BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2019年4月中旬
海賊王・蔡牽 の栄枯盛衰から見る、中国大海賊時代!






台湾 台北市 ②(萬華区) ~ 区内人口 20万人、一人当たり GDP 26,000 USD(台湾 全体)


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  台北古城 と 旧市街地「艋舺(モンガ)地区」との 位置関係
  日本植民地時代 初期の「艋舺地区」マップ
  清水巌に見る、移民社会の抗争史 ~ 泉州・山間部 グループ vs 平野部 グループ
  西昌街 と 水仙宮の 今昔
  清代の街道筋にあった、地蔵王廟 と 薬草路地「西昌街 224巷」を歩く
  支持母体・泉州・平野部 グループの 勢力拡大をバックに台頭した、艋舺龍山寺
  清代の 街道筋マップ ~ 龍山寺、青草巷、地蔵王廟、剥皮寮老街 を 接続した東部陸路
  華西街観光夜市 ~ 日本植民地当局が開設した 歓楽街(風俗町)の 今昔
  艋舺隘門 ~ かつての 移民間抗争の名残り、居住区防御のための 城塞門跡
  日本植民地時代 後期の「艋舺地区」マップ ~ 旧街道の没落
  剝皮寮歴史街区 ~ 清末から残る 旧街道筋 と 艋舺の歴史資料館
  長沙公園 = 艋舺 発祥の地 ~ サツマイモ通り(蕃薯市) と 貴陽街二段
  現在の「艋舺地区」マップ
  【豆知識】艋舺地区の 歩み ■■■



下の 台北古城模型は地下鉄「西門駅」上にあったもの。
台北城は清末の 1882年に建設工事がスタートされ、2年後の 1884年に完成されており、広大な空き地を城壁で取り囲み、中に役所機関や部隊駐屯基地を配置する城塞都市であった。庶民らが住む商業地区は北門と 西門沿いの一部のみで、あとはだだっ広い空間だけだったようである。その他の多くの庶民は、 城外の南西部にもともと形成されていた 艋舺(モンガ)地区に居住していた。

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この 地下鉄「西門駅」はその名の通り、古城の西門跡地に建設されており、その前に広がるショッピング地区は、かつては原野と湿地帯、そして墓地が点在する荒れ地であった(下地図)。日清戦争後、日本軍が台湾島を接収すると(1895年)、徐々に城壁の撤去工事が進められ、1904年末にはすべての城壁と西門が喪失される。住民らの要望により 5城門のうち 4門とその楼閣のみが、わずかに残されるだけとなった(現存する、台湾一級史跡である 東門南門小南門北門)。

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そして、古城南西側で 淡水河(合流する 3河川の一つ、新店渓。下地図)が大きく湾曲するポイントに形成された船着き場から発展し(今日の 貴陽街二段沿いの天后宮周辺。上地図、および 下地図の赤〇)、300年以上も前から形成されていた 集落「艋舺(モンガ)の町」と 西門跡を接続させ、(広域)西門商業地区 を開発させていったわけである。

下地図は、1915年 当時の西門商業地区と 艋舺(モンガ)地区。まだまだ周囲には湿地帯や池が残っていたことが分かる。

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さて、西門商業地区を南下し長沙街二段を歩いていると、艋舺(モンガ)清水巌にたどり着いた(下写真)。午後昼過ぎの時間帯だったが、境内周辺に集うたくさんの店舗には人気がなく、閉店しているようだった。夜に開店し出すのだろうか??

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清水巌は祖師廟とも俗称され、泉州市 の 山間部(安溪県)出身者グループが、地元で信仰する、清水祖師(別名:麻章上人、蓬莱祖師、顕応祖師、照応祖師、輝応祖師、普足祖師など、多数の異名あり)を祀る廟所という。1787年に建立されたもので、 1985年8月、台湾政府により三級史跡に指定された。

なお、清水祖師とは宋代の高僧で、俗名を 陳昭(一説には陳応)といい、生前は地方を巡って医療や雨乞いの祈祷などを行って人々を助けた、伝説上の人物とされる。こうした活動が泉州市山間部の 農民ら(特に、安渓県一帯)から称えられ、その死後に神格化されたというわけだった。地元、福建省泉州市安溪県蓬莱鎮にある蓬莱山の山麓に立地する、古刹・清水巌(1083年創建)の分霊として、当地に開設される(福建省や台湾の清水巌に祀られる 清水祖師像の顔は、すべて黒色で彫像されているため、烏面祖師とも通称される)。当初、艋舺(モンガ)の 龍山寺(泉州市平野部出身者グループ が支持母体)と、大龍峒の 保安宮(厦門市 同安県出身者グループ が支持母体)とあわせて、三大寺廟として絶大な力を有していた。

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艋舺(モンガ)清水巌を参拝すると、内殿、中殿と前庁それぞれに三つの異なる年代に建てられた石柱を目にすることができる。これは、祖師廟がその歴史において、二度の大規模修築工事を経た記録となっている。一回目は、1815年に暴風雨の直撃により、建物が損壊してしまった折、当地の豪商の寄付によって再建された当時のもの、また、もう一回は 1853年の「頂下郊拼」事件で、祖師廟が意図的に破却された後に再建されたものという。

この時代、安溪出身者グループ(福建省泉州府 下の山間部の人々。上地図)と、三邑出身グループ(泉州三邑とは、福建省泉州府下の海岸沿いエリアに位置する、晋江県、南安県、恵安県出身の人々。上地図)との間で、積年にわたる深刻な対立があり、度々、暴力事件が発生していた。ある時、ついに三邑出身者グループが安溪出身者グループを屈服させ、彼らが信仰する祖師廟を焼き払ってしまった上、同安出身者グループ(今の 福建省厦門市 出身の人々)が居住する八甲庄へ追放してしまう。
安溪出身者グループの流民らを押し付けられた同安出身者グループの居住区は、多勢に無勢の中、その信仰する城隍爺を伴って居住区を退去してしまい、北の大稻埕に新たに集落を形成することとなった。こうして、排除された安溪出身者グループがそのまま当地に住み着いたわけである。
この時のコミュニティ破壊は壊滅的で、騒動から 14年後の 1867年になってようやく、安溪出身者グループの茶葉商人らが資金を出し合い、元の場所に廟堂の再建工事をスタートさせるも、ようやく 9年後の 1876年に完成した、という。もともとは 前殿、本殿、後殿の三段構えの予定であったが、後殿はついに再建されることはなく、今日に至る。現存する廟堂の額縁は、この時代の 皇帝・光緒帝から下賜されたものという。

こうして各出身地集団間の抗争を制した、三邑出身グループを主たる支持母体としたことから、現在、艋舺(モンガ)の龍山寺が、台北市内で最も壮麗な寺院建築と最強の寺勢を誇ることとなったわけである。



清水巌 を見学後、その前にあった 大通り「康定路」を南下し、老松国小学校脇を進む(下写真左)。そして、桂林路(古くから、中古品売買の商店が軒を連ねるエリア)との交差点を西進してみると、「西昌街」というローカル路地との交差点に行き着いた(下写真右)。

ちょうど下写真右の中央に停車中の白色自動車の辺りに、かつて水仙宮が立地していた。1750年ごろに 艋舺(モンガ)地区の貿易商組合のメンバーらが資金を出し合って建立したもので、漢民族の祖であり、夏王朝を建国したという伝説の 初代王・禹を祀ったという。彼は父の代からの土木工事を継承し、大河の治水に成功したことから、古代より水の神として称えられてきた名君でもあった。水上交易を宿命づけられた貿易商人たちの、水の安全への祈願が込められていたわけである。

しかし、その後、廟堂は荒廃が進んでしまったため、1840年、張正瑞が私財を投じて再建を図るも、完成を見ることなく工事は途中でストップしてしまう。その後、ご神体のみが龍山寺の後殿へ移され今日に至る。その境内の跡地は、墟頂新町と新店頭との間にあって、水仙宮口街の名称だけが存続されるも、都市開発の中で拡張された桂林路へ吸収され、消失してしまったという。

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このローカル路地「西昌街」を南進してみると、左手に 地蔵王廟(地蔵庵)があった(下写真左)。
藏王菩薩を祀るべく(同時に、 台南府城の城隍廟 と 田都元帥も合祀)、清代の 1760年に建立され、1838年に大規模に再建されたものという。現在、台湾政府により三級史跡に指定されている。毎年旧暦 7月30日に、地藏王の生誕を祝う式典が盛大に開催されるという。

漢民族らが台湾島へ移住し、未開の土地を開拓していた当時、天災、疫病、出身グループ間や原住民族との抗争などで、常時、多くの死者が出ており、その亡霊が西方の極楽世界へ行き着けるように祈る地藏王菩薩の存在は、非常に重要な信仰であった(このため、本殿も西向きに設計されていた)。
日本統治時代、この地藏王庵の土地を植民地政府が接収しようとすると、地元民らの強烈な反対運動が巻き起こる。最終的に、信徒らが掛け合って龍山寺の旗下に入ることが認められ、当時から強大な力を有した龍山寺の庇護下にあって、日本当局者も手を出せなくなったという。以降、地藏王庵の重要な式典は、龍山寺の僧侶が主催者となる習わしとなっている。

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その地蔵王廟の道路向かいに、薬草路地「西昌街 224巷」があった。十数もの薬草店が集まる路地で、その道幅は往時のままという(地元では「青草巷」と通称される)。ここは、清代から存在した東方面へ向かう街道筋の一角で、東隣の剥皮寮老街まで貫通していた(下地図)。

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台湾に西洋医学が導入される前、人々は漢方薬のみで健康を保ち、病気に対峙してきた。台湾開拓の初期、専門の医者も少なく、衛生環境の未整備や高温多湿の風土により疫病が蔓延しており、福建移民らは常に 艋舺(モンガ)龍山寺や 大龍峒の保安宮に参拝しては助けを求めていた。そして、寺から案内された薬草を買い求めるべく、寺院の周辺に集まっていた青草商人の屋台で薬草類を購入していたという。こうした背景から、寺の傍らには自然と「赤脚仙仔」と呼ばれる、青草商人らの屋台が建ち並ぶようになる。

次第に知識と経験を得た薬草店のオーナーらは、医学の専門知識もないまま町医者代わりとなっていき、民間で伝わる伝統的な薬草文化に基づき、薬材などを調達し、処方するようになる。それらの服用方法を含め、各薬草店ではそれぞれの秘伝の調合術が、今も継承されているという
その後、日本統治時代に西昌街の道路が拡張されると、龍山寺の傍らの青草屋台は次々と現在の西昌街 224巷へ引っ越し、今日の密集地帯「青草巷(路地)」が形成されたという。目下、台湾で最も大きな薬草街となっている。

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現在の青草巷には、萬安、四知、徳安、生元など、創業以来 100年を超え、三代目が継いでいる老舗も存在する。その看板や薬箪笥などは当時のままであるが、販売する商品は時代と共にリニューアルされ、元々の薬草以外にも青草茶などの 飲料品、青草クリーム、薬草入りティーパック、薬草入浴剤など、さまざまな新商品が売り出されているという。

なお、この青草巷で販売されている薬草は数百種を超え、ほとんど台湾本土で生産されたものといい、元々は屋台の主人が自分で原料を採集していたが、現在は専門の卸売り業者から購入する店がほとんどという。新鮮な青草は台湾北部から供給されたもので、乾燥処理されたものは台湾南部から調達されたものが多いという。

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この薬草路地をするりと通り抜けていくと、広州街の大通りに至る(上写真)。
ちょうど筆者が訪問した日は日曜日で、台北天后宮(貴陽街二段)から龍山寺への、吉祥訪問の祭事が執り行われていた。上写真。

そのまま台北天后宮の一行は龍山寺に入っていったので、筆者もついていくことにした。下写真。

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龍山寺の売店兼案内センター前に銀行 ATM機が置いてあったのが、興味深かった。参拝用の線香購入の便宜を図ったものだろうが、何か現実世界に引き戻される印象を受けてしまう。。。

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正式には 艋舺(モンガ)龍山寺 といい、地元では単に龍山寺と呼ばれる。
清代中期の 1738年、福建省泉州 の 平野部(晋江県、南安県、恵安県)から渡来した人々により、地元の福建省泉州市晋江市安海鎮にある 1000年古刹・龍山寺(現在、福建省 政府により史跡指定されている)の分霊として創建され、以後、支持母体の泉州三邑出身グループの勢力台頭にともない、寺勢を拡大させてきた寺院である。各種祈祷、集会、移民集団どうしの抗争仲裁など、さまざまな場面で龍山寺は中心的役割を担うこととなり、その権威は 泉州三邑出身グループの武力と財力をバックに、艋舺地区・最強となっていく。

その繁栄する寺勢もあり、連日、龍山寺は参拝者で賑わい、周辺には飲食店や 刺繍屋、仏具屋、嫁入り道具屋、提灯、糊紙(祭事や葬式に使う紙の作り物)、菓子、青草などの屋台が次々と立ち並び、門前町を形成していったわけである(下写真)。

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本寺院は 1738年に建設工事が着手され、3年後の 1740年に完成されている。以降、1815年の大地震、1867年の暴風雨の際に修復工事が手掛けられるなど、度々、大規模な修築工事を経ている。1919年には工事を担当していた大工が白アリによる大量腐食を発見し、大々的に再建されることとなる。こうして 1924年に全面リニューアルで完成された寺院は、この時から中国宮殿廟スタイルが採用されている。しかし、第二次大戦下の 1945年、アメリカ軍の空襲により正殿が全焼するも、観音菩薩像などのご神体は無事に運び出され、一時、別に安置される。1953年に今日に見える姿で本殿が再建され、菩薩像も戻されることとなった。
また日本植民地時代には学校として転用された時期もあったが、間もなく寺院としての立場を取り戻し、1982年、台湾政府が文化資産保存法を施行すると、1985年に台北市政府により史跡指定されるに至る。翌 1986年、国民党政権による戒厳令下にあって、言論統制に反対する人々が決起した 519緑色デモの起点ともなったことで有名という。 2018年11月、台湾政府により 国定二級史跡に指定された。
その美しい建築スタイルなどは繁栄を謳歌した寺勢の傑作とされ、台北市内に現存する”最古”の寺院として、台北 101、国立故宮博物院、中正紀念堂 と並ぶ、台北市の「四大外国人観光地」となっている。

全境内の面積は 1,800坪余りで、末広がりの台形型で南向きに設計されている。前殿、正殿、後殿の三段で構成され、本殿は主神である仏教の観音菩薩を祀る。そして後殿には 媽祖廟(天上聖母)、文昌祠(文昌帝君)、武聖廟(関聖帝君。三国志の関羽)の三殿のご神体が一体で合祀されており、まさに 仏教、儒教、道教が融合した典型的な民間信仰型寺院となっている。現在、100体以上ものご神体が奉納されており、参拝者は神仏が祀られた 7つの香炉を廻りながら、それぞれの神仏に祈祷する習わしとなっている。



その境内向かいには、現在、だだっ広い艋舺公園が整備されているわけだが、上古地図を見ると、かつて大きな池があったことが伺い知れる。

ここから西園路を西へ横切り、三水街という裏路地に入ってみた(下写真)。昼間から立ちんぼの女性がいる、ローカルな風俗エリアだった。。。

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そのまま三水街を直進すると、艋舺(モンガ)興龍宮に行き当たる(下写真左)。

そして前の梧州街沿いを北上し、広州街に戻る。ここから東へ一本戻ると、南北にわたって 華西街観光夜市の商店街が続いていた(下写真右)。

この華西街一帯は、細い路地が湾曲して続いており、ちょうど人の太鼓腹のような形状から、地元では凹月斗仔とも俗称された街道筋であった。艋舺(モンガ)地区でも、かなり初期に形成された路地で、船着き場(入船町)と 旧市街地を接続する南北メインストリートを成してきた。途中、道路のど真ん中に媽祖廟が建立されていたことから、媽祖宮口とも呼ばれていた(日本統治時代後期に道路拡張工事のため撤去される)。
また、この日本植民地時代、日本から台湾島へ出稼ぎにやってきた日本人男性向けに便宜がはかられ、游廓エリア(風俗街)が整備されると、歓慈市街へ改称される。多くの日本人らも住み着いたという。 第二次大戦後に国民党台湾となると、宝斗里へ改名され、最終的に 1997年、台北市政府によって風俗禁止令が発布されると、華西街の風俗産業は壊滅する。以後、人通りの少ない寂れたエリアと化すも、その後、庶民の夜市街として復活が図られ、現在は海産物から ヘビ料理(蛇肉や蛇湯など)を堪能できる、特色溢れる観光名所として復活を遂げている。特に、店頭に生きたヘビが陳列されていたり、ヘビを捌くパフォーマンスが行われるなど、観光客に人気のスポットという。
また今でも、街道上には日本植民地時代の洋館風の建物群が複数残っており、さらに日本風の伝統的な 雑貨屋、潮州伝統小料理屋、線香店なども見られるという。

夜市街は人通りが多いので入らず、いったん龍山寺の交差点に戻る。

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そのまま龍山寺沿いの 西園路(龍山寺の門前町として、古くから佛具店や刺繡屋などの宗教関連の商店が軒を連ねる)を北上し、路地を一本入ってみると、広州街 223巷という路地に行き当たる。この辺りは「萬華茶室文化老街」と謳われていた(下写真左)。

このエリアに、古城塞の城門跡があるというので探しまわってみる。

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それは、非常に分かりにくい交差点にあった(広州街 223巷 2号)。。。
アクセス方法としては、左隣にある「四方阿九魯肉飯」という レストラン(上写真右の左端に見える、オレンジ色看板)が、食べログにも出ているので、ここを目指して行かれると簡単かもしれない
上写真右は、城門跡を外側から見たもの。

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上写真は、城門跡を内側から見たもの。壁には、かつて存在した城門楼閣とそれに至る階段跡が、くっきり残されていた(下写真左)。
下写真右は、かつての城門内の賑やかな路地を描いた壁画面。

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この 艋舺(モンガ)隘門であるが、1810~1820年ごろに建造されたもので、夜間の出入りや、緊急時の管理のための通用口として、メインストリート(道幅 6 m)上に設置されていた。北の大龍峒に住む 同安出身者グループ(今の 福建省厦門市)に対し、泉州 移民らが自らの居住区を自衛するための設備の一つであった。
初期の台湾島は、福建省、広東省などからの集団移民らの混在する不安定社会で、各出身地グループどうしの抗争が日常茶飯事であったという。

狭い門は集落地へ入る防御を第一目的した設計で、また門に入った後でもさまざまに曲がりくねる路地が多数、枝分かれされており、敵の侵入時に住民らが迎撃しやすい工夫が凝らされていた。部外者は迷路にはまり込んでしまい、退散も一苦労となったことであろう。
目下、前述の華西街の一帯に、いくつか湾曲路地の跡が見られるという(下地図。かつて、大厝后街 と通称された一部)。

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元々の 艋舺(モンガ)隘門は、泥と土砂、そしてレンガ片で建造されており、単門と両開き門という二重の木門が設置されていた。さらに、監視塔を兼ねる楼閣が門上に組み上げられていたのだった(下写真左)。

時代は下り、当地の住民らが鉄骨コンクリート製の建物へ再建し、楼閣上には福徳祠を祀る神殿が設けられるようになる(1975年に台湾政府により史跡指定を受ける)。しかし、2010年代に補修不足からか、倒壊してしまったようである(下写真右は、2011年8月24日に撮影されたもの)。現在の 艋舺(モンガ)地区において、唯一残る防御施設遺跡であった。

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さて、旧市街地をひと通り散策し終えたので、西門町の駅前 へ戻ることにした。龍山寺前の広州街を東へ進んでいると、正面にレンガ造りの歴史地区を発見する(下写真左)。
剝皮寮歴史街区だった。建物内部は、艋舺(モンガ)地区に関する歴史博物館となっていた(9:00~17:00。月曜休館)。

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両脇に騎楼が建ち並ぶ中央の通路が(康定路 173巷。上写真右)、かつて 剥皮寮街と呼ばれて賑わった、清代の街道跡という。 1799年作成の地権書に最初に言及されており、すでに清代中期には街道が存在していたと考えられている。1850年代には一定規模の集落が確認でき、艋舺(モンガ)地区の龍山寺脇の青草巷から一直線に東へ伸びて、現在の 龍山国民中学(1976年8月開校)辺りにあった、艋舺陸中軍守備署の練兵場まで通じていたと考えられている(下地図)。 200年以上前から陸路の主要街道を成していたわけである。

なお、日清戦争終結後、日本による台湾島の接収に反対した 唐景崧(1841~1903年)が台湾民主国を建国した際(1895年)、この街道筋から台北市民らが街頭行進をスタートさせている

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その後、日本植民地支配下で台北の都市開発が進み、旧街道に代わって、南隣に広州街という幹線道路が整備されると、街道筋の商店や民家らはこの広州街沿いに新たに正面入り口を設けることとなる(下写真左の、アーチ型の歩道)。あわせて、適宜、西洋式建築スタイルへの改修が手掛けられ、もともとの街道筋は裏路地となり、清代の 建築スタイル(下段が店舗で、上段が住居)がそのまま残されることとなった。こうして建物の表と裏とで、異なる時代の風情が楽しめる街並みが形成されたわけである。
この清代と近代混成の珍しい建築スタイルと、台北市内に残された数少ない清代の街道筋の町並みなどの歴史的価値が評価され、2003~2009年にかけて復元工事が進められる。紅色のレンガや花が彫刻された窓の格子などがそのまま 修復、保存されて、台北市郷土教育センターとして一般公開されるに至る。現在、この北隣には老松国小学校が立地する(下写真右の左半分の建物)。

なお、「剝皮寮」という地名は、清代の 1850年代にはすでに存在しており、一説によると、ここに獣皮工場があったため、また一説には、清代に福州商船が杉を運び込んで、当地で樹皮を削いでいたため、とも指摘されるが、確かな背景は分かっていないという。

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さて見学終了後、老松国小学校前を通過しつつ、康定路を北上する。
先程の 清水巌 の前に緑地エリアがあり、何やら特徴的な地形をしていたので、貴陽街二段と 長沙街二段の直線道路のうち、後者を選択し直進してみることにする。この途中、艋舺謝宅という古い騎楼があった(下写真左はその後方に続く、長沙街二段)。これは、1999年に台北市により史跡指定された旧貿易会社事務所兼社長宅を兼ねた建物で、謝渓圳が旧友の欧陽氏一族から買い取ったものという(1945年~)。

そのまま直進を続けると、環河南路沿いに行きつく。その交差点に長沙公園があり、中に福徳祠と 古蕃薯市旧址碑が設けられていた(下写真右)。

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この長沙公園あたりが、かつて 艋舺(モンガ)の旧市街地が勃興した船着き場に相当し、まさに原住民の集落があった場所である。福建移民との間でサツマイモなどの物々交換の取引が行われていたのも、この周辺であった。ここから少し南下すると、貴陽街二段との交差点に天后宮があり、当時の船乗りや旅人たちから厚い帰依を受けていた。まさに、かつての港町の中心部というわけである。
現在、往時の名残りは全く見られず、静かな住宅エリアと化していた。

ここから一つ北の内江街沿いを東進して、西門町 に帰り着くことができた。
本日 の移動ルートは、以下の通り。

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1683年9月に鄭氏台湾を下した後、その残党勢力の再興を危惧した清朝は、 1700年代中期 まで台湾島への渡航を禁止していた。しかし、時と共に規制が緩和されると、対岸の 福建省泉州 から多くの人々が渡海し、移民となって台湾島北部の淡水河岸沿いに定住するようになる。
当時から 淡水河(台湾で三番目に長い川で、大漢渓と 新店渓、基隆河とが合流して形成される)は、台湾北部にあって内陸河川交通の重要な交易ルートを成し、沿岸沿いにいくつもの集落が誕生されていく。そのうちの最大集落が、今日の新店溪と 大漢溪との合流部分の河口東岸一帯に形成された「艋舺(モンガ)」地区であった。
もともとは、原住民の平埔族の集落が設けており、福建移民らに当地で栽培されたサツマイモを提供し、福建移民からは工芸品などをもらい受ける物々交換の取引が行われていたことから、中国人移民から「蕃薯市」と通称されるようになる。いよいよ、この「蕃薯市」にも福建移民らが定住するようになると、原住民との通婚により同化が進み、人口比と文明力が勝ったことから、漢民族化されていくこととなったわけである。

この 原住民集落「蕃薯市街」の中国化の過程で、「蕃薯市」は「艋舺(モンガ)」へと改名される。モンガとは、原住民・平埔族(ケタガラン族)の言葉で「独木舟(一本の木から作った小船)」を意味し、当時、主に河川沿いを移動するための、独木舟をたくさん停泊させる船着き場集落だったことから、ここに入植した福建移民らはその 発音(Moungar、Manka)と船舶に関する閩南語の漢字をあてはめて、「艋舺(モンガ)」と命名したという。その場所は、現在の 貴陽街二段の一帯で、以降、町は南へ南へと拡大を遂げていく。

同時に、「艋舺(モンガ)」集落を筆頭に、淡水河沿いの各集落は機能分担して共存共栄するようになる。山間部から上流の 大渓、三峡などに物資が集められ、中流域の港町である 新荘、艋舺、大稻埕などが中継し、加工作業などが手掛けられ、関渡や 八里、淡水 などの河口部へ運ばれた後、島内外へ輸出される流通経済が構築されていく(この時代、「郊」という 貿易商社グループが乱立し、「泉郊」グループは 福建省・泉州 間の流通を牛耳り、また「北郊」グループは 温州寧波天津 など、その他の交易に従事していた)。主な輸出品は農産物で、逆に大陸からの輸入品は主に生活必需品が多かったという。
特に、艋舺(モンガ)集落の人口は増加の一途をたどり、台湾島北部の最大都市として、「一府(台南府城)二鹿(彰化鹿港)、三艋舺」と並び称されるまでに台頭する。これが今の台北市の、発展の起点となったわけである。台北城が築城される以前から、既に淡水や新荘と共に、清朝の役所機関がこの艋舺地区にも開設されており、台北盆地の 政治、軍事の中心地として 大いに栄えることとなる。

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その後、清末に台北城が築城された後も、城外にあって城内経済を支える経済中心地であり続けた。この経済力に目を付けた日本植民地政府が、古城西門地区との一帯化を図り、台北市の都市開発を推し進めていくわけである
1920年、日本植民地当局が台北を台北州へ改編すると、「艋舺(モンガ)」が「萬華(バンカ)」へ改名される(上地図)。これは「萬年均能繁華(未来永劫にわたって栄華を謳歌する)」の意の文言から取られた単語という。心なしか、日本語の発音にも合致している気がする。このとき、 もともとの 艋舺(モンガ)の町を大きく超越する、広大な行政区が設定され、現在の台北市萬華区へと継承されるのだった。
このため、コアの 旧市街(下町)地区にのみ、百年の歴史を有する 新協和薬行、艋舺教会、青山宮、龍山寺、清水祖師廟、艋舺隘門、黄氏宗祠や、各種福祉施設としての 淡北育嬰堂碑、義倉、当時の 学校「学海書院」など、かつての中華系移民らに関する名所旧跡が集中している点が、特徴となっている。



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