外周には、しっかり外堀が掘削されていたことが分かる(下絵図。北東側から見た、北門、西門一帯)。西面側は、巨大な淡水河とそれに続く湿地帯が広がっていたが、やはり外堀が設けられていたようである(この土砂を盛り上げることで、 城壁が整備されていた)。

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下写真左は、北門の壁面。東へと連なる城壁面が、接続されていた部分がくっきり刻み込まれていた。

下写真右は、かつて北面城壁下に埋め込まれていた、杭や枕木。外堀の水が城内にも流れ込むように、地下水路が設置されており、杭や枕木の間をすり抜ける構造で、水が流れるように設計されていたようである(上絵図)。台北駅の地下街に保存されている(三越デパートの地下付近)。

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なお、現役当時の台北城では、北城門のみ 甕城(城門を守る出丸砦)が増設されていた。 今日、その甕城部分の城壁台座跡が、はっきりと明示されていた。実際に、その場所に立ってみると、甕城内部はちょうど 10畳ぐらいの広さが設けられていた ことが分かる(下写真右)。

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ここから北面城壁沿いに西進し(上写真右)、西城門エリア へ移動してみる。
かつて淡水河と西面城壁に挟まれた湿地帯は、目下、台湾の「秋葉原」「原宿」と言われる若者街となっている。 ここにワンピース専門店があった(下写真左)。台湾専用グッズが売られている、ということで 買い物を頼まれていたので、立ち寄ってみた。
この他、周辺には非常に賑やかで、ゲームセンター、映画館、アニメグッズ店、 格安料理屋などなどが並び、色鮮やかな街並みだった。

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それにしても、台湾は世界で一番、都市交通網が発達し、 その値段も格安だと思う。旅行者には天国のような場所で、台湾島内の他都市や観光地へのアクセスも、非常にラクだった。

台北駅前バスターミナルからは桃園空港行きのバスが、10分に一本あり。片道 125 TWD。当日、その場で購入し、そのまま乗車するスタイル。前日での前買いは不可と言われた。
上写真右は、台北桃園空港の搭乗ゲート付近にあった図書館スペース。不要書籍などを乗客たちが置いていき、また別の人が空き時間に読める仕組みになっており、ユニークな施設だった。日本語の本もあった。


  交通アクセス
桃園空港の空港バス乗り場から、台北鉄道駅まで、125 TWD(所要時間 60分弱)。10~20分に一本運行(深夜 24:30~6:00までは、1時間に一本)。 台北駅発からの戻りチケットも含めて、往復で購入すると 230 TWDで済む。

2017年3月に 台北駅 ⇔ 桃園空港 間で地下鉄が開通しており、15分に一本運行されている(早朝 6:00~ 23:00過ぎまで。片道 150 TWD。所要時間 35分)。 バスのように揺れもなく、非常に快適な移動手段で重宝できる。



台北市の 歴史

清代初期の 1684年、鄭氏政権の降伏を受け、台湾島を接収した清朝は、 現在の台南市に台湾府を開設し、福建省に帰属させる
時は下って清朝末期に至ると、 台湾島近海には欧米列強や日本が接近するようになっており、 防衛力&統治力の強化が図られ、1875年、台湾島に 2つ目の 府役所「台北府」が 開設される(両行政区の境界は、台湾島中部を流れる 巨大河川・大甲溪の南北に設けられる)。当初、台北府役所は現在の 台中市 に開設されるも、1878年に台北市へ移転 されることとなる。

翌 1879年1月、この台北府移転に 伴い、台北府長官に着任していた 陳星聚(下写真。1817~1885年。河南省漯河市 臨潁県台陳郷陳村の出身) の主導の下、台北府城の築城計画がスタートする。
1881年5月24日に福建巡撫に着任した 岑毓英(1829~1889年)が、 同年 9月10日に台湾視察を行うべく、自ら現地入りすることとなった。 基隆 から上陸し、滬尾(淡水)鹿港、台北、新竹彰化嘉義 などの地方を巡っては、地元の名士らと意見交換を行い、 市井の声に積極的に耳を傾けたという。このタイミングで、台北府長官・陳星聚とも面会し、 台北城築城に関する朝廷への建議上奏を請け負った、と考えられる。同年末に再度、台湾島を視察し、 大甲溪の治水工事を監督している。岑毓英はこの視察から帰任後、早々に異動となり、 雲貴総督に就任して 清仏戦争【1884~1885年】におけるベトナム戦線を指揮していくこととなる)。

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なお、台北府長官として、台北城の設計から工事完了まで全工程を主導した 陳星聚(上写真)であるが、 1849年に科挙合格後、福建省下の 順昌県、建安県、閩県、仙游県、古田県長官を歴任し、 見事な行政手腕を発揮したという。
1871年、初めて台湾島へ赴任し、1872年より台湾北部の 行政官トップである台湾府 淡水撫民同知(代理)に着任すると、その任期中、 三角湧、大嵙崁一帯の山岳地帯に跋扈した山賊や無法集団らに対し、 懸賞金方式で逮捕を進め、最終的に大物盗賊リーダーの 呉阿來を捕縛して処刑に成功するなど、 治安向上に辣腕を振るう。1873年、正規の台湾府淡水撫民同知となる。こうして 1875年まで、 台湾下北部の行政官トップを司り、現地に習熟することとなる。そして、冒頭で言及した通り、 1875年、清朝廷が台北府を新設すると(今の 台中市)、淡水同知役所が廃止され、 府役所幹部の 中路撫番同知(鹿港同知)となる。1878年3月に台北府役所が現在の台北市へ移転されるも、 同年 10月、初代台北府長官に任命されていた 林達泉(1830~1878年)が過労により急死したため、 陳星聚が代わりに台北府代理長官に就任する。こうした事情もあって、彼が実質的に 初代台北府長官として執務を取り仕切ることとなったわけである。
1881年に正式に台北府長官となると、翌 1882年より台北城の築城工事に着手する。 1884年から本格的な城壁工事がスタートされ、水田や沼沢が広がる湿地帯の 埋め立て作業を経て、1884年に完成を見る(3年3カ月)。その直後に 清仏戦争が勃発すると、台北郊外の西仔反の戦役でフランス軍を撃破する戦功を挙げる。 翌 1885年、この清仏戦争の和議交渉の最中、過労のため病死することとなった(69歳)。 彼は台北に着任した約 7年間、台北城の築城工事を一から完遂し、台北市の 都市発展に大きく貢献した人物として称えられ、台北各界の名士らは連名で、清政府に対し 爵位三品の下賜を上奏し、その死を惜しまれたのだった。なお、彼の遺体は 海上輸送の後、さらに水運を経て 河南省西華県逍遥鎮へ運ばれ、ここから陸路を通じて、 故郷の臨潁県にある孝台村に移送されて、埋葬される。その場所が今日、陳星聚紀念館 となっているわけである(上写真)。

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こうして築城された台北城の城域は、石積み 城壁(厚さ 3.5 m、高さ 6.1 m)が東西それぞれ 1,250 m、南面 1,040 m、北面 1,035 mで、その周囲の総計は 4,500~4,800 mにもなった(城内面積は 3 km2)。城壁上には、軍馬も上がれる構造になっていたという。下写真。

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また、景福門(東城門)、宝成門(西城門)、麗正門(南城門)、重熙門(小南門)、承恩門(北城門)の 5城門と楼閣(建築資材は、直接、福建省厦門 から搬入)が設けられ、城壁外には外堀が掘削されていた。
当時、台北城内のほとんどの土地は空き地で、北側と西側に 役所群、官舎、富裕層の邸宅が、 偏って配置されていたという。

清仏戦争直後の 1885年、清朝は台湾島を直轄化すべく、 福建省から分離して台湾省を新設し、劉銘伝(1836~1896年)を初代台湾巡撫に任命する。 これ以降、台北城が台湾省の省都に定められ、 同島の 政治、経済、文化の中心地として、以後、君臨していくこととなる。

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しかし、台北城が城郭都市であった期間は、わずかに 22年間のみであった。

日清戦争後の 1895年、日本により台湾島が割譲される。日本植民地政府の主導により台北市の近代都市設計が進められるにつれ、瞬く間に古城地区が手狭となっていく。最終的に 1904年、すべての城壁と 西城門(宝成門)が撤去されるに至る。このとき、3城門(東城門の 景福門、北城門の 承恩門、南城門の 麗正門)のみが、台北地元市民の意向を受け、残されることとなった。

また、城壁の跡地には大通りが敷設され、それが現在の 中山南路(東面城壁)、愛国西路(南面城壁)、中華路(西面城壁)、忠孝西路(北面城壁)となっているわけである。

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破却を免れた 3城門は今日も現存しており、戦後の 1966年に台北市政府により 小南門(重熙門)が復元されると、以後、4城門が現存することとなる。
ただし、北城門はほぼ原形をとどめているが、他の 3城門は 1960年代に一度、建て替えられている。

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