BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省 汕頭市 龍湖区 ~ 区内人口 48万人、 一人当たり GDP 35,000 元(汕頭市 全体)


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  汕頭市中心部(金平区)から 路線バスで 鷗汀寨跡地(天后宮のあたり)を訪問する
  鷗汀寨(鷗汀背寨)の 古城マップ
  【豆知識】初代・鷗汀寨 の誕生まで
  【豆知識】二代目・鷗汀寨 と 鄭成功の攻防戦(第1次 ~ 第3次 潮州遠征)
  【豆知識】三代目・鷗汀寨 と 日中戦争
  【豆知識】三代目・鷗汀寨 の誇った鷗汀八景(証果寺、騰輝塔、天后宮 など)
  【豆知識】古城時代から続く 住民信仰 ~ 三山国王廟(横城古廟、南薰古廟、国王古廟)



汕頭市中心部(金平区)から 60番路線バスに乗車し、「新一中」方向へ移動する(下地図)。そして終点に近い バス停「洋濱」で下車する。ここから天后宮を目指して路地を北上すれば、鷗汀寨 跡地にたどりつく。

龍湖区

なお、この「鷗汀」の地名であるが、もともと海岸線はかなり内陸に入りこんでおり、この地点に砂浜が広がっていたという。一帯は カモメ(海鷗)が生活の場とし、その鳴き声が途切れることはなかったことから、いつしか「鷗汀背(壩)」と通称されるようになったということらしい。

龍湖区

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 龍湖区の 歴史

春秋時代から漢代にかけて、一帯の河川が運ぶ土砂により次第に浜辺に三角州が形成されるようになる。当時、カモメ(海鷗)が数多く生息する海岸エリアであったという。
時とともに、河口部の三角州が巨大化し陸地が広がると、この鷗汀背と呼ばれた一帯にも人が居住するようになっていく。

南宋時代末期の 1250年ごろ、将仕郎(文官階級の最下位官位)であった 袁宏(字は拓基)が、漁湖都(揭陽県)から蓬州都(揭陽県)下の鷗汀背へ引っ越し、そのまま一族らと定住したとの記述が、史書に残る最初という。

元代を通じて当地に定住する住民人口はますます増加し、韓江流域には複数の 港町(新港、南港、東港など)が形成され、鷗汀地区と総称されていた。
しかし、元王朝の支配体制がゆるみ、社会動乱と倭寇襲来で治安が悪化した 1350~1360年ごろ(明王朝への変遷期)、鷗汀背エリアで最初の城塞集落が建造されたと考えられている。【初代】鷗汀寨の誕生。
その規模は時と共に強化され、澄海県(1563年に新設)下にあって県城に匹敵する規模を誇るまでに拡大し、度々、倭寇の襲撃を撃退したことで、その雄姿が称えられるようになる。

城外すぐには韓江の支流である砂河、新津河、梅溪河が流れ、南面と東面のすぐ外に港町を有し、すぐに海へのアクセスが可能な至便の地であった。水路を北へさかのぼれば 潮州府城 へ、陸路を西へ遡れば 揭陽県城 へと行きつくことが可能で、両都市の玄関口の役割を担っていたと言える。

しかし、1568年、林道乾(地元の澄海県出身)の率いる海賊集団により城塞は突破され、初めて落城の憂き目を見る。
翌 1569年、村民らは自力で城塞集落の再建・拡張工事を進め、縦約 1,500 m、横 333 mの巨大な 楕円形型(城壁の全長 4 km弱)となって生まれ代わることとなる。四方を外堀で囲まれ、この時から【二代目】鷗汀背寨と通称され出したという。
四方を池や沼地、水田、河川や水路で囲まれた地形に加え、その外側には三方向に海が迫っており、大軍で包囲するにも困難なロケーションは、当時、難攻不落の城塞集落と謳われ、潮州府城下を流れる韓江流域に立地する城塞群の中でも、四強の一角と見られていた。潮州府 下で設けられた 48箇所の城塞拠点の中でも、最大級の守備力を誇ったという。

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そもそも、潮汕地方は中原地帯のような大戦乱は少なく、大規模な戦闘は少なかったが、それでも王朝変遷の最終局面で度々、戦場を提供することとなった。
史書によると、南宋末期には元軍に抵抗した 陳吊王(1250~1282年)が率いる義勇軍により 58もの城塞が潮汕地方に建造されたとの記述があり、また明末清初の動乱期には、清兵や鄭成功の部隊、倭寇、南明政権や地方の武装勢力らが潮汕エリアで混戦状態にあり、より多くの城塞が建設され、各村や郷ごとに城塞化していないところはない、と史書に言及されている。そこには、潮汕地方だけで合計 269もの城塞集落があり、 揭陽県 下だけでさえも 98を数えたとの統計も残っており、どこの村々も武装化していたことがうかがえる。

1645年6月、揭陽県下で劉公顕がリーダーとなって九軍が反清で挙兵すると、潮仙地方の各地を荒らしまわり、当時の揭陽県長官の呉煌甲は県下の各村落に自衛のための城塞集落の建造を指示して、その築城を後押ししたぐらいであった。
南明政権の隆武帝から左軍都督に封じられ、鎮国将軍の印璽まで賜った劉公顕であるが、最終的に 1651年、清軍に捕縛され処刑されてしまい、残党勢力も本拠地を囲まれて完全せん滅されたのだった
こうした騒乱の最中、各地で要塞集落の建造が急ピッチですすみ、特に大規模な 5つの城塞が出現する。地元で潮州五虎と通称されるようになり、当時の要塞集落のリーダーの名を冠して、黄崗 の黄海如、南洋の許龍、 海山 の朱堯、澄海 の楊広、達濠 の張礼、と称えられたのだった。

1649年に鄭成功が福建省地方の不作により食糧調達を目的に第一次潮州征伐を起こすと、先の劉公顕の率いる九軍など地元勢力を糾合しながら、清方の城塞集落を攻撃する。その通路上にあった南洋寨と 達濠寨 がまず陥落すると、残る潮州三虎も情勢を見計らい、鄭成功の南明軍に降伏してしまう。

それでも、鄭軍に抵抗する村々は多く、占領された 南山寨、白灰寨、和平寨、溪頭寨、鷗汀寨 などでは占領後、軍民らの大虐殺が行われ、無人と化したとされる。その中でも鷗汀寨の戦いは特に凄惨を極めるものとして記録されている。

交通の要衝に立地した鷗汀塞は清方の期待も大きく、多大な支援を受けていたものと推察される。近隣農民、漁民らが 潮州府揭陽県 下の親友縁者を募って、この城塞集落に避難することとなり、中は 6万人を越える人々が立て籠ることとなる。
そしてタイミングよく同時代、鷗汀塞のリーダーに選任されていたのが 陳鉄虎(字は君諤)で、 澄海県 出身の 秀才合格者(1610年ごろ)であった彼は生来、性格は豪快で知性に優れ、用兵に優れた才能をもちあわせており、地元民からの信頼も厚かったという。

この彼の指揮の下、占領地の揭陽県城下から本拠地の 厦門 へ大量の食糧を運搬している鄭成功の船団らに攻撃を加え、兵員や食料、船舶などに大いに打撃を与えたのだった。当時、鷗汀塞内には百余りの船があり、壮年の男子らが中心に夜間に出航しては、鄭成功の輸送船団を襲撃したという。両者は度々、小規模な戦闘を繰り返すも、城塞内に逃げ込んだ地元軍民らに悉く撃退されてしまうのだった。

ちょうどこの第一次潮州遠征時、後の 1683年に清方の総司令官として鄭氏政権を降伏に追い込むことになる、若き日の 施琅(1621~1696年)が度々、失態を重ねた臥薪嘗胆の日々のエピソードが生まれるのだった。鄭成功配下の 有力武将・陳斌(潮州出身で潮州遠征の道先案内役でもあった)にこの失策を激しく叱責され根深い因縁が生じ、最終的に 1656年8月に 福州 へ進駐し水軍基地を構築していた鄭氏政権の最後の牙城・羅星塔に立てこもっていた陳斌を昔のヨシミとして降伏させ、その夜に酒宴で泥酔させた後、500~1,000名の部下全員を福州城外で斬首刑に処すことになるのだった。

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さて話を戻すと、1653年に第二次潮州遠征として鄭成功自らが本隊を引き連れて現地入りすると、すぐに交通の要衝であった 澄海県 下の鷗汀塞に総攻撃を加える。
しかし、6日間にわたる攻撃でも陥落せず、かえって陣頭にあった鄭成功自身が足に負傷してしまい、本隊が乱れると、鷗汀塞方の水軍別動隊が停泊中の鄭軍の大船団に大打撃を与えることに成功する。こうして手痛いダメージを伴って撤退に追い込まれた鄭成功は報復を誓って、当地を離れることとなる。こうして鄭氏政権の第二次潮州遠征は失敗に終わる。

数年後、鷗汀塞方のリーダー陳鉄虎の死去が伝わると、鄭成功は第三次潮州遠征を企図し、1657年11月に本軍を引き連れて南下し南澳島まで至ると、黄廷を総大将、林勝を先鋒として鷗汀要塞を包囲する。
同月 23日、黄廷は配下の武将・甘輝ら、および籠城方の内通者らの協力により、炸裂弾をつかって城壁を 35 m程度、崩すことに成功する。
この時も前回同様、近隣の村々から住民らが避難しており、【二代目】鷗汀塞内には約 7万人余りの住民らが立て籠っていたわけだが、幾度もの手痛いダメージの報復から、鄭軍の兵士らは無差別殺戮を手掛け、6万人以上の老若男女が犠牲になったという。世にいう、鷗汀惨案、もしくは丁酉鷗汀惨案である。

翌 1658年、放置されたままだった遺体群は、澄海県長官の祖之麟を筆頭に有志らによって回収され火葬された後、要塞跡の北郊外に埋葬されることとなる。そして、万人墓という石碑を立て、亭を設けたという。後に地元では同歸所と通称され、後年、騰輝塔紀念碑へと建て替えられたのだった。

1662年に台湾接収戦で負傷し鄭成功が死去すると 、息子の 鄭経 が鄭氏政権を継承するも、もはや鄭軍が潮州地方に軍を進めることはなかった。しかし引き続き、この地が鄭氏政権との最前線地帯にあったことは変わらず、鄭成功による第三次潮州遠征から 10年後の 1668年、潮州通判兼澄海県長官だった閻奇英が荒廃するままだった【三代目】鷗汀塞の再建に着手する。
早速、翌 1669年に半分のサイズに縮小され、高さ 4.7 mの城壁で全長 2,000 m 分が再整備される。内部には水軍司令部も併設されたという。

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それから 300年後の 1942年、【三代目】鷗汀塞も日本軍の攻撃の前に再び陥落し、そのまま日本軍により大部分の城壁が破壊されてしまったという。

1950年には部分的に残っていた城門も長年、修復が手掛けられなかったため、倒壊してしまう。現存するのは、北平門と 北定門(二重構造の城門)の二門のみと、その傍らに残る城壁や狼煙台、楼閣や台座だけという。また、鷗上村方巾巷では、楼閣遺跡が一か所残されているという。下写真。

なお、この【三代目】鷗汀背塞が未だ健在だった清代、城内には「証果談禅、騰輝倒影、蓬鷗書声、亀橋似月、新興紅樹、南薰納凉、西寧晚泊、廟前白鷺」と詠まれた八大名所があった。
このうち、現存する「証果禅寺」、「騰輝宝塔」、「鷗下天后宮」の三つと「密林文芸」研究社跡などの歴史遺産は今日、汕頭市政府により史跡指定を受けている。その他、古城地区内に残る三つの三山国王廟と数多くの 祠堂、廟所、ガジュマロの樹などは訪問者の耳目を集める観光名所となっているという。

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証果寺
証果寺は汕頭市龍湖区鷗汀街道に立地し、その境内の敷地面積は 1,200 m2もあるという。
清代から続く鷗汀八景の筆頭角に数えられる名所となっている。汕頭市でも屈指の観光地とされ、早くも 1994年に汕頭市政府により歴史遺産の指定を受けている。

そもそも、証果寺は明代前期の 1406年に建立され、今日まで 600年の歴史を有する、汕頭市内で残る唯一の明代建立の古寺という。
当初、寺名は崇福庵といい、時を経て幾度となく修復作業が手掛けられ、清代初期の 1669年に鷗汀背塞が規模縮小されて再建された際、そのままのロケーションで継承されたという。佘艶雪(字を志禎といい、地元出身者。翰林院侍読学士であった)が寺名を記した直筆の額縁が残っており、以後、寺の住職は都度、福建省から著名な僧が招聘されて従事したという。

以後も寺院の修復工事は幾度も手掛けられ、特に 1715年、1793年、中華民国時代の 1923年に行われた記録が残っている。現在の姿は、1983年6月に再建工事が着手され、10年を越える工期を経て、 1997年に完成したものという。
寺の境内には樹齢 600年を誇るガジュマルの樹が残っており、般若泉という古井戸も見られる。

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騰輝塔
騰輝塔は汕頭市龍湖区鷗上に立地するため、地元では鷗汀塔とも通称される。
この騰輝宝塔も、かつて鷗汀八景の一角を構成した名所で、鷗汀塞を代表する歴史遺産として、1988年12月に汕頭市政府により史跡指定を受けている。
当初あった鷗汀塞の大虐殺の 慰霊塔(1658年設置)を改修する形で、清代中期の 1738年に建立されたもので、澄海県 鷗汀郷出身で、翰林院検討を授与された辛昌五らが自費で建てたものという。現に、この塔の入口上の額縁には、「騰輝塔、乾隆三年(1738年)春月建、昌五題」との記述が残されている。

この塔は 貝殻・灰・土砂などを混ぜた粘土壁で建造された風水塔で、清代中期の潮州地方における伝統的建築スタイルの古塔の一つとなっている。
塔は六角形で、七階建てとなっており、てっぺんまでの高さは 20.3 m、最下層の外囲は全長 17 mという巨大さで、塔内は空洞となっており、上まで登る階段が内部に付設されている。二階以上は、六面全部に壺形の小門が設けられている。

なお、この塔は全国でも珍しい構造で、一つの塔の上に、もう一つの小塔が乗っかるスタイルとなっている。
上層階の重量に耐えられるよう、塔下層の三階部分全体を基礎台座とし、下層内部は階段だけの機能を持たせる工法が主となっている。このため、最下層の一階部分の外壁は厚さが 1 mにもなるという。
これに対し、上層の四階部分は内部が空洞で、軽量化を企図して木板が多様され、人が中に入って観覧できる構造になっている。現在は内部は入場禁止。

この騰輝塔は風水塔の機能を期待して建立され、当時、海から近いロケーションだったこともあり、船頭らに航行の道しるべを示す、非常に有効な灯台となっていたのだった。 しかし、設置から 200年余りもの間、風雨にさらされ、1918年2月13日に発生した鷗汀地震で破損したりするも(塔の頂上部分が傾き、外壁に亀裂が入る)、基本的には完全な姿で現在まで保持されており、貴重な歴史遺産となっている。

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天后宮
天后宮は、汕頭市龍湖区鷗汀街道鷗下北畔の中街に立地し、その境内の占有面積は 3,300 m2、建築面積は 300 m2にも至るという。鷗汀八景の一角を成し、「廟前白鷺」と詠まれてきた。
明代末期の 1622年に創建されて以降、清代の 1677年、 1794年に改修工事が手掛けられ、1990年と 2002年6月にも再建工事が進められている。 1995年6月に汕頭市政府により歴史遺産に指定された。
特に歴史的価値が高いものとしては、石板の額縁に刻まれた文字という。また、1750年前後に設置されたという 石香炉や龍虎古井戸、宮前旗杆墩、古いガジュマルの樹 3本なども一見の価値がある。

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三山国王廟
三山国王廟は、汕頭市鷗汀村方圓几里の地にあり、以下の四廟から構成される。
清代の 1730~1870年代にかけて、それぞれ順次、建設されていったもので、以後も再建や修復工事が繰り返され、地元の民間信仰の一角として、今も手厚く住民らに守られ続けている。

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① 横城古廟
地元では二王爺廟とも通称され、証果寺の左隣に立地する。南向きに設計され、その占有面積は約 140 m2という。
清代の 1740年ごろ最初に建立され、その後、何度も修復、建て替えが進められており、現存する古廟は 1994年に再建されたものという。入口門の額縁に「横城古廟」の文字が刻まれている。

横城古廟の本殿内には 二王爺(護法爺、舍人爺)とそれぞれの夫人が、同時に座して祀られている。広東省東部、また海外華僑エリアで見られる三山国王廟の中でも他に例のないスタイルといい、これは、当地で伝承される色恋伝説に由来するという。

清代後期の 1860年代、官一村で三山国王廟の一部である大王爺廟を修理した時、住民らが制作完成した王爺夫人塑像を移動させる際、この横城古廟前を通過する。その時、大雨が降ってきたので、夜も近いこともあり、いったん 横城古廟(二王爺廟)内へ避難させることにした。
翌日、天気が回復し、夫人塑像をようやく大王爺廟まで移動しようと住民らが戻ってみると、夫人像が倒れてしまっていた。 まさに、大王爺がその夫人が 横城古廟(二王爺廟)内で一夜を過ごしたことを許さなかったかのような光景だったという。
住民らは協議して、婦人像をそのまま二王爺像の傍に安置し続けることとし、別にもう一体の大王爺像を夫人像の傍らに奉納することにしたのだった。こういうわけで、横城古廟には二王爺と二人の夫人像が同時に奉納されている、というわけらしい。
伝説によると、毎年旧正月の際、横城古廟の門はきれいに掃除されていなければならない、という決まりになっている。これは、鷗上の三王爺が大王爺の激怒に呼応して、二王爺を殴打しに訪問するためだとされる。
また別の言い伝えによると、1865年、鷗上村で三王爺廟を修繕工事した際、王爺夫人像を移動させている途中に急な雨天となり、附近にあった二王爺廟内に雨宿りに一時退避することにした。
雨が止むころ、村人らが再び、夫人像を移動させようとすると、その彫像は倒れてしまい、移動が困難となる。ちょうど、夫人が二王爺を愛してしまい、ここを離れたくないというような風であったという。
こうして、村人は彼女の像を二王爺の身近に安置してやり、三王爺廟用に別に夫人像をもう一体、彫像したのだった。実際、これは民俗伝承で時代とともに表現が変化しており、清末の鷗汀に住む人々の開放的な意識の表れとされる。

② 南薰古廟
南方門に隣接して南向きに建立されており、その面積は約 70 m2という。
清代中期の 1750年に設置され、その後、幾度も修繕工事が手掛けられた後、 1989年に再建されたもの。石板の額縁には、「道光戊戌年(1838年)夏月吉日立、沐恩治子許功宏敬酬」と記されているという。
本殿は三位国王とその夫人を祀っており、三山国王の額縁が上に掲げられている。舍人爺、天后聖母、双忠聖王、太子爺、巡撫総督らである。
また、廟所の脇には小さな福徳祠も安置されており、福徳老爺とその夫人を祀る。

③ 国王古廟
清代中期の 1772年に建立され、1853年に最後に修復工事が手掛けられるも、その後は長年の間、手つかずで放置され荒れ放題となっていたが、 2000年9月に村人や海外同郷人らの寄付により再建が進められたという。
北向きに設計された本殿内には 大王爺、二王爺、そして三王爺それぞれの夫人が安置されている。その両脇には、さらに 巡撫総督、花公花媽(公婆神。潮汕地区で一般的に祀られる地元神)、福徳老爺とその夫人像が奉納されている。
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④ 三王爺廟
俗に公王宮と通称され、鷗上村にある北定門前に立地する。占有面積は約 200 m2で、外壁が紅色だったため、地元では紅宮とも通称されてきた。
清代後期の 1865年に建立され、1922年に再建されている。
北向きに設計された本殿中には三王爺とその夫人が奉納されている。さらに、その傍らには 天后聖母、注生娘娘、護法老爺、巡撫総督、そして福徳老爺とその夫人も祀られている。
三王爺廟が創建された際、鷗上郷の 張氏、李氏、郭氏、陳氏、辛氏 の五姓の十氏族が共同管理していくこととなり、十氏族が 10年持ち回りで担当し、その伝統は今も継承されている。


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