BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬


大阪府 枚方市 ② / 交野市 ~ 交野市人口 7.5万人、一人当たり GDP 470万円(大阪府 全体)


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  交野代官所(畠山氏陣屋、交野陣屋)跡、長屋門、入母屋造の 主屋、乾蔵、北蔵
  私部城(交野城)跡
  【豆知識】戦国時代の 河内国 ~ 守護・畠山家&守護代・遊佐家 と 安見氏の下剋上 ■■■
  交野市立歴史民俗資料展示室
  津田古城跡(古城公園)
  津田城(国見山城、城坂砦、本丸山城)跡
  【豆知識】戦国時代、ハズレくじを引き続けた 津田城主・津田正時(楠木正成の子孫) ■■■



関西周遊では、この 大阪 中心部(JR大阪駅前、難波、心斎橋、四ツ橋エリア)に連泊したい。関西最大のホテル激戦区というわけで、男性専用シングル 3,000~5,000円台も多い。 新幹線や JR京都線の新快速が発着する JR新大阪駅前(枚方市) まで移動すると、シングル、ツインともに 4,000~5,000円台のホテルも多く、選択肢はより広い。 この大阪中心部からは、京都奈良 エリア一帯まで日帰り往復できるので、 1~2週間ほど連泊したいと思う。

この日、最初に 枚方市内の史跡群 を散策後、その余力で東隣の交野市も訪問してみた。
「枚方駅」から京阪交野線に乗り換える。「交野市駅」で下車後、まずは徒歩 10分ほど移動して、駅東側にある 江戸時代の 史跡「交野代官所跡」に立ち寄ってみた(下地図)。

交野市

1979年より国の重要文化財指定を受けているという「北田家住宅(交野代官所跡)」であるが、今でも、北田さんの ご自宅(交野市私部 1-25-5)ということで、立ち入りは不可能だった(毎年春と秋に一般公開されるそうだ)。
しかし、その長屋門(下地図。長さ 55.8 mもあり、日本一の長さの民家という)は見事な 白壁、門、隅蔵などを装備し、周囲の住宅街からは完全に浮いた存在だった。地元で”代官屋敷”と呼ばれるこの建物内部には、「玄関」「大広間」「取次ぎの間」「お白洲」などの江戸時代当時の設備が、今も保存されているという。この長屋門の他、1720年前後に建設されたという入母屋造の 主屋(下写真)、乾蔵、北蔵も、重要文化財指定を受けている。

もともと、ここは幕府上級旗本の畠山家の所領にあって、地元支配のための代官を務めた北田家の屋敷があった場所という。畠山家は幕府内で典礼を司る高家であったことから、基本的には 江戸 で生活しており、 地元支配を当地の庄屋だった北田氏に委ねていたわけである。 こうした経緯から、この屋敷は 畠山氏陣屋、交野陣屋とも別称されてきた。

交野市

交野市



もともと北田家は、 室町時代にあって南朝方の 将軍・北畠顕家(1318~1338年)の末裔と伝えられる 名門出身(村上源氏の分家筋)であったが、南北朝時代の終焉後、北朝方だった足利将軍に配慮し、「北畠」から「白」をとって「北田」姓を名乗るようになったとされる。 

この室町時代を通じ、北田氏は、 北河内を支配した 交野城主・安見氏の配下に組み込まれていた。1551年に河内国守護代の 遊佐長教(1491~1551年)が暗殺されると、主君の 安見直政(宗房。?~1572?年)が守護代を継承し、守護・畠山高政(1527/1531?~1576年)の代理として河内国を支配するようになる。しかし、傲慢な性格だった安見直政は、間もなく主君の畠山高政と対立し、最終的に主君を 紀伊国(同じく畠山高政が守護職を兼務していた)へ追放してしまうのだった。直後に、高政の救援にかけつけた三好長慶に攻め込まれると、今度は安見直政自身が大和国へ亡命することとなる(1558年)。
その後、守護・畠山高政と安見直政は和解し、再び、旧領への復帰を許可されるも、自身が任命した守護代を勝手に廃止された三好長慶が激怒し、今度は河内国併合を目的とする軍事侵攻を受けることとなる。三好軍は 畠山氏・安見氏の連合軍を難なく撃破し、河内国をそのまま占領してしまうのだった。こうして、主君の河内畠山家と安見家が没落する中、家臣だった北田家は、以降、交野郡の郷士として帰農したという。

江戸時代に入り、この交野郡を領有することとなった幕府上級旗本の畠山家は、幕府内で高家という立場を司り、江戸 住まいを基本としていた。当初は、一族が地元を直接支配しつつ、すでに帰農していた北田家にこの地の庄屋を任せていたようである(1661年)。そして 1700年代前半、 6代目当主・北田佳隆を正式に代官職に任命すると、以降、10代目 当主・北田好剛まで継承されていく。最終的に 1864年、同村の原田伝兵衛へ代官職を譲渡させるのだが、この代官罷免の理由については全く不明という。一説では、あまりに豪勢な長屋門を建てたことが、主家の怒りを買ったと指摘されている。
交野市

なお江戸期を通じ、当地の領主であった畠山家は、もともとは能登国の 守護職・畠山氏(七尾城主。能登守護代は遊佐氏が世襲した)の末裔であった。上杉謙信による七尾城攻めで、大名家としての能登畠山氏が滅亡すると(1577年)、一門の 畠山義春(上杉入庵。1563~1643年。上家系図)は上杉家の養子として取り込まれるも(源氏直系の足利家との縁戚関係もあり、同格の家柄どうしであった)、その後、上杉家が豊臣政権に臣従する際、人質として畿内へ送り込まれることとなる。そのまま上杉家から出奔し、豊臣秀吉の近侍として迎え入れられると、1587年、河内国高安郡の一部 500石を下賜される(もともと室町時代を通じ、畠山家の本家筋が 河内・紀伊国守護を務めた経緯もあり、河内国に地縁を有する家柄でもあった)。
1591年には河内国交野郡 700石も加増され、あわせて 1,500石の知行を得る。

1600年の関ヶ原の戦い では、当主・畠山義春は東軍に属し、翌 1601年に徳川家康に拝謁して以降、幕府の上級旗本として取り立てられ(知行 3,120石)、その高貴な家柄から催事を司る高家に指名される。三男・畠山義真(1579?~1674年。上家系図)もその地位を継承し、以降、幕末まで「能登畠山家」の名跡を継いでいくこととなる。上家系図。



続いて北へ移動し、交野市私部(きさべ)6丁目一帯に立地する「私部城跡」を訪問してみる。

築城当時、低い丘陵と谷が交互に入り組む地形を利用し、複数の曲輪が並列に築造されていたという。現在でも、曲輪跡であった部分は、谷間区画よりも 1~5 mほど高くなっていることが見て取れる。それらは、かつての 本郭(字「城」と呼ばれる地区で、東西約 50 m × 南北約 60 mの方形型)、二郭(字「天守」と呼ばれる地区で、東西約 25 m × 南北約 100 mの長方形型)、三郭(東西約 30 m × 南北約 60 mのみ残存。南半分は宅地開発され、かつての遺構は消失)と呼ばれた曲輪群を成し、また現在、光通寺の境内となっている高台は出郭跡とされる。それら曲輪と曲輪の間 10 mほどの谷間部分は、当時は空堀だったと考えられている。下地図。

交野市

戦後まで、さらに東側に 1か所、北側に 3か所の小さな曲輪が残存していたらしいが(下地図。家臣団の屋敷が配置されていた、と考えられている)、その後の宅地開発により消失してしまったという。なお、交野郵便局の道路向かいには、外郭を囲っていた土塁が数 m分、現存する(上地図)。

また、城郭の北面には免除川が流れ、かつての外堀として機能したようである。さらに 主郭部(本郭、二郭、三郭)の南面の外郭跡に、かつて池があったというが(今は埋め立てられて消滅)、かつての 水堀(もしくは水田)の名残りだったと考えられている。下地図。

交野市



当地の城主であった 安見(やすみ)氏は、鎌倉時代には三宅氏を名乗っていた一族で、若狭国保見荘を支配していたが、二郎清政が分家として「安見氏」を名乗ると、以降、代々にわたって継承されたようである。室町時代に入り、すぐに南北朝の動乱が勃発すると、当時の 当主・安見清則は南朝方に与して畿内へ出征する中で、そのまま河内国に移り住み、河内国守護である 畠山持国(1398~1455年。幕府管領も務めた)に仕えることとなる。

以降、私部城主として交野郡交野を領するも、 その 子・安見清時は、続く 守護・畠山義就(1437?~1491年)の治世下でさらに昇進し、志紀郡の 小山城(今の 大阪府藤井寺市)へ居城を移すこととなる。
清時の 子・安見清重も小山城を本拠地としていたが、その 子・安見清範の代には、河内守護・畠山義豊(1469~1499年)の治世下にあって、旧領の私部城へ再移住している。以降、安見氏は私部城を本拠地と定め、北河内一帯の豪族らと血縁関係を結びつつ、彼らを配下に組み込んで大いに勢力を伸長させていく。そのまま 守護・畠山家と 守護代・遊佐氏を支える有力国人としての地位を固めるも、安見友重の養子に入ってきた 安見直政(安見宗房。もともとは大和の 国人・中村円賀の子であった)が当主を継承すると、守護家の 畠山高政・昭高父子に取り入り、河内守護代に任じられて、一躍、歴史の表舞台に登場することとなる(1551年5月に守護代だった遊佐長教が暗殺され、空位となっていた)。
交野市

しかし、間もなく 守護・畠山高政との関係が悪化したことから、1558年、安見直政は高政を紀伊国へ追放するも、翌 1559年、三好長慶が救援と称して軍事介入してくると、安見直政は大和国への亡命を余儀なくされる。長慶は、そのまま畠山高政を守護に復帰させると同時に、幕府直臣の 湯川直光(?~1562年)を守護代に送り込み、河内国の支配権に干渉するようになっていく。
しかし、長慶の野望に気づいた畠山高政は、すぐに安見直政と和解し、再び、河内国へ呼び寄せると、これに激怒した長慶によって再び軍事侵攻を受け、そのまま河内国を占領してしまうのだった。

こうして自らの主家であった細川家、そして畿内の 名門・畠山家という、室町幕府管領を担ってきた名門一族を排除した三好長慶は、1560年に本拠地を河内の飯盛山城に構えることとなり、実質的に河内国の支配者となっていく。しかし、河内国の 守護・畠山高政や安見直政らは 、紀州に逃れ、引き続き、河内国南部への侵攻を繰り返すも、圧倒的兵力差を前に、結局、領地奪還はほど遠いままであった。

そんな中の 1564年夏、三好長慶が急死すると三好家中は分裂し、畿内は再び、内戦状態に陥る。この時、紀州に逃れていた畠山高政と安見直政は、 大和国・信貴山城にいた松永久秀 と手を組み、さらなる河内国侵攻を図るも、全土回復にはほど遠く膠着状態に陥るだけだったという。
そんな混乱期の 1568年、織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、畠山高政はこの 信長・義昭政権に帰順し、河内半国の守護に任命される(残る半国は、これまで敵対していた三好義継の支配が追認される)。しかし、同年秋に安見直政が 主君・畠山高政と再び対立するようになると、高政を再度、追放することとなる。引き続き、安見直政(安見宗房)は、義昭・信長政権には臣従し続けたことから不問とされ、逆に翌 1570年には義昭の奉公衆にまで取り立てられることとなった。

しかし翌 1571年、西河内守護の三好義継が反信長で挙兵し、大和国の松永久秀と手を組み、東河内へ侵攻してくると、この東河内支配を任されていた安見直政は抗しきれず、ついに自刃に追い込まれる(同年 5月)。しかし、安見家の地盤であった私部城には、直政の子だった安見右近勝之が立てこもり、松永久秀の軍を寄せ付けずに抵抗を続ける中で、信長軍の援軍到着により防衛戦に成功する。
しかし、1573年に 大和国の筒井順慶 が私部城に攻め寄せると、織田軍傘下として出陣中だった 城主・安見右近が不在の中、私部城代を任されていた 重臣・北田孫左衛門尉が城を枕に壮絶な戦死を遂げている。なお、この時代、私部城は交野城とも表記されており、河内国 交野郡(今の 枚方市・交野市のほぼ全域、及び寝屋川市の一部)の中心的な拠点であったことが窺い知れる。

その後、敵対した三好義継や松永久秀らが没落し、筒井順慶が信長に帰順すると、安見右近は再び交野郡の旧領を安堵されることとなる。1578年10月、 より 京都 へ戻る途中の信長を、自身の私部城にて歓待したことが、『信長公記』に言及されている。

信長死後、その遺志を継承して秀吉が天下統一を成就すると、安見右近は秀吉配下となり、伊予国宇麻郡麻布に一万石を与えられ、大名に取り立てられる。しかし、1600年の関ヶ原の戦いで西軍に与したことから、所領を没収されてしまい、そのまま加賀へ移住して、 前田利長に仕えて六千石を与えられ、子孫らは加賀藩士として家系を存続させたという。

発掘調査により城跡から屋根瓦が出土しており、織田信長の安土城 以前に、すでに瓦葺きの屋敷があった城郭として知られる。また、現在の大阪府内にあって、宅地開発の波に飲まれることなく、平城の城郭遺構を残存させており、非常に貴重な城跡となっている。こうしたことから、2018年、本郭と二郭の跡地が、交野市によって文化財指定を受けている。
交野市

なお、地名としては「交野」よりも「私部(きさべ)」の方が古く、平安時代ごろに命名されたと考えられている。

元々、伊加賀と称していた一族が、9代目・開化天皇により物部姓を下賜され、以降、大和王権中枢にあって 名門・物部氏として台頭するわけだが、 かつては 鳥見エリア(生駒山の東面山麓)を治める領主であった。その後、生駒山を越えて天野川上流から 中流・下流地区へと勢力圏を拡大し、河内国北部の豊かな土地を支配して、交野 物部氏の地盤を形成させていったという(弥生時代末期ごろ)。上地図。

しかし、飛鳥時代の 587年、同じく朝廷に仕えた 大豪族・蘇我馬子(551?~626年)の謀略により、当主・物部守屋(?~587年)が滅ぼされると(丁未の乱。実際には一族は残存するも、下級豪族へ没落していった)、物部氏の遺領は 蘇我氏(当主・蘇我馬子の妻が、物部守屋の妹であったことから、遺族として継承権が認められた形)と、皇族の 聖徳太子(574~622年。用明天皇の第二皇子)によって二分割されることとなる。

その後、平安時代に入ると、京都 の貴族や役人らが度々、交野地方へ足を運んでは遊猟を楽しんだという。彼らは宗教や詩歌などの文芸に通じていたことから、この地方で目にするものに、それらしい名をつけて悦に入っていたという。例えば、甘野川を「天野川」、機物の宮を「棚織女をまつる宮」、天野川にかかる橋を「かささぎ橋」などと、文学的に命名していたのだった。その一環で、「私部(きさべ)」という地名が誕生したと考えられる。



交野市

続いて、バス停「交野郵便局前」から、1時間に 1~2本ある京阪バスに乗車する。そのまま 5分ほど移動し、バス停「南倉治」で下車する(上路線図)
このすぐ北側に「歴史民俗資料展示室(交野市倉治 6-9-21 教育文化会館内)」 があった。ここで交野市の歴史に関し、詳しく学ぶことができた。

博物館見学後、さらに東へ 10分ほど歩くと、JR学研都市線(片町線)の「津田駅」に到着する(下地図の左端)。ここから再び 枚方市 となる。

枚方市

駅を越えて、さらに東進すること 10分で「津田古城跡」に至る(上地図)。現在、一帯は宅地開発され城館遺構は完全に消滅しており、かろうじて地元の 児童公園名「古城公園(枚方市津田南町 2丁目)」や、小字の 地名「古城」に往時の記憶が継承されるだけとなっていた。なお、「古城=ふじろ」と読むそうで、「古い田畑」の意という。

平安時代後期より、この地元に勢力を張った中原氏の居館跡と伝承されてきたそうだが、発掘調査の結果、そういった居館の遺構は確認されず、むしろ弥生時代の古代集落跡が出土したという。
おそらく、居館や平安期以降の集落地はやや離れた場所に設けられていたのかもしれず、弥生時代から”先祖代々続く集落の故地” という記憶が地元で継承され、そのまま「古城」と通称されるようになったと考えられる。古代において「城」という概念は、集落全体を取り囲んだ環濠要塞を意味し、自分たちの祖先の居住空間、ということで「古城」という地名で呼んでいたのかもしれない。
下地図は、昭和期の「津田村」の地形図。2000年以上にわたり、集落が形成されてきた地区だったことが分かる。

枚方市

さらに 5分ほど東進し、国見山の山麓に至る。ここから整備されたハイキングコースを 30分ほど登山し、国見山展望デッキがある山頂に到着できた。この山頂にあった 国見山城(下地図左)と、出城である城坂砦、尾根上に造営されていた 本丸山城(下地図右)とを合わせて、「津田城」と総称されているという。

なお、この山城はあくまでも緊急避難用の城塞だったことから、丁寧に曲輪が建設されていたわけでもなく、主に自然地形を利用しつつ、土塁で補強された程度のものだったという。一部には、空堀や堀切のような地形も残存するが、本格的な調査が行われていないため、詳細は全く不明となっている。なお、南側の尾根伝いからの攻撃を想定した設計だったようで、北面の防備は全く構築されていなかったという。
かつて、この国見山は「高峯」と呼称され、古くより山岳修験者のための宿坊施設が設けられていたものを、戦国時代に平野部を支配した津田氏が、軍事的に転用しただけの簡素な城塞だったようである。
枚方市

しかし、山頂からは 京都大阪・神戸の 市街地、大坂湾、奈良盆地 へ続く生駒山地まで見渡すことができ、物見台としては抜群に機能したことは容易に想像できる。その見事な景観から、「市民が選ぶ枚方八景」に選出されるほどという。


交野山系の北端に位置する 国見山(標高 300 m)の山頂に築城されていたことから、「国見山城」と称される。もしくは、麓の集落名を冠して「津田城」とも呼ばれてきた。上段絵図。

南北朝時代末期、楠木正儀(1330?~1389?年。楠木正成の三男)の三男だった楠木正信は、その戦功により河内国北部の津田地方に所領を与えられると「津田正信」と名乗る。もともと津田地方は中原氏の所領であったが、中原氏を排除する形で入封したようである。
直後に、古くから形成されてきた津田村に居館を構え、同時に後方の国見山に 避難用城塞「津田城」を築城した、と考えられる(1490年ごろ)。

2代目 当主・津田正忠の治世下だった 1543年、(本願寺)浄土真宗大谷派 8代目筆頭だった 蓮如(1415~1499年)の 6男・蓮淳(1464~1550年)が、近松寺(近江国大津)から河内国・招提村へ招かれ、敬応寺(枚方市招提元町 3-16-37)を創建すると、正忠は自身の 娘・織江を側室に送り込み、浄土宗勢力に接近を図る。以降、招提村は浄土真宗の門前町として栄え、寺院は集落ごと武装化していくこととなる。

3代目当主・津田正明の治世時代、三好長慶が 飯盛山城(大阪府大東市)に居城を構え畿内を支配すると(下地図)、これに臣従し、河内国内の 牧八郷(枚方市中西部)や 友呂岐六郷(大阪府寝屋川市北部)など、一万石の支配を保証される。交野山系のすぐ東は大和国が隣接し(下地図)、国境守備を司る家臣としても重宝され、津田家の家勢がピークとなった時代であった。

この時、大和・河内・山城の 三ヵ国の中央部という立地から(下地図)、国境の要衝として津田城は大規模に拡張され、物見台として大いに活用されたと考えられる。ただし、あくまでも軍事目的の利用であったことから、居住用ではなく臨時の陣城的な設計に終始するものであった。大和国側(南側)に連なる尾根伝いから攻撃されることを想定し、主にこれを挟み込むように東西方向に土塁が構築されていたという。

枚方市

間もなくの 1564年、絶対的君主だった三好長慶が死去し、三好勢力が分裂して畿内が再び不安定化すると、足利義昭を奉じて入京した織田信長が畿内制圧に取り掛かる(1568年~)。 三好三人衆や松永久秀らも加えて大混戦となる中、 4代目当主・津田正時は、三好家から離反し大和国で独立した松永久秀に与することとなる。このため敵対する三好義継に攻め立られて城は落城し、正時は大和国への亡命に追い込まれることとなった。

体勢を立て直した松永久秀が河内方面への侵攻を開始すると、津田城も奪還し、津田正時は再び津田城主に復帰するも(以降、改めて三好義継に寝返る)、 1575年4月、織田軍が河内国へ本格侵攻するに及び、洞ヶ峠から攻め込まれた津田城は、わずか半日の戦闘の後、そのまま焼き払われて落城したようである。 1956年の発掘調査で、当時の焼土層や陶器類の破片などが確認されている。

この時、最後の城主となった正時は、敬応寺の一向宗勢力下へ逃げ込み生き延びることとなった(浄土真宗の 総本山・石山本願寺 の衛星拠点であったが、立地上で距離が離されていたこと、また信長軍に比べ兵力差があったことから、一時的に織田方に帰順し、戦火を脱がれていた)。その後、信長に許されて家臣となり、居城を麓の本丸山城に移していたが、 1582年6月に本能寺の変が勃発すると、正時は津田家の旧臣や敬応寺の一向衆らと共に明智光秀に与して挙兵する。10日後に勃発した山崎合戦では、明智軍と共に秀吉と戦うも潰走し、そのまま 津田、敬応寺、尊延寺(枚方市尊延寺 6-11-1)などの所領は没収され、一帯は豊臣家の蔵入地に組み込まれるのだった。

その後、没落した津田家であったが、1615年の大坂の陣 で豊臣方に呼応して挙兵したことから、山城国 八幡山(石清水八幡宮)に幽居されることとなり、そのまま津田家は津田地方に帰ることはなかったという。



帰路は、再び「津田駅」まで戻り、ここから JR学研都市線(片町線)で「河内磐船駅」へ移動し、京阪交野線の「河内森駅」で乗り換えて、投宿先の 大阪駅前 まで戻った。


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